(7) MP50d

40. MP50d
B  バッハ    Sein Blut komme über uns und [über] unsre Kinder.
    直訳       彼の血が私たち[の上]と私たちの子らの上に来る[注がれる]。

   英語版     His blood be on all of us and on our children.
   ZPA        His blood come upon us then and on our children. 
   YS文語   その血は、われら[の上]とわれらの子孫[の上と]に帰すべし。
   YS口語   その血は、われら[の上]とわれらの子孫の上に。
   TM         その血の責任は、我々[の上]と我々の子孫の上にかかってもよい。
   K·M        その血の責任は、われら[の上]とわれらの子孫の上にかかってもよい。
   RH         その血の責任は、我々[の上]と子孫[の上]にある。
   TI           その血が私たち[の上]と子孫[の上]を襲うように。
   KT         その血の責任は我ら[の上]と我らの子孫[の上]にかかればよい。

マタイ伝27:25
ギリシャ語   彼の血は私たちの上に、そして私たちの子らの上に[来る]

                  Το αιμα   αυτου  εφ          ημας       και           επι τα    τεκνα        ημων.
                      (2)血は   (1)彼の (4)上に  (3)私達の  (5)そして (8)上に  (7)子らの   (6)私達の

ラテン語     彼の血は私たちの上に、そして私たちの子らの上に[来る]

                 sanguis  eius    super   nos       et          super  filios      nostros
                 (2)血は     (1)彼の   (4)上に   (3)私達の  (5)そして  (8)上に   (7)子らの   (6)私達の

決定版        Sein Blut kome vber vns vnd vber vnser Kinder.
カロフ版   Sein Blut komme uber uns und uber unser Kinder.
現代版    Sein Blut komme über uns und [über] unsre Kinder!
DRB     His blood be upon us and upon our children.
KJV      His blood be on us, and on our children.
RSV     His blood be on us and on our children!
TEV     Let the responsibility for his death fall on us and on our children!
文語訳      その血は、我ら[の上]と我らの子孫 [の上に] とに帰すべし
口語訳      その血の責任は、われわれ[の上]とわれわれの子孫の上にかかってもよい。
新改訳      その人の血は、私たち[の上]や子どもたちの上にかかってもいい。
新共同訳    その血の責任は、我々[の上]と子孫に[の上に]ある。

ユダヤ人群衆がピラトに返すこの聖句は、一般にはTEVや日本語訳聖書にあるように、ユダヤ人たちが「イエスの死については自分たちに責任があり、子孫にいたるまで彼の呪いを受けてもよい」と認めたと理解される。その場合は、「彼の血」とは、イエスの死体から流れ落ちる処刑の血であり、呪いの血である。言い換えると、この言葉は、群衆にとっては返り血を浴びる覚悟であり、同時に彼らの子孫が呪われることを認める覚悟でもある。この解釈は、マタイ伝が、キリスト教への改宗を拒否したユダヤ人たちへの最後通牒として書かれたという伝承と一致する。

フランス語訳聖書では、この節の意味はさらに明瞭である。「Que les conséquences de sa mort retombent sur nous et sur nos enfants!(彼の死がもたらす結果[複数]が我らの上と、そして我らの子孫の上に落ちてくるのだ!)」となり、この中には「イエスの血」に相当する語はなく、その部分が「les conséquences de sa mort(彼の死がもたらす結果)」と訳され、日本語聖書の「責任」に近い訳がされている。しかし、すでに紹介したように「イエスの血」には、イエスを子羊に譬えたうえで、過越の故事に由来する救済の血という意味があり、この場面で「Sein Blut(彼の血)」が呪いの血を意味するのか、救済の血を意味するのかは自明ではない。ルター訳はこの点で曖昧さを残す。ギリシャ語でもそれは定かではなく、両義的に解釈できないこともない。ウルガータも同様だが、ギリシャ語、ラテン語には「彼の血が我らの上と、我らの子孫の上に」とだけ書かれていて動詞がない。

ドイツ語に訳すときに、ルターはギリシャ語にも、ラテン語にもない動詞(komme)を補った。これについて、マリセンはSteigerの見解を紹介している。「komme」や「be」の動詞を補うことは間違いではないが、これらの動詞を挿入するとイエスへの憎悪と呪い(自己呪縛、self-curse)が意味上強くなると言う。しかし、この解釈には疑問がある。「kommen über」は、フランス語の「retomber sur」とは違って、それ自身は中立的であり、両義的である。その点で、ルター訳はギリシャ語、ラテン語の聖書と同様であり、かならずしも「呪い」を強調することにはならない。

フランス語の「retomber sur」は「〜の上に非難が降り掛かる」、「災難が襲う」、「責任を帰す」など負の意味にしか使えないが、「kommen über」は「das Unglück kam über uns」と使われると、「不幸が我らを襲う」と負の意味になり、「ein Friede kam über uns」と使われると、「我らに平和が訪れる」と正の意味になる。したがって、Steigerが解説しているという、「komme」を加えたからといって、必然的に憎悪や呪いの意味が強調されるとは限らない。

これと関連して、このバッハテキストには、ルター訳聖書からの重要な逸脱がある。ギリシャ語では、「〜の上に」に当たる前置詞が「我ら」と「我らの子孫」の前に独立して二度置かれており、決定版、カロフ版もそうなっている。これは、おそらくエラスムス版からの異文ではない。なぜならルター訳だけでなく、バッハ以前にエラスムス版から訳されたウルガータのラテン語訳やKJVの英訳でも、この前置詞は二回現れるからである。しかし、バッハテキストではなぜか「über」は一度になっている。これが、二度ある場合と、一度しかない場合の意味上の違いは動詞の有無よりも分かりやすい。ロ短調仮説によれば、ロ短調で書かれたこのMP50dを歌う主体にはイエスの愛が注がれる。この仮説が正しければ、ここはバッハにとって重要な楽曲であったはずである。その楽曲で、バッハは前置詞の「über」を一つにしたのである。

血が「我ら」と「我らの子孫」に、それぞれ独立してかかれば、具体的、生物学的なイメージを思い浮かべるが、「我らと我らの子孫」を一つのくくりとして考えると、それは抽象的に「すべての人々」、「人類」を意味しうるので、象徴的な血を連想する。そのときの「血」は概念的な抽象名詞である。つまり、アダムとイブ以来の人類が負ってきた原罪ゆえに、生まれながらに罪人となったすべての人々ために流される神の子羊(=イエス)の血である。

ここの「uns(我らに)」を、ユダヤ人たちと狭く解釈するか、人類全体の「我ら」と考えるかで意味は大きく変わる。「我らと我らの子孫の上に」を「我らすべての罪人の上に」と解釈すると、バッハが《マタイ受難曲》の多くの楽曲で、イエスを裏切ったユダとユダヤ人たちと「私たち」を重ねていることにつながる(MP10、MP19、MP37、MP63b、MP64など)。「我らの上と我らの子孫の上に」と「上に」が二度繰り返されると、「我ら」がこの受難物語に登場する具体的なユダヤ人たちという意味を色濃くする。「über」を一つにしたのは、我ら「すべての人々」、「全人類」という抽象概念にするためではないかという仮説が得られる。

では、この「über」の統一が、バッハの意図的な変更であると結論していいのだろうか。本稿では、バッハが不注意に聖書の写し間違いをしたという立場はとらない。したがって、ルター訳聖書とバッハテキストの間にある不一致は、バッハの意識的な変更であるという仮定を前提に議論を進めている。しかし、この「über」問題については、簡単には結論できない。

本稿の立場でも、バッハの意識的な変更であるとは断定できないのである。なぜなら、この変更はデュルの報告にリストされていないからである。言い換えると、私が確認できていないハース版やニュルンベルグ版のルター訳聖書で「über」の一つがすでに欠落していた可能性がある(7章2節参照)。しかも、現代ドイツ語訳聖書(現代版)でも、この「über」は、バッハテキストと同様に一度しか出て来ない。ナチのホロコースト計画に抵抗しなかった責任をドイツプロテスタントが反省していると言っても、現代版の訳者がルター訳決定版や、ギリシャ語正本に反してまで、バッハテキストを採用したとは考えられない。すでに、カロフ版以後の上記のルター訳聖書で「über」の一つが欠落していて、それを踏襲したのかもしれない。しかし、たとえそうであっても、一字一句ギリシャ語正文にこだわり翻訳された筈の現代語訳聖書としては信じられない変更である。ギリシャ語とは起源が異なる日本語ならともかく、ギリシャ語と同じ印欧祖語に起源を持つドイツ語であれば、忠実な翻訳は比較的に用意なはずである。現に、英訳、仏訳、ルター訳の各聖書ではすべて、「〜の上に」に相当する前置詞はギリシャ語聖書の正本の通りに二度繰り返されている。現代ドイツ語では、「uber」の繰り返しには不自然さがあるのだろうか。それとも、日本語と同様に、文章的な美しさが優先されたのかもしれない。全ての日本語聖書では「〜の上に」がまったくないか、あっても一度だけである。

しかし、デュルが報告していない理由は、たんに「über」の使われた回数まで意識せず、見落とされた可能性がなくもない。なぜなら、十字架上でイエスが最期に言った言葉で「lama」が二度繰り返されたこともデュルは報告していないからである。こちらのほうは、私が見た限りのすべての聖書(上記以外にロシア語、スペイン語を含む)で、「lama」が二度繰り返された例はない。バッハテキストが不注意な転記ミスを含むと言う先入観を持ってルター訳と比べたのなら、その可能性はさらに大きくなる。要するに、この文脈で「uber」が一度だろうと、二度だろうと意味は変わらないと思ったということである。なにしろ、デュル校訂の《マタイ受難曲》の総譜では「zu ihnen」が「to Peter」に英訳されたくらいであるから、一字一句の異同が慎重に検証され、ありうる意味上の違いが検討されていないということなのだろう。

英語訳聖書と英語対訳は、すべてが正文に合わせて、「on(またはupon)」を二度繰り返し、イエスの死に関わった当人たちだけではなく、その子孫までが呪われるという意味で、それぞれが独立に強調されている。まさに、殺神(さつじん、deucide)の罪が、未来永劫に続くことをユダヤ教徒に知らしめるために書かれた最後通牒であるという解釈を正当化している。

バッハが、「イエスの血」を、ここで「呪いの血」と理解したか、「救済の血」と理解していたかを、何らかの方法で検証することはできないだろうか。たとえば、《マタイ受難曲》開曲のソプラノリピエーノがイエスを「Lamm Gottes(神の小羊)」と呼ぶこと、過越祭の意味でOsterlammが使われたが(MP9b)、この「-lamm」は出エジプト記にあるオスの子羊を殺してその血を玄関に塗ると災いを免れるという故事に由来する事などは、バッハなら当然、知っていたはずである。そうであれば、一般論としては「犠牲の小羊(=イエス)の血」が「救済の血」を意味することを、バッハが知らなかったはずはない。しかし、どのようにしてそれを証明できるだろうか。

この聖句を、バッハテキスト、決定版、カロフ版、現代版と逐語的に比較してみる。

バッハ (1736)       Sein   Blut   komme   über     uns    und                    unsre     Kinder. 
決定版 (1545)       Sein   Blut   kome      vber      vns    vnd         vber     vnser     Kinder.
カロフ版 (1681)    Sein   Blut   komme   uber     uns    und        uber     unser     Kinder.
現代版 (1984)       Sein   Blut   komme   über     uns    und                    unsre     Kinder!
逐語訳                        彼の    血が    来る           の上に   我ら    そして       の上に    我らの      子ら
訳1                           彼の血が、我らと我らの子らの上に注がれる
訳2                           彼の血が、我らの上と、そして我らの子らの上にふりかかる

訳1では、「我らと我らの子孫」がすべての人々を意味し、「彼の血」が「救済の血」の意味で象徴的に使われたとして意訳した。「über」が二度繰り返されると、訳2のように「我らの上」と「我らの子らの上」に「彼の血」が別々にかかるので具体的な「血」、あるいは「血の責任」を意味するとして訳した。

ただし、これがバッハによって意図的になされた聖句の変更であるとは簡単に結論できない。上に述べたようにデュルはここを聖書からの逸脱とはしていないのである。つまり、筆者が確認できていないハース版、ニュルンベルグ版聖書で、すでに「über」の一つが削除されていた可能性がある。バッハは、意識せずそれを使っただけなのかもしれない。

では、次に、バッハは《マタイ受難曲》の他の楽曲で「Blut」をどのような意味で使っているのかを見てみたい。Blutは第一部で4回、第二部で8回出てくる。

(1)MP8                     Blute nur, du liebes Herz!
 アリア                     血こそいでよ、あなたの愛しい心(ハート)よ。

(2)MP11               das ist mein Blut des neuen Testaments, welches vergossen wird für viele zur
 レチタティーボ            Vergebung der Sünden.
                                    これは、多くの人のため、罪々の赦しに注がれる新しい遺言の、私の血です。

(3)MP12     Sein Fleisch und Blut, o Kostbarkeit, vermacht er mir in meine Hände.
 レチタティーボ     彼の肉と血と、おぉ何と高価なものを、彼は私に、私の 手の中に遺してくれた。
 アコンパニャート			
(4)MP27b             den falschen Verräter, das mördrische Blut
 合唱                         偽りの密告者、殺人者を。(ここでは、Blutは血→生命→人と意味が転じ、血を意味しない)

(5)MP41a              ich unschuldig Blut verraten habe.
 レチタティーボ      私は無実の人を密告した((4)と同様)

(6)MP41c              denn es ist Blutgeld
 レチタティーボ      なぜなら、それは血の報酬なのだから。

(7)MP43                Daher ist derselbige Acker genennet der Blutacker
 レチタティーボ              bis auf den heutigen Tag.
                             だから、その畑は今日の日に至るまで血の畑と呼ばれているものと同じものです。

(8)MP50c               Ich bin unschuldig an dem Blut dieses Gerechten,
 レチタティーボ      この正しい人の血について私には責任がない。

(9)MP50d              Sein Blut komme über uns und unsre Kinder.
 合唱                          彼の血は我らと我らの子らにそそがれる。

(10)MP52              wenn die Wunden milde bluten, auch die Opferschale sein!
 アリア                         もしその傷が惜しみ無く血を流すなら、生け贄の血を受ける鉢とせよ。

(11)MP54              O Haupt voll Blut und Wunden,
 コラール                   おぉ、血と傷にまみれた頭(こうべ)よ。

(12)MP56              Ja freilich will in uns das Fleisch und Blut zum Kreuz gezwungen sein;
 レチタティーボ       そうです、明かに私たちの中の肉体と血こそが十字架を強いられ るべきなのです。
 アコンパニャート		

これらをみると、「Blut」が「呪い」や「憎悪」の意味で使われているあきらかな例はない。あえて挙げれば、(6)、(7) 、(8)、 (9) だろうが、それらは、独立した単語でなかったり、固有名詞であったり、両義的であったりする。冒頭の開曲で「Lamm Gottes(神の小羊)」としてのイエスの死が繰り返し歌われており、MP50dのあとに出てくるMP52では、「イエスの血」が「生贄の血」であると表現し、聞くものに救済の血としてのイエスの血が強く印象づけられている。その血は「救済の血」であり、私たちが「受けるべき血」であるとされる。バッハはMP50dで「über」の一つを削除することによって、MP52の伏線としたという解釈もできる。そうであれば「我らと我らの子ら」は、「すべての人々」を意味することになる。この解釈は、ロ短調仮説と矛盾しない。この曲が美しいロ短調で書かれ、二長調に転調して終わることとまさに符号する。しかし、 これは推論の域をでていない。

筆者としては、世のバッハ学者が、ここで「über」の一つが削除されていることをなぜデュルがリストしなかったかを明らかにすることを期待したい。少なくとも言えることは、聖句の一字一句にこだわっていたはずのバッハであれば、少なくとも私蔵したカロフ版のマタイ伝27:25で「über」が二度使われていたことを知っていたはずである。だとすれば、たとえハース版(1707)やニュルンベルグ版(1716,1720,1725,1733)のいずれかで「über」の一つが落ちていたとしても、どちらを採用するかはバッハの裁量であったはずだ。もし、聖書学者でこの稿を読まれた方がいれば、上記の版で実際に「über」がいくつあるかをご教示いただければ幸いである。さらに、もう一つの謎は、なぜ現代ドイツ語訳聖書がバッハテキストに合わせたかのように「über」の一つを削除しているかである。正文批判の成果を踏まえて、ルター訳を修正したはずの現代ドイツ語訳聖書がルター訳決定版でさえギリシャ語に従っているのに、このような変更をする理由は理解できない。


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