(4) MP11:9-11, MP11:26-30, MP14:4-6, MP14:10-13, MP16:2-4, MP24:1-3 and MP24:9-11

13. MP11:9-11
D  バッハ   Es wäre ihm besser, daß derselbige Mensch noch nie geborn wäre.
    直訳    ほかでもないその人は生まれなかったほうが、彼にはよかっただろうに。

  英語版   For him it were better, yes for that man t'were better had he not been born.
  ZPA      It were better for him if this very man had never been born. 
  YS文語  かかる人は、生まれざりしかた[彼には]よかりしものを。
  YS口語  このような人間は、いっそ生まれて来なかった方が本人のためには仕合わせだったのに。
  TM        その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。
  K·M       その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。
  RH        生れなかった方が、その者のためによかった。
  TI          こんな人間は生まれない方が、自分のためだったのだ。
  KT        そのような人間は生まれてこなかった方が[彼には]ましであった。

マタイ伝26:24
ギリシャ語  その人は生まれなかったら、彼に良かった。

                  καλον  ην            αυτω ει  ουκ           εγεννηθη ο        ανθρωπος   εκενος.
                             (6)良く (7)あった (5)彼に  (4)ならば  (3)生れなかった (2)人は        (1)その

ラテン語	その人は生まれなかったら、彼に良かった。

           Bonum  erat      ei         si          natus   non     fuisset    homo    ille
                      (8)良く     (9)あった  (7)彼に  (6)ならば   (3)生れ   (5)ない   (4)れる       (2)人は     (1)その


決定版         Es were jm besser / das der selbige Mensch noch nie geborn were.
カロフ版      es wäre ihm besser / daß der selbe Mensch noch nie geborn wäre (...)  
現代版         Es wäre füh diesen Menschen besser, wenn er nie geborn wäre.
DRB           it were better for him, if that man had not been born.
KJV            it had been good for that man if he had not been born.
RSV           It would have been better for that man if he had not been born.
TEV           It would have been better for that man if he had nerver been born.
文語訳        その人は、生まれざりし方[彼には]よかりしものを	
口語訳        その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう。
新改訳           そういう人は生まれなかったほうが[彼には]よかったのです。
新共同訳       生れなかった方が、その者のためによかった。


ルターは「ανθρωπος εκενος(その人は)」 を「der selbige Mensch (まさにその人が) 」と訳している。現代版は「füh diesen Menschen」として、ギリシャ語に合わせて「selbige」による強調を除いたうえで、主節と従属節で代名詞の位置を入れ替えている。

「こんな人間は生まれないほうが良かった」という文章では、普通は「こんなひどい人間は」という意味に理解される。「こんな素晴らしい人間は」という意味にはとられない。「こんなひどい人間は死んだほうがよい」、さらに「こんなひどい人間は殺したほうがよい」と拡大解釈されていけば、やがてナチスの優生保護思想と紙一重になる。ヒトラー本人が、福音書から反ユダヤ主義を学んだかどうかは知らない。しかし、過去において多くのドイツ人が人種主義的な反ユダヤの匂いをそこから嗅ぎ取っていたことは間違いない。しかし、ルターやバッハに人種主義的反ユダヤ思想があったとは思えない。したがって、ユダへの蔑視を感じさせる、こんな形容詞(修飾語)をここで使う事は適切ではない。「selbige」に蔑視的な意味はなく、ただの強調である。「まさにこの人」、「他でもないこの人」程度の意味。ギリシャ語(ネストレ=アーラント26版)にも「こんな」に相当する形容詞はない。とはいっても「selbige」の起源が、エラスムス版にあるとは思えない。なぜなら、同じくエラスムス版を定本にしたウルガータやRDV、KJVに、ZPAの「this very man」の「very」にあたるような形容詞はないからである。

マタイ伝27:25(MP50d)と同様に民族浄化思想にもつながりうる聖句だが、ここではバッハテキストだけではなく、ギリシャ語を初め多くの聖書が「彼によかった」と代名詞を明示して、ユダへの同情を感じさせる代名詞があり、そのニュアンスを訳出すべきでる。ちなみに、「彼に」を訳出していない新共同訳は、「その者のために良かった」としている。これはギリシャ語からの翻訳というよりも、むしろフランス語聖書からの重訳に近い。ちなみに、フランス語聖書では「Il aurait mieux valu pour cet homme-là ne pas naître!(生まれなかったほうがまさにこの人のためには良かっただろうに)」とある。


14. MP11:26-30
D  バッハ   das ist mein Blut des neuen Testaments, welches vergossen wird für vile zur Vergebung der
                     Sünden.
   直訳  これは新しい遺言(複)の私の血であり、罪の赦しに対して、多くの人のために流される。

  英語版  This is my blood of the New Testament[s], which shall be shed for you, for many in remission of 
                     their sin.
  ZPA     this is my Blood of the New Testament[s], which hath been poured out here for many in
                     remission of their sins.  
  YS文語  こは新しき契約を立つるわが血にして、多くの人のために、罪の赦しを得させんとて流すところのものな
                    り。
  YS口語  これは新しい契約を立てるわが血、多くの人の為に罪の赦しを得させようとして流されるのものである。
  TM       これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である。
  K·M      これは罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である。
  RH       これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
  TI         これは新しい契約を立てる私の血で、多くの人の罪の許しのために流されるものだ。
  KT        これは我が血、新しい契約の血である。多くの者のために、その罪の赦しのために流された我が血で
                    ある。

マタイ伝26:28
ギリシャ語 これは罪の赦しのために、多くの人々のために流される契約の私の血であるから、

           τουτο         γαρ          εστιν το    αιμα          μου της    διαθηκης το    περι 
                     (1)これは   (12)から  (11)ある    (10)血で   (9)私の     (8)契約の       (6)ために
                             πολλων                 εκχυννομενον   εις             αφεσιν        αμαρτιϖν.
                       (5)多くの人々の    (7)流される      (4)ために   (3)許しの    (2)罪(複)の

ラテン語 なぜなら、これは罪の赦しのために、多くの人々のために注ぎ出されるところの新しい遺言(契約)の私の血である

              hic     est           enim         sanguis   meus     novi           testamenti
                (2)これは   (14)である    (1)なぜなら    (13)血で   (12)私の    (10)新しい       (11)遺言の
                       qui             pro         multis            effunditur       in          remissionem   peccatorum
	   (9)〜ところの   (7)ために    (6)多くの人々の   (8)注ぎ出される    (5)ために  (4)赦しの             (3)罪(複)の

決定版     Das ist mein Blut des newen Testaments / welchs vergossen wird fur viel / zur vergebung der sünden.
カロフ版  Das (...)  ist mein Blut / des Neuen Testaments (...)  welchs vergossen wird für viele [zur Vergebung der Sünden] (...)  
現代版      das ist mein Blut des [neuen] Bundes, das vergossen wird für viele zur Vergebung der Sünden.
DRB         For this is my blood of the new testament[s], which shall be shed for many unto remission of 
                      sins.
KJV         For this is my blood of the new testament[s], which is shed for many for the remission of sins.
RSV         this is my blood of the covenant, which is poured out for many for the forgiveness of sins. 
TEV       this is my blood, which seals God's covenant, my blood poured out for many for the forgive-ness of sins. 
文語訳     これは契約のわが血なり、多くの人のために、罪の赦を得させんとて流す所のものなり。
口語訳     これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流す私の契約の血である。
新改訳     これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
新共同訳  これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

バッハテキストは決定版、カロフ版と同様に「des neuen Testaments(新しい遺言の)」としている。現代版はギリシャ語正文に合わせて「neuen(新しい)」が削除されたうえで「Testaments(遺言)」が「Bundes(同盟、結束、きずな)」と変更されている。同様に英語訳聖書も、RSV以降は「new(新しい)」が消え、「testament(遺言)」が「covenant(契約)」に変更されている。エラスムス版のギリシャ語がウルガータ本でラテン語訳される時に、ディアケーセー「διαθηκη(契約)」を「testament(遺言)」と誤訳したので、19世紀後の正文批判を踏まえて訂正されたという。この訂正はバッハテキストの対訳にも反映している。すべての日本語聖書と対訳で、ここで「遺言」と訳したものはない。

しかし、素直に考えれば、この場面はイエスが自分の死を予告している場面であり、「Testament」を「遺言」と訳したほうがすっきりと納まるように感じるのは筆者だけであろうか。しかし、聖書研究の歴史を知る人たちは、そのような議論を一蹴する。だが、議論は二つの事を分けてしなければならない。聖書学的正当性は何かとということと、バッハの思想を正しく理解するという問題である。筆者が後者の立場に立つことは何度も述べて来た通りである。しかし、以下に述べるように、この語句の解釈については聖書学的にも問題なしとは言えないのである。聖書学的にも「遺言」という訳が間違っているとは断定できないのである。

田川はギリシャ語からラテン語に訳された段階で、「契約」の意が「遺言」にあたる意味へ誤訳されたので、後に訂正されたという。しかし、新約ギリシャ語辞典(岩隈直著)によれば、それほど簡単な話ではなさそうだ。同辞典では「διαθηκη」は次のように説明されている。

1.遺言、(これが当時における最も普通の意味);ガラ3:15、ヘブ9:16.
2.協約、契約(=συνθηκη);
3.《七十人訳におけるヘブル語berîthの訳語。これは神の一方的制定であるから2.では不適当.その点1.に似ているが神に死がないためそのままではやはり不適当。おそらく1.から来た独特な意味》意思表示、指(命)令、規(制)定、制度、約束(等場合に応じて訳される.しかし神の側から出ていても人間の自由意志による受諾を前提とするので「契約」とも解される);行3:25.

ヘブル語のベリート「berîth」(ヘブライ語のベリース「beri_th」)がギリシャ語に訳されたときに「διαθηκη」が使われたという。それが、当時のもっとも普通の意味で「遺言」を意味したのであれば、ラテン語で「Testament」と訳されたことはあながち間違いとは言えない。とすれば、ラテン語、ドイツ語、英語で「遺言」を意味する「testament」が訳語として使われたのは自然の流れである。要するに、この文章を読む、あるいは聴くとき、読者や聴衆が思い浮かべる意味に「遺言」のニュアンスがあっても良いし、実際にあった筈である。

まして、バッハが「Testament」を使っている以上、歌詞対訳で「testament」、「遺言」を使う事に問題はない。筆者はここで、田川と岩隈の説を比べて、どちらが正しいと言う議論をしているのではない。それをするだけの見識も持ち合わせない。問題は正しい聖書解釈にあるのではなく、バッハの時代の「Testament」が「遺言」を意味したかどうかである。

《マタイ受難曲》では、死を控えたイエスは苦悶したのちに、自由意志により自らの死を受け入れたと描かれている。《マタイ受難曲》の中では、「死ぬ事がない神に遺言はふさわしくない」という、岩隈の議論は成り立たないのである。

同じく、岩隈は「πολλων(多くの人々の)」はセム語法で「(一人でなく)全部」という意味だという説を紹介している(新約聖書マタイ福音書下p124)。この解釈はMP50d(マタイ伝27:25)のバッハテキストで「über」の後が一つにまとめられたことにも対応している。そうであれば、イエスの救済の血は、個々の人を峻別して、そのうちの多数(派)の人々にだけ滴るのではなく、(ユダヤ人を含む)すべての人類に血は滴ることになる。

さらに、岩隈によれば、ギリシャ語の「το αιμα μου(το)της διαθηκης(私の契約の血で )」の「της διαθηκης(契約の)」はあとから挿入された付加語である疑いが強く、こういう構文はギリシャ語としても、アラム語としても不可能であるという説もあるという。その場合は、冠詞の「το」がつけられるそうだが、それがつかない写本もり、実際に、正本とされるネストレ=アーラント26版ではこの冠詞はない。つまり、この「διαθηκη」の解釈には、意味的に「契約」か「遺言」かというだけではなく、多くの謎が含まれており、その解釈には字義以上の問題がある。したがって、「Testament」とすることもウルガータの誤訳とは断定できない。結論を言えば、バッハの時代のドイツ人は「Testaments」で「イエスの遺言」と「神との契約」を重ねてイメージすることができた。つまり、いわば掛詞になっていたと思われる。

「私の」は、ウルガ−タ、独英語訳聖書では「血」にかかっているが、膠着語である日本語訳は聖書、対訳ともその点で苦労している。

「私(イエス)の血」とは「犠牲の小羊の血」である。この「Blut(血)」という語は《マタイ受難曲》全体で13回出てくる。これは、最後の晩餐を象徴する数「13」と一致させべくバッハが意図したものかどうかは分からない。ここで「novi、neuen、new、(新しい)」がエラスムス版に由来するウルガ−タ、RDV、KJV、決定版にはあるが、現代訳聖書にはない。聖書学的にはどうであれ、バッハテキストにもある以上、「新しい」を訳出しないのは間違っている。

カロフ版では「zur Vergebung der Sünden」の脱落があるが、バッハは決定版に従っている。続く、29節の冒頭も、決定版では「Jch sage euch」となっているが、カロフ版では「Ich aber sage euch:」である。強意の副詞「aber (しかし/さて)」が加わっているが、バッハテキスト(MP11:31)は「Ich sage euch:」で決定版と同じである。ちなみに、ネストレ=アーラント版では「λεγω δε υμιν,」、ウルガータは「dico autem vobis」、RDVは「And I say to you,」、KJVは「But I say unto you,」、新共同訳は「言っておくが」などとなっている。


15. MP14:4-6
D  バッハ    In dieser Nacht werdet ihr euch alle ärgern an mir.
   直訳      今夜、あなたたち皆が私に腹を立てるでしょう。

   英語版   This very night ye shall [all] be offended because of me.
   ZPA       In this same night ye will all become annoyed for my sake.
   YS文語   今夜、汝らみなわれに躓かん。
   YS文語   今夜きみたちはみな私に躓くだろう。
   K·M       今夜、あなたがたが皆わたしにつまずくであろう。
   HK        今夜、あなたがたは皆わたしにつまづくであろう。
   RH        今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく。
   TI          今夜お前たちはみな、私につまずくだろう。
   KT         今晩、あなた方はみな私に躓くであろう。

マタイ伝26:31
ギリシャ語 あなた方は、皆、今夜のうちに私に躓かされる。

                Παντες   υμεις                σκανδαλισθησεσθε  εν       εμοι   εν     τη               νυκτι      ταυτη,
                    (2)皆     (1)あなた方は  (8)躓かされる           (7)に  (6)私          (5)うちに   (4)夜の    (3)今

ラテン語    あなた方すべての人は、今夜中に私について不品行に苦しめられるでしょう。

      omnes         vos           scandalum   patiemini                in              me   in      ista     nocte
                   (2)全ての人は     (1)あなた方     (8)不品行に      (9)苦しめられるでしょう  (7)について  (6)私  (5)うち (3)この  (4)夜の       

決定版       Jn dieser nacht werdet jr euch alle ergern an mir.
カロフ版    in dieser Nacht werdet ihr euch alle ärgern an mir (...) 
現代版       In dieser Nacht werdet ihr [euch] alle Ärgernis nehmen an mir.
DRB         All you shall be scandalized in me this night.
KJV          All ye shall be offended because of me this night:
RSV         You will all fall away because of me this night;
TEV         This very night all of you will run away and leave me,
文語訳      今宵なんぢら皆われに就きて躓かん
口語訳      今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。
新改訳      あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。
新共同訳   今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。

「σκανδαλιζω」の本来の意味は「道に邪魔物を置く、躓かせる」ではなく「(動物に対して)罠をしかける」である。転じて「不品行(信仰)に誘う」、「罪を犯させる」、「不快にさせる」、「怒らせる」などを意味する。名詞形のスカンダロン「σκανδαλον(英語のscandalの語源)」は「動物を捕らえるために罠に仕掛ける餌をつける棒」のこと。ヘブライ語の「人を躓かせる物」のギリシャ語訳語としても使われるようになったことから、日本語新約聖書では習慣的に「躓く」と訳される。例えば、マタイ伝18:6-9で6回続けて出るこの語を、新共同訳はすべて「つまずく」と訳している(注)。クリスチャンでない読者がここで「イエスに躓く(かされる)」と読んでも何のことか分からない。予備知識なしに読めば、「イエスは弟子達の信仰を妨害する」とさえ想像する。この語はペテロを否定する17項のMP16:2-4(マタイ伝26:33)でも出てくる。また、マタイ伝24:10でもイエスの言葉として「και τοτε σκανδαλισθησονται πολλοι (また、その時多くの者たちは躓く)」と出てくる。英語訳では「abfallen(落ちる)」、「offended(怒らせる)」、「fall away(逃げ去る)」、「leave(置き去りにする)」、「give up(諦める)」、「annoyed(迷惑をかける)」など訳語はさまざまで、ドイツ語と日本語間に見られる「ärgern=躓く」のような統一した訳語はない。この現象は、第12項に出て来た「wehe⇄woe」の対応を思わせる。

「つまずく」を、信仰に入らない者への排他性を象徴する日本のキリスト教的隠語、業界用語といえば言い過ぎだろうか。筆者には、医者が手術中に手技的失敗をして患者に出血させたときに使う「ヘマ(Häma-)った」や、死亡させたときに使う「ステ(ster-ben)った」などと似たような響きが感じられる。言われるほうには、決して愉快な響きではない。

(注) 口語訳では「片手が罪を犯す」、「片目が罪を犯す」などと訳し、「つまずく」は使われていない。

16. MP14:10-13
D  バッハ    Wenn ich aber auferstehe, will ich vor euch hingehen in Galiläam.
   直訳  もし私がひとたび立ち上がれば、あなたたちに先立ってガリラヤに向かうだろう。

   英語版   But when I again am risen, then will I go before you to Galilea..
   ZPA       When, however, I am risen, I will go before you into Galilee. 
   YS文語   されどわれ甦りてのち、汝らに先立ちてガリラヤに行かん.
   YS口語   しかし私が甦ったのちには、君たちに先立ってガリラヤに行こう。
   TM       しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。
   K·M        しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。
   RH         しかしわたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く.
   TI           しかしわたしが復活したときには、お前たちに先立ってガリラヤにいくつもりだ。
   KT          だが、私が甦えった時には、あなたより先にガリラヤへと行っていよう。

マタイ伝26:32
ギリシャ語   しかし、私がよみがえらされた後で、私はあなた方より先にガリラヤに行く

                   μετα   δε  το       εγερθηναι                 με            προαξ             υμας	           εις   την   Γαλιλαιαν.
                      (4)後  (1)しかし  (3)よみがえらされた  (2)私が     (8)私は先に行く  (5)あなた方より  (7)に         (6)ガリラヤ
          
ラテン語   しかし、再び立ち上がらされた後で、私はあなた方より先にガリラヤに行くだろう

       postquam  autem    resurrexero             praecedam                 vos              in     Galilaeam
                       (3)〜後で      (1)しかし   (2)再び立ち上がらされる    (7)私は〜の先に行くだろう   (4)あなた方の  (6)に   (5)ガリラヤ

決定版       Wenn ich aber aufferstehe / wil ich fur euch hin gehen in Galileam.
カロフ版    Wenn ich aber auferstehe / wil ich für euch hingehen in Galiläam (...)
現代版       Wenn ich aber auferstanden bin, will ich vor euch hingehen nach Galiläa.
DRB          But after I shall be risen again, I will go before you into Galilee.
KJV          But after I am risen again, I will go before you into Galilee.
RSV          But after I am raised up, I will go before you to Galilee."
TEV          But after I am raised to life, I will go to Galilee ahead of you."
文語訳       されど我よみがえりて後、なんぢらに先だちてガリラヤに往かん
口語訳       しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤに行くであろう。
新改訳       しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ 行きます。
新共同訳    しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。

日本のキリスト教で「よみがえり」や「復活」と訳される言葉は、ギリシャ語、ラテン語、英語、ドイツ語の原意では「立ち上がる」、「起き上がる」という意味でニュアンスが異なる。キリスト教では、イエスは一度死に、生き返ったと解釈されているのだから当然とも言えるが、ギリシャ語からの翻訳に際して当てられた訳語の問題という観点から見れば、これも日本語的現象と言える。「立ち上がる」、「起き上がる」なら、単に横になっていた状態から起き上がったときにも使えるが、「復活する」は死後の甦りという意味にしか使えない。この訳語の選択はMP63c、MP65aで重要な意味をもつ。

ドイツ語の動詞「auferstehen」はauf-er-stehenに分解出来る。aufは「上に」、stehenは「立っている」、stehenに付いた接頭辞のer-は、状態を表す動詞に付いて、その状態の開始を意味する。従って、er-stehenは「立っている→立つ」となり、さらにauf-が付いて、「立ち上がる」となる。ドイツ語でも、現在は「イエスが復活する」という意味でしか使われず、通常は、「立ちあがる」は「er-」なしで「aufstehen」となる。しかし、バッハの時代に「イエスが復活する」の意味で「立ち上がる」が使われたことはそのままに訳語としても日本語に反映したほうがよい。

ギリシャ語、ラテン語で「〜の後で」となっているが、決定版を含むドイツ語聖書とバッハテキストは「wenn(〜する時には、もし〜するなら)」となっている。ルタ−はなぜ「Wenn 〜, 」として、「Nachdem 〜, 」とはしなかったのか?しかし、現代版でも「Wenn→Nachdem」の訂正、変更はせず、「立ち上がる」の動詞を現在完了形(auferstanden bin)にしている。ウルガータも「postquam(〜の後で)」としており、それを参考にしたのなら「Nachdem」で良いはずである。筆者が見た限りの全ての英訳聖書が「after〜、(〜後で)」と訳している(注)。

バッハが、もしウルガータとルター訳聖書の両方を読み比べていたら、ルター訳ではイエスの「復活」がなかったと解釈しうるというヒントを得たのかもしれない。いずれにしても、MP63c〜MP65aで、ルタ−訳マタイ伝からの重要な変更を行って「復活」を否定する伏線にもなっているので、ここで「Wenn〜」を「〜後で」と訳すべきではない。カール・バルトも、バッハが「復活を否定している」ことを批判している。「ガリラヤに行く」はイエスの意志を示す「will」が使われており、訳出されるべきである。

(注)ただし、フランス語訳聖書(Nouvelle edition révisée 1997)では、ドイツ語訳聖書と同様に「quand〜(〜する時には、もし〜するなら)」となっているので、ラテン系、ゲルマン系という問題でもない。


17. MP16:2-4
D   バッハ  Wenn sie auch alle sich an dir ärgerten, so will ich doch mich nimmermehr ärgern.
   直訳   たとえ、彼ら全員があなたに腹を立てても、私が腹を立てる事は決してありません。

   英語版    Tho' all men be offended because of Thee, yet will I, Lord, be never offended.
   ZPA       Although the others all be annoyed because of thee, yet will I myself not ever feel annoyance. 
   YS文語   たとえみなは汝に躓くとも、われは断じて躓かじ。
   YS口語   たとえみんながあなたに躓くことになっても、この私は断じて躓きはしません。。
   TM        たとえ、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。
   HK        たとえ、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。
   RH         たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。
   TI           たとえ皆があなたにつまずいても、私はけっしてつまずきますまい。
   KT          たとえすべての者があなたに躓こうとも、私は決して躓くことはありません。

マタイ伝26:33
ギリシャ語 もし、皆があなたに躓かされても、私は決して躓きません。

                      Ει           παντες   ακανδαλισθησονται  εν      σοι,           εγω    ουδεποτε      ακανδαλισθησομαι.
                       (1)もし  (2)皆が   (5)躓かされても        (4)に  (3)あなた  (6)私は (7)決して−   (7)−躓かない

ラテン語      そして、もし、全ての人があなたに不品行に落とされたとしても、私は決して不品行には走りません。

           et         si      omnes        scandalizati  fuerint              in      te            ego       numquam      
                       (1)そして (2)もし (3)全ての人が  (6)不品行に落と (7)されたとしても   (5)に  (4)あなたに  (8)私は   (9,11)決して〜ない
                           scandalizabor
                                (10)不品行には走ら

決定版  Wenn sie auch alle sich an dir ergerten / So wil ich doch mich nimer mehr ergern.
カロフ版   Wenn sie auch alle sich an dir ärgerten / so wil ich doch mich nimmermehr ärgern.
現代版      Wenn sie auch alle Ärgernis nehmen, so will ich doch niemals Ärgernis nehmen an dir.
RDV        Although all shall be scandalized in thee, I will never be scandalized.
KJV         Though all men shall be offended because of thee, yet will I never be offended.
RSV        Though they all fall away because of you, I will never fall away.
TEV         I will never leave you, even though all the rest do!"
文語訳      假(たとひ)みな汝に就(つ)きて躓くとも我はいつまでも躓かじ
新改訳      たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。
口語訳      たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。
新共同訳   たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。

ギリシャ語の「σκανδαλιζω」にあたる訳語は、ここでもドイツ語は「ärgerten(現代版ではärgern、腹を立てる、)」に統一されているが、15. MP14:4-6(マタイ伝26:31)と同様に英語訳ではばらばらである。日本語訳では対訳も聖書も「つまずく」という日本キリスト教の隠語に統一されている。英語訳がこれほどにばらばらなのに、ドイツ語、日本語訳が統一しているというのは、奇妙な現象である。この言葉には、イエスの筆頭弟子であると自負するペテロの優越感がにじみ出ており、それが「つまずく」では抽象的過ぎるし、バッハテキストの解釈としては適切ではない。第一部のMP28曲でペテロを含む全ての弟子がイエスを見捨てて逃げたとされ、つぎの終曲で弟子たちが散り散りに逃げ惑うさまを、通奏低音、器楽部、声楽部の間でバラバラなリズムとして表現して、ペテロの偽善性を強調するバッハの意図が、「つまずく」では見えて来にくい。バッハが「ärgerten」で感じたであろう「腹立ち」を訳出すべきである。


18. MP24:1-3
A  バッハ   Und er kam zu seinen Jüngern und fand sie schlafend und sprach zu ihnen:
  直訳   そして、彼は弟子たちの所に来て彼らが眠っているのを見て、そして彼らに言った。

   英語版   Now He came to His disciples and found them sleeping and saith to Peter:
   ZPA      And he came to his disciples and found them sleeping and said unto them: 
   YS文語  弟子たちのもとに来たり、その眠れるを見て、これにいいたもう、
   YS口語  そして弟子たちのところに来て、彼らが眠っているのを見ると、これに言われた。
   TM       それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた。
   K·M      それから弟子たちのところにきて、彼らが眠っているのをごらんになると、彼らに言われた。
   RH       それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。
   TI         イエスは弟子たちのところに戻り、彼らが眠っているのを見て[彼らに]言った。
   KT        そして彼が弟子たちのところに来てみると、彼らは眠っていた。そこで彼らに言った。

マタイ伝26:40
ギリシャ語 そして、弟子らのところに彼は来て、そして、彼らが眠っているのを見つけて、そして、彼は
       ペテロに言う。

                  και           ερχεται        προς  τους      μαθητας     και          ευρισκει    αυτους    καθευδοντας,         και           
                    (1)そして   (4)彼は来る  (3)ところに  (2)弟子らの  (5)そして (8)見出す  (6)彼らが  (7)眠っているのを  (9)そして  
	  λεγει       τω   Πετρω
                          (11)彼は言う  (10)ペテロに

ラテン語    そして、弟子らのところに彼は来て、そして、そこで彼らが眠っているのを見つけて、そして、彼は
                     ペテロに言う。

          Et       venit       ad         discipulos  et       invenit          eos       dormientes                       
                  (1)そして (4)彼は来る (3)ところに  (2)弟子らの   (5)そして  (8)彼は見つける (6)そこで  (7)彼らが眠っているのを
                       et          dicit            Petro
                           (9)そして   (11)彼は言う    (10)ペテロに

決定版      Vnd er kam zu seinen Jüngern vnd fand sie schlaffend / vnd sprach zu Petro.
カロフ版   Und er kam zu seinen Jüngern / un(d) fand sie schlaffend / und sprach zu Petro:
現代版      Und er kam zu seinen Jüngern und fand sie schlafend und sprach zu Petrus:
RDV        And he cometh to his disciples, and findeth them asleep, and he saith to Peter:
KJV         And he cometh unto the disciples, and findth them asleep, and saith unto Peter,
RSV        And he came to the disciples and found them sleeping; and he said to Peter, 
TEV        Then he returned to the three disciples and found them asleep; and he said to Peter, 
文語訳     弟子たちの許にきたり、その眠れるを見てペテロに言い給ふ
口語訳     それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた。
新改訳       それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。
新共同訳  それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペテロに言われた。

ここは、すでに何度も触れたように、《マタイ受難曲》でバッハによる聖句の書き換えが行われたもっとも重要な箇所の一つである。神学者、あるいは熱心なキリスト教信者であればすぐに気づく、バッハの異端性が顕著に表現されている箇所である。念の為にフランス語、ロシア語、スペイン語訳の聖書も調べたが、ここで「彼らに言った」と訳している聖書はない。全ての聖書は「ペテロに言った」としている。ここで、「彼ら」とは、12使徒のうちゲッセマネの園までイエスに同道したペテロとゼベダイの二人の息子ヤコブとヨハネ(ヨハネ伝の著者ではない)の計3人である。
この福音書からの逸脱は単純、明解であり、その異端性は明らかである。もし、そのままに演奏されたのなら、受難曲演奏禁止処分が出ても当然である。教会の権威を象徴するペテロを否定するというきわめて挑発的な主張である(注)。ここで、「zu ihnen(彼らに)」を訳出しないのは、これがバッハの誤記であると判断しているとしか思えないが、もしそうであれば、その根拠を示すべきである。それなしに「ペテロに」と訂正したり、三人称複数形代名詞を無視して訳すことはバッハの思想を改竄しているに等しい。
ここは初稿譜(1729)から筆写されたアルトニコルの稿ではルタ−訳のとおりに「zu Petro」となっている。普通は考えられない書き換えなので、アルトニコルが勝手に訂正した可能性も否定できないが、おそらく、バッハをして教会の権威を否定させる何らかの事件が、《マタイ受難曲》の初演(1727/1729)後から浄書譜(1736)の間に起こったと筆者は推察する(次章で後述)。「zu Petro」も「zu ihnen」も音節数に違いがないことから、音楽技術的な理由は考えられない。これほどに重要な固有名詞を複数形代名詞に誤写したというなら、バッハは非常に杜撰な仕事をしていたと言わざるをえない。しかし、その解釈ではMP28の「zog sein Schwert aus und」の5つの単語に及ぶ削除(23項参照)も同じように説明しなければならない。どちらも筆頭弟子とされた聖ペテロの優位性を否定する意味を持っており、偶然にしてはあまりにも整合的一致である。このことからも、これらの逸脱が偶然の転記ミスとは考えられない。

(注)宗教改革以前のローマ教会の正当性はルターも認めていた。


19. MP24:9-11

A  バッハ    Zum andernmal ging er [aber] hin, betete und sprach:
   直訳   彼は[さらに]もう一度(弟子達から)離れて行き、祈って言った。

   英語版      He went away once again, praying, thus He said:
   ZPA       A second time he went off, prayed and said: 
   YS文語   ふたたび[離れて]行き、祈りて言いたもう、
   YS口語   再度イエスは出ていって、祈って言った、
   TM        また二度目に[離れて]行って、祈って言われた。
   K·M       また二度目に[離れて]行って、祈って言われた。
   RH        更に、二度目に向こうへ行って祈られた。
   TI          イエスはもう一度出てゆき、祈って言った。
   KT         また再び出て行って、祈った、

マタイ伝26:42
  ギリシャ語 またふたたび離れて行き、彼は祈って言った

                   παλιν   εκ       δευτερου      απελθων    προσηυξατο      λεγων,
                          (1)また  (3)-   (2)ふたたび   (4)行って   (5)彼は祈った   (6)言うのには

  ラテン語  再び、二度目に立ち去った、そして語りつつ懇願した

      Iterum   secundo   abiit           et        oravit        dicens
                   (1)再び    (2)二度目に   (3)立ち去った  (4)そして (5)懇願した   (4)語りつつ

  決定版       Zvm andern mal gieng er aber hin / betete / vnd sprach
  カロフ版  Zum andernmal gieng er aber hin / betete / und sprach:
  現代版       Zum zweiten Mal ging er wieder hin, betete und sprach:
  DRB         Again the second time, he went and prayed, saying:
  KJV          He went away again the second time, and prayed, saying,
  RSV         Again, for the second time, he went away and prayed,
  TEV         Once more Jesus went away and prayed,
  文語訳      また二度(ふたたび)ゆき祈りて言ひ給ふ
  口語訳      また二度目に行って、祈って言われた、
  新改訳      イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。
  新共同訳   更に、二度目に向こうに行って祈られた。

決定版、カロフ版にある副詞の「aber」 (強調)がバッハのテキストでは削除されている。現代版では「wieder(再び)」になっている。ギリシャ語の「εκ δευτερου」は「二度目に、再び」の意味で、「παλιν (また)」と同義であり、繰り返すことにより意味を強める。ラテン語では「iterum」という「再び」とも「それに反し」ともとれる語があてられているので、「aber」に近い。ウルガータからの重訳であればルターが「aber」と訳したのも理解できる。しかし、ここでの意味としては「再び」なので、現代版はここを「aber」から「wieder」に修正したのであろう。《マタイ受難曲》の歌詞でこの「aber」が削除されているのがバッハの意志によるのか、それともバッハが用いた底本によるのか、筆者には特定できなかった。デュルはこの「aber」の削除をリストしていないので、彼が見落としたのでなければ、カロフ聖書以外の5種類の聖書(ニュールンベルグ版など)で削除されていた可能性がある。本稿でとりあげた聖書ではTEVと新改訳をのぞいて、全てが両方の「また」、「ふたたび」を訳出している。

一方でこの「aber」削除がバッハの意図であるとすれば、それによって、二度目の祈り(ロ短調)が、一度目の祈り(ト短調)の単純な繰り返しではなく、別の祈りであるという意味を込めているのかもしれない。

ゲッセマネの園で、弟子達が戸外でイエスを待ちながら、居眠りしていたのか、屋内だったのかは、筆者にはわからないので「hingehen」を「外へ行く」「出て行く」とは訳さなかった。ギリシャ語では、弟子達のいる場所から「離れて行く」というニュアンス。

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