(9)MP58a:21-22,MP58e:64-65,MP61a:1-3,MP61a:5-6,MP61a:7-9,MP61c:16-20, MP61d:22-24,
         MP63a:14-18, MP63c:21-25


50. MP58a:21-22
D  バッハ  Und da wurden zween Mörder mit ihm gekreuziget,
    直訳   そして、そこでは彼と共に二人の殺人犯が十字架につけられていた。

   英語版    There were also two thieves who with Him were crucified,
   ZPA      And with him were two muderers also crucified, 
   YS文語  ここにイエスと共に二人の強殺者、十字架につけられ、
   YS口語  またイエスと共に、強盗殺人の罪に問われた二人の者も十字架にかけられた、
   TM        同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、.......、十字架につけられた。
   K·M       イエスと共に2人の人殺しが、.......、十字架につけられた。
   RH        折から、イエスと一緒に二人の強盗が、.......、十字架につけられていた。
   TI         さらに二人の人殺しがいっしょに十字架につけられた。
   KT        また二人の殺人犯が彼とともに十字架につけられた。

マタイ伝27:38
ギリシャ語  その時、彼といっしょに二人の強盗が十字架につけられる

                  Τοτε         σταυρουνται             συν       αυτω    δυο           λησται,
                             (1)その時  (6)十字架につけられる  (3)共に  (2)彼と  (4)二人の  (5)強盗(複)が

ラテン語  その時、彼といっしょに二人の強盗が十字架につけられる

      Tunc     crucifixi       sunt      cum   eo     duo       latrones
                      (1)その時 (6)十字架につけ (7)られる (5)共に (4)彼と (2)二人の (3)強盗(複)が

決定版         Vnd da wurden zween Mörder mit jm gecreuziget
カロフ版  Und da wurden zween Mäuder mit ihm gecreuziget
現代版   Und da wurden zwei Räuber mit ihm gekreuzigt,
DRB    Then were crucified with him two thieves:
KJV            Then were there two thieves crucified with him;
RSV           Then two robbers were crucified with him,
TEV           Then they crucified two bandits with Jesus,
文語訳        ここにイエスとともに二人の強盗、十字架につけられ、
口語訳        同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、.....、十字架につけられた。
新改訳        そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、.....、十字架につけられた。
新共同訳     折から、イエスと一緒に二人の強盗が、.....、十字架につけられていた。

決定版、カロフ版以外の全ての聖書が「強盗、泥棒、盗賊(Räuber、robbers、thieves、bandits)」などとしている。フランス語聖書でも「les brigands(盗賊)」となっている。しかし、なぜかルターは「Mörder(人殺し)」と訳しており、バッハはそれに従っている。ここをどう訳しているかは、訳者とバッハの距離を測るバロメーターになっているようにも思えるが、必ずしも一貫していない。


51. MP58e:64-65
D  バッハ    Desgleichen schmäheten ihn auch die Mörder, die mit ihm gekreiziget waren.
    直訳       彼とともに十字架につけられていた殺人犯たちもまた、同様に彼をののしる。

   英語版     The two thieves also which with Him were crucified, likewise cast the same in His teeth.
   	ZPA       In like wise did the murderers also mock him, who with him had been crucified.
   YS文語    共に十字架につけられたる強殺者どもも、同じくイエスを罵れり。
   YS口語  同じく、イエスと共に十字架にかけられた強盗殺人犯たちも、彼をののしった。
   TM         一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスを罵った。
   K·M        一緒に十字架につけられた人殺しどもまでも、同じようにイエスをののしった。
   RH         一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
   TI           同じように、人殺したちもイエスをののしった。彼らは、イエスといっしょに十字架につけられたもの
                     である。
b  KT         殺人犯どももイエスをののしった、一緒に十字架につけられた殺人犯がである。

マタイ伝27:44
ギリシャ語 また、彼と共に十字架につけられた強盗らも同じように彼をそしっていた

	 το δ          αυτο               και  οι    λησται  οι   συσταυρωθεντες       συν 
	  (1)また  (7)同じように (6)も      (5)強盗ら      (4)十字架につけられた   (3)共に 
                               αυτω     ωνειδιζον          αυτου.
                            (2)彼と  (9)そしっていた   (8)彼を

ラテン語  すると、また同じように、彼と共に(十字架に)つけられていた強盗らも同じように彼をののしった

	Id    ipsum      autem     et      latrones   qui            fixi
                        (2)また  (3)同じように   (1)すると      (10)も (9)強盗ら      (8)ところの   (6)[十字架に]つけられて
           errant cum  eo    inproperabant    ei
	   (7) いた   (5)共に   (4)彼と    (12)ののしった       (11)彼を

決定版      Desgleichen schmeheten jn auch die Mörder die mit jm gecreuziget waren.
カロフ版    Deß gleichen schmäheten ihn auch die Mörder / die mit ihm gecreuziget waren
現代版      Desgleichen schmähten ihn auch die Räuber, die mit ihm gekreuzigt waren.
DRB         And the selfsame thing the thieves also, that were crucified with him, reproached him with. 
KJV         The thieves also, which were crucified with him, cast the same in his teeth..
RSV        And the robbers who were crucified with him also reviled him in the same way.
TEV         Even the bandits who had been crucified with him insulted him in the same way.
文語訳      ともに十字架につけられたる強盗どもも、同じ事をもてイエスを罵れり。
口語訳      一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
新改訳      イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
新共同訳    一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

前項と同様。

52. MP61a:1-3
D  バッハ    Und von der sechsten Stunde an war eine Finsternis über das ganze Land bis zu der neunten Stunde. 
    直訳       そして、第6の時(午後0時)から第9の時(午後3時)に至るまで、暗闇が全土を覆った。

   英語版   Now from the sixth hour onward through the land a darkness came spreading o'er all the land,
                         yea even to the ninth hour.
   ZPA      And from the sixth hour on there was a darkness over all the land until the ninth hour.
   YS文語  昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。
  YS口語   昼の十二時[第VIの刻]から闇が地の全体を覆って、三時[第IXの刻]にまで及んだ。
   TM       さて、昼の十二時(第六時)から地上の全面が暗くなって、三時(第九時)に及んだ。
   K·M      さて、昼の12時から地上の全面が暗くなって、3時におよんだ。
   RH       さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
   TI         さて、昼の12時に闇が全地を覆い、それが3時まで続いた。
   KT        第六時(昼の12時)から、暗闇が全地を覆い、第九時にいたった。

マタイ伝27:45
ギリシャ語 そして、第6の時から第9の時まで、すべての地上が闇になった

                   Απο      δε            εκτης       ωρας   σκοτος    εγενετο επι    πασαν την             γην     εως       ωρας   ενατης.
	(4)から  (1)そして  (2)第六の  (3)時    (11)闇に   (12)なった  (10)上が   (8)すべての  (9)地  (7)まで  (6)時    (5)第九の
                               
                                  

ラテン語  そして、第6の時から第9の時まで、すべての地上が闇になった

                 A        sexta     autem   hora  tenebrae   factae  sunt super  universam  terram  usue  
                    (4)から  (2)第六の   (1)そして  (3)時   (12)闇に   (13)なった       (11)上は  (9)すべての    (10)地     (8)まで
                      ad     horam  nonam
                          (7)に   (6)時       (5)第九の

決定版    Vnd von der sechsten stunde an ward ein Finsternis vber das gantze Land bis zu der neunden
                   stunde. 
カロフ版 Und von der sechsten Stunde an ward eine Finsterniß uber das ganze Land bis zu der
                   neundten Stunde. 
現代版  Und von der sechsten Stunde an kam eine Finsternis über das ganze Land bis zur der neunten
                   Stunde. 
DRB       Now form the sixth hour there was daukness over the whole earth, until the ninth hour.
KJV        Now from the sixth hour there was darkness over all the land unto the ninth hour.
RSV        Now from the sixth hour there was darkness over all the land until the ninth hour.
TEV        At noon the whole country was covered with darkness, which lasted for three hours.
文語訳     晝(ひる)の十二時より地の上(うへ)あまねく暗くなり手、三時に及ぶ。
口語訳     さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
新改訳     さて、12時から、全地が暗くなって、3時まで続いた。
新共同訳  さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

「第6の時(刻)」は現在の正午、「第9の時(刻)」は現在の午後3時にあたる。英訳、独訳聖書では原文のままである。ただし、一般的に大胆な意訳をするTEVはここでも、現代表示を使っており、日本語訳聖書も同様である。対訳でも、英語と日本語で、同様の傾向が見られる。

よく知られているように、聖書には3という数字が繰り返し現れる。3という数字には、何らかのメッセ−ジが込められているとも言われる。中世のユダヤ教神秘主義に基づく数象徴にこだわりを持っていたバッハがそれを意識していた可能性もある。イエスがゲッセマネに同伴した弟子の数が3人、イエスのゲッセマネの祈りが3度、ペテロはイエスを3度否定、「イエスが『壊した神殿を3日後に建て直す』と言った」という偽証、自分の復活についての、イエスによる予告が3度、ゴルゴダの丘に並んだ十字架が3柱、イエスと共に十字架にかけられた囚人が3度イエスをののしる、イエスは死後3日後に復活する、等々。この場面で、闇が3時間全土を覆ったというのは、旧約聖書の出エジプト記で神が3日に渡って闇で全土を覆ったということに対応する。

したがって、現代人に分かりやすくするためという理由で数字の変更や、換算はすべきではない。6→9では3時間を瞬時にイメージできるが、12→3では、「12」を「0」に一度換算しなければならない。とくに音楽芸術は時間の流れを伴う芸術であり、6→9と12→0→3では結果的には同じ答えになるが、詩的、感覚的な受容のしかたは異なる。聖書に親しみをもつ聴衆には、重要なことかもしれない。

53. MP61a:5-6
D  バッハ   die neunte Stunde
     直訳     第9の刻

   英語版   the ninth hour
   ZPA      the ninth hour
   YS文語  三時
   YS口語  三時
   TM       九時
  K·M       3時
   RH       三時
   TI         3時
   KT        第九時

マタイ伝27:46
ギリシャ語 第九の時

	ενατην	ωραν
	(5)第九の	(3)時

ラテン語   第九の時

	horam 	nonam
	(3)時	(5)第九の

決定版        die neunde stunde
カロフ版     die neundte stunde
現代版        die neunte Stunde
DRB          the ninth hour
KJV           the ninth hour
RSV          the ninth hour
TEV          three o'clock
文語訳       三時
口語訳       三時
新改訳       三時
新共同訳    三時

52と同様。TM対訳は一貫していない。

54. MP61a:7-9
A  バッハ     Eli, Eli, lama, lama asabtani?
  直訳         エリ、エリ、ラマ、ラマ アザプタニ?

   英語版     Eli, Eli, lama, lama sabachthani?
   ZPA        Eli, Eli, lama [lama] asabtani?
   YS文語    エリ、エリ、ラマ、[ラマ] アサブタニ?
   YS口語    エリ、エリ、ラマ、[ラマ] アサブタニ?
   TM         エリ、ラマ、[ラマ] サバクタニ
   K·M        エリ、エリ、レマ、[ラマ] サバクタニ
   RH         エリ、エリ、ラマ、[ラマ] アサブタニ
   TI           エリ、エリ、ラマ、[ラマ] アザプタニ!
   KT         エリ、エリ、ラマ、[ラマ] アザプタニ

マタイ伝27:46
ギリシャ語  	エリ	エリ	レマ	[レマ] サバクタニ

	Ηλι		ηλι	λεμα	σαβαχθανι;
	エリ	エリ	レマ	サバクタニ

ラテン語  	エリ	エリ	レマ	[レマ] サバクタニ

	Heli	Heli	lema	sabacthani
	エリ	エリ	レマ	サバクタニ

決定版        Eli Eli lama [lama] asabtani?
カロフ版     Eli / Eli / lama [lama] asabthani.
現代版        Eli, Eli, lama [lama] asabtani?
DRB          Eli, Eli, lama [lama] sabacthani?
KJV           E'lï E'lï, lä’mä [lä’mä] sä-bäch'thänï?
RSV          Eli, Eli, la'ma [lama] sa-bach-tha'ni?
TEV          Eli, Eli, lema [lama] sabachthani?
文語訳      エリ、エリ、レマ [レマ] サバクタニ
口語訳      エリ、エリ、レマ [レマ] サバクタニ
新改訳      エリ、エリ、レマ [レマ] サバクタニ
新共同訳   エリ、エリ、レマ [レマ] サバクタニ

この言葉は、聖書でも、古来、写本に異文が多いという。各国語に翻訳されたときも、さまざまに音写された。その単純な構造にも関わらず、ここで取り上げた対訳でも、疑問符、感嘆符を含めれば、完全に一致するものはない。

この言葉はもっとも古い福音書とされるマルコ伝に出てきて、そこではイエスの母語であるアラム語からギリシャ語への音写になっているが、マタイ伝ではヘブライ語への音写になっているという。

バッハもルターをそのままに踏襲はしていない。「lama(なぜ)」をイエスに二度繰り返させて、彼の苦悶を強調し、それをト短調で書く。イエスの人間性を強調しているのである(8章3節参照)。しかし、「lama」の繰り返しを忠実に再現しているのは、ここで取り上げたなかではデュル監修による英語版だけである。英語で歌うことを前提にした訳詞なので、バッハの思想を尊重したというより、音節数を合わせたにすぎないのかもしれない。しかし、オリジナルテキストの正確な「musical placement」にマッチさせるべく訳したというZPAも「lama」を一度しか使っていないので、出来るだけ原詞に忠実であろうとした可能性もある。しかし、「asabtani(私を見捨てる)」を「sabachthani」に訂正しているので、基本的には「バッハ(あるいはルター)の聖書学的な間違いは正す」という方針である。MP24:1-3で「ihnen」を「Petro」に訂正したのと同様である(9章4節)。とすれば、ここで「lama」が二度繰り返される事を、聖書学的な間違いとは認識していなかったということになる。その場合は、MP50dで「über」の一つが削除された(9章7節)ことも、デュルは聖書からの逸脱とは認識していなかったということか。

疑問符をなぜか感嘆符に変更しているものもあるが、決定版とカロフ版でも違うので、重要視されていない可能性もある。決定版は「?」があるが、カロフ版で「?」はない。現代版で「?」が復活する。文法的に日本語に「?」はないという立場から、日本語文章では一貫して「?」を使わないという方針もありうるが、《マタイ受難曲》歌詞の対訳としては、バッハテキストにある場合は、それに忠実であるべきだろう。

この「?」が持つ意味は重要である。十字架上のイエスは、この問いで神からの答えを期待していることを意味する。疑問符がなく終わり、あるいは代わりに「!」をつけて終わるのは、イエスは神(父)からの答えを期待していないことを意味する。聖書学的にどちらが正しいのかではなく、バッハがイエスに「lama」を二度繰り返させているという事実との関係において重要なのである。

「なぜ」を繰り返してイエスが神に問うことは、神への疑問(質問)の強調であると同時に、それはイエスの人間性の強調でもある。バッハは、イエスに対する人間的共感と感謝の念を聴衆にうったえているのである。これが、意図的なものではなく、偶然か音楽的技術上の問題であると解釈するのは間違いである。それは、シュッツとテレマンのマタイ受難曲と比較することで分かる。

バッハが《マタイ受難曲》を作曲するにあたり、参考にしたに違いないマタイ受難曲と言えば、シュッツとテレマンのそれがある。バロック初期のシュッツは、ここでイエスに「Eli」を聖書よりも多く、三度繰り返させているが、「lama」は聖書通りである。「我が神」を意味するこの言葉が多くなることは、イエスの神への依存度を強調する。バッハと同時代のテレマンのマタイ受難曲は、「Eli」も「lama」も聖書通りである。ここで「lama」をもう一度繰り返して、音節数をドイツ語訳と揃えるというアイデアは、シュッツの歌詞を見て得た可能性がある。異端性を非難されても、前例があるからと弁明できるからである。ここで2音節増やさないと、そのあとに続く、「Mein Gott, mein Gott, warum hast du mich verlassen?」と音節数(12回)があわないという弁明が可能である。そのためにシュッツは「Eli」をもう一度追加し、バッハは「lama」を追加した。そのうえで、この言葉をイエスにト短調で歌わせる。周到に準備された思想的音楽表現である。いずれにしても、バッハはシュッツやテレマンの選択を知ったうえで、あえてそれらを避けて、「lama」を二度繰り返すという聖書からの逸脱を選択した。
ここで「lama」を繰り返すことにはもう一つの重要な意味が隠されている。従来、マタイ伝などに書かれたこの言葉はキリスト教会を悩ませたと言われている。イエスが最期に神への恨み言を言ったというのは三位一体説にとってははなはだ不都合であるからである。神と子と聖霊が一体のものであればイエスの恨み言は説明がつかない。そこで、古来この言葉をそのままに解釈するのではなく、これを旧約聖書の詩編22・2からの引用と解釈するのである。「詩編22では、神に見捨てられた信仰者が、敵対者に取り囲まれながら、なお神に信頼の祈りをささげる悲痛な声である。ユダヤでは作品全体を最初の一行で代表させる習慣があった。詩編22は悲痛な叫びから始まるが、最後は感謝の祈りとなるので、十字架上のイエスも最初の一行で実は神への感謝を歌い上げたとする説もある。(「新約聖書注解 I」橋本滋男)」しかし、バッハがここでイエスに「lama」を二度繰り返させることは、そのような解釈へのアンチテーゼとなっている。

55. MP61c:16-20
D/D  バッハ  Und bald lief einer unter ihnen, nahm einen Schwamm und füllete ihn mit Essig und 
                         stekkete ihn auf ein Rohr und tränkete ihn.
    直訳      そして、彼らの中の一人がすぐに走り、海綿を一つ取って、それを酢で満たし、葦の棒の先につき刺して、それを飲ませた。

   英語版    And straightway one of them did run, and took a sponge and filling it full of vinegar, 
                            he fastened it upon a reed, and gave Him to drink.
   ZPA       And straightway one of them ran forth, who took a sponge and, filling it with vinegar, 
                            and placing it upon a reed, gave him to drink.
   YS文語   その中のひとり直ちに走り行きて海綿を取り、酸き葡萄酒を含ませ、葦につけてイエスに飲ましむ。
   YS口語   するとその中のひとりがすぐさま走って行って、海綿を取りこれに酢を含ませてから葦の先に付け
                            て、 イエスに飲ませようとした。
   TM        するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って海綿を取り、それに酢い葡萄酒を含ませて葦の棒につ
                             け、イエスに飲ませようとした。
   K·M       するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿をとり、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒
                             につけ、イエスに飲ませようとした。
   RH        そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酢いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエス
                             に飲ませようとした。
   TI          するとすぐにそのうちの一人が駆け出し、海綿を取ってそこに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけ
                             てイエスに飲ませた。
  KT        そしてすぐに彼らのうちの一人が走って行って、海綿を取り、それを酢にひたし、葦の上につけて彼
                             にさしだし、飲まそうとした。

マタイ伝27:48
ギリシャ語  そして、彼らのうちの一人がすぐに走って、そして海綿を取り酢を満たして、葦につけて彼に飲ませ
                          ようとした

                   και        ευθεως    δραμων  εις            εξ               αυτων     και         λαβων    σπογγον   πλησας τε        
	(1)そして  (5)すぐに (6)走って  (4)一人が   (3)うちの     (2)彼らの  (7)そして  (9)取り   (8)海綿を    (11)満たし    
                                  οξους    και                περιθεις       καλαμω   εποτιζεν                     αυτον.
                                   (10)酢を  (12)そして  (14)つけて     (13)葦に   (16)飲ませようとした   (15)彼に
       
ラテン語    そして、彼らのうちの一人が続けて走って、海綿を受け取り、酢で満たして、そして葦につけて、そして彼に飲むために与えた

                 Et     continuo currens  unus   ex      eis      accepta          spongiam  implevit    aceto
                       (1)そして (5)続けて  (6)走って (4)一人が (3)うちの (2)彼らの  (8)受け取り  (7)海綿を       (11)満たし   (10)酢で 
                          et           inposuit    harundini   et           dabat       ei           bibere
                          (12)そして  (14)つけて    (13)葦に       (15)そして  (18)与える    (17)彼に    (16)飲むために

決定版       Vnd bald lieff einer vnter jnen/nam einen Schwam/vnd füllet jn mit Essig /vnd steckt jn auff
                       ein Rohr /vnd trencket jn.
カロフ版    Und bald lieff einer unter ihnen/nam einen Schwamm/ und füllet ihn mit Eßig/ vnd stecket
                       ihn auf ein Rohr und träncket ihn
現代版       Und sogleich lief einer von ihnen, nahm einen Schwamm und füllte ihn mit Essig und steckte
                        ihn auf ein Rohr und gab ihm zu trinken.
DRB         And immediately one of them running took a sponge, and filled it with vinegar; and put it on
                        a reed, and gave him to drink.
KJV          And straightway one of them ran, and took a sponge, and filled it with vinegar, and put it on
                        a reed, and gave him to drink.
RSV         And one of them at once ran and took a sponge, filled it with vinegar, and put it on a reed, 
                        and gave it to him to dirnk.
TEV         One of them ran up at once, tzook a spoinge, soaked it in cheap wine, put it on the end of a
                        stick, and tried to make him drink it.
文語訳      直ちにその中(うち)の一人はしりゆきて海綿(うみわた)を取り、酸(す)き葡萄酒を含ませ、葦に
                        つけてイエスに飲ましむ。
口語訳      するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦
                       (あし)の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
新改訳      また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて、葦の棒に
         つけ、イエスに飲ませようとした。
新共同訳   そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけて、イエスに
                           飲ませようとした。

48. MP58a:3-5(マタイ伝27:34)にも出てくる「Essig」を「酢」と訳すか、「ぶどう酒」とするかの問題である。前回と違い、ここではギリシャ語、ラテン語でも「酢」となっている。それゆえに、現代版も、前回は「wine」に訂正していたがここでは「Essig」のままで「wine」に変更していない。聖書学的にもここは「酢(οξους)」である。日本語聖書が全て「ぶどう酒」と訳していることが、むしろ異常である。TEVは例によって大胆に意訳して「安物のぶどう酒」とする。

歴史的には、エルサレムの女たちは死刑囚に軽い麻酔効果のあるぶどう酒を飲ませて苦痛を和らげようとしたことはすでに述べたとおりである。いわば、人道的な処置であった。史実としては「安物の」、「出来損ないの」、あるいは「腐って古くなった」ぶどう酒だったのかもしれないが、バッハテキストが「Essig」である以上、「vineger」、「酢」と訳すべきである。この行為がイエスへの人道的思いやりからではなく、残酷な意図から出たものであることで、イエスの受難と苦悶に表現された愛の深さに聴衆は思い至る。

最後の「tränkete ihn」は、ギリシャ語の「εποτιζεν(epotizen)」に対応している。しかし、ギリシャ語は「ποτιζω(potizw、飲ませる)」の未完了三人称単数形で「飲ませようとしたが飲まなかった」という意味だが、ドイツ語の「tränkete」は「tränken(飲ませる)」の過去形で「飲ませた」であり、史実としてイエスが飲んだか、飲まなかったかは別として、《マタイ受難曲》では「彼は飲まされた」のである。ここも、上記と同様に、この受難曲を聴く者に、十字架上に置かれたイエスの痛ましさを知る事で、彼の愛の深さを実感するのである。

56. MP61d:22-24
A  バッハ      Halt! Halt! laß sehen, ob Elias komme und ihm helfe?
     直訳        やめろ!やめろ!見させろ、エリヤが彼を助けに来るかどうか?

   英語版      Wait, wait to see now whether will Elias come to save Him.
   ZPA        Stop! [Stop!] Let us see if Elias will come forth and save him.
   YS文語     待て、[待て] エリヤ来たりて彼を救うや否や、われらこれを見とどけん!
   YS口語     待て![待て] エリヤが来て、あいつを救い出すかどうか、見とどけよう。
   TM          待て、[待て] エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。
   K·M           待て、[待て] エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。
   RH         待て、[待て] エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう.
   TI           待て![待て] エリヤが来て助けるかどうか見ていよう。
   KT          待て、[待て] エリヤが来て彼を助けるかどうか見てみよう。

マタイ伝27:49
ギリシャ語  [止めろ、止めろ] エリヤが彼を救いに来るかどうか私たちに見させよ

                 Αφεσ        ιδωμεν        ει            ερχεται    Ηλιασ        σωσων     αυτον.
                    (7)させよ  (6)私達に見  (5)どうか (4)来るか  (1)エリヤが  (3)救いに  (2)彼を

ラテン語     [止めろ、止めろ] エリヤが彼を救いに来るかどうか私たちに見させろ

                  sine      videamus  an         veniat    Helias       liberans   eum
                  (7)させろ (6)私達に見   (5)どうか  (4)来るか   (1)エリヤが  (3)救いに     (2)彼を

決定版      Halt [Halt] /las sehen/ Ob Elias kome vnd jm helffe.
カロフ版   Halt [Halt]/laß sehen/ob Elias komme/und ihm helffe
現代版      Halt [Halt], laß sehen, ob Elias komme und ihm helfe!
DRB        Let be [Let be], let us see whether Elias will come to deliver him.
KJV         Let be [Let be], let us see whether E-li'as will come to save him.
RSV        Wait [Wait], let us see whether Elijah will come to save him.
TEV        Wait [Wait], let us see if Elijah is coming to save him!
文語訳     まて [まて]、エリヤ来りて彼を救ふや否や、我ら之を見ん
口語訳      待て [待て]、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。
新改訳      [止めろ、止めろ] 私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしょう。
新共同訳   待て [待て]、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう

ここのギリシャ語やラテン語には「Let be(そのままにしておけ)」、「Halt(止めろ)」や「Wait(待て)」に当たる語はない。決定版や、DRB、KJVなどの古い聖書だけならエラスムス版に由来すると思われるが、なぜか英語、ドイツ語、日本語訳聖書も全てが「待て」に相当する訳語を挿入している(新改訳を除く)。正文批判の研究結果が無視されているということか、異本があるのか。ただし、バッハは「Halt(止めろ)」を二度繰り返しているが、英語版以外では一度しかない。

兵士達/群衆がこれらの文章を一気に言ったのではなく、四つのフレーズの間には休止符が入って「止めろ!」、「止めろ!」、「見させろ」、「エリヤが彼を助けに来るかどうか?」が4つに分割されており、バッハはここを、一人がさらりと言った言葉ではなく、大勢(少なくとも4人)の群衆が独立して叫んでいたとして、このような処理をした。従って、ここは正確に訳さねばならない。


57. MP63a:14-18
D  バッハ   Aber der Hauptmann und die bei ihm waren und bewahreten Jesum, da sie sahen das
                        Erdbeben und was da geschah, erschranken sie sehr und sprachen:
   直訳      だが、百卒長と彼のそばにいてイエスを見守っていた人たちは、地震やそこで起こった事を見て、それら
                        を非常に恐れて言った。

   英語版    Now when the captain, and the others with him, who were there watching Jesus, saw the 
                        earth  quake and quiver and those things that were done, they trembles with fear, and
                        said:
   ZPA      But the centurion and those who were with him and were watching over Jesus, when they
                        witnessed the earthquake and all that there occurred, were sore afraid and said:
   YS文語    百卒長およびこれと共にイエスを守りいたる者ども、地震とこれらの出来事とを見て、いたく恐れて
                         言う。
   YS口語    百卒長およびかれと共にイエスの見張りに当たっていた者たちは、地震やそれらの出来事を見て、いた
                         く恐れ、そして言った。
   TM        百卒長,および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に
                         恐れ、言った。
   K·M       百卒長および彼らと一緒にイエスの番をしていた人びとは、地震や、いろいろのできごとを見て非常に
                         恐れて言った。
   RH        百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ
                          て言った。
   TI          百人隊長とその周囲でイエスの見張りをしていた者たちは、地震とその時起こった出来事を見て
                          ひじょうに恐れ、そして言った。
   KT        しかし、百卒長とその部下の者たちはイエスを見張っていたのだが、地震と、そこで起こった事柄を
                           見て、いたく驚き、言った。
  
マタイ伝27:54
ギリシャ語   それで、百卒長と、彼と共にイエスを見張っていた人々は地震と起こった事ごとを見て、非常に恐れて言うのには、

                    Ο  δε         εκατονταρχος  και οι  μετ         αυτου     τηρουντες      τον       Ιησουν        ιδοντες    τον  
                                    (1)それで   (2)百卒長           (3)と     (5)共に  (4)彼と     (7)見張っていた人々は   (6)イエスを    (11) 見て  
                                    σεισμον   και   τα   γενομενα                            εφοβηθησαν       σφοδρα,           λεγοντες,
                                        (8)地震     (9)と        (10)起こったこと(複)を   (13)恐れて           (12) 非常に      (14)言うのには     
                       
ラテン語     それで、百卒長と、彼と共にイエスを見張っていた人々は地震と起こった事ごとを見て、非常に恐れて言うには、

                    Centurio  autem  et   qui      cum   eo     erant             custodientes  Iesum     viso 
                       (2)百卒長   (1)それで (3)と (9)人々は  (5)共に	  (4)彼と (8)〜いた    (7)見張って        (6)イエスを  (15) 見て
	           terraemotu   et     his                   quae         fiebant    timuerunt  valde    dicentes
                                           (10)地震         (11)と   (14)これらのことを (13)〜ところの (12)起った  (17)恐れて  (16)非常に  (18)言うには

決定版           Aber der Heubtmann/vnd die bey jm waren vnd bewareten Jhesum/da sie sahen das 
                           Erdbeben/vnd was da geschach/erschracken sie seer/ vnd sprachen/
カロフ版        Aber der Hauptman und die bey ihm waren/un(ママ) bewahreten JEsum/da sie sahen
                           das Erdbeben/und was da geschach/ erschracken sie sehr/und sprachen;
現代版          Als aber der Hauptmann und die mit ihm Jesus bewachten das Erdbeben sahen und was
                           da geschah, erschranken sie sehr und sprachen:
DRB             Now the centrurion and they that were with him watching Jesus, havig seen the 
                           earthquake, and the things that were done, were sore afraid, saying:
KJV             Now when the centurion, and they that were with him, watching Jesus, saw the 
                           earthquake, and those things that were done, they feared greatly, saying,
RSV             When the centurion and those who were with him, keeping watch over Jesus, saw the 
                           earthquake and what took place, they were filled with awe, and said,
TEV             When the army officer and the soldiers with him who were watching Jesus saw the
                           earthquake and everything else that happened, they were terrified and said,
文語訳         百卒長および之と共にイエスを守りゐたる者ども、地震とその有りし事とを見て甚(いた)く懼
                        (おそ)れ『.....』と言へり。
口語訳         百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に
                          恐れ、「.....」と言った。
新改訳         百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、
                          非常な恐れを感じ、「.....」と言った。
新共同訳     百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に
                          恐れ、「.....」と言った。

ここでルターは「die bei ihm waren und bewahreten(彼のそばにいて見守っていた人々)」と訳しているが、ギリシャ語では下線部は「bei」にあたる前置詞は「μετ(met、〜といっしょに、〜とともに)」となっている。beiは物理的距離の近さを示すがanよりも密着性は希薄とされる。「μετ」はドイツ語の「mit(〜と一緒に)」(英語ではwith)に相当し、行為の連帯性を示す。マタイ伝の他の個所ではルターはギリシャ語の「μετ」にはかならずドイツ語の「mit」をあてているが、ここだけはなぜ「bey(〜のそばに)」を当てている。従って、偶然の間違いとは考えにくいが真意はわからない。綴りの上でも「μετ(met)」→「mit」は近いので、「met」→「bey」の変更は何らかの意図を伺わせる。その可能性を筆者に指摘してくれたのは、奈良いずみ氏(元洛陽教会副牧師)である。

現代版も含めて全ての聖書は「μετ」に相当する「cum」、「mit」、「with」、「一緒に、共に」と訳している。その意味では「その周囲で」と訳すのは、苦肉の策だが、続く動詞を「見張りをしていた者」とすると、事実上は「百卒長の部下である兵士」を意味することになり、結果的には聖書的に訂正している。「bewahreten」は「bewahren」の三人称複数過去形だが日本語の「心配して見守る」、「(警戒して)見張る」、「変事がないように番をする」のいずれの意味にもなりうる中立的な動詞である (英語のwatchも同様)。しかし、日本語訳では「見守る」、「見張る」、「番をする」のいずれを採用するかによって意味がかなり違ってくる。「見守る」は対象に対して中立的である。しかし、「見張る」は敵対的なニュアンスが強くなり、「番をする」は義務的、職務的である。したがって、これらの主体は百卒長の部下を意味することになる。対訳としては、中立的な、あいまいさを残す「見守る」が良い。それをとると、上記の「bei(bey)」が重要な意味を持つ。兵士たちだけではなく、百卒長の近くにいて、イエスを見守っていた人々、具体的にはユダヤ人群衆を含むすべての人々を意味することが可能となる。

「mit」では、「百卒長と一緒に、行為的連帯性をもってイエスを見守っていた人たち」とは、すなわち彼の部下である「兵士達」のことになるが、「bei」であれば「百卒長」と「人々」の関係には、行為的連帯性は前提とされないのである。たまたま空間的に近くにいた人々を含むことになる。つまり、「bei(そばに)」であれば、イエスを見守る一群のユダヤ人群衆、中にはイエスを打擲した者たちや、逆に密かに彼を慕う人たちがいてもよい(マタイ伝27章57節参照)。その意味でも、「見守る」と訳すべきだろう。彼らが次に言ったことばが「彼はまことに神の子である」(MP63b)だから、それを歌う主体が誰であったかは非常に重要な問題である。その主体が、イエスを嘲笑し、憎悪し、打擲し、死に追いやった兵たち、イエスを敬いながらもそれを隠して、イエスを見捨てた弱い人たちを含むとバッハが理解していれば、この言葉はその場にいたユダヤの人々全体の「悔い改め」、「後悔」を表現していることになり、MP42で「der verlorne Sohn」と呼ばれたユダと同じくイエスによる愛を受ける対象となる。

この場合の「神の子」は、歌う主体が実際に文字通りの意味でそう思ったというよりも、それほどにイエスの行いは尊いものであったという、比喩的な表現である。イエスを憎んだり、裏切ったり、見捨てたりした者たちの後悔を象徴的に表現した言葉であると理解すべきであろう。言い換えれば、主体は必ずしもキリスト教徒であることを前提にせず、ユダヤ教にとどまったままでイエスを敬った(たとえばアリマタヤのヨゼフのような)人々も含む、全ての人類と理解すべきである。


58. MP63c:21-25
A  バッハ    Und es waren viel Weiber da, die von ferne zusahen, die  da [Jesu] waren nachgefolget aus 
                          Galiläa, und hatten ihm gedienet, 
   直訳     そして、そこには遠くから見守っている多くの女性たちもいた。その人たちはガリレアからついて
          きて、そして彼の世話をしていた。

   英語版    Many women were gathered there, from afar off beholding, which had followed after Jesus 
         from Galilea, to minister unto Him;
   ZPA       And there were many women there, who looked on from a distance, having followed after him 
             from Galilee and ministered unto him, 
   YS文語   またその所にて、遥かに望み見おりし多くの女あり。ガリラヤよりイエスに従い来たりて、[彼に]仕え
                           おりし女たちなり。
   YS口語   またそこには、多くの女性たちが遠くから様子を見守っていた。それはガリラヤからイエスの後に
                            従って来て[彼に]仕えた女たちであって、
   TM        また、そこには遠くの方から見ていた女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから
                           [イエスに]従ってきた人たちであった。
   K·M       また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた.彼らはイエスに仕えて,ガリラヤから
                           [イエスに]従ってきた人たちであった。
   RH      またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに
                           従って来て[彼の]世話をしていた人々である。
   TI       またそこには多くの女たちがいて、次第を遠くから見守っていた。彼女たちはガリラヤから[イエスに]
         従ってきて、イエスを世話していた者たちである。
   KT     多くの女たちがそこに居て、遠くから見まもっていた。ガリラヤから[イエスに]従って来て、イエスに
         仕えていた者たちである。

マタイ伝27:55
ギリシャ語   また、そこには多くの婦人らが遠くから見ていた。彼女らはガリラヤからイエスに従って来て彼に仕
                         えていた。

               Ησαν  δε         εκει         γυναικες  πολλαι     απο  μακροθεν     θεωρουσαι,  αιτινες        ηκολουθησαν
                   (7)いた (1)また (2)そこに (4)婦人らが (3)多くの   (5)遠くから           (6)見て           (8)彼女らは  (13)従って来て
                                  τω  Ιησου    απο    της     Γαλιλαιας  διακονουσαι    αυτω
                                 (11)イエスに  (10)から        (9)ガリラヤ   (15)仕えていた   (14)彼に

ラテン語    また、そこには多くの婦人らが遠くから見ていた。彼女らはガリラヤからイエスに従って来て彼に仕え
                        ていた。

                 Erant  autem  ibi         mulieres   multae   a longe    quae           secutae  errant      Iesum   
                    (7)いた  (1)また   (2)そこに  (4)婦人らが  (3)多くの   (5)遠くから   (6)見て  (8)彼女らは (12)従って来て  (11)イエスに
                        a          Galilaea    ministrantes     ei
                        (10)から  (9)ガリラヤ  (14)仕えていた        (13)彼に

決定版      Vnd es waren viel Weiber da/die von ferns zusahen/die da Jhesu waren nachgefolget aus 
                      Galilea/vnd hatten jm gedienet/
カロフ版    Und es waren viel Weiber da/die von ferne zusahen/die da JEsu waren nachgefolget aus 
                      Galiäa/und hatten ihm gedienet/
現代版      Und es waren viele Frauen da, die von ferne zusahen, die waren Jesus aus Galiläa nachgefolgt 
                      und hatten ihm gedient
DRB        And there were there many women afar off, who had followed Jesus from Galilee, ministering 
                      unto him:
KJV         And many women were there beholding afar off, which followed Jesus from Galilee, 
                      ministering unto him:
RSV        There were also many women there, looking on from afar, who had followed Jesus from 
                      Galilee, ministering to him;
TEV         There were many women there, looking on from a distance, who had followed Jesus from 
                      Galilee and helped him.
文語訳      その處にて遥に望みゐたる多くの女あり、イエスに事(つか)へてガリラヤより[イエスに]従ひ来りし
                      者どもなり。
口語訳       また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから
                       [イエスに]従ってきた人たちであった。
新改訳       そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤから[イエスに]つい
                      て来た女たちであった。
新共同訳    またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従っ
                      て来て[彼の]世話をしていた人々である。

ルター訳を含む全ての聖書では、この節に「Jesu、Jesus、イエス」という固有名詞を含むのに対して、バッハテキストのみが「Jesu」を削除している。これが単なるバッハの不注意とは思えない。なぜなら、そのあとでイエスを受ける「ihm」は挿入されているからである。つまり、バッハはここで「Jesu」を削除したことを意識していたはずである。しかし、キリスト教でもっとも重要な固有名詞をバッハが、削除する意図は何か。当時、バッハのカンタータなどの歌詞は、事前に教会の検閲に掛けられていたといわれる。これがチェックされれば間違いなく指摘されたであろう。ということは、この形では演奏されなかったか、あるいは検閲は、自由詞のみに行われて、聖句部分には行われなかったのだろうか。

ドイツ語では「nachfolgen(従う、後からついて来る)」は助動詞に「sein」をとる自動詞にもなるので必ずしも「イエス」という目的語は必要とされない。しかし、ギリシャ語、ラテン語、決定版、カロフ版をはじめバッハ以前に出版されたすべての聖書に「イエス」があるので、その削除はバッハ自身の選択だったと思われる。

研究者の多くは、この「Jesu」の削除を、あたかもバッハの写し間違いと思っているようである。実際問題として、文脈上は「『イエスに(あるいはイエスたちに)』ついてきた」のは明らかであり、後半の「ihm gedienet(彼の世話をした)」の「彼」とは明らかにイエスを意味するので、その前の「Jesu」を削除することで意味が大きく変るとは思えないが、それだけにバッハの意図が何であるかを検討することは重要である。対訳もこの点では苦心している。「イエス」を使わず、代名詞にして二度使ったり、後半の代名詞をイエスで置き換えたりと苦心のあとが見える。

MP45a:11-13の「gesagt」→「gesaget」やMP47:1の「saget」→「sagt」、MP66b:16-19の「lebet」→「lebete」の変更などを考えれば、バッハは一音節の増減にもこだわりを持っていたことは明らかである。そうであれば、バッハが「イエス」という最重要固有名詞を、無意識に、あるいは不注意で削除したとか、技術的理由で削除したとは考えられない。そこで、「イエス」がある場合と、ない場合で、どのような意味上の違いがありうるかを考察したい。

「ガリレアからイエスについてきた」のではなく、ただ「ガリレアからついてきた」のであれば、ついてきた相手は特定されないということになる。しかし、ドイツ語には不特定人称代名詞はない。敢えて使うとすれば三人称複数形である。バッハが単純ミスを装うなら、MP24:1-3のように「彼らに」を補ってもいいかもしれない。しかし、ここでは後ろにイエスを意味する単数の「ihm」があるので不自然であり、それは作為的に過ぎ、事実上不可能である。

別の意味でも、MP24:1-3で「ペテロ」が象徴する「教会の権威」を否定するために三人称複数形使ったようには、ここで同じ方法は使えない。「イエスに」を「彼らに」に変更すれば、イエスの権威を否定する意味を持ちうるからである。その意味では「Jesu」を削除するとすれば、その理由はともかくとして、単純に削除するしかないのである。

MP24:1-3で「zu Petro」を「zu ihnen」に変更したのとは、重要な違いは2点ある。まず、「zu Petro」から「zu ihnen」への変更は、初演稿ではされていないことである。1736年の完成稿で行われているのである。しかし、ここの「Jesu」の削除は初演稿ですでに行われている。つまり、「ペテロに」を「彼らに」に変更出来るくらいなら、「イエスに」も「彼らに」に変更できるという議論は成り立たない。どちらにしても、キリスト教で最重要固有名詞である「イエス」と「ペテロ」を変更することはかなりの決意と覚悟を必要とする。場合によっては、職を失うだけでなく異端審問に掛けられてもおかしくない。バッハは「ペテロの優位性」を、三人称複数形を使って否定したが、「イエス」はただ削除した。したがって、それはイエスの単純な否定ではない。

次に、ここに「イエスに」があった場合の主語である「女たち」にはどのような解釈上の違いがありうるのかを検討する。その場合は、彼女たちがついてきたのは「イエス」個人ではなく、『イエスの一団』あるいは、『ユダヤ教内のイエス派』であった。そして、彼女らの直接の役割は、イエスの身の回りの世話をすることであった。

イエス個人についてきたのであれば、イエスが複数の女性を個人的に連れてきたことになる。しかし、それでは、古来、イエスの妻であったと伝承されるマグダラのマリアとイエスの親密な関係が否定され、12使徒よりもイエスに近かった関係(イエスの頭に香油をかけた女、MP4c)が見えて来なくなる。使徒たちも知らされていなかった、イエスの受難と死を、彼女だけが知っていたこと、それに対して使徒たちが激しく嫉妬したことと両立しない。特に、バッハは「Unrat(糞、汚物)」というルターの訳語を使ったMP4dをイ短調で書くことで弟子たちの醜い嫉妬を表現している。そのためには、マグダラのマリアがイエスにとって、かけがえのない唯一の女性であったことを表す必要があった、とバッハは思った。

以上が私の推論である。そのために、ここでは「イエスの後に付いて来た女性たちが、彼の身の回りの世話をやいた」という表現は、避けられねばならなかったのではないだろうか。また、マグダラのマリアの名はドイツ語表記では「Maria Magdalena」となり、バッハの妻の名「Anna Magdalena」にも通じる。筆者は、バッハが妻とマグダラのマリアのイメージを重ねたのではないかとさえ想像する。次の聖句に「マグダラのマリア(Maria Magdalena)」が登場することからも、この解釈を荒唐無稽とは言えないのではないだろうか。

Back                目次                 NextIX-8.htmlContents.htmlIX-10.htmlshapeimage_2_link_0shapeimage_2_link_1shapeimage_2_link_2