8 ダ・ヴィンチ後の「最後の晩餐」(Depictions for ‘The Last Supper’ after Da Vinci



異書同図法の成立 (Establishment of the pictorial compositional methods


「最後の晩餐」の描写では、初期キリスト教のアリウス派はイエスを神の被造物(=人)と考え、そのイエスに後継指名された使徒ペテロ(マタイ伝16:17-19)を重視した(Figs. 24 B & C)。 一方のアタナシウス派(のちのカトリック、プロテスタント系諸派、正教会系諸派)は三位一体(父と子と精霊は同質)と考え、「イエスを神と証言した」使徒ヨハネ(注1)を重視した(Figs. 26 A & B)。 コンスタンティヌス1世(在位:306-337)はニケア公会議(325)によって、アタナシウス派を正統とし、テオドシウス(在位:379-395)はアタナシウス派をローマ帝国の国教とした(380)。 その後、アリウス派は西のゲルマン系と東のアラブ系に分断された。 西では異端とされ、迫害されて消滅したが、アラブに残ったアリウス派は、イエスを聖人とするイスラム教に吸収された。

その後、西ローマ帝国が崩壊し、アタナシウス派は偶像崇拝を巡る対立から11世紀に東西(カトリックとオーソドックス)に分裂する。 そして、9〜10世紀に台頭したゲルマン系の神聖ローマ帝国(ドイツ国民の神聖ローマ帝国)は、カトリック教会としばしば対立するようになった。 特に、ハインリヒ4世が第三代皇帝(在位1084-1105)になると、ローマ法王グレゴリウス7世(在位:1073-1085)との衝突を繰り返し、法王による皇帝の破門、対立皇帝の擁立、カノッサの屈辱(後述)、皇帝軍によるローマの包囲、グレゴリウス7世の追放、対立法王(教皇)クレメンス3世の擁立(1084)へと情勢は目まぐるしく変化し、対立がさらに深まる。

世俗権力からの挑戦に脅威を感じたカトリック側は、中世盛期(11-13世紀)後半には教会の権威を強調する必要に迫られた。 それが「最後の晩餐」の図法にも影響した。 教会の権威を高めるために、初代ローマ法王に擬されていた使徒ペテロを重視したのである。 その結果、画面の中央にイエスを座らせ、その左右に二人の側近を配する図法が生まれた(異書同図法)。 いうまでもなく、その二人とは、ヨハネ伝による使徒ヨハネと、マタイ伝による使徒ペテロである。

イエスを挟んで、両隣にヨハネとペテロを側近として描き分けたのが第1異書同図法(Fig. 26 C)、もう一人のペテロをヨハネの下座に配したのが第2異書同図法である(Fig. 27 A)。 後者の場合、ペテロは二人登場することになり、ジョットの場合は、二人のペテロが同じ容貌、顔貌で描かれている(Fig. 27 A)。 その後の「最後の晩餐」では、どちらかの異書同図法を使うことがほぼルール化された。 しかし、ダ・ヴィンチは異書同図法を使わなかった。 ペテロはイエスから三人目、ユダの下座に配され、ヨハネとイエスの間には逆三角の空間が挿入された。 しかも、二人を裂くように中央に楔が打たれた(Fig. 34; Fig. 35)。 ダ・ヴィンチは筆頭弟子ペテロの優位性と、ヨハネとイエスの親密な関係を否定した。 言い換えれば、教会の権威とイエスの神性というドグマを拒否したのである。

注1 先にも述べたように使徒ヨハネがヨハネ伝の著者であるという説は、現在の聖書学では否定されている。 ヨハネ伝は、他の3つの福音書(共観福音書)と比べ、イエスの神格化が顕著である。 共観福音書では、イエス以外のものがイエスを神の子、あるいはキリスト(救い主)と呼ぶ事はあるが、イエス自身が自らを神と名乗ることはない。 しかし、ヨハネ伝ではイエスが自らを「神である」と認めた記述がある(ヨハネ伝8:24, 8:28, 13:19)。 ヨハネ伝13:19を例にあげれば、「そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。 いよいよ事が起ったとき、私がそれであることを、あなたがたが信じるためである。」というイエスの言葉である。 ここで、「私がそれである」の部分は、RSV英語訳では「I am he.」とある。 「he」とは「神」である。 この表現自体は、マタイ伝24:5、マルコ伝13:6、ルカ伝21:8にもあるが、用法はヨハネ伝とは大きく違う。 共観福音書では文中の主語である「私が」はイエスを意味するのではなく、「そう言って人を惑わす者」を意味する。 ネストレ=アーラント版ギリシャ語聖書では「εγω ειμι」とあり、直訳すれば、「私は(それで)ある」となる(「ギリシャ語新約聖書4ヨハネによる福音書」平野保監修、川端由喜男編訳)。 参考のために、他の訳も紹介しておく。

ウルガータ本ラテン語訳聖書: ego sum(私はある)

ルター訳聖書: ichs bin(私はそれである)

KJV英語訳聖書: I am he (私は彼である)

TEV英語訳聖書: I am who I am(私は私であるところの者である)

現代フランス語訳聖書: je suis qui je suis(私は私であるところの者である)

現代ドイツ語訳聖書: ich es bin(私はそれである)

新共同訳日本語聖書: わたしはある

ほとんど同じ意味だが、日本語で補語を「彼」とするか「それ」とするか、あるいは補語なしに、ただ「ある」とするかで、ニュアンスの違いはある。 いずれにしても、神学的には、これは「イエスが自らを神と認めた」言葉と理解されている。 ダ・ヴィンチの時代に読まれていた聖書はウルガータ本である。 当然、画家たちはラテン語訳聖書をもとに描いた。 「最後の晩餐」でヨハネとイエスの近さ、親しさを強調する図法が使われているのは、ヨハネ伝にある「イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた(13:23)」という言葉に由来する。 これを、美術史家たちが「ヨハネが眠っている」、あるいは「ヨハネがショックで倒れている」と解釈するのは、ラテン語聖書を参照せず議論していることを意味する。 すでに述べたようにラテン語の「recumbo」の原意は「横臥する」で、イエスの時代は食事のときには横臥して食卓を囲む習慣があった。 そこから「食卓の席に着く」、「伏せる」、「沈む」などの意味が派生したのである。


裏切りの非難と反ユダヤ主義(Blame on Judah’s betrayal and anti-Judaism


中世初期から中世後期半ばまで、ユダの裏切りは、聖書に従って、イエスによる「裏切りの予告」につながるイエスやユダの所作(手、指、口などのジェスチュアー、姿勢など)で控えめに表現された。 あくまでも、非難の対象はユダ個人であった。 しかし、中世後期のペスト大流行(1346-47)から様相が一変する。 世俗的反ユダヤ主義がユダへの非難に重なってきた。 ユダヤ人は吝嗇で、ペスト(黒死病)の原因をまき散らした(井戸に毒物を投入した)という風聞が、ユダヤ人たちへの世俗的憎悪を煽った。 その結果、ユダヤ人たちの隔離、追放、集団虐殺が各地に広がった。 マタイ伝(27:25)に書かれた呪いの言葉(「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」)が、それらを正当化した。 そして、ユダヤ人たちへの憎悪が「最後の晩餐」でユダを非難する裏切り図法に応用されるようになった(Fig. 33)。 しかし、ダ・ヴィンチはそれらの裏切り図法をまったく使わなかった。


光輪について(About nimbus)


WGAで調べた限り、イタリアで1480年までに、聖母やイエスに光輪を描かなかった画家はほとんどいない(Table 17)。 ダ・ヴィンチの《カーネーションの聖母》(1480)は、意識的に描かれたという意味では、最初の人間的聖母子像( Fig. 40 A)である。

中世初期にゲルマン系の西ゴート王国(415-711)がアリウス派を国教としていたためか、ゲルマン系社会(現在のスペイン、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツに広がる地域)では、イエスを人と考える民間伝承が残った。 これらの地方で、イエスがマリア・マグダレーナを妻とし、子を生したという民間伝承は今も根強く残っている。 北方ルネサンスで、イエスが人間的に描かれることが珍しくなかったのはそのためであろう。 D.ブラウンの 「ダ・ヴィンチコード」があたかも史実であるかのように読まれたのも、そのような素地があったからである。 2006年に教皇庁は否定声明を出さざるを得なかった。

イタリアでダ・ヴィンチ前に、光輪のない聖母子像を描いた画家は一人(ジョヴァンニ・ベッリーニ)だけが確認できたが(WGA)、ダ・ヴィンチとは違って思想的意味があったとは思えない(注1)。 ダ・ヴィンチ後になると、イタリアにも光輪のない宗教画が徐々に出て来るが、それも例外的であり、急速に普及したというわけではない。 近代に入るまで、ほとんどの画家たちは少なくともイエスには光輪を使い続けた。 イタリアの画家たちにとって、イエスはあくまでも神だったのである。

注1 WGAを‘Virgin and Child’で、検索すると、1350年から1580年の間で113点が確認できる。 そのうち、光輪有りは79点、無しは34点である。 北方ルネサンスを除けば、《カーネーションの聖母》前に光輪が描かれていない聖母子像はベッリーニ(Giovanni Bellini、1430–1516)の模写絵一点のみである(Fig. 58 A & B)。

  








拡大                  拡大



Fig. 58. Two depictions for Presentation at the Templeby Bellini and Mantegna.

              It is usually considered that Bellini followed Mantegna in this subject.


(A) 1460-64, Giovanni Bellini (1430–1516), tempera on panel, 80 × 105 cm,

The museum of Fondazione Querini Stampalia, Venice, Italy.

           (B) c. 1455, Andrea Mantegna (c. 1431–1506), tempera on canvas, 68.9 ×

      86.3 cm, Gemäldegalerie, Berlin, Germany.


図58.ベッリーニ作とマンテーニャ作の「神殿への奉献」

     この主題において、ベッリーニはマンテーニャを模写したと思われる。


     (A) 1460-64、 ジョバンニ・ベッリーニ(1430年-1516年)、テンペラ、パネル、

        80×105 cm、イタリア、ヴェニス、クゥエリーニ・スタンパーリア財団美術

        館.

     (B) 1455年頃、アンドレア・マンテーニャ(1431年頃—1506年)、テンペラ、

        カンヴァス、68.9×86.3 cm、ドイツ、ベルリン、ベルリン絵画館.


 しかし、彼の場合は年代的な一貫性はない。 WGAにはベッリーニの聖母子像は25点が収載されており、そのうちで光輪有りが17点、光輪無しが7点、判定困難が1点(1510年制作の‘Madonna and Child Blessing’) である。 彼の場合、光輪の有無には年代的ばらつきがあり、それが画家の思想を反映しているとは思えない。 その時々の、依頼主(すべてが教会とは限らない)の希望に合わせたのかもしれないし、技術上の問題かもしれない。 イタリアルネサンスに関する限り、聖母子やイエス、聖人に意識的に光輪を使わなくなった最初の画家はダ・ヴィンチであることは、おそらく間違いない。


 

教皇権の失墜 Depreciation of the papal clericalism


美術史家の間で、ダ・ヴィンチが聖母やイエスに光輪を使わなくなったことを、異端性と結びつけて議論することはあまりない。 一般に、ルネサンス期の単なる流行と解釈されているようだ。 「あの時代の教会が、異端の絵画を受け入れるはずはない」という先入観もある。 カトリック教会による異端審問や魔女裁判があった時代である。 しかし、先述したように、中世後期からヴァチカンの支配力は相対的に弱体化し始めていた。

ローマ法王のグレゴリウス7世(在位:1073-1085)に破門されたドイツ王のハインリヒ4世(在位1056-1105、後に神聖ローマ帝国皇帝:在位:1084-1105)は、雪の降りしきるカノッサの城門前で素足のまま3日間も断食し、赦しを乞うという事件もあった(1077)。 それ以来、ローマ法王は聖職叙任権を確立し、聖界のみならず世俗社会の支配権を掌握した。 しかし、オットー4世のあとを継いでフリードリヒ2世が皇帝(在位:1220-1250)になると、力関係に変化が生じた。 ローマ法王のグレゴリウス9世(在位:1227-1241)が数度に渡って破門したにも関わらず、彼は皇帝の地位を失うことなく、カトリック教会のみならず、正教会(オーソドックス)、ユダヤ教、イスラム教までも支配下に置き、世俗権力が教皇権を上回るようになった。

他方、宗教改革の波も広がった。 信仰が基づくのは、法王の言葉ではなく、聖書に書かれた言葉であると考えたジョン・ウィクリフ(John Wycliffe, c.1320-1384)は、ラテン語の読めない庶民にも聖書を読ませるために英語訳を始めた。 この思想はヤン・フス(Jan Hus1369 - 1415)に引き継がれ、宗教改革の波は徐々に全ヨーロッパへと広がった。 ダ・ヴィンチがフランスに亡命した1516年のころには、マルティン・ルター(Martin Luther1483-1546)の宗教改革が迫っていた。 ルターは翌年に「95ヶ条の論題」を発表して、ヴァチカンの腐敗を糾弾した。 時代はすでに、ヴァチカンの意向通りには進まなくなっていたのである。

フランスと神聖ローマ帝国(ドイツ)がイタリアの支配権を巡って対立するころ、経済力にものをいわせて、メディチ家の次男ジョヴァンニ・デ・メディチ(1475 - 1521)が、レオ10世(在位;1513 - 1521)としてローマ法王に就任した。 彼は多くの画家をローマに招集し、システィーナ礼拝堂の天井画や壁画を描かせたが、なぜかダ・ヴィンチだけは仕事を与えられず、飼い殺しの状態におかれたことはすでに述べたとおりである。 レオナルドの異端性はヴァチカンにも届いていたのであろう。

カトリック教会も、世俗権力者、富裕な商人などの経済的支援なくして成り立ちが難しくなっていた。 フランス軍侵攻前のミラノも例外ではない。 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会もミラノ公ルドヴィーコの援助無くして運営できなくなっていた。 教皇庁でさえ、権威を守るために贖宥状(免罪符)の販売という擬似商業を始めていた。 


異端の図法が可能だった理由 (Why was the heretic pictorial methods possible?


 異端的な《最後の晩餐》が可能だった理由は二つ考えられる。 第一は、壁画の依頼主が教会ではなく、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァだったことである。 彼は教会のスポンサーであり、莫大な寄進をして、教会をスフォルツァ家の菩提寺とするため大規模な改修を命じた。 そして、ダ・ヴィンチは教会画家ではなく、そのミラノ公に雇用されていたのである。 その点では、《最後の晩餐》の向かいの壁に、「キリストの磔刑(1495年)」(Fig. 59)を描いたモントルファ−ノとは事情が異なる。彼は祖父の代からの教会画家で、スフォルツァ家に追従もしたが教会画家としては従順だった。 「キリストの磔刑」(Fig. 59)が完成したのを受けて、大改修の最後を飾ったのが、ダ・ヴィンチの壁画だった。 教会側も、モントルファーノが行ったようなミラノ公への追従までは予期していただろうが、図法の異端性までは予想していなかっただろう。 制作途上のダ・ヴィンチに干渉することはなかった。 教会にミラノ公の意向を拒否する選択肢は初めからなかったのである。


   
















拡大


Fig. 59.  ‘Crucifixion’, 1495, Giovanni Donato da Montorfano (c. 1460 - c.1503), Fresco,

     77 × 53 cm, Convent of Santa Maria delle Grazie, Milan, Italy.

               Two circles at left and right sides indicate Ludovico Maria Sforza (1450-1508),

               and his wife, Beatrice d’Este (1475-1497), respectively. She died two years after

               the completion of this Fresco. 




図59.「キリストの磔刑」、1495、 ジョヴァンニ・ドナート・ダ・モントルファ−ノ、フレスコ、

     イタリア、ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院.


           左と右にある楕円は、それぞれ、ルドヴィーコ・スフォルツァ(1450-1508)と彼の妻ベアト

           リーチェ・デステ(1475-1497)を描き入れていることを示している。 彼女はこの壁画が完成

           して二年後に死亡している。


もう一つの理由は、《最後の晩餐》は祭壇画ではなく壁画として描かれたことである。 祭壇画であれば、《岩窟の聖母》のように、納入前に検分し、受取を拒否することはありえた。 しかし、壁画は納入された状態で制作される。 完成、即ち納入を意味する。 拒否がありうるとすれば、制作前しかない。 それが不可能なら、完成後の修正しかない。 ダ・ヴィンチが、それを予期していた可能性はある。 修正が事実上不可能なフレスコ画ではなく、壁画にすると劣化しやすいテンペラ画で描かれたのはそれが理由の一つだったのかもしれない。 彼には《岩窟の聖母》の前科があった。 完成後に修正される可能性を予期していたとしてもおかしくない。 ダ・ヴィンチにとっては、おそらく完成時に満足できる状態であれば良かった。 しかし、「絵画は永遠に残るゆえに他の芸術に優る」と主張した彼が、湿度の高い食堂の壁に腐敗しやすいテンペラ画で描くのはいかにも不自然である。


異端的図法の後世への影響 (Possible influences to later depictions of the heretical methods


《最後の晩餐》は、教会の権威と三位一体を否定しただけではない、ユダの裏切りを、イエスを見捨てて逃げた他の使徒たちと同列の罪=人の原罪であるとした(注1)。

イエスを別とすれば、「最後の晩餐」の主要な登場人物は、ペテロ、ヨハネ、ユダの三人である。 それぞれの図法には、中世後期以来の決まりがあった。

1) ペテロ: 教会の権威を象徴する筆頭弟子としての優位性を示すため、側近としてイエスの隣に長老然として座った。

2) ヨハネ: 三位一体の証人として、またイエスに愛された弟子として女性的、あるいは美少年として描かれた。 多くの場合は、イエスと体を接し、身を寄せ、前に伏せ、あるいはイエスに視線を注ぐなどの姿で描かれた(注2)。

3) ユダ: 裏切りを非難するいくつかの複数の図法を組み合わせ、ユダの罪を強調する。

時代による流行はあったが、ダ・ヴィンチ前の500年間(中世盛期〜初期ルネサンス)に、このような図法が定着していた。 しかし、ダ・ヴィンチはこれらの図法をいっさい使わなかった(Tables 14 & 15)。 そして、イエスを含むすべての人物に光輪を描かなかった。 彼はイエスの人間性を描いたのである。 バッハの《マタイ受難曲》と同様に、それこそが今日の我々にも感動と共感を呼ぶ理由であろう。

ダ・ヴィンチ後の画家達は、彼の図法にどの程度の影響を受けたのであろうか。 結論を言えば、ダ・ヴィンチ後、近代前のロココ期までの約300年間で、ダ・ヴィンチの図法に影響を受けたと思われる描写は非常に少ない、厳密に言えば一人もいない。 アンドレア・デル・サルトとベルナルディーノ・ルイーニの二人が多くの影響を受けたことは明らかである。 しかし、彼らも三位一体を否定するダ・ヴィンチの図法だけは修正せざるをえなかった。 ルーベンスはユダを非難する裏切りの図法を避けたという意味でダ・ヴィンチの影響が見られる。 だが、他の点ではダ・ヴィンチを受け入れなかった。

注1 これらをもって、ダ・ヴィンチがキリスト教徒ではなかったとすることはできない。教祖を人と考え、あるいは教団組織の権威主義を批判し、最悪の罪人にも神の赦しがあると考えることが、キリスト教の本質を否定することにはならない。 イエス死後の原始キリスト教も、アリウス派が多数派だった初期キリスト教の時代も、生前のイエスを直接知っていた弟子達や、彼らから直接に布教された人たちがイエスを実在の人と考えていたであろうことは想像に難くない。 たとえば、仏教を含む多くの宗派では教祖の神格(仏性)は必ずしも必須ではない。 浄土真宗の例では、親鸞自身は教団を作らなかったし、本願寺創立にも関わっていない。 彼の言葉を唯円が聞き書きした「歎異抄」は蓮如によって禁書とされた。 キリスト教でも、聖書学者たちは「イエス言行録(Q資料)」があったと考えているが、歴史のどこかで失われた。 イエス自身の言葉と行動をまとめた記録であれば、それが最重要な聖典になってもおかしくない。 それが失われたということは、三位一体説を取る主流派に不都合とされ、禁書とされた可能性もある。 おそらく、処分されたか、門外不出とされたのであろう。 そのあたりのことはバルナバの福音書を検証する必要がある。 バルナバは使徒行伝(4:36) にも出て来るが、イエスは十字架上で死なず、人であって神ではなかったと記しているという。 現在のキリスト教は、本来であればパウロ教とでも呼ぶべき宗教であり、アタナシウス派へとつながる。 素直に考えれば、イエスを迫害し、直弟子でもなかったパウロの書簡が新約聖書で主要な聖典になっているということ自体が、キリスト教徒ではないものにとっては不思議である。 パウロはパリサイ派のユダヤ人だったが、死からよみがえった(復活した)イエスをみて改宗したことになっている。 彼は、ユダヤ教の習慣である男子の割礼を廃止し、異教徒への布教を容易にした。 イエスが人であり、ユダヤ教徒であったことは、イエスを直接知っていた弟子達には自明だったはずだ。 バルナバもおそらくそうした直弟子たちの一人だったのだろう。 パウロとバルナバの間に深刻な対立があったことも使徒行伝(15:35-41)に記されている。 そこでは、マルコを伝導に伴うかどうかで対立があったように書かれているが、単純にそんな問題のはずではないというのは容易に想像できる。 何らかのもっと深刻な問題があったのであろう。 バルナバの福音書がアリウス派の起原であり、それが現在のイスラム教につながる系譜だったという学説があってもおかしくない。 その意味では、バッハやダ・ヴィンチの思想は初期キリスト教のアリウス派に近かったといえる。 彼らが現在の世界に活躍していたなら、おそらくパレスチナのために作品を書いた(描いた)であろう。 そう考えれば、当時の彼らが迫害され、孤立したのも当然であった。

 

ルネサンスの終焉 (The end of Renaissance


一般には、ダ・ヴィンチ後に描かれた「最後の晩餐」は動的、人間的傾向を強めたと言われる。 そこにダ・ヴィンチの影響を観ることも不可能ではない。 しかし、カトリック教会が直面する諸問題 ─プロテスタントの台頭、神聖ローマ帝国軍によるローマ掠奪など─ のために、ヴァチカンが絵画に干渉する余力を失い、結果的に画家の自由度が増したと考えるほうが真相に近いのではないだろうか。

ラファエロやミケランジェロのスポンサーだったレオ10世(在位:1513-1521)の従弟にあたるクレメンス7世がローマ法王に就任(在位:1523-1534)してからのヴァチカンは悲惨だった。 ローマは15275月に神聖ローマ帝国軍に包囲され、プロテスタント系の傭兵達に追われた法王はサンタンジェロ城に逃亡し6月には投降した。 そして、ローマは掠奪の限りを尽くされた。 盛期ルネサンスを支えたローマ在住の画家や建築家たちも、逃亡するか殺戮された。 イタリア・ルネサンスが終焉したのである(注1)。

注1 盛期ルネサンスは、1400年代後半にはじまり、1520年代に終わったとするのが一般的である。 本稿では、ダ・ヴィンチの《カーネーションの聖母》(1478-1480)から、神聖ローマ帝国軍によるローマ掠奪とローマ法王の投降(15276月)までを盛期ルネサンスとするが、ラファエロの死(1520)をもって盛期ルネサンスの終焉とする説もある。 いずれにしても、盛期ルネサンスはカトリック芸術の最盛期であり、絵画芸術がもっとも花開いた時代であった。 しかし、教会の干渉も強かった。作品はしばしば検閲され、没収や破却処分された。 それ以降、バロック(16世紀末〜18世紀前半)までの過渡期を一般的にマニエリスムと呼ぶが、後期ルネサンスと呼ぶこともある。 盛期ルネサンス(特にミケランジェロ)の手法や様式(マニエラ)を模しただけという軽蔑の意味もあったが、現在では独自の表現様式があったと見直されている。代表的な画家として、ティントレット(1518-1594)やヴェロネーゼ(1528-1588)があげられる。


ダ・ヴィンチ後の「最後の晩餐」 (Depictions for the Last Supper after L. Da Vinci


ダ・ヴィンチ後、近代前に描かれた「最後の晩餐」は、WGAを中心に36点の色彩画を確認できる。 そのうち、同じ画家が複数の作品を描いている場合は、原則として最後の1点を取り上げ、さらに正教会系を除くと29点が残った。 ただし、これらの中にはルカ・シニョレッリ(c.1450-1523)の二点とパオロ・ヴェロネーゼ(1528-1588)の二点が含まれる。 前者は、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐(15495-98)》の直後に描かれたもの(1502)と、晩年(1523)に描かれたものである。 ダ・ヴィンチ後の20年間にどのような変化があったかを、同一画家の変化で見ることには意義がある。 後者では、異端審問にかけられ、「最後の晩餐」から「レヴィ家の饗宴」に作品名を変更させられた初期のもの(1573)と、晩年近くなって描かれたものを比較する事で、対抗宗教改革が画家に与えた影響を推測することが出来る。 フランス革命(1789)を起点とする近代後には、宗教画という分野自体が廃れてくるが、20世紀の代表作としてキュビズム(フォービズム)とシュルレアリズムから1点ずつを取り上げた。 合計すると取り上げたのは31点になる。 WGAから得たもの以外は、各図の説明文にURLを記した。

ルカ・シニョレッリ-1(Luca Signorelli;c. 1445-1523)


Fig. 60. 1502, Wood, Dimensions not given, Early

    Renaissance, Museo Diocesano Cortona,

   Arezzo, Toscana, Italy.

          

図60. 1502、木材パネル、サイズ表示無し、初期

    ルネサンス、コルトーナ司教区美術館、

    イタリア、トスカーナ、アレッツォ.


拡大

これは《最後の晩餐》の5年後に制作された。 しかし、ダ・ヴィンチから影響を受けた形跡はない。 あえて言えば、ペテロが手に持つナイフくらいである(Fig. 60)。 しかし、食卓には他のナイフもあり、食事用ナイフであると解釈できる。 しかも、このナイフの裏にはペテロの衣服の皺が透けて見える。 いかにも粗雑、応急的であり、事後に描き加えられた可能性もある。 ダ・ヴィンチ後であるにも関わらず、これが盛期ルネサンスではなく初期ルネサンスに属すとされるのも当然であろう。 ユダの裏切りは「漆黒の図法」、「光輪の図法」、「孤立の図法」で三重に強調され、ヨハネはイエスの前に伏せる。 ペテロと思われる白髪の弟子はヨハネの下座と、イエスの右となりに座り、ジョット(Fig. 27 A)の第2異書同図法が使われている。 全体の印象は、異書同図法の違いを除けば、ダ・ヴィンチ直前にペルジーノが描いた「最後の晩餐(Fig. 28 M)」とほとんど同じである。 シニョレッリは晩年にもう一度「最後の晩餐」を描いているが、いくつかの重要な違いがある(後述)。


フランシスコ・ヘンリケス(Francisco Henriques birth year unknown, active 1502-1518

   




Fig. 61. 1508, Oil on canvas, 121×89 cm, Northern Renaissance

   (Flemish), Museu Nacional de Arte Antiga, Lisbon, Portugal.


   図61.  1508年、油彩、キャバス、121×89 cm、北方ルネサンス

     (フランドル派)、国立古美術館、ポルトガル、リスボン.







拡大


ヘンリケスは第1異書同図法を使い、弟子達は円卓を囲む(Fig. 61)。 これは後にも現れるが、第1異書同図法の亜型である。 なぜなら、ヨハネはイエスの隣りではなく、イエスに抱かれるように膝のうえで伏せ、その結果、ペテロがイエスの隣りに座るからである。 イエスがユダに一切れの食べ物を与える(ヨハネ伝13:26)のは北方ルネサンス的であるが、光輪の図法、隠し袋の図法にはイタリア・ルネサンスの影響が見られる。


フランチァビジョ(フランチェスコ・ディ・クリストファーノ) Franciabigio or Francesco di Cristofano c.1482-1525) 



Fig. 62. 1514, Fresco, Dimensions not given, High

    Renaissance, Convento della Calza,

    Florence,  Italy.

    図62. 1514年、フレスコ、サイズ表示無し、

       盛期ルネサンス、カルツァ修道院、

       イタリア、フィレンツェ.



拡大


フランチャビィジョは古典的第1異書同図法を用い、裏切りの図法には聖書的図法と世俗的図法の両方が使われている(Fig. 62)。 動的描写は盛期ルネサンスの特徴であるが、ダ・ヴィンチほどに劇的な描写ではなく、ルネサンス初期から後期への過渡である。


イェルク・ラートゲープ (Jörg Ratgebc. 1480 -1526





   Fig. 63. 1519, Wood, Dimensions not given, Northern

      Renaissance, Staatsgalerie, Stuttgart, Germany.


   図63. 1519年、木材パネル、サイズ表示無し、北方

         ルネサンス、シュトゥットガルト州立美術館、

         ドイツ、シュトゥットガルト.







  拡大


イエスの右に座る弟子と、イエスの前に伏せるヨハネの次席に座る弟子が同様の衣装、風貌を示すことから、ラートゲープは第2異書同図法を用いていると考えられる(Fig. 63)。 ユダは中世的な図法で描かれる。 ユダが椅子を倒して立ち上がり、イエスが差し出す食べ物に口を付けるという図法は初期ルネサンスには見られなくなっていた。 イエスにも光輪が使われていないこと、世俗的裏切り図法が使われていないことなどは、北方ルネサンスの特徴である。


ルカ・シニョレッリ-2(Luca Signorelli;c. 1445-1523)


Fig. 64. 1523. No detailed

              information.


図64. 1523年. 

         詳細不明.

<http://thiswritelife.files.wordpress.com/2012/11/the-last-supper-luca-signorelli-1523.png>.


拡大


これは 、シニョレッリの最晩年に制作された。 全体の構図は前作(Fig. 60)とほぼ同じだが、いくつかの点にダ・ヴィンチ後の流行の変化が伺える。 前作では、ユダ以外のイエスを含む全員に光輪があったが、この描写(Fig. 64)にはイエスも含め、光輪がまったく使われていない。 ユダは「孤立の図法」で表現される。 ユダが全員の前に立たされる姿は、いかにも彼が法廷で裁かれているかのような印象を与える。 ペテロが持つナイフは透けていない。 ペテロをイエスの近くに配するために、ヨハネがイエスの膝に座らされ、第1異書同図法の亜型が使われている(Fig. 61参照)。 この位置関係であれば、ヨハネを通してイエスの言葉を質問するというのは不自然であり、ヨハネ伝に従っているとは言いがたい。


ヨース・ヴァン・クレーヴ(ヴァン・デル・ベケ) Joos van Cleve or van der Beke c. 1485–1540/1541




Fig. 65. 1520-25, Oil on wood, 45x206 cm, High

   Renaissance, Musée du Louvre, Paris,

   France.


  図65. 1520-25, 木材に油彩画、45×206 cm、

       盛期ルネサンス、ルーブル美術館、

       フランス、パリ.



拡大


ヴァン・クレーヴの「最後の晩餐」(Fig. 65)は、祭壇画「哀悼 (the Lamentation)」の下に飾り絵として制作された。 そこではマリヤなどが十字架から降ろされたイエスの遺体を囲んでいる。 クレーブはアントワープで活躍したオランダ人画家だが、イタリア・ルネサンスの影響を受けた。 ヨハネはイエスに上体を預け、ペテロはイエスの隣に座る(第1異書同図法)。 ユダが持つ袋はダ・ヴィンチと同様に卓上にあるが、「会計係の図法」(ヨハネ伝13:29)ではなく、裏切りの図法と判断した。 なぜなら、ユダの顔貌がサタンように描かれており、悪魔が持つ金=裏切りの報酬と考えるのが自然だからである(ヨハネ伝13:27)。

 

ハンス・ホルヴァイン(息子) Hans, the Younger Holbein (c. 1497 - 1543)



Fig. 66. 1524-25, Limewood, 115.5×97.3 cm, Northern

   Renaissance, Kunstmuseum, Öffentliche Kunstsammlung,

   Basel, Switzerland.


図66. 1524-25年、ライム材に油彩、115.5×97.3 cm、北方

    ルネサンス、バーゼル美術館、スイス、バーゼル.




拡大


画面には9人の弟子しか描かれていない(Fig. 66)。 異書同図法を使わず、ヨハネ伝に基づいて描かれている。 イエスの隣に座るヨハネは振り向いて、ペテロに視線を向けるが、イエスとの間を裂く楔はなく、ヨハネはイエスに体を接している。 「だれのことをおっしゃたのか、知らせてくれ(ヨハネ伝13:24)」というペテロの言葉にヨハネが振り向いた場面である。 ユダの孤立は視線で表わされる。


アンドレア・デル・サルト(アンドレア・ダニョロ・ディ・フランチェスコ) Andrea del Sarto or Andrea d'Agnolo di Francesco (1486 - 1531)

   




Fig.67. 1526-27, Fresco, 525×871 cm, High Renaissance-

            Early Mannierism, Convent of San Salvi, Florence,

            Italy.


図67. 1526-27年、フレスコ、525×871 cm、盛期ルネサンス-

           初期マニエリズム、サン・サルヴィ教会内サン・

          ミケーレ修道院、イタリア、フィレンツェ.



拡大


デル・サルトは、盛期ルネサンスから初期マニエリスムにかけて活躍した画家である。 ダ・ヴィンチ後に「最後の晩餐」を描いた画家のなかで、亡命中のダ・ヴィンチと実際に接触した、数少ない、あるいはおそらく唯一のイタリア・ルネサンスの画家である。 フランソワ一世に招かれ、フォンテーヌブローを訪れたときにダ・ヴィンチと会ったらしい(1518-19)。 この壁画(Fig. 67)には、ダ・ヴィンチの影響と思われる特徴が少なくない。 異書同図法を使わず、ユダをイエスの側近とし、ペテロはユダの下座に配される。 髪が黒く描かれているのはユダだけではないので、「漆黒の図法」ではない。 胸に手を当てる図法は、ユダの図法とは言えるが、どの福音書にもユダが胸に手を当てたとの記載はなく、画家の解釈による図法である。 その意味では、ダ・ヴィンチの「会計係の図法」と同様に裏切りの図法とは言いがたい。 イエスにも光輪がない点はダ・ヴィンチと同じである。 しかし、大きな違いもある。 ダ・ヴィンチを尊敬するデル・サルトですら、ヨハネとイエスくを分離し、間に楔を打つ図法は使えなかったということである。 ヨハネは身を乗り出し凝視する。二人の親密な関係が表現される。 デル・サルトにも、三位一体を否定する図法は使えなかったのである。


ベルナルディーノ・ルイーニ Bernardino Luini  (1480/1482 - 1532)


Fig. 68. c. 1529.

Chiesa di Santa

Maria degli  Angioli,  

Lugano, Ticino,

Switzerland.

(see also Fig. 36 A)


図68.16世紀初頭、スイス・ティチーノ州・

                                                                     ルガーノ、サンタマリヤ・デッリ・アンジェリ教会    

                                                                    (図36 A参照)。


拡大

<http://www.tripadvisor.com/LocationPhotoDirectLink-g188095-i20359465-Lugano_Ticino_Swiss_Alps.html>


この「最後の晩餐」は、ダ・ヴィンチへのオマージュとされている(Fig. 68)。 すでに述べたとおり、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》とは多くの共通点がある(Fig. 36 A & B)。 異書同図法を使っていないことだけでなく、個々の登場人物のジェスチャーに共通点が多い。 しかし、デル・サルト(Fig. 67)と同様に、ヨハネについてはダ・ヴィンチに従っていない。 ユダが右手に持つ袋は卓上に置かれてはいないが、体の前面に持っており、他に裏切りの図法が使われていないことからも隠し袋の図法ではない。 デル・サルトとルイーニを、ダ・ヴィンチと比較すると以下の様になる。

1)全体の構図と人物の配置、姿勢、ジェスチュアーが類似している。

2)三者とも異書同図法を使わない。 デル・サルトは、イエスを挟んでペテロをヨハネの反対側に配するがユダの下座に座らせる。 即ち、マタイ伝を否定し、ペテロの優位性を認めていない。 ルイーニはペテロをヨハネの下座に配しヨハネ伝に従う(ヨハネ伝13:24)が、異書同図法を使っていない。

3)ルイーニはユダに金袋を持たせるが、「隠し袋の図法」ではない。 デル・サルトはユダの髪を漆黒に塗るが「漆黒の図法」ではない。 黒髪の弟子はユダだけではない。 ユダの手は、マタイ伝(26:25)の「まさか、わたしのことではないでしょう」とイエスに問う場面を思わせるが、「ユダが胸に手を置いた」という記述は聖書にはない。 ダ・ヴィンチの「会計係の図法」と同様にユダを非難する図法ではなく、ユダを特定するための図法と考えられる。

4)デル・サルト、ルイーニともに、ダ・ヴィンチと同様にイエスを含む全員に光輪を使っていない。

5)しかし、デル・サルト、ルイーニともにヨハネについてはダ・ヴィンチを修正し、イエスとの親密な関係を描いている。 ルイーニのヨハネはイエスの胸(肩)に頭部を寄せ(ヨハネ伝13:23)、デル・サルトのヨハネは身を乗り出し、イエスを見つめる。


ルイーニとデル・サルトの「最後の晩餐」は、ダ・ヴィンチから約30年後のほぼ同時期に描かれている。 そのころには、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》が三位一体説を否定していることは知れ渡っていたのであろう。 レオナルドを尊敬していた画家たちも、「ヨハネの図法」だけは師に従えなかった。


ピーテル・コーク・ヴァン・アールストPieter Coecke van Aelst (1502 - 1550)



Fig. 69. 1531, Oil on panel, 75×82 cm, Norther

             Renaissance, Musées Royaux des Beaux-Arts,

             Brussels, Belgium.


図69.1531年、油彩、パネル、75×82 cm、北方ルネサンス、

        ベルギー王立美術館、ベルギー、ブリュッセル.




拡大


ヴァン・アールストは第2異書同図法を使う(Fig. 69)。 イエスの隣に座る「マタイ伝のペテロ」は、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ(ヨハネ伝13:24)」)とヨハネに依頼する場面を思わせるが、やや不自然である。 なぜなら、イエスの右隣りに座るペテロが、イエスの背中越しにイエスの左に座るヨハネに聞くことになる。 他方、ヨハネの次席に座る「ヨハネ伝のペテロ」は、イエスの声に耳を傾けているようには見えない。 しかし、ヴァン・アールストは、ジョット(Fig. 27 A)と同様に二人のペテロをほとんど同じ容貌で描いていることから、これが第2異書同図法とわかる。 ユダは自らを指差し、「(裏切り者とは)わたしのことではないでしょう(マタイ伝26:25)」とイエスに問う姿で描かれている。 デル・サルトと同様である(Fig. 67)。 ただし、ユダが独り食卓の反対側に座るのは伝統的な「孤立の図法」である。 ユダの驚き、動揺は椅子の傾きで表現される。 イエスを初め全員の頭上に光輪がないのは北方ルネサンスの特徴である。


ヤコポ・バッサーノ(ヤコポ・ダル・ポンテ) Jacopo Bassano or Jacopo dal Ponte 1510 - 1592



Fig. 70. c. 1546, Oil on canvas, 168×270 cm, High

             Renaissance, Galleria Borghese, Rome, Italy.


図70. 1546年頃、油彩、キャンバス、168×270 cm、盛期

         ルネサンス、ボルゲーゼ美術館、イタリア、ローマ.



拡大


ヨハネはイエスの膝に座り、頬杖をつく(Fig. 70)。 その結果、ペテロはイエスの隣席に座る。 そのうえで、手にナイフを持つ。 この図法はヨハネ伝に従っていると言えなくも無いが、第1異書同図法の亜型である(Fig. 61)。 イエスの左側に描かれた白髪または白髭の三人はどれもペテロとは思えない。 これらの席からヨハネに「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」と頼むのは無理がある。 イエスの左手に向って右手を向ける人物がユダである。 ユダは左手に袋を隠し持つ。 光輪はイエスだけに描かれている。



ピーテル・プールブス Pieter Pourbus 1523 - 1584



Fig. 71. 1548, Oil on oak panel, 46.5×63 cm, Northern

   Renaissance, Groeninge Museum, Bruges, Belgium.


図71. 1548年、 油彩、オーク材パネル、46.5×63 cm、北方ルネサンス、グルーニング美術館、

          ベルギー、ブルージュ.



拡大


プールブスは第1異書同図法を使うが、ヨハネは聖杯を手に持ち、イエスの前に伏せる(Fig. 71)。 ペテロは何かを持つが解像度が悪く判定できない。他にもこの描写には多くの謎がある。 右端の弟子は、盃を飲み干しているが、それがイエスの「毒杯」を象徴しているかのようにも見える。 左には、手紙のようなものを読む弟子と、ペンを取って何かを書く弟子がいる。 他の「最後の晩餐」にこのような例は無い 。 プールブスはフランドル派の北方ルネサンスに属すが、この「最後の晩餐」は北方ルネサンス的ではない。 北方ルネサンスでは、イエスにも光輪を描かないことが多く、ユダへの非難も一般に強くない。 しかし、プールブスはイエスに光輪を描いたうえ(ただし、後に加えられた可能性もある)、ユダの裏切りを最大限に強調する。 イエスによる裏切りの予告に驚いたユダが、椅子を倒して慌てて立ち上がり逃亡を図る。 それを阻止しようとする隣りの弟子が彼の裾を掴む。 そのユダを、部屋の出口でサタン(悪魔)が迎える。 「孤立の図法」が三重に強調されている。 伝統的な世俗的裏切り図法も使われている(「漆黒の図法」、「隠し袋の図法」)。

これほどに、ユダの裏切りを強調する描写は他に類を見ない。 このころのヨーロッパ各地、特にゲルマン系のプロテスタント地域で、「魔女」にたいする社会的ヒステリー現象が起ったことと関係あるのだろう。 このころに、魔女の新しい定義として定着した「サタンと契約しキリスト教社会を破壊する背教者」という概念がユダの描写に応用されたと考えられる。 ヨハネ伝の「最後の晩餐」の場面で、「サタンがユダに入った(13:27)」という記述はあるが、ユダの顔貌をサタンのように描いたクレーヴを別にすれば、サタン自身を実際に描き入れた作品はプールブスだけである(WGA)。

 

フアン・デ・フアネス Juan de Juanes (c. 1523 - 1579



Fig. 72. 1560s, Oil on panel, 46.5×63 cm, High

    Renaissance–Early Mannierism, Museo del

             Prado, Madrid.


図72. 1560年代、 油彩、パネル、46.5×63 cm、盛期

    ルネサンス-マニエリスム 、プラード美術館、

    スペイン、マドリッド.



拡大


フアネスはスペイン出身の画家だが、絵画はイタリアで学び、ダ・ヴィンチと同様にスフマート技法を好んだ。 様式としてはルネサンス的だが、ダ・ヴィンチの思想的影響はほとんどない(Fig. 72)。 彼は第1異書同図法を使い、ヨハネとペテロがイエスを挟むように身を寄せる。 ユダ以外に光輪が描かれる「光輪の図法」が使われている。



エル・グレコ El Greco 1541 - 1614



Fig. 73. 1568, El Greco, oil on panel, 43 × 52 cm, late

              Mannerism, Pinacoteca Nazionale di Bologna,

              Bologna, Italy.


図73. 1568年、エル・グレコ、パネルに油彩、43×52 cm、

         後期マニエリズム、ボローニャ国立絵画館、

         イタリア、ボローニャ.






拡大


グレコは、ヴェネティア占領下のクレタ島に生まれた。 本名はΔομήνικος Θεοτοκόπουλος (ラテン語表記でDoménikos Theotokópoulos)。 25歳ころまでにはイタリアに渡った。 そこで、ルネサンス様式の絵画を学んだが、ミケランジェロに批判的だったという。 後期マニエリズムを代表し、黒を基調する画家として知られる。 35歳ころにはスペインに渡り、フェリペ2世に仕えた。 「エル・グレコ」は、イタリア語でギリシャ人を意味する「Greco」に男性形定冠詞の「El」を付けたもの。 第1異書同図法が使われ、ヨハネの視線はうつむき気味にイエスに向けられる(Fig. 73)。 ユダの裏切りは、「孤立の図法」と「漆黒の図法」で強調される。 光輪はイエスだけに使われる。



パオロ・ヴェロネーゼ Paolo Veronese 1528-1588



Fig. 74. 1573, Oil on canvas,

   555 × 1280 cm Gallerie

            dell’Accademia, Venice,

            Italy.


図74. 油彩、カンヴァスに油彩、

         555×1280 cm、イタリア、

         ヴェニス、アカデミア美術

         館.


拡大

これは、当初、「最後の晩餐」と題されていたが、対抗宗教改革期のカトリックは享楽的傾向を嫌い、ヴェロネーゼを異端審問に召還した。 問題は神学問題というよりも、多くの登場人物が享楽的に振る舞うことに問題があるとされた。 「レヴィ家の饗宴(‘Feast in the House of Levi ’)」(Fig. 74)とタイトルを変える事でヴェロネーゼは許された。

これを「最後の晩餐」として観ると、イエス、ペテロ、ヨハネ、ユダは伝統的な図法で描かれており異端性はない。 第1異書同図法を使い、ヨハネはイエスの側で互いを見つめ合う。 ユダの裏切りは「漆黒の図法」、「孤立の図法」で表現される。



フレイ・ニコラス・ボラス Fray Nicolás Borrás 1530 - 1610



Fig. 75. 1570s, Oil on panel, 49 × 46 cm, Mannierism, Private

             collection.


  図75. 1570年代、パネルに油彩、49×46 cm、マニエリスム、個人蔵.







拡大


ボラスもスペインの画家で、フアネスの影響を受けている。 ユダが袋を卓上に持つ姿はダ・ヴィンチと同様だが、これが「会計係の図法」とは思えない(Fig. 75)。 なぜなら、「孤立の図法」と併用されているからである。 ただし、ボラスはユダの孤立を空間的にではなく、心理的に表現する。 ホルバインと同様に、ユダだけが誰とも視線を合わせていない(Fig. 67)。 第1異書同図法が使われている。 光輪はイエスだけに描かれ、ヨハネはイエスに身をゆだねる。



パオロ・ヴェロネーゼ Paolo Veronese 1528 - 1588


Fig. 76. c. 1585, Oil on canvas, 220 ×

            523 cm, Late Manierism-Baroque,

            Pinacoteca di Brera, Milan, Italy.


図76. 1585年頃、キャンヴァスに油彩、

      220×523 cm、後期マニエリズム-

       バロック、ブレーラ絵画館、イタリア、

      ミラノ.



拡大


ヴェロネーゼはイタリア・ルネサンスの画家とされることもあるが、一般には後期マニエリズムからバロックに分類される。 先にあげた「レヴィ家の饗宴(1573)」(Fig. 74)で、異端審問にかけられたことはすでに述べた。 こちらの「最後の晩餐」(Fig. 76)は、「レヴィ家の饗宴」の12年後に描かれている。 「レヴィ家の饗宴」(Fig. 74)とは違って、第1異書同図法が使われていない。 これが、前回の意趣返しなのかどうかはわからないが、ペテロがヨハネ伝に基づく場合は、通常はイエス、ヨハネ、ペテロの順に描かれるが、匿名の弟子がペテロとヨハネの間に立つ。 これは、ダ・ヴィンチの図法を思わせるが、ダ・ヴィンチはその弟子がユダであるから反教会の意図は明らかだが、この場合は明確ではない。 ユダはイエスの前で、床にひざまずき食べ物を受け取る(ヨハネ伝13:26)。 この図法は中世盛期に例がある(Fig. 26 B)。



オットー・ヴァン・ヴィーン Otto van Veen 1556 - 1629





Fig. 77. 1592, Oil on canvas, 350 × 224.7 cm, Onze-Lieve (O.-L.)-

              Vrouwekathedraal or Antwerp Cathedral, Antwerp,

              Belgium.

図77. 1592年、キャンヴァスに油彩、350×224.7 cm、フランドル派、

           アントワープ大聖堂、ベルギー、アントワープ.








拡大


ヴィーンは、ラテン語名のオットー・ヴェニウス(Otto Venius) または オクタヴィウス・ヴェニウス(Octavius Vaenius)としても知られる。 ルーベンスの師でもある。 ヴィーンは、中世後期に流行した円卓の構図で第1異書同図法を使う(Fig. 77)。 中央奥に座るイエスが手を伸ばし食べ物を与える(ヨハネ伝13:26)先に、ユダが上半身をねじり、黒い衣装をまとって座る。 視線を右に逸らし、孤立している弟子としても描かれている。 「漆黒の図法」、「孤立の図法」である。 他にも黒髪、黒衣の弟子はいるが、画面上に占める黒の面積がこれほど強調された例はない。 「イエスの手の図法」、「孤立の図法」が併用されていることからも、これを「漆黒の図法」と判定する。 ヨハネは首をイエスに傾け視線を送る。 光輪はイエスだけに描かれている。 この時代には珍しく、タイトルに似合わぬ和気あいあいとした食卓風景である。


ヤコポ・ティントレット(ヤコポ・ロブスティ) Jacopo Tintoretto or Jacopo Robusti 1518 – 1594



Fig. 78.  1592-94, Oil on canvas, 365 × 568 cm, late

              Mannerism-Baroque, Basilica di San Giorgio

              Maggiore, Venice, Italy.


図78. 1592-94年、キャンヴァスに油彩、365×568 cm、

        後期マニエリズム-バロック、サン・ジョルジョ・

        マッジョーレ教会、イタリア、ベニス.



拡大


ティントレットの「最後の晩餐」は、すくなくとも6点がWGAで確認できる(1547、1559、c.1570、c.1570、1579-81、1592-94)。 最初の描写はルネサンス時代に流行した構図を使っている。 テーブルが画面に平行に配置されイエスが、画面後方の中央に座るという構図である。 その後は、画面に対して次第に斜めに食卓が配置され、最後の描写がこれである(Fig. 78)。 光輪は、イエスだけにあるもの(2点)、使徒にもあるもの(4点)に分かれる。 晩年の作(Fig. 78)では、ユダの裏切りは「光輪の図法」と「孤立の図法」で表現される。 ヨハネはイエスの隣で頰杖をつき、視線をイエスに向ける若い弟子として描かれている。 イエスの右となりに座り、食べ物を与えられているのはユダではない。 これはマタイ伝(26:26)の、「イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子達に与えて…」(他に、マルコ伝14:22、ルカ伝22:19)の場面であろう。 ペテロはその背後に立つ白髭の老人と思われる。 ペテロの優位性は、伝統的図法では表現されていない。 イエスからパンを与えられる弟子の介添えをする高齢の弟子という設定である。 ティントレットは後期ルネサンスベネツィア派ともされるが、後期マニエリズムからバロックへの過渡期に活躍した画家である。

 

アロンソ・ヴァスケス Alonso Vázquez 1565 – c. 1608

   


Fig. 79.  1588-1603, Oil on canvas, Dimentions not given,

             Mannerism, Museo de Bellas Artes, Seville, Spain.


図79. 1588-1603年、キャンヴァスに油彩、サイズ表示無し、

        マニエリズム、セヴィリア美術館、スペイン、セヴィリア.





拡大



ヴァスケスは北方ルネサンスの画家ではあるが、16世紀のマニエリズムを代表する画家でもある。 彼は、ヨハネをイエスの膝に座らせ、ペテロをイエスの隣りに配す(Fig. 79)。 第1異書同図法の亜型が使われている(Figs. 61、70)。ユダは左手でテーブルの下に隠し袋を持つ。 ユダの右手は皿に向う。 視線は前方に向き誰とも合っていない(「視線の図法))。 体も誰とも接していない(「孤立の図法」)。 光輪はイエスだけに描かれる。



フランス・プールブス(息子) Frans Pourbus, the Younger 1569 – 1622



Fig. 80.  1618, Oil on canvas, 287 × 370 cm, Portrait

              painter, Musée du Louvre, Paris, France.


図80. 1618年、キャンヴァスに油彩、287×370 cm、

         肖像画家、ルーブル美術館、フランス、パリ.




拡大


プールブスは祖父、父親(同姓同名)から続く肖像画のスタジオを引き継いだ。 彼自身は1591年に、アントワープの聖ルカ画家組合に登録されている。 第1異書同図法が使われ、ユダは席を立ちイエスに向かい身を乗り出す(Fig. 80)。 彼の背後には隠し袋がある。 光輪はイエスだけにある。



シモン・ブーエ Simon Vouet 1590 – 1649




Fig. 81. 1615-20, Oil on canvas, Dimentions not given, French

             Baroque, Palazzo Apostolico, Loreto, Italy.


図81. 1615-20年、キャンヴァスに油彩、サイズ表示無し、

        フランスバロック、アポーストリコ館、イタリア、ロレト.











拡大


ブーエは23歳でイタリアに定住し、イタリア絵画(特にヴェロネーゼ)を学んだ。 後にフランスに戻り、フランスバロックの指導者として後進を育てる。 この描写は、古典的第1異書同図法に基づき、イエスは手を伸ばしてユダの口元に食べ物を差し出す(Fig. 81)。 ユダはそれをついばむように口元を寄せる。 ユダの腰には袋が下がる(「隠し袋の図法」)。



ダニエル・クレスピ Daniele Crespi  1598 – 1630




Fig. 82. 1624-25, Oil on canvas, 335 × 220 cm, Italian Baroque

   (Counter-Reformation), Pinacoteca di Brera, Milan, Italy.


図82.1624-25年、キャンヴァスに油彩、335×220 cm、イタリアバロック

   (対抗宗教改革期)、ブレーラ絵画館、イタリア、ミラノ.







拡大


クレスピは、対抗宗教改革の波が及んだころのミラノで活躍した。 若くして世を去ったが多くの作品が教会に残されている。 この「最後の晩餐」では、ヨハネはイエスの膝に抱かれ、ペテロがイエスの隣りに座る(Fig. 82)。 第1異書同図法の亜型である(Figs. 61、70、79)。 ユダには「孤立の図法」の一種である「視線の図法」が使われる。 ただし、視線が前方に向くという図法は、ヴェロネーゼ(Fig. 74)、ヴァスケス(Fig. 79)に続いて、三例目である。 しかし、これらの視線は前方を向けられているが、決して鑑賞者に向ってはいない。



ヴァレンティン・ド・ブローニュ Valentin de Boulogne 1591 – 1632

  


Fig. 83. 1625-26, Oil on canvas, 139 × 230 cm,

             Caravaggesque, Galleria Nazionale d'Arte Antica,

             Rome, Italy.


図83.1625-26年、キャンヴァスに油彩、139×230 cm、

         カラバジェスキ、ローマ国立絵画館、イタリア、ローマ.




拡大


ヴァレンティンは、ローマで活躍したフランス人画家である。 ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)の様式に影響されたカラバジェスキの一人である。 古典的な第1異書同図法が使われ、ヨハネはイエスの前に伏せる、ペテロはイエスの反対隣りに座る(Fig. 83)。 彼は白髭で表現される。 ユダは右手で背後に隠し袋を持ち、髪は黒いが他にも多くの弟子が黒髪で描かれているので「漆黒の図法」ではない。 イエスはユダに向けて右手を伸ばす。 光輪はイエスにも使われていない。


ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens 1577 – 1640

  


Fig. 84. 1631-32, Oil on canvas, 304 × 250 cm, Baroque,

             Pinacoteca di Brera, Milan, Italy.


図84.1631-32年、キャンヴァスに油彩、304×250 cm、バロック、

         ブレーラ絵画館、イタリア、ミラノ.









拡大


ルーベンスは、バロック期を代表するフランドル派の画家であり、外交官でもあった。 ヨハネはイエスの肩に身を寄せ、ペテロはイエスの反対隣に座る(Fig. 84)。 しかし、これは第1異書同図法と言いがたい。 ヨハネから4人目、ユダの近くに白髪の弟子が座っており、この位置から「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ(ヨハネ伝13:24)」とヨハネに頼むことは不自然ではない。 ルーベンスは第2異書同図法を使ったのである。

ルーベンスはイタリアを訪れ、盛期ルネサンスの絵画を学んでおり、特にダ・ヴィンチを研究したと言われる。 《最後の晩餐》から影響を受けていたとしてもおかしくない。 ルーベンスの「最後の晩餐」はユダの視線がユニークである。 ユダの視線で孤立を表現する図法はルーベンスが初めてではない。 すでに述べたように、ホルヴァイン(Fig. 67)、グレコ(Fig. 74)、ボーラス(Fig. 75)、ヴィーン(Fig. 77)、ヴァスケス(Fig. 79)、プールブス(Fig. 80)、クレスピ(Fig. 82)などの例がある。 しかし、ルーベンスの「視線の図法」は、視線が画家(あるいは鑑賞者)に向いているという意味では特異である。 ヴァスケス、クレスピもそれに近いが、視線は画家ではなく斜め上方に向いている(それぞれの拡大イメージ参照)。 ルーベンスはユダに仮託して我々(鑑賞者)にメッセージを送っているのである。 「あなたがたも罪人ではないか?」、「あなたがたも身に覚えがあるだろう?」と、ユダは我々に語りかけている。 それは、ユダの裏切りを弟子達の原罪と同列に描いた《最後の晩餐》に通じる思想である。



ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト Gerbrand van den Eeckhout 1621 – 1674

   


Fig. 85. 1664, Oil on canvas, 100 × 142 cm, Baroque

             (Dutch Golden Age), Rijksmuseum, Amsterdam,

             Netherland.


図85.1664年、キャンヴァスに油彩、100×142 cm、 バロック

        (オランダ黄金時代)、アムステルダム国立美術館、

        オランダ、アムステルダム.




拡大


エークハウトは、レンブラントがお気に入りだった弟子で、オランダの黄金時代を代表する画家である。 彼は第2異書同図法で、いかにもレンブラント風の光と陰を効果的に使う(ルミニズム)(Fig. 85)。 イエスによる裏切りの予言があった直後のシーンと思われるが、弟子たちの驚きは静寂に包み込まれ、ヨハネ伝のペテロがヨハネに声を潜めて「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ(ヨハネ伝13:24)」と依頼している。 ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》と近い表現であるが、イエスの隣りにはマタイ伝のペテロが描かれており、教会の権威は守られている。 ヨハネの背後に他の弟子が立つが、ヨハネとイエスの親密さを否定しているようには見えない。 ヨハネはイエスに体を接しており、二人の間に楔は打たれていない。 隠し袋を持つユダは、一人でイエスの前に立ち、闇に浮かび上がることで、彼の孤立が強調される。 光輪はイエスだけに描かれている。

 

ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ Giovanni Battista Tiepolo (1696 – 1770)


Fig. 86. 1745-47, Oil on canvas, 81 × 90 cm, last stage of

             late Renaissance, Musée du Louvre, Paris, France.


図86.1745-47年、キャンヴァスに油彩、81×90 cm、後期

        ルネサンス最終期、ルーブル美術館、フランス、パリ.





拡大


ティエポロは第2異書同図法を使い、画面右手前の弟子は漆黒の図法で描かれたユダの様にも見えるが、黒髪で黒い衣服を纏う弟子は画面右端にもいる。 この弟子は隣りのヨハネ伝のペテロとおぼしき弟子と語り合っている。 彼は孤立しておらず、「隠し袋の図法」など、他の図法も使われていない。 画面左手前の弟子は、誰にも視線を合わせず、背後に袋を下げてユダの条件を満たす。


フランツ・アントン・マウルベルチュ(マウぺルチュ) Franz Anton Maulbertsch or Maupertsch 1724 – 1796



Fig. 87. c. 1754, Oil on canvas, 135 × 223 cm, late

           Baroque-Rococo, Residenzgalerie,

           Salzburg, Austria.


図87.1754年頃、キャンヴァスに油彩、135×223

        cm、後期バロック-ロココ、レジデンツ

        ギャラリー、オーストリア、ザルツブルグ.




拡大


マウルベルチュはオーストリアのバロックからロココにかけて活躍した宗教画家である。 ここでは第2異書同図法が使われている(Fig. 87)。 ユダは画面の左端に座り、背後に袋を持つこと(「隠し袋の図法」)、視線が一人鑑賞者に向い彼の孤立が表現される(「孤立の図法」)。 しかし、顎を上げ、視線は下方に向い、ルーベンスと同じような思想性は感じられない。 イエスの光輪は不鮮明である。



フランチェスコ・フォンテバッソ Francesco Fontebasso 1707 – 1769



Fig. 88. 1762, Oil on canvas, 132 × 193 cm, Rococo,

             The Hermitage, St. Petersburg, Russia.


図88.1762年、キャンヴァスに油彩、132×193 cm、ロココ、

        ヘルミタージュ美術館、ロシア、サンクトペテルベルグ.


 


拡大


  フォンテバッソは、近代前のロココ期を代表するヴェニス派の画家である。 啓蒙主義時代のロシアに招かれ、サンクトペテルベルグの冬の宮殿に天井画を描いた。その時に、並行して描かれた油彩画の一つが「最後の晩餐」である(Fig. 88)。ロココ様式と人物の動きを除けば、基本的にはルネサンス期に流行した構図である。 第2異書同図法が使われ、ユダは「孤立の図法」、「漆黒の図法」、「隠し袋の図法」で裏切りを強調される。 光輪はイエスだけに描かれている。



近代後の「最後の晩餐」(Depictions for ‘The Last Supper’ in the Modern history


アンドレ・ドゥラン André Derain1880 – 1954



Fig. 89. 1911, Oil on canvas, 227.3 × 288.3 cm, Cubism, Art

             Institute of Chicago, Chicago, IL, USA.


図89.1911、キャンヴァスに油彩、227.3 × 288.3 cm、

       キュビズム、シカゴ美術館、アメリカ、イリノイ州、シカゴ.


<http://www.wikipaintings.org/en/andre-derain/the-last-supper-of-jesus-1911>





拡大


ドゥランは一般にフォービズム(野獣派)とされるが、広義のキュビズムに含まれる。 彼は異書同図法を使っていない(Fig. 89)。 イエスの右側に手を合わせて座る弟子がマタイ伝のペテロであると考えられなくもないが、ペテロの特徴である白髪、白髭はない。 ヨハネはイエスの肩に頬を乗せ、ユダは皿に手を伸ばす。 いずれも中世以来の伝統的図法である。 さらに、ユダの孤立は前面上方に向う視線と、となりの弟子に背を向けられることで表現される。 イエスの背後に丸く描かれた窓は、光輪を表象する。


サルヴァドール・ダリSalvador Dalí 1904 – 1989


Fig. 90. 1955, Oil on canvas, 267×166.7 cm,  Catalan

             surrealism, National Gallery of Art, Washington

             DC, USA.


図90.1955、キャンヴァスに油彩、267 × 166.7 cm、

        カタルニア派シュルレアリズム、ナショナル・

        ギャラリー・オブ・アート、アメリカ、ワシントンDC.

<http://en.wikipedia.org/wiki/The_Sacrament_of_the_Last_Supper>


拡大


The Sacrament of the Last Supper」と題されているが、伝統的な「最後の晩餐(the Last Supper)」ではない(Fig. 90)。 イエスと弟子たちの「聖餐式(あるいは秘蹟、The Sacrament)」というほうがふさわしい。 この作品は多くの論議を呼び、批判もあったらしい。 アンドレ・ブルトンは「ファシスト的思想」ゆえに、ダリをシュルレアリズム・グループから除名した(1938)が、ダリは今でもシュルレアリズムを代表する画家の一人とみなされている。 除名されたダリは、その後、ブルトンに反発するかのようにカトリシズムに向かい、実際に1950年になってカトリックに転向している。 しかし、信仰心はなく形式的な入信であったと言われている。 洗礼をうけた5年後に、この作品が制作された(注1)。 特徴は、すべての弟子たちが匿名化されていること、ペテロ、ヨハネ、ユダたちでさえ特定出来ないことである。 「最後の晩餐」の物語性を排除して信仰を純化した構図は、一見したところ斬新的に見える。 しかし、シュルレアリスト・グループから除名され、商業主義に走ったと批判されたダリが天才を自称する自分を正当化した作品とも解釈できる。

注1 「シュルレアリズム宣言(1924)」を起草したアンドレ・ブルトン(1896 - 1966)は、スペイン市民戦争(1936年7月 - 1939年3月)でカトリシズムを拒否するスペイン共和国制を支持し、フランコ反乱軍とそれを支援したファシズムを批判した。 ダリは反カトリシズム的作品を描いて、ブルトンに近づき、シュルレアリズム・グループへの参加を認められるが、彼のスカトロジー趣味と尻、肛門への拘泥はブルトンを辟易させた。 他方、シュルレアリズムは共産党から厳しい批判にさらされ、ブルトンらは共産党に加入することでその批判をかわそうとする。 しかし、スターリン主義の反啓蒙主義的独善に絶望したブルトンはメキシコ亡命中のトロツキーにシンパシーを感じるようになる。 そのころ、ブルトンはダリをファシスト的思想の持ち主としてグループから除名する(1938)。 ダリはアメリカに亡命し、商業的に大成功する。 ブルトンは彼の名前(Salvador)をもじって、「金(ドル)の亡者(avide à dallars、Avida Dollars)」と皮肉をこめて批判する。 1940年に入って、ダリはブルトンを意識してカトリシズムへと傾斜し、カトリックに転向する(1950)。 それはブルトンへの反論であり、脱「シュルレアリズム宣言」でもあった。 (「シュルレアリストたちの反カトリシズムと、ダリの《聖心》〜アンドレ・ブルトンへの『痙攣』がダリに家族との断絶をもたらした〜(松岡茂雄著); 神戸大学文学部『美術史論集』第九号掲載(2009年2月)」 )。 この絵画の解釈は筆者の責任である。

 

ダ・ヴィンチからの影響(Possible influence from L. Da Vinci


以上の31点を、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と比較し、要約すれば次のようになる(Table 18)。

1)ダ・ヴィンチを含む、すべての画家はヨハネ伝に基づいて描いている。 ヨハネ(=イエスが愛していた若い弟子)がイエスの近くに座るという記述はヨハネ伝にしかない(13:23)。

2)すべての画家はイエスとヨハネの関係を何らかの表現で親密な関係に描いている。 ダ・ヴィンチのように両者の間に逆三角形を挿入し、さらに楔を打って、二人を分離するという図法を使った画家はいない。 ルイーニやデル・サルトのようにダ・ヴィンチを尊敬する画家たちも同様である。

3) 異書同図法を使わない画家は例外的であり、中世後期以後、ダ・ヴィンチ(Fig. 29)前では、ジョットの例(Fig. 27 E)あるが、盛期ルネサンス後、近代前までに使わなかったのはホルバイン(Fig. 66)、デル・サルト(Fig. 67)、ルイーニ(Fig. 68)、ヴェロネーゼ(Fig. 76)の4例しかいない、

4) イエスに光輪が描かれていない描写は、北方ルネサンスで4例あるが(Figs. 63, 65, 69, 83)、イタリアでは、シニョレッリの晩年の作(Fig. 64)とデル・サルト(Fig. 67)とルイーニ(Fig. 68)の3例だけである。 光輪を描かない事が流行したとは言えない。

5) ダ・ヴィンチ後、ユダに裏切り図法を使っていないのは、デル・サルト(Fig. 67)、ルイーニ(Fig. 68)、ルーベンス(Fig. 84)だけである。


Table 18. Comparative studies of depictions for the Last Supper after L. Da Vinci.

       


Expansion


Abbreviations for the painter’s nationalities such as I, P, G, N, B, S, F and A stand for Italy, Portugal, Germany, Netherlands, Belgium, Spain, France and Austria, respectively. A symbol and abbreviations for Jesus-John relations such as , L, T, T*, and G correspond to ‘wedged or separated’, ‘laying’, ‘touching’, ‘touching but looking to the opposite side from Jesus’ and ‘gazing at Jesus’, respectively. J, M or JM stand for John, Matthew and both John and Matthew. It should be noted that all the depictions are essentially based on the story of Last Supper described in John (13:21-30). This is in particular true about John’s seat. If Peter is seated side by side to Jesus, as the first disciple of Jesus (Matthew 16:17-19), it is defined as the 1st pictorial compositional method, shown by ‘1’. This implies that the disciples, Peter and John, are based on Evangelists (Evs), Matthew and John, respectively. If Peter appears twice, one next to John apart from Jesus according to Ev. John and the other at the opposite side of Jesus from John, it is defined as the 2nd pictorial compositional method, shown by ‘2’. If Peter’s seat is based merely on Ev. John, or neither on Ev. John nor Ev Matthew, it is defined that no compositional methods are used, indicated by ‘’. When there is a nimbus or not for Jesus, it is indicated by ‘+’ or ‘’, respectively. (1) to (6) are pictorial methods expressing Judah’s betrayal as in Table 14. A symbol, ‘+*’, in the row for “(2) Judah’s hand (mouth)” means actually “Judah’s mouth”. Symbols such as ‘+’, ‘’, ‘+°’, ‘+*’, ‘’ in the row for “(4) Isolation” mean, respectively, ‘physical separation’, ‘standing alone’, ‘Satan-like face’, ‘looking away’, and ‘emphasis by multiple expression (BE values are counted as 3)’. In this row, ‘−*’ means Judah is looking at the painter or viewers exactly and thus it is not counted as a betrayal pictorial method. In case of “(5) Inky black” method to describe Judah’s betrayal, when inky black is used only for one figure in hair and/or clothes, it is judged that the method is employed. In same cases, it is judged also as positive even though plural figures painted black if only one figure is entirely black in both hair and clothes.  ‘+*’ and ‘−*’ in the row for “(6) Hidden bag” means a bag which Judah grasps is a betrayal and non betrayal methods, respectively (see text).  Other items and abbreviations are as in Tables 14 and 15. Respective color boxes indicate similarities with Da Vinci’s pictorial methods as follows. Red: pictorial expression about the relationship between John and Jesus, bleu : denial of Peter’s superiority as the first disciple as described in the Matthew (16:17-19), orange : St. John’s position based on Ev. John (13:23), yellow : no use of either compositional method-1 or -2, purple: no nimbus for Jesus, and green : no use of any pictorial methods against Judah’s betrayal. In case of Dali, all the disciples are anonymous and thus not applicable (NA).



18. ダ・ヴィンチ後に描かれた「最後の晩餐」の比較表




拡大


画家の出身(または活躍した)国は以下のとおりである。 伊:イタリア、ポ:ポルトガル、独:ドイツ、蘭:オランダ、ベ:ベルギー、西:スペイン、仏:フランス、墺:オーストリア。 イエスとヨハネの関係は次の通り。▽:二人は分離され間に楔が打たれている、伏:ヨハネがイエスの胸または前に伏せている、接:二人の体が画面上で接している、接*: ヨハネはイエスの反対を向くが画面上で二人は接している、視:ヨハネがイエスを視つめる。 「ヨ」、「マ」、「ヨマ」は、それぞれ、「ヨハネ伝」、「マタイ伝」、「ヨハネ伝とマタイ伝の両方」を意味する。「マ」に斜線がある場合は、筆頭弟子ペテロの優位性否定されている事を示す。 すべての描写は、基本的にヨハネ伝(13:21-30)に書かれた「最後の晩餐」の場面に基づいており、特にヨハネについてはイエスに最も近い席に描かれていることに注意する必要がある。 ペテロもイエスの隣りに座り、「マタイ伝」に基づき彼が筆頭弟子であることが表現されている場合は、ヨハネは「ヨハネ伝」に、ペテロはマタイ伝に基づくことから、第1異書同図法と定義する(「1」と表記)。 ペテロが二度描かれ、一人のペテロはマタイ伝によりイエスの隣りに、二人目のペテロがヨハネ伝によりイエスから見てヨハネよりも下座に、より離れて座る場合は、ペテロが「マタイ伝とヨハネ伝」の両方に基づき、ヨハネが「ヨハネ伝」に基づく。この場合を第2異書同図法と定義する(「2」と表記)。両者がヨハネ伝のみに基づく場合、あるいはペテロがヨハネ伝、マタイ伝とも矛盾する席に座る場合は、異書同図法が使われていないと判断し「—」で示した。イエスに光輪がある、またはない場合が、それぞれ「+」または「−」で表わされている。 (1)から(6)までの「裏切りの図法」は、表14と同様。「(2) ユダの手(口)図法」で「+*」の表記は、イエスの手からユダが「口」で直接に食べ物を受け取る場合、「−*」の表記は「ユダの手」がイエスから食べ物を受け取るのではなく、自分を指す場合である。 聖書にユダが自分を指差したという記述はないので単に「−」としても良いが、マタイ伝26:25にはユダが「先生、まさか、わたしではないでしょう」と言う場面があり、それを表現したと言えなくもないので「−*」とした。裏切りの図法としてはカウントしていない。「(4)孤立の図法」の「+」、「+´」、「+°」、「+*」、「⧻」は、それぞれ、「空間的隔離」、「立ち姿」、「悪魔の表情」、「視線」、「三重に強調された孤立(裏切りの強調の計算では3とカウントした)」を意味する。 ここで、「−*」は視線が正面の鑑賞者に向けられており、裏切り図法の一種としての孤立の図法ではないと判断した(本文参照)。 「(5) 漆黒の図法」は、黒髪、黒衣の弟子が独りだけ描かれている場合に適用した。 複数の弟子の髪、衣服に黒が部分的に使われている場合も、そのうちの独りだけがほぼ全身に黒が使われている場合には裏切りの図法と認定した。「(6) 隠し袋の図法」で、「+*」と「−*」は、金入れ袋を持っているが、それぞれ裏切りの図法と会計係の図法(または、裏切りの図法とは断定できない)と判定した(本文参照)。これらは「裏切りの図法」としてカウントしていない。「?」は解像度が低く確認できないことを示す。他の項目、略字、[BE]、[BB]、[BBI]については表14、表15と同様である。各色の意味は以下のとおりである。 赤: ダ・ヴィンチの図法で、イエスとヨハネの間に逆三角形と楔が打たれている図法、青:ペテロが筆頭弟子としての優位性(マタイ伝)が否定された図法、オレンジ:ヨハネがヨハネ伝に従ってイエスの隣りに座る図法、黄:異書同図法が使われていないこと、紫:イエスに光輪が描かれていないこと、緑:ユダに裏切りの図法が使われていないことを示す。ダ・ヴィンチ以外の行で、ダ・ヴィンチと同色が多い場合は、ダ・ヴィンチに思想的影響を受けた可能性が高いことを示唆する。 ダリの場合は、すべての弟子が匿名化されており、図法の判定対象外(NA).




ヴェネローゼが、二作目の「最後の晩餐」(Fig. 76)で、異書同図法を使わずペテロをイエスから三人目に描いたのはダ・ヴィンチを意識していた可能性はある。 もしそうであれば、最初の「最後の晩餐」(Fig. 74)で、異端審問にかけられたことと無関係ではないだろう。 ただし、ダ・ヴィンチではヨハネとペテロの間にはユダが座るが、ヴェロネーゼの場合は匿名の弟子が間に立つ(Fig. 76)。 席自体はヨハネの隣席にあり、ダ・ヴィンチほどのインパクトはない。

ユダだけが他の弟子たちと異なる方向に視線を向けて孤立を印象づける図法((4)の「+*」)が、マニエリズム後現れて、その後しばしば使われるようになった。 それらの図法は、大きく分けて二つのグループに分けられる。一方は、視線を画面の右方向に向ける図法であり、他方は画面の前方に向ける図法である。前者には、ホルバイン(Fig. 66)、グレコ(Fig. 73)、ボラス(Fig. 75)、ヴィーン(Fig. 77)が含まれる。 後者には、ヴェロネーゼ(Fig. 74)、ヴァスケス(Fig. 79)、クレスピ(Fig. 82)、ルーベンス(Fig. 84)、マウルベルチュ(Fig. 87)がいる。 この点に関して、ルーベンスのユダは特異的である。

ルーベンスのユダも視線を前方に向けるが、他の4人は視線を上下、横に逸らす。 一方、ルーベンスのユダは視線を鑑賞者向ける。 しかも、彼は他の裏切りの図法も使っていない。 そこには、ダ・ヴィンチとの思想的共通性─ユダの罪と人々の原罪を同列に扱う─が読み取れる。 ユダの視線は、鑑賞者たちに、「あなた達も同じはずだ」と語っている。

ダ・ヴィンチのヨハネの図法は、ルイーニのオマージュでさえ、「神学的に正しく」修正され、ヨハネはイエスに身を寄せる(Figs. 36 A & B; Fig. 68)。 デル・サルトのヨハネもイエスを見つめ、上半身をイエスに近づける(Fig. 67)。 ヨハネがイエスの反対に顔を向ける図法は、ハンス・ホルバイン(息子)とエークハウトの二例があるが、どちらの場合も、イエスとヨハネは分離されず、体を接しており、二人の間に楔はない(Figs. 66, 85)。 ダ・ヴィンチの図法は三位一体を否定しているという認識が広がったと考えられる。

 

結論(Conclusions


ダ・ヴィンチの影響を明らかに受けていると判定できるのはアンドレア・デル・サルト(Fig. 67)とベルナルディーノ・ルイーニ(Fig. 68)だけである(Table 18)。 ルーベンス(Fig. 84)もユダに裏切りの図法を使っていない点で、ダ・ヴィンチの影響が推測できる(Fig. 91)。


Fig. 91.  Possible influence from L. Da Vinci to A. del Sarto, B. Luini and P. P. Reuvens in not using betrayal methods for Judah.


       A vertical and horizontal axes are values of betrayal emphasis (BE) and Fig. Nos. in chronological order. Initials in red such as LDL, ADS, BL and PPR are L. Da Vinci, A. Del Sarto, B. Luini and P. P. Reubens, respectively.





日本語


図91. ダ・ヴィンチの影響を受けた画家たち: A・デル・サルト、B・ルイーニ、P.P. ルーベンス.


       縦軸は裏切りの強調(BE)度、横軸は年代順に並べられた図番号(最後の89を除き5の

 倍数だけが表示されている)。赤のイニシャル、LDL、ADS、BL、PPRはそれぞれ

 L. ダ・ヴィンチ、A. デル・サルト、P. P. ルーベンスの作品を示す。


ルイーニはロンドン版「岩窟の聖母」(Fig. 42 B)の制作に助手として係ったとも言われている。 デル・サルトは、盛期ルネサンスから初期マニエリズムにかけて活躍したフィレンツェ出身の画家で、ダ・ヴィンチの工房で働いたことはない。 ただ、彼はフランソワ1世に招かれ、パリ郊外のフォンテーヌブローに赴いたことが知られている(1518-19)。 そこで、ダ・ヴィンチとの接触があったと推測されている。

しかし、その彼らでさえ、ヨハネとイエスの関係について、ダ・ヴィンチの図法を踏襲することは叶わなかった。 イエスを人間的に表現し、かつ三位一体の否定につながる図法は、アタナシウス派以来のキリスト教にとってはタブーだった。

ドイツに、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》が紹介されたのは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe;1749 - 1832)の時代に下らねばならない。 ドイツを出国したことも無いバッハがダ・ヴィンチの思想について何らかの情報を持っていたとは考えにくい。 宗教的に迫害され、抑圧された二人の芸術家が、それぞれ独立に同じ思いを作品に込めたのである。 たとえ、時代、国、ジャンルが異なっていても、真に偉大な芸術家であれば、芸術に干渉する権力に反発したとき、同じような思想、似た表現に至るのは必然だったのだろう。 現代でも、現実の世界と苦闘するダ・ヴィンチやバッハような芸術家はいるはずだ。 彼らが、どのような思想を抱き、どのように表現するかを考えてみたい。 そのような音楽家が、かつてのソビエト連邦に存在した。


 


Back                目次                 Next