(3) MP9a:1-3, MP9b:4-14, MP9c:18-20, MP9c:23-24, MP11:2-3, MP11:6-9

7. MP9a:1-3
D   バッハ   Aber am ersten Tage der süßen Brot traten die Jünger zu Jesu und sprachen zu ihm: 
  直訳   さて、甘い(無発酵)パンの祭の一日目に、弟子たちはイエスに進み出て彼に言った。

   英語版   Now on that day, the first of unleavened bread, came the disciples to Jesus, and said unto Him:
   ZPA        But on the first day of Unleavened Bread came the disciples to Jesus and said unto him: 
   YS文語    種入れぬパンの祭りの初めの日、弟子たちはイエスのもとに来たりて言う、
   YS口語    除酵[パンの]祭の初日に弟子たちがイエスのところに来て言った。
   TM         さて、除酵[パンの]祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、
   K·M        さて、除酵[パンの]祭の第1日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、
   RH         除酵[パンの]祭の第1日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。
   TI           除酵[パンの]祭の最初の日に、弟子たちはイエスのもとに来て言った、
   KT         さて、除酵[パンの]祭の第一日に弟子たちがイエスのもとに来て、言った。

マタイ伝26:17
ギリシャ語  また、除酵祭(複)の初めの日に弟子らがイエスに近づいて言うのには

             Τη  δε    πρωτη                  των  αζυμων              προσηλθον  οι  μαθηται  τω   Ιησου          λεγοντες,
                   (1)また  (3)始め(の日)に    (2)除酵祭(複)の      (6)近づいた      (4)弟子らは    (5)イエスに    (7)言うのには

ラテン語   第一の除酵祭(複)の日に、さて、弟子らはイエスに近づいて言う

        prima      autem   azymorum      accesserunt  discipuli  ad   lesum     dicentes
                (1)第一の日   (3)さて   (2)除酵祭(複)の  (7)近づいた       (4)弟子らは  (6)に  (5)イエスに   (8)言う

決定版   Aber am ersten Tage der Süssenbrot / tratten die Jünger zu Jhesu / vnd sprachen zu jm / 
カロフ版  Aber am ersten Tage der süssen Brod (...) traten die Jünger zu Jesu / und sprachen zu ihm: 
現代版   Aber am ersten Tag der Ungesüßerten Brote traten die Jünger zu Jesus und fragten: 
DRV     And on the first day of the Azymes [Bread], the disciples came to Jesus, saying;
KJV         Now the first day of the feast of unleavened bread the disciples came to Jesus, saying unto him,
RSV            Now on the first day of Unleavened Bread the disciples came to Jesus, saying,
TEV         On the first day of the Festival of Unleavened Bread the disciples came to Jesus and asked him,
文語訳            除酵[パンの]祭の初(はじめ)の日、弟子たちイエスに来たりて言ふ
口語訳            さて、除酵[パンの]祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、
新改訳            さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。
新共同訳        除酵[パンの]祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「.....................」と言った。

「除酵祭」は「過越祭」としても知られる。出エジプト記12章に起源を持つユダヤの祭である。ユダヤの人々がエジプトでの奴隷生活から脱するに際して、雄の子羊を殺してその血を家の戸口に塗って印とし、それがない家には、神の使いが災いをもたらし、それがある家の前は通り過ぎる(過ぎ越す)と、神がモーゼに告げたとされることに由来する。「除酵祭」とも呼ぶのは、その時の辛い経験を記憶するために、その期間(およそ、3月から4月にかけての1週間)を祭りとして、酵母で発酵されたパンを食べないという習慣のためである。無酵母のパンを、ルターはドイツ語で「süßen Brot(無発酵パン)」と訳し、無酵母パンとそれを食べる祭の期間も意味した。ここで「süßen Brot」の「Brot」を「パン」として訳出することが重要である。「パン」は「最後の晩餐」の食事を暗示し、イエスがユダの裏切りを予告する場面の伏線となっているからである。
マタイ伝などの共感福音書によれば、この日は「過越祭の初日」、ヨハネ伝ではその前日となっている。過越の食事であれば「無発酵パン」、その前日であれば「発酵パン」ということになる。史実としてはどちらが正しいかは確定していないが、西方教会と正教会では違うという。西方教会に起源を持つカトリックやプロテスタントでは、「無発酵パン」を食べたとする。実体は現在のクラッカーのようなものだったらしい。「最後の晩餐」の食事はイエスの受難劇で重要な意味を持つ。
言うまでもなく、パンはイエスの肉を、赤ワインはイエスの血を象徴する。「無酵母パン」にあたる現代ドイツ語は、現代版で「Ungesüßerten Brote」となっていて、決定版とは、一見したところ逆の意味になっている。時代的変化なのか、それともルターの誤訳なのか。いずれにしても、「無発酵(の)パン」を意味する。
ギリシャ語の「αζυμος」は元来収穫を祝う農耕的な祭だったが、ユダヤ教の「過越の祭」と融合して出エジプトを記念する祭になった。マタイ伝でここを「除酵祭の最初の日」と訳することは間違いではない。しかし、ルターが「der süßen Brot」と訳し、バッハがそれを使っている以上は、ここで単に「除酵祭」とすると、「最後の晩餐」の伏線である「パン」が出て来ない。キリスト教としては正しくとも、バッハテキストの対訳としては適切ではない。ちなみに、ルター訳のヨハネ伝(13:1)では、この日は「Vor dem Fest aber der Ostern」となっていて、(ドイツ語の「Ostern」は「復活祭」のことだが、時代的にも「復活祭」は不自然)「過越の祭」の前日である。
ギリシャ語の最後にある「λεγοντες(言うのには)」にルターはsprachen (言う)を当てているが、現代版とTEVは、次の言葉が疑問形であることを受けて「fragten、ask(問う)」としている。ギリシャ語で「λεγοντες」が疑問文の前におかれた他の例(たとえば、26章8節)では、決定版も現代版もsprachenをあてているので、現代版がここだけ「fragen」と訳す理由は不明。

8. MP9b:4-14
D  バッハ     Wo willst du, daß wir dir bereiten, das Osterlamm zu essen?
   直訳     あなたのために、過越の小羊を食べる準備を私たちがするにはどこをのぞみますか?

  英語版     Where wilt Thou, Lord, that we shall all eat the Passover [lamb] together?
   ZPA     What place wouldst thou have us prepare thee, the paschal lamb to eat now? 
   YS文語   いずこにてわれらが、過越の[子羊]食を守るための備えをなさんと望みたもうか?
   YS口語   過越しにほふられる小羊の食事を守りなさる場所をどこにしましょうか?
   TM      過越の[子羊]食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか。
   K·M          過越の[子羊]食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか。
   RH    どこに、過越の[子羊]食事をなさる用意をいたしましょうか。
   TI      どこに過越の[子羊]食事の準備をしたらよろしいでしょうか。
   KT     過越の子羊を食べる準備をしたいのですが、どこがよろしいでしょうか。

ギリシャ語    過越[子羊]の食事をするために、私たちがあなたのためにどこに準備するのを望みますか?

             Που          θελεις        ετοιμασωμεν                       σοι        φαγειν    το              πασχα;
                       (4)どこに  (6)望むか   (5)私たちが準備するように  (3)あなたに     (2)食事をするため    (1)過越を(の)

ラテン語     過越[子羊]の食事を食べるために、あなたに私たちが準備するのはどこを望みますか?

                 ubi          vis                   paremus                  tibi          comedere      pascha
                          (5)どこを      (6)あなたは望むか    (4)私たちが準備するのに  (3)あなたに (2)食べるために    (1)過越を(の)

決定版       Wo wiltu / das wir dir bereiten das Osterlamb zu essen? 
カロフ版    Wo wiltu / daß wir (...)  dir bereiten / das Osterlam zu essen? 
現代版       Wo willst du, daß wir dir das Passalamm zum Essen bereiten?
DRV         Where wilt thou that we prepare for thee to eat the pasch [lamb]?
KJV          Where wilt thou that we prepare for thee to eat the Passover [lamb]?
RSV          Where will you have us prepare for you to eat the Passover [lamb]?
TEV          Where do you want us to get the Passover meal [lamb] ready for you?
文語訳       過越の[子羊]食をなし給ふために、何處に我らが備ふる事を望み給ふか」
口語訳       過越の[子羊]食事をなさるために、わたしたちは[あなたのために]どこに用意をしたらよい
                     しょうか。
新改訳       過越しの[子羊]食事をなさるのに、私たちは[あなたのために]どこで用意をしましょうか。
新共同訳    どこに、過越の[子羊]食事をなさる[あなたのために]用意をいたしましょうか

弟子達は「食事の用意をする場所」をイエスに問う。「食事をする場所」ではない。実質的には同じことだが、「準備する」を訳出しなければその主体が弟子達であり、彼らが死を前にしたイエスに残酷な質問をしていることが分かりにくい。イエスに香油をかけたときのマグダラのマリアへの弟子達の異常な反応(3. MP4d:23-26参照)と関連して、ここで弟子達の能天気な残酷さが示される必要がある。どちらの場面でも、ユダを除く他の弟子達は「イエスの葬り」が近いことに気づいていない。

それと関連して、「Oster-lamm」の「lamm(子羊)」を訳出することも重要である。《マタイ受難曲》で「Lamm」はイエスを表す重要なキーワードであり、ここのト長調は、開曲で刑場に向かうイエスを見て悲しむシオンの娘とエルサレムの娘が対唱するホ短調にかぶせたコラール「O Lamm Gottes(おお、神の子羊よ)」のト長調に対応する。過越の祭で「生贄として捧げられる小羊」の料理を配膳する場所を、能天気な弟子たちがこれから「生贄の小羊」になろうとしている当のイエスに問うという残酷な場面である。この質問をする弟子たちの軽さはここではまだ優しいト長調(♯)で書かれている。そのつぎに来る第10曲のコラールで、一転して変イ長調(4♭)が現れ、教会会衆(聴衆)に「Ich bins(私はユダである)」と歌わせて彼らを憤慨させる。

日本語では代名詞をいちいち訳出しないほうが自然だが、この問いには、弟子たちが、すでに捕縛と受難を予期しているイエスに、「あなたが殺される場所をあなたはどこに望むか?」という含意があり、拙訳ではあえて「willst du(あなたは望む)」を訳出し、生硬さを避けない。
「Oster」はアングロサクソンの春の女神「Eostre」にちなむ春祭りが、キリスト教に入って「復活祭(イースター)」に転じたものである。ギリシャ語の「πασχα」、ラテン語の「pascha」はともに、言外に「子羊」を食べる意を含む。ルターはドイツ語訳では「Oster-lamm」として、「-lamm」を明示した。拙訳で「過越の小羊」としたのは、イエスの生前に「復活祭の小羊」では不自然なためだが、間違ってはいても、原作のままに「復活祭の子羊」と訳すべきかもしれない(次項以下も同様)。現在では「Osterlamm」は復活祭のウサギと卵を意味する。卵は宇宙の発生と生命の根源を象徴し、ウサギは多産と豊穣のシンボルである。ゲルマン民族では、ウサギは春の女神の使いであるとされた。ユダヤ教の子羊が、ドイツプロテスタントでウサギになるというのは、「復活祭」が非キリスト教的な土着信仰から派生したものであることを示している。
新共同訳注解によれば、「最後の晩餐」がユダヤ教の「過越の食事」であったことは前後関係から明らかだが、マタイの晩餐伝承は、肝心の「犠牲の小羊」についてまったく触れておらず、「過越の食事」で必ず説明されるはずの「種無しパン」を食べる故事についても触れていない。これは、「過越の祭」にイエスの受難と死の意味を導入することによってキリスト教の行事とする目的が、さらに本来は年一回の行事である春祭=過越の祭を日曜日に随時行われる聖餐(Messa)へと転化する目的があったという。その意味では、「O Lamm Gottes」のコラールとこの楽曲を「lamm」というキーワードとト長調で結ぶ作曲法はルター訳とバッハテキストが協同した結果である。

9. MP9c:18-20
D  バッハ   Meine Zeit ist hier, ich will bei dir die Ostern halten mit meinen Jüngern.
     直訳     我が時は来た。私は、あなたのところで弟子たちとともに過越を持ちたい。

   英語版    my time is at hand, at thy house will I keep the Passover with my disciples.
   ZPA       Now my time is here, I would in thy house keep the Passover with my disciples. 
   YS文語   わが時は到れり、われ弟子たちと共に、汝の家にて過越を守らん(と)
   YS口語   わが時は近づいた。お宅で私の弟子たちと共に過越をまもりたいのでよろしく(との)
   TM        わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろう(と、)
   K·M       わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろう、(と)
   RH        わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする(と)
   TI          わたしの時が来た。あなたのところで弟子たちと共に過越を守ることにしょう、(と)
   KT         我が時が来た、あなたのところで過越祭を弟子たちとともに過ごしたい、(と)

マタイ伝26:18
ギリシャ語   私の時は近づいている。あなたのところで私の弟子らと共に私は過ぎ越をする。

                    Ο καιρος   μου       εγγυς          εστιν,      προς            σε                  ποιω    το         πασχα          μετα     των
                      (2)時は     (1)私の  (3)近づいて (4)いる   (6)ところで  (5)あなたの  (11)私はする   (10)過越を  (9)共に 
                 μαθητων        μου.
           (8)弟子らと     (7)私の

ラテン語    私の時は近づいている。あなたの家で私の弟子らと共に私は過越を実行する。

            tempus  meum  prope   est    apud         te      facio                  pascha    cum      
             (2)時は     (1)私の   (3)近くに  (4)いる  (6)〜の家で  (5)あなた  (5)(私は)実行する  (11)過越を   (9)共に  
              discipulis    meis
          (8)弟子らと    (7)私の

決定版      meine zeit ist hie / ich wil bey dir die Ostern halten / mit meinen Jüngern.
カロフ版 Meine Zeit ist hie (...)  ich wil bey dir die Ostern halten mit meinen Jüngern.
現代版      Meine Zeit ist nahe; ich will bei dir das Passa feiern mit meinen Jüngern.
DRV    My time is near at hand, with thee I make the pasch with my disciples.
KJV   My time is at hand; I will keep the passover at thy house with my disciples.
RSV   My time is at hand; I will keep the passover at your house with my disciples.
TEV   My time has come; my disciples and I will celebrate the Passover at your house.
文語訳  わが時近づけり。われ弟子たちと共に過越を汝の家にて守らん
口語訳  わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろう(と、)
新改訳  わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越しを守ろう。
新共同訳 わたしの時が近づいた、お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする

聖書も対訳も、私の時が「来た」のか、「近づいた」のかに分かれる。「ist nahe、is (near) at hand」は「近づいた」であり、「ist hie(r)、has come」は「来た」である。「時が近い」であれば、「時」とはそのあとに来るイエスの捕縛とそれに続く受難を連想させ、「時が来た」であれば、直近の「最後の晩餐」を指しているように思える。ギリシャ語(εγγυς εστιν)、ラテン語(prope est)は「近づいている」なので、聖書的には前者なのであろう。バッハはルター訳に従っており、対訳としては「時が来た」とすべきであろう。同じくエラスムス版を底本にしたRDV、KJVは「is (near) at hand(近づいている)」としている。

10. MP9c:23-24
D   バッハ    und bereiteten das Osterlamm.
   直訳  イースターの子羊を用意した。

   英語版     and they there prepared the Passover [lamb].
   ZPA          and made ready there the paschal lamb. 	
   YS文語対 過越[子羊]の備えをなせり。
   YS口語  過越[子羊]の食事の用意をした。
   TM    過越[子羊]の用意をした。
   K·M     過越[子羊]の用意をした。
   RH    過越の[子羊]食事を準備した。
   TI     過越[子羊]の備えをした。
   KT    過越の子羊を準備した。

マタイ伝26:19
ギリシャ語 そして、過越[子羊]を準備した

      και     ητοιμασαν    το πασχα.	
         (1)そして (3)準備した    (2)過越を

ラテン語  そして、過越[子羊]を準備した

        et     paraverunt  pascha
	(1)そして  (3)準備した   (2)過越を

決定版   vnd bereiteten das Osterlamb.
カロフ版  und bereiteten das Osterlam.
現代版   und bereiteten das Passalamm.
DRV    and they prepared the pasch [lamb].
KJV    and they made ready the Passover [lamb].
RSV    and they prepared the Passover [lamb].
TEV    and prepared the Passover [lamb] meal.
文語訳   過越[子羊]の備えをなせり。
口語訳   過越[子羊]の用意をした。
新改訳   過越しの[子羊]食事の用意をした。
新共同訳  過越の[子羊]食事を準備した。

ここはMP9b:4-14と同様に、「Osterlamm」の「-lamm(小羊)」は、食事としての子羊の肉とイエスの犠牲(受難)を意味する「神の小羊」をかけている。したがって、《マタイ受難曲》歌詞としては「子羊」は意訳せずに訳出しなければならない。

11. MP11:2-3
D   バッハ    Der mit der Hand mit mir in die Schüssel tauchet, der wird mich verraten.
   直訳  私と一緒にこの鉢の中に手で(パンを)浸している者が、私を裏切るだろう。

   英語版      Who dippeth his hand with me in the dish this even, shall this night betray me.
   ZPA         He who his hand with me in the dish now dippeth, this one will betray me. 
   YS文語     われと共に手を鉢に入れて食を分かちたる者、われを売らん。
   YS文語     私といっしょに手を鉢に浸して食べ物を分かち合う者が、私を売るだろう。。
   TM          わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
   K·M         私といっしょに鉢に手を入れている者が、私を裏切ろうとしている。
   RH          わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
   TI            私と一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを密告するだろう。
   KT          私と同じ鉢に手をひたす者こそが私を裏切るであろう。
  
マタイ伝26:23
ギリシャ語 私と共に皿に手を浸した者が私を裏切る

       Ο  εμβαψας  μετ   εμου  την  χειρα  εν  τω  τρυβλιω    ουτος            με         παραδωσει.
         (6)浸した者 (2)共に (1)私と        (5)手を  (4)に    (3)皿       (7)この者が   (8)私を   (9)裏切る
                               
                

ラテン語  私と一緒に、この皿に手を浸している人が私を裏切る

      qui    intinguit     mecum        manum  in     parapside  hic     me    tradet
                  (7)その人が (6)浸している  (1)私と一緒に (5)手を    (4)に  (3)皿             (2)この  (8)私を  (9)裏切る

決定版   Der mit der hand mit mir in die Schüssel tauchet / der wird mich verraten.
カロフ版  Der mit der hand mit mir in die Schüssel tauchet / der wird mich verrathen (...)  
現代版   Der die hand mit mir in die Schüssel taucht, der wird mich verraten.
DRV     He that dippeth his hand with me in the dish, he shall betray me.
KJV      He that dippeth his hand with me in the dish, the same shall betray me.
RSV     He who has dipped his hand in the dish with me, will betray me.
TEV     One who dips his bread in the dish with me will betray me. 
文語訳    我とともに手を鉢に入るる者われを賣らん。
口語訳    わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
新改訳    わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
新共同訳   わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。

最後の晩餐でイエスが自分の死を予告して、パンとぶどう酒が自らの肉と血であると発言するが、ここは自分の死が弟子の一人(ユダ)の裏切りによってもたらされると予言するところである。ここで、イエスは、その裏切り者とは「手で(パンを)イエスと同じ鉢に入れた者」であると言うが、裏切るのはイエスの「肉」を象徴する「パン」を浸した者であると言外に言っている。決定版やバッハのテキストでは「手を」入れるではなく「mit der hand(手で浸す)」となっていることでそれがわかる。tauchenは「(液、水などに)つける、浸す」の意。聖書も対訳もここの訳は分れている。ギリシャ語、ラテン語を見ると、おそらく文章としては「手を浸す」の方が聖書学的には正しいのであろう。しかし、意味としては「手でパンを浸す」である。決定版、TEV、新共同訳は「手で(食べ物,パンを)浸した(浸している)」と意訳している。英訳の「this even(今夕)」「tonight(今夜)」「now(今)」などは聖書にも、歌詞にもない。

12. MP11:6-9
D   バッハ    Doch wehe dem Menschen, durch welchen des Menschen Sohn verraten wird!
	  直訳   だが、人の子を裏切るその人に(とって)は不幸である。

  英語版       but woe unto that man by whom the Son of Man shall be betrayed.
  ZPA          but woe to that man through whom the Son of man hath been betrayed 
  YS文語     されど災いなるかな、人の子の渡さるるために用いられしその人は!
  YS口語      だが浮かばれないのは、人の子が引き渡されるための役をさせられるその人。
  TM           しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。
  K·M          しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。
  RH           だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。
  TI             だが、人の子を密告する人間は災いだ。
  KT            だが、災いあれ、人の子を裏切る者には。

マタイ伝26:24
ギリシャ語    しかし、人の子が彼によって裏切られるのはその人に災いだ

                 ουαι               δε      τω        ανθρωπω  εκεινω   δι             ου  ο     υιος       του   ανθρωπου    παραδιδοται
                               (9)わざわいだ  (1)しかし      (8)人に     (7)その  (5)よって  (4)彼に (3)子が            (2)人の       (6)裏切られる
 

ラテン語       しかし、人の子が彼によって裏切られるのは、その人に災いだ

                   vae            autem   homini   illi        per     quem   Filius   hominis   traditur
                      (9)わざわいだ  (1)しかし (8)人に  (7)その  (5)よって  (4)彼に      (3)子が  (2)人の      (6)裏切られる


決定版   Doch weh dem Menschen / durch welchen des menschen Son verrahten wird /
カロフ   Doch wehe dem Menschen / durch welche des Menschen Son verrathen wird /
現代版   doch weh dem Menschen, durch den der Menschensohn verraten wird!
DRV     but woe to that man by whom the Son of man shall be betrayed:
KJV      but woe unto that man by whom the Son of man is betrayed!
RSV     but woe to that man by whom the Son of man is betrayed! 
TEV     but how terrible fo that man who will betray the Son of man! 
文語訳    されど人の子を賣る者は禍害(わざわい)なるかな、
口語訳    しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。
新改訳    しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。
新共同訳   だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。

英語の起源はドイツ語古語であるゲルマン語に遡るので、ここでは間投詞の「wehe」を間投詞の「woe」に置き換えるだけで済む。綴りが近いので、おそらくギリシャ語(ουαι)、ラテン語(vae)も同じ語源に由来するのだろう。しかし、日本語には同じ語源の単語がない。「不幸」、「災い」、「嘆き」、「悲しみ」などの意味を併せ持つ同一の語がない。日本語聖書でも「災い」、「のろい」、「不幸」とニュアンスが分かれており、それぞれの印象はかなり異なる。「不幸」だと、ユダへの同情的ニュアンスが強いが、「のろわれます」や、「わざわいあれ」ではユダへの憎悪に近い。TEVは「woe」を使わず、「how terrible(なんとおぞましい、恐ろしい)」と、嫌悪感が強い。ここの解釈は、おそらく欧米でも読者の主観が入るのだろう。対訳の評価はMP42の解釈に基づく。(VIII-2、IX-4-31参照)

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