(5)音楽的調性格論批判
      (Tuneful critics on the key characteristic theory)
バッハと同時代の外交官、音楽理論家のマッテゾンが主張した調性論について、バッハは無頓着であったとする小林義武の見解を先に紹介した。マッテゾンの調性論は、絶対音階の上に成り立つ各調が特有の情緒的性格を持つというもので、特にロ短調は憂うつで、暗い性格を持ち、教会や、修道院、僧坊では敬遠されたとする。ロ短調仮説は、あきらかにマッテゾンの理論とは適合しない。ロ短調だけを見れば、バッハはマッテゾン流の調性格論に無頓着であったという主張もうなずける。しかし、他の調性についても見なければ、本当に無感心であったかどうかはわからない。「頓着」したうえで批判的に実践した可能性もある。ロ短調仮説によれば、ロ短調はイエスの愛を表現するために使われた。イエスが歌う聖句で、同一あるいは似た意味を持つ複数のパッセージを検証するとゲッセマネの祈りで、イエスが迷い、苦悶を表白する第一の祈りと、愛ゆえに死を決意する第ニの祈りが、ト短調とロ短調に差別化されていたことが根拠の一つであった。バッハがこれを意識的に行ったのであれば、繰り返し歌われる同様のパッセージで、イエス以外の聖句でも調性の差別化が行われている可能性は高い。マタイ伝26章、27章で、繰り返される聖句はイエス以外に、ペテロ、ピラト、ユダヤ人群衆が歌う三つの例がある。これらを検証するとマッテゾンの調性格論との関係で興味深い傾向が見つかった。

最初の例は、ペテロがイエスとの関係を三度にわたり否定した「ペテロの否認」として知られる場面である。

(1) MP38a:7-8(譜例40)
ペテロ:Ich weiß nicht, was du sagest.
    あなたが何を言っているか分からない。
(2) MP38a:14-15(譜例41)
ペテロ:Ich kenne des Menschen nicht.
    私はその人を知らない。
(3) MP38c:23-24(譜例42)
ペテロ:Ich kenne des Menschen nicht.
    私はその人を知らない。

イエスが捕縛されたとき、ペテロを含む全ての弟子達はイエスを見捨てて逃げ去った(マタイ伝26:56)。帳も降りて暗くなったころ、ペテロはイエスを裁く法廷の様子を伺うために、ユダヤ議会の敷地内に潜入し中庭で座っていた。そのとき、近くにいた女から「Und du warest auch mit dem Jesus aus Galiläa.(あなたもガリレア出身のイエスと一緒にいた)」と咎められ、それを否定して(1)のように答える(マタイ伝26:69-70)。危険を感じたペテロはその場を逃れ、門扉に向かって出て行こうとした。それを見た別の女が、「Dieser war auch mit dem Jesu von Nazareth.(この人もナザレから来たあのイエスと一緒だった。)」と周囲に話したのを聞いて、慌ててそれを否定し、誓って答えたのが(2)である(マタイ伝71:72)。それを聞いた廻りの人々がペテロに近寄って来て、「Warlich, du bist auch einer von denen; denn deine Sprache verrät.(確かに、あなたも彼らの仲間の一人だ。あなたの話し方がそれを証明している。)」と口々に合唱し(MP38b)、ペテロはそれを否定する。そして、自分自身を呪いながら、三度目にイエスとの関係を誓って否定したのが(3)である。三回の否定は音型、調性とも異なるので、バッハの思いと音楽表現を理解しやすい。1度目の否定はヘ長調で書かれ、女が詰問するソプラノ旋律(ハ長調の上行音型)を全音低く(変ロ長調)なぞる形になっていて、突然の問いに対するペテロの狼狽ぶりが表われている。へ音から変ロ音に上がり、さらに二度上がって二音になるが、落ち着こうと自分に言い聞かせるように再び降下してト音で終わる山型の音型である。危なかったところで、詰問をうまくかわした様子が描かれている。2度目の否定は、「言った」が「誓った」に強調されて、ペテロの答えは、ここでも、ホ音—ハ音と下降して始まる女の声に合わせるかのように、いきなりバスの最高音であるホ音から始まり、ハ音を経て嬰へ音まで下行して一度ロ音に上がるが再びト音に下る。ペテロの緊張状態が極限に達していると示され、ホ短調からト長調に転調する。3度目の否定はロ短調で書かれ、へ音から始まり、二音に上がったのち徐々に下がって嬰ト音の装飾音から嬰へ音で解決する。これらをペテロの心理に読み換えると、最初は、ペテロは突然の詰問に狼狽し、語調を女に合わせて知らぬふりを通す。まだ、個人的に指摘されただけなのでなんとか冷静を装うことが出来た。2度目は、最初の詰問をかわして安心していたところで、廻りに言いふらされたので冷静さを失い、詰問に合わせて声が裏返りかけるが、何とか落ち着こうとして下行するも、途中で再び声がうわずりかけ、彼の狼狽ぶりが赤裸々に表現される。最後の詰問では、廻り中から具体的に言葉のガリレア訛りを指摘されたが、二度の危機を経験したあとなので、嬰へ音からニ音に上って、整然と下行するという確信的否認が表現されており、イエスに指摘されていた偽善性に自分自身を呪う。あたかも、行動学でいう予備刺激後の驚愕抑制反応のような曲作りである(注1)。これを見ると、バッハがペテロの心理を描写するにも繊細に音を構成していることに改めて感動する。
調性の使われ方にも、これらの否認で注目すべき推移がある。三度の否認が、ヘ長調(♭)→ト長調(#)→ロ短調(2#)と、何度も見られた♭圏から♯圏への移行が見られることである。ロ短調仮説を思い出して欲しい。
弟子達とともにオリーブ山に登った時、その夜に自分が捕縛されることを予期したイエスは「In dieser Nacht, werder ihr euch alle ärgern an mir.(今夜、あなた達のすべてが私を迷惑がるだろう) 」と予告したとき、ペテロは、「Wenn sie auch alle sich an dir ärgerten so will ich doch mich nimmermehr ärgern.(たとえ、彼ら全員があなたを迷惑がっても、私が迷惑がることは決してありません。)」と誓ったが、イエスは「In dieser Nacht, ehe der Hahn krähet, wirst du mich dreimal verleugnen.(今夜、鶏が鳴く前にあなたは私を三度見捨てるでしょう)」と予言して、彼の弱さとその偽善性を指摘した(マタイ伝26:33-34)。バッハはこれを筆頭弟子としてのペテロの優位性と勇気を否定することで表現した(それぞれMP24:3、MP28:3-4)が、ロ短調仮説が正しければ、最後のロ短調はペテロもイエスからの愛を受ける対象であることが示されている。バッハはペテロが象徴する教会の権威を否定したが、ペテロの偽善性をイエスの愛を妨げるものとはしていないのである。まさに「失われた息子」の兄である。ここでも、イエスの愛が普遍的なものであることが音楽的コードとして書き込まれている。ユダのように独立したアリアを与えられる事はないが、ペテロの後悔はMP38c:31-32で簡潔に示される(譜例13)。

次は、イエスを釈放しようとするピラトの言葉である。

(4) MP45a:12-13(譜例43)
ピラト:「(...Jesum,) von dem gesaget wird, er sei Christus?」
キリストと言われているイエスを(釈放してほしいのか)?
(5) MP45a:33-34(譜例44)
ピラト:「(...Jesu,) von dem gesagt wird, er sei Christus?」
キリストと言われているイエスに(ついてはどうすればよいのか)?

これらのパッセージは全く同じ聖句であるにもかかわらず、調も音型も異なり、それはバッハがそれらに異なる思いを込めた証拠である。前者はト長調、後者はイ短調である。文脈的にはピラトがイエスを無罪と判断し、ユダヤ人群衆にロ−マ帝国ユダヤ総督としての威厳をもって、自分はイエスを釈放するつもりであるという含みで「Barrabam oder Jesum,(バラバかイエスか?)」(MP45a:11-12)と威圧的に問うときに「イエス」を形容する句が(4)である(マタイ伝27:17)。つまり、ピラトは「イエスは救い主(=キリスト)と言われているのだから、お前達はイエスの釈放を望んでいるはずだな?」という意味を込めて問う言葉である。この聖句はト長調で書かれている。しかし、群衆は「Barabam!(バラバを!)」と答えた(マタイ伝27:21)。ピラトは群衆の激しい反応に恐れをなして、次に「Was soll ich denn machen mit Jesu, von dem gesagt wird, er sei Christus?(それでは、キリストと言われているイエスについて私はどうすればいいのか?)」(MP45a:32-34)と尋ねる(マタイ伝27:22)。この言葉には、ピラトのユダヤ人群衆への嫌悪感が込められている。そして、群衆は「十字架につけよ!」と叫ぶ(MP45b)。暴動になるのを恐れたピラトは群衆の前で手を洗い(注2)「Ich bin unschuldig an dem Blut dieses Gerechten, sehet ihr zu!(私はこの正しい人の血について罪を負わない、あなた達で面倒を見なさい!)(MP50c:15-17)」と答える(マタイ伝27:24)。 (4)はニ長調で書かれ、いかにも居丈高な上行音階だが、(5)はイ短調で書かれ、音型は上下に振幅し、ピラトの激しい嫌悪と憤りが表現されている。ピラトのユダヤ人群衆への嫌悪と蔑みを表す(5)はイ短調で書かれている。二つのパッセージの間には、音型、調性の違いのほかにさらに重要な違いがある。"von"以下のまったく同じ語句から成る文章が、(4)では8つの八分音符と2つの十六分音符で書かれているが、(5)はそれぞれ6つと3つである。八分音符に換算して、前者は9つ、後者は7つ半。元の文章は全く同じで、本来なら音節数も同じ筈なのに、なぜこのような違いが生じたのか。バッハは(4)でピラトの威厳を強調するために、"gesagt"をわざわざドイツ語古語で綴り、「-g-」の子音を有声音の「-ge-」にして、音節数を増やしているからである(Fig 17a and b)。

Fig 17 A vowel <e> is inserted between <g> and <t> of “gesagt” in (a) MP45a:12, but not in that of (b) MP45a:33 as found in Bach’s autographic score for the St Matthew-Passion (1736).

(a) 

                                                                     



(b)










現代ドイツ語でも、詩的表現では前後の音節の絡みで韻律を合わせるために、"gesagt"と"gesaget"の綴り分けが行われる。しかし、ルタ−訳聖書決定版(1545)、カロフ聖書(1681-1682)、現代ドイツ語訳聖書(1984)でも、この場面は"gesagt"に統一されている。つまり、この変更は、前後関係で韻律を合わせるために行われたのではなく、おそらく何らかの意図があってバッハ自身が行ったと推論出来る。ルタ−訳決定版のマタイ伝26章、27章全体で"gesagt"は6回(26:61、27:9, 17, 22, 35, 43)出てくるが "gesaget" はまったく出てこない(注3)。また、《マタイ受難曲》でバッハが"gesaget"に書き換えているのもここだけである(注4)。では、このピラトの第1の言葉で「-g-」を「-ge-」に有声音化した時に何が変わるのか。

第1の、そしてもっとも単純な解釈は、「イエスがキリストと言われていた」ことを強調するために有声音にしたというものである。しかし、この解釈はなぜ第一の言葉だけで有声音化されたのかを説明できない。イエスや弟子の言葉ならともかく、二回出てくる同じ意味のピラトの言葉で一方だけを強調するのはバッハ独自の意図があったはずである。それは何か?
第2の、そして神学的にもっともらしい解釈は、最初の言葉がイエスを釈放したいという含みを持ったピラトの発言のなかにあるので、イエスを「Gerechten(正しい人)」と呼んだ妻の忠告を受けたピラト、ひいてはピラトが代表するローマ帝国を免罪するために強調したというものである。この解釈は神学的解釈とも一致し、のちになってキリスト教がローマ帝国を乗っ取る過程を予言しているが、ロ短調仮説とは相容れない。「ピラト=ローマ帝国」の免罪をバッハがわざわざ強調することは「ユダヤ人の責任」をバッハが強調することに通じるからである。実際に、ピラトが手を洗ってイエスの血に自分の責任はないと示し、お前達で始末しろと言った後に出てくるユダヤ人群衆の答えは、冒頭で述べたMP50dの「イエスの血が我々と我々の子孫の上にかかってもよい」である。MP50dがロ短調で書かれた理由がイエスからユダヤの人々への愛を意味するなら、ここでユダヤ人の責任を強調することとは矛盾する。
第3の、そしてもっとも素直な解釈は、このピラトの言葉を文脈的に理解すれば自ずと明らかになる。(4)の聖句はピラトがイエスを釈放しようとしたという含みを持つ言葉の中で使われた。ここで、「キリストと言われるイエス」を有声音化することは、ピラトがイエスを釈放するつもりだったことを強調し、それは同時に、イエスさえその気になれば助かる可能性があったことを示している。逆に言えば、イエスは死から逃れる意志がなかった、つまりイエス自身の自発的な意志で死を選択したことが強調される。これはロ短調仮説と矛盾しない。イエスが助かりたければ助かり得た状況にあったと強調することは、それにも関わらずあえて死を選んだイエスの自発的意志、イエスからの普遍的な愛が結果的に強調されるのである。

最後は、次の例である。

(6) MP45b(譜例46)
ユダヤ人群衆:「Laß ihn kreuzigen!」
        彼を十字架につけろ!
(7) MP50b(譜例47)
ユダヤ人群衆:「Laß ihn kreuzigen!」
        彼を十字架につけろ!

「十字架につけろ!」という(6)の叫びは、先にあげた「Was soll ich denn machen mit Jesu, von dem gesagt wird, er sei Christus?(では、キリストと言われるイエスについてはどうすればいいのか?)」と問うピラトの言葉に対する答えであり(マタイ伝27:22、MP45a:32-34)、二度目の(7)は、群衆の激しさに狼狽したピラトの「Was hat er denn Übels getan?(彼はいったいどんな悪いことをしたのか?)」という問い(マタイ伝27:23、MP47)に対する答えである(同27:23、MP50b)。二つの答えは、意味、綴りとも全く同じである。どちらも、ユダヤ人群衆のイエスへの憎悪と殺意を表している。
二つの答えは、同じ音型で書かれているが調性は異なる。前者はイ短調、後者はロ短調である。ピラトから群衆への問いは、ユダヤ人群衆を嫌悪しつつも、彼らのイエスへの憎悪の激しさに怖れをなしたピラトが「ではイエスをどうすれば良いのか」と群衆に問うと、彼らは「十字架につけろ!」と答えた。この問いも答えも、イ短調で書かれている。イ短調が《マタイ受難曲》で初めて使われたのは、イエスに香油をかけた女性(ドイツの民間伝承ではマリア・マグダレーナ)に弟子達が「Unrat(糞)」という言葉を使って最大限の嫌悪をぶつける合唱である(MP4d、譜例48)。この「Unrat」も、おそらくルタ-の誤訳であるが、詳しくは次章で述べる。MP4dは《マタイ受難曲》でイ短調が憎悪、嫌悪の感情を込めて使われた最初の例である。次章でも述べるが、ここで「Unrat」を「糞」として訳出せず、聖書的に正しい翻訳をして「無駄遣い」と訳すと、このイ短調の意味に気づくことはできない。
《マタイ受難曲》ではロ短調がイエスの愛を表現しているという仮説は、先にも見たようにマッテゾンの調性格論とは相容れない。では、マッテゾンは、イ短調はどういう性格を持つと言っているか。彼は「各調の性質とアフェクト表現上の作用について(1713)」でイ短調を3番目にとりあげて、「イ短調(エオリア)は、嘆くような、品位のある、落ち着いた性格を持っている。眠りに誘うようであるが、しかし不快な感じはまったくしない。また、鍵盤楽曲や器楽に特に適している。キルヒャ−はこの調を、同情をよびおこすのに適したものとみなす。またコルヴィ−ヌスは、『エオリアは壮麗で真面目なアフェクトをもつが、それと同時に、媚びるような魅力をもつこともできる。この調の性格はまさに中庸であるので、ほとんどあらゆる心情の動きを表わすのに用いられる。また、温和で、非常に甘美でもある』と述べている。(キルヒャ−の見解よりも、このコルヴィ−ヌスの考え方の方が、私には賛成できる。)」(山下道子訳)と述べている。これは、イ短調が憎悪や嫌悪を表現するという《マタイ受難曲》での使われかたと矛盾する。バッハがマッテゾンの調性論を意識して、あえて逆らっているとさえ思える。マッテゾンのバッハへの評価は一定していない。1717年の「Das beschümzte Orchestre(保護されるオ−ケストラ)」ではバッハの教会作品と鍵盤作品を褒めちぎっている。しかし、1725年の「Critica Musica(音楽批評)」ではカンタ−タ21番「Ich hatte viel Bekümmernis(わが心には憂い多かりき)」を例に凝った書法や歌詞を短く区切って反復する手法を批判して、後のシャイベのバッハ批判に通じる批評をしている。しかも、バッハもかなり気にしたと思われるシャイベのバッハ批判を後に自著にわざわざ収録している。マッテゾンはバッハの死後に(1752)はフ−ガの技法を「Philologisches Tresespiel(文献学的宝探し)」で褒め称えているが、バッハ自身はマッテゾンには好印象は持っていなかった。再三の要請にも関わらずマッテゾンの編纂した人名事典「Grundlage einer Ehren-Pforte(音楽の凱旋門)」(1740)に、最後まで自伝を寄稿しなかったことでそれが推察できる。(以上、角倉一朗編バッハ事典の山下道子による。ただし、解釈は筆者の責任)。マッテゾンが最初にバッハ批判を出版したのは1725年である。ちょうど、《ヨハネ受難曲》初演後、《マタイ受難曲》の初演前である。マッテゾンの調性論はさらにその前の1717年に出版されているのだから、《マタイ受難曲》の作曲時だけなく、その前の《ヨハネ受難曲》作曲時にも、バッハがマッテゾンの調性論を意識していた可能性は高い。バッハの平均律の考え方では、調性は相対的な意味しかもたず、マッテゾン的な絶対音階に基づく調性格論は陳腐なものでしかありえない(注5)。
では、二度目の殺意(MP50b)はなぜロ短調で書かれたのか?ここまで来ると理由は自ずと見えてくる。つまり、ロ短調仮説がそのまま当てはまる。イエスの自発的意思による死の選択が『神の小羊』になって人々の身代わりに死ぬという究極的な『愛』の表現であり、それが向かう対象がロ短調で示されているのである。そう考えると、MP50dと同様に、MP50bはロ短調仮説と矛盾しない。つまり、この曲には、「イエスに殺意を持ったユダヤの人々も、イエスからの愛の対象である」というバッハの想いが書込まれている。ただし、前節で述べたように、そのためにはユダヤの人々についても何らかの悔い改めが描かれていなければならない。
最後に、これまでロ短調仮説の検証で見て来た主要な調性の持つ意味と、マッテゾン調性論の比較対照表を作ってみる。


Table 7. Comparison of key significance between J. S. Bach in St Matthew Passion and J. Matthezon


The key characteristics according to Matthezon’s theory were taken from M. Yamashita’s Japanese translation, but not from the original materials written by Mattheson. Any errors and mistakes in this table should be ascribed to THG.


Table 7の比較対照を見ると、バッハは、ことこどくマッテゾンの調性格論に逆らっているかのように思える。マッテゾンは殆どの調について、アフェクションを提示しているが、どこまでこの結論が当てはまるのかは、さらに多くの曲を解析して今後の研究を待たねばならない。しかし、たとえこれが、バッハのマッテゾン調性論への批判だとしても、それはバッハがマッテゾンとは違う意味で、同様の絶対音階論的調性格論を持っていたということではない。各調の情緒的性格について、マッテゾンと意見をことにしたということではなく、各調に特定の性格、アフェクションがあるという理論そのものを批判したものであろう。この4つの調に関する限り、私にはバッハがマッテゾンの調性論を意識的に批判しているように思える。

(注1)動物行動学ではPrepulse inhibition(PPI)反応として知られる。いきなりドアが開かれた時の驚愕に対して、あらかじめ何度か軽くドアノックされたあとにドアが開かれた時は、驚愕反応が抑制される。これは動物でも人でも起こる反応で、この抑制が効かない症例では統合失調症を疑われる。詳しくは、「Preface」または「はじめに」にある文献5, 6, 7を参照。
(注2)神学的には、この手を洗う行為は、イエスの死についてピラトに責任がないことを示すと理解されている。
(注3)ただし、カロフ聖書注解本のマタイ伝27:9ではgesaget’となっている。以下に、ルター訳決定版(1545)、カロフ本()、現代ドイツ語訳()と《マタイ受難曲》歌詞(バッハ、MP43:7-8)の該当箇所を比較する。
ルター:Da ist erfüllet das gesagt ist durch den Propheten Jeremias,
カロフ:Da ist erfüllet das gesaget ist durch den Propheten Jeremias,
現代訳:Da wurde erfüllt was gesagt ist durch den Propheten Jeremia,
バッハ:Da ist erfüllet das gesagt ist durch den Propheten Jeremias,
ここに関する限りは、バッハの歌詞はカロフ注解本ではなくルター訳決定版に基づいているように見えるが、しかし、実際にはそうとは言えない。逆に、ルター訳決定版と違い、カロフ注解本と同じという箇所もあるからである。例えば、マタイ伝26:64(MP36a:6-7)は下記の通りである。
ルター:Jhesus sprach zu ihm Du sagests.
カロフ:Jesus sprach zu ihm: Du sagests.
現代訳:Jesus sprach zu ihm: Du sagst es.
バッハ:Jesus sprach zu ihm: Du sagests.
ギリシャ語正文では、「zu ihm(彼に)」に相当する「αυτω」があるので、ルターの見落としか、ルター後の正文批判の過程で挿入されたのかであろう。バッハは特定の版に基づいて作曲したのではなく、複数のルター訳聖書を参考にした上で、さらに独自の変更を加えて使っているように思える。
(注4)ちなみに、《ヨハネ受難曲》に使われたルタ-訳ヨハネ伝の18章、19章では"gesagt"が3回(18:8, 21, 34)、"gesaget"が2回(18:38, 19:21)出てくるが、《ヨハネ受難曲》中で"gesagt"→"gesaget"の書き換えは下のJP10:36にある一カ所だけである。逆の書き換えはない。《ヨハネ受難曲》では、イエスの言葉「(その人たちは)私が言ったことを知っている(dieselbigen wissen, was ich gesaget habe)」(JP10:35-36)にあてた音型は上行して下行するという確信を示す言葉で歌われる(譜例45)。ただし、《ヨハネ受難曲》では比較する同文の対応個所がないので、確実なことは言えないが確信的という意味では、この節で取り上げている、ペテロの三度目の否認(MP38c:23-24)や、ピラトの第1の言葉(MP45a:12-13)と共通する。
(注5)バッハの平均律に関する考え方が、記録に残されているわけではないが、日本語で「平均律クラヴィーア曲集I・II」と訳される鍵盤楽器の曲集(Das Wohltemperirte Clavier)は、全ての長調、短調が使われた前奏曲とフーガからなる全48曲の集大成である。「wohltemperirte(うまく調律された)」を、いわゆる平均律と訳すのは間違いという議論もあるが、いずれにしても、この曲集が、各調に固有のアフェクト(情緒的性格)を付与していないことは確かである。その意味では、絶対音階に基盤をおくマッテゾンの調性格論に対するアンチテーゼとなっている。


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