7. 遺言四部作 ( Four testament works

─《モナリザ》、《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》、《裸のモナリザ》─


(─Mona Lisa, The virgin and child with St Anne, St John the Baptistand  

      Mona Lisa in nude─)



  1. a)ダ・ヴィンチの遺言 (Da Vinci’s testament


 ダ・ヴィンチは1519年の4月23日に遺言書を作成し、翌月2日にアンボワーズ近郊のクルーの館で67歳の生涯を終えた。 そこに、フランソワ1世の姿はなかった。 最期を看取ったのは忠実な弟子、フランチェスコ・メルツィ(Francesco Melzi)である。 彼は遺言執行人に指名され、ほとんどの遺産を相続した。それらには、ダ・ヴィンチが最後まで手元に置いていたいくつかの絵画と鏡面文字で書かれた50冊の手稿が含まれる。 愛弟子のサライ(Gian Giacomo Caprotti da Oreno, or Andrea Salaì)にはイタリアの葡萄園が遺贈された(注1)。 メルツィはイタリアへの帰国旅費をつくるために、三点の絵画をフランソワ1世に売却し、それらはのちにフランスの国有財産となった。

イタリアに持ち帰られた手稿は、一部が清書、編集されたが、出版されることはなかった。 「絵画は永遠に残るが、その師(モデル)たる自然(肉体)はいずれ朽ちる。 ゆえに絵画は自然に優る」という言葉は、画家を創造主(神)の上に置くかのような思想であり、異端のそしりをうけかねないものだった。 息子のオラツィオ・メルツィは、48冊の手稿を相続したものの、その価値に気づくことなく、無頓着に他人に譲り、あるいは売り払った。その結果、現在までに確認されている手稿は19冊にすぎない。 ダ・ヴィンチの死から230年後、バッハの死に際して、長男のフリーデマンが相続した楽譜も同様の運命を辿ることになる(注2)。

ダ・ヴィンチにも、バッハの《ロ短調ミサ曲》に相当する遺言の作品があるのか? あるとすれば、それは宗教画か世俗画か? あるいは、聖と俗の境界を超えた4部構成の《ロ短調ミサ曲》のように、一つのテーマに収斂する複数の作品なのか? その問いに答える前に、《ロ短調ミサ曲》を参考に、芸術における遺言作品の条件を定義しておきたい。


注1 ダ・ヴィンチは、メルツィ(1491-1568/1570)とともに、もう一人の養子であるサライ(本名、ジャン・ジャコモ・カプロッティ・ダ・オレノ、1480–1524)もフランスに同伴したが、彼はダ・ヴィンチの死の前年に、ダ・ヴィンチが所有していたミラノの葡萄園を管理していた父親のもとに帰国していた。 彼は、ダ・ヴィンチの死から5年後に、決闘で受けた傷がもとで、師の後を追うように亡くなった。 「サライ」はダ・ヴィンチが名付けた愛称で、子供の頃からたわいのない盗癖があったことから、レオナルドが「悪魔っ子」程度のニュアンスで名付けたらしい。 サライがダ・ヴィンチの養子になったのは10歳のときである。 ダ・ヴィンチとは同性愛(少年愛)の関係にあったといわれている。 美しい容貌の横顔がダ・ヴィンチのスケッチで残されており、最後の作品である《洗礼者聖ヨハネ》のモデルは彼であると信じられている。 メルツィがダ・ヴィンチの遺稿を編纂し、師が理想とする美を後世に伝えようとしたのに対し、サライは画家としてダ・ヴィンチの理想美を残そうとしたとされる。

      《モナリザ》のモデルもサライであるという説がある。 三年前に、AFPが次にように報じたこともあるが、支持は多くない。 ローマ発2011年2月2日付 (時事通信)。

   「名画《モナリザ》のモデルは男性=ダビンチと同性愛関係にあった弟子?

  イタリアのルネサンス期の巨匠、レオナルド・ダビンチ作の名画《モナリザ》のモデルは男性で、そのモデルとダビンチはおそらく同性愛の関係にあった-。

   同国文化遺産委員会のビンチェティ委員長が2日、記者会見して新説を披露した。 同委員長によると、モデルとみられるのはダビンチの女性的な徒弟の通称サライ、本名ジャン・ジャコモ・カプロッティ。 ダビンチに25年間も従い、巨匠のモナリザの制作に主要なインスピレーションを与えたという。 同委員長は2人は同性愛の関係にあったのではないかと推定している。 同委員長は、サライは《洗礼者聖ヨハネ》などダビンチの数点の絵画のモデルになっているが、それらに描かれた人物の顔とモナリザのそれを比較すると、鼻および口の特徴が極めて似ていると語った。 同委員長はさらに、モナリザの肖像を詳細に調べた結果、目の中に小さく書かれた「L」と「S」の文字を発見したが、これはレオナルドとサライの頭文字で、サライがモデルであることを示すものだと強調した。 しかし、これらの主張に対しては、モナリザを展示しているパリのルーブル博物館の専門家が直ちに反論。 専門家はルーブルでは2004年と09年の2回、モナリザの可能な限り詳細な調査を行ったが、文字や数字の書き込みは見つからなかったと述べた。 また、モナリザの絵は木版に描かれ、時代を経て多くの微細なひび割れが生じており、それが文字や数字に見えてたびたび『うがちすぎる見解』をもたらしてきたと指摘している。」

注2 フリーデマンWilhelm Friedemann Bach, 1710-1784が相続した楽譜のほとんどが、同様の運命を辿り、失われたとされる。 しばしば、酒代に消えたとすら酷評される。 しかし、すでに述べたように、筆者はフリーデマンにはやや同情的である。現在に残る楽譜は、売却、献呈されたものを除けば、大きく分けて次男のエマニュエルが相続したもの、妻のマグダレーナが相続したもの、あるいは弟子たちの筆写譜、パート譜として残ったものに分かれる。 《マタイ受難曲(完成稿)》、《未完のフーガ》、《ロ短調ミサ曲》などの自筆譜はエマニュエルが、教会カンタータの多くは妻のマグダレーナが相続した。 マグダレーナは貧窮のなかで、生活保護を受けるために、教会カンタータの所有権放棄を迫られ、楽譜は聖トーマス教会に没収された。 《ヨハネ受難曲》初演稿は、おそらくバッハ自身が生前に破棄したと考えられるが、弟子たちが編纂した第4稿やパート譜などから復元されている。 《マタイ受難曲(初演稿)》は娘婿であり、弟子でもあったアルトニコルの筆写譜として残る。 《平均律クラヴィーア曲集第二巻》の自筆譜は現存せず、弟子たちによる筆写譜として残り、そこから派生した多くの版がある。 ベルファスト大学の富田庸は200点近い筆写譜から批判的系統学による原譜の復元を試みている。


遺言作品(The testament works

《ロ短調ミサ曲》については別に後述するが、作曲動機について多くの謎が指摘されており、バッハ学者の間で論争が絶えない。 カトリック系のドレスデン宮殿に向けた猟官運動説や、壮大なカトリックミサ曲説がある一方で、ルター派教会のために作曲されたとする説や、宗派を超えた全教会的ミサ曲という説もある。

冒頭のキリエは、1733年に没したザクセン選帝侯の追悼のために作曲され、ドレスデン宮殿(カトリック系)に献呈されている。 バッハは聖トーマス教会(ルター主義正統派)から「迫害」を受けていたので、ドレスデンから宮廷音楽家の称号を得ることを望んでいた。 その意味では猟官運動説にも一理ある。

故小林義武は、バッハ学の分野で科学的業績を残した希有な日本人研究者である。 彼は、《ロ短調ミサ曲》について、バッハは実践的音楽家であり、《ロ短調ミサ曲》も実際の演奏を前提に書かれているとした。 そして、カトリック的側面とプロテスタント的側面を併せ持つ「全教会的ミサ曲」説を提唱した。 しかし、不可解なミサ典礼文の改変、二時間を超える演奏時間、4部構成の形式などを考えると、ミサ礼拝(5部構成)での使用は難しい。 当時のルター派教会が受け入れるとも考えにくい。 なぜなら、全体的にカトリック的であるというだけでなく、「catholicam(カトリックの)」という語が第二部第7楽章で5小節に渡って強調されているからである。 結論を言えば、《ロ短調ミサ曲》はカトリックから見れば、プロテスタント的であり、ルター派から見ればカトリック的である。 おそらく、どちらの教会でも演奏は不可能だったはずだ。 その意味では全教会的というより、むしろ反教会的(少なくとも非教会的)である。

絶筆と推定される第二部第4、5楽章には、衰えた視力(糖尿病性網膜剥離に起因する硝子体出血と推測される)で必死に書きあげられた跡があり、小林によればバッハらしくない乱れた筆致で書かれている。 これらの状況から、バッハが生前に演奏を意図していたとは考えにくいのである。 そこから読み取れるのは、目的は何であれ、死ぬ前に完成したいという執念のようなものである。 その意味では、バッハにとって、《ロ短調ミサ曲》は《未完のフーガ》よりも完成させるべき優先順位が高かったことになる。 小林の研究には瞠目するが、生前の演奏を前提に書かれたという点には疑問が残る。 たしかに、ミサ典礼文に曲を付け、ミサ礼拝に使用不可能な「ミサ曲」を書いたとするのは矛盾している。 結論的に言えば、《ロ短調ミサ曲》は、「ミサ曲」に名を借りた反教会曲であるとするほうが合理的である。

小林によれば、《ロ短調ミサ曲》はバッハ最晩年の1749年に完成した。 最初にサンクトゥスが書かれてから25年の歳月が流れていた。 それだけの歳月をかけ、死の直前まで取り組んでいたことを考えると、実際の演奏云々を議論する以上に、何らかのメッセージを後世に遺したいというバッハの強い意志が伝わって来る。


バッハが生まれた17世紀の初め、ドイツ北部でプロテスタントとカトリックの衝突があった。 それをきっかけに、三十年戦争(1618-48)が始まり、ドイツの人口が1800万人から700万人に激減した。 3人に2人が犠牲になったことになる。 バッハ生存中にも、シレジア戦争があり、第二次シレジア戦争では、プロイセン(プロテスタント)とオーストリア(カトリック)が戦って、バッハの住むライプチッヒも、一時プロイセン軍に占領された。これらを単純な宗教戦争とは呼べないが、背景には、常にカトリックとプロテスタントの対立が影を落としていた。 ルターは宗教改革初期には、信仰のよりどころとして「聖書のみ(Sola scriptura)」を主張し、聖伝(聖人の言い伝え)や法王の言葉を聖書と同列に扱い、「免罪符(贖宥状)」を正当化するヴァチカンを批判した。 しかし、彼を慕う農民たちが反乱(農民戦争、1524)を起こしたとき、ルターは領主たちを支持し、農民への殺戮を赦した。結果的に、ルターは領主たちの信頼と支持を得るようになり、ルター主義の布教にとって有利な状況となった。

バッハ自身も、ライプチッヒ初期までは、教条的ルター主義者だった。 しかし、当の聖トーマス教会(ルター主義正統派)とライプチッヒ市参事会は、彼の音楽的才能を評価することが出来なかった。 《マタイ受難曲》初演のころから、彼の異端性を問題にするようになり、受難曲演奏禁止処分や給与カットでバッハを迫害するようになった。 その彼が死を賭して完成させたのが《ロ短調ミサ曲》である。 そこには、ブランデンブルグ協奏曲第1番〔BWV1046〕第1楽章のモチーフが署名として書き込まれた。 以上を参考に、芸術的遺言作品を定義するなら次のようになるだろう。


条件1: 生前に、依頼主に売却や納入(献呈)がされていない、

条件2: 死後にも、依頼主への売却や納入が予定されていない、 

条件3: 生前に公開(公開演奏、公開展示)されていない、

条件4: 作者を特定できる確実な証拠がある、

条件5: 同時代には受容されない後世へのメッセージがある。


以下、これらの条件をダ・ヴィンチ作品にあてはめて考察する。


条件の検証(Validity of the conditions

ダ・ヴィンチ作であると100%断言できる完成画は四点しかない(条件4)。 《最後の晩餐》と、彼が最後まで手元に置いていた《モナリザ》、《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》の三点である。 しかし、《最後の晩餐》は条件1〜3を満たさない。 バッハの《マタイ受難曲》と同様に、この作品は作者の強いメッセージを含んではいたが、遺言作品であるとは言えないのである。 メッセージはあくまでも同時代に向けられており、壁画として公開されていた。 残りの三点が、条件1〜4を満たすことは明らかである。 《モナリザ》と《聖アンナと聖母子》は、当初は依頼作品だったが、何らかの理由で依頼主には納入されず、死後に届けるようにも遺言されなかった。 メルツィはそれらを相続したものの、旅費を作る為にフランソワ1世に売却した。 しかし、ダ・ヴィンチがそれを遺言で指示したわけではない。 《洗礼者聖ヨハネ》の制作経緯は明らかではないが、これも条件1〜4を満たすことは間違いない。

問題は条件5である。 これら三点の作品に、後世へのメッセージが込められているのか、 あるとすれはどのようなメッセージか。 言うまでもなく、《モナリザ》は世俗画であり、《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》は宗教画である。 三点の作品には、《ロ短調ミサ曲》のような同一テーマに収斂するメッセージがありうるのか。 これらは、いずれもレオナルドがイタリアからフランスに持ち出したものである。 それを、「ミラノを占領したフランソワ1世が『戦利品』のごとく、ダ・ヴィンチごと掠奪してフランスに盗み去った」とする見方もある。 実際に、そのように考えたイタリア人が、《モナリザ》をルーブル美術館から盗み出し、イタリアに持ち帰ったという事件も起きた。

しかし、ダ・ヴィンチにも、《岩窟の聖母(Fig.42 A)》の訴訟事件で頼っていたルドヴィーコを失ったばかりか、彼を裏切ったという負い目もあったはずだ。 人体解剖を異教の秘術として告発され、彼はヴァチカンからも異端視されていた。 イタリアにいづらくなっていたのである。その意味で、フランソワ1世の誘いは渡りに船だった。 おそらく、彼の心理は亡命に近いものだったのだろう。 その「亡命」に際して持ち出された作品に、作者の強い思い入れがあったとしてもおかしくはない。 しかし、それだけで、これらの作品に後世へのメッセージがあったとは即断できない。 問題はその内容である。


通常の遺言は文章として記される。 ミサ曲の場合は歌詞があるので、そこに書き換えや逸脱があれば解釈上のヒントになる。 しかし、ダ・ヴィンチが三点の絵画についてふれた文章はない。 その意味では、ダ・ヴィンチの手稿、「絵画論」が重要なヒントになる。


制作年代(The creation dates

《モナリザ》、《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》の制作年代は、研究者による多少の違いはあるが、それぞれ1503-05年、1510年、1513-16年ころと考えられている(Table 17)。 各作品には約5年の開きがあるが、いずれもイタリア出国時(1516)には完成していたことになる。 しかし、これらの制作年代は、別の謎を生む。 その謎は、とくに《モナリザ》について顕著だった。 制作年代への疑問から、珍説、奇説を含む数多くの異説が生まれたのである。

疑問の一つは、依頼作品であった《モナリザ》と《聖アンナと聖母子》を、ダ・ヴィンチは、なぜ死ぬまで手元に置いたのか、置くことが出来たのかである。 注文作品であれば、完成後には納入されるはずである。 しかし、ダ・ヴィンチはそれらをフランスに持ち出し、死ぬまで手放さなかった。 それを説明するために提唱されたのが未完成説である。 しかし、《モナリザ》が13年間も完成しなかったとすれば、そのこと自体も謎である。 ところが、現在残っている作品は明らかに完成している。 少なくとも、納入できないほどに未完成ではない。 それにも関わらず、死後に依頼主に届けるようにも遺言されていない。



  1. b) 《モナリザ》の謎 (The  mystery of  Mona Lisa)


《モナリザ(Fig. 44)》は、世界でもっとも多くの人が鑑賞し、模写した絵画である。 しかし、この肖像画の制作経緯については謎が多かった。 当時としては異常とも言える「謎の笑み(mysterious smile)」や「下ろされた髪型(loose hair)」が、議論をさらに複雑にしている。 その中でも、特に耳目を集めていたのがモデルの特定である。 ダ・ヴィンチが《モナリザ》を16年も手元に置いていたことで、彼とモデルの間には特別の関係があったと考える美術史家は多かった。 彼らはリザ夫人説を否定し、レオナルドの生母説、養母説、愛人説、あるいは愛弟子サライ説や自画像説などを提唱した。




 














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Fig. 44. Mona Lisa (aka La Gioconda), 1503-05/06, L. Da Vinci, oil on panel, 77 × 53 cm, Musée du Louvre, Paris, France.


図44.《モナリザ》(別名《ラ・ジョコンダ》)、 1503-06、 L.・ダ・ヴィンチ、油彩画(木板パネル)、77×53 cm、フランス、パリ、ルーブル美術館.



《モナリザ》:リザ夫人の肖像(Mona Lisa : The portrait of Mrs. Lisa

《モナリザ》のモデルとして、一般に信じられているのはリザ夫人説である。夫は、フィレンツェの絹布商人だったフランチェスコ・デル・ジョコンド(Francesco del Giocondo)である。彼は、15歳のリザ・ゲラルディーニ(1479-c.1542)を、三度目の妻として迎えた。 彼女は23歳のときに次男(アンドレア・デル・ジョコンド)を出産し、その祝いと新居の購入、転居を記念して、夫がダ・ヴィンチに妻の肖像画を依頼したとされる。 イタリア語で、この絵を《ラ・ジョコンダ(La Gioconda)》と呼ぶのもそれが理由である。 もっとも、イタリア語で姓を女性形に変化させ、夫人やその肖像に使うという習慣はない。 ダ・ヴィンチ自身がこの絵を《モナリザ(Mona Lisa or Monna Lisa)》と呼んだという記録もなく、長い間、ヴァザーリの記述だけがこの説の根拠だった(注1)。

だが、今世紀に入ってまもなく、リザ夫人説を裏付ける証拠が、ドイツで発見された。 それは決定的な証拠と言えるものだった。 ハイデルベルグ大学図書館が所蔵する1477年版キケロ全集のなかでギリシャ時代の有名な画家アペレスに言及するページの余白に、走り書きが見つかったのである。 そこには、1503年10月付けで、アペレスとダ・ヴィンチの画風について、「ダ・ヴィンチが描いているリザ・デル・ジョコンドや聖アンナの頭部に、(アペレスと似た)その画風を見ることができる」と書かれていた(注2)。 これによって、その当時、ダ・ヴィンチがリザ夫人の肖像を描いていたことは確実となった。 この記述は、ヴァザーリの50年近く前であり、ダ・ヴィンチの生存中である。 内容的には、ヴァザーリの記述と矛盾せず、その肖像に該当するのは《モナリザ》しか考えられない(Fig. 44)。

しかし、疑問が完全に解消されたわけではない。 この発見によっても、依頼作品であった《モナリザ》が、完成後も依頼主に納入されなかった理由を説明できない。 逆に、謎は深まったとも言える。 《モナリザ》の未完成説や、別人説を提唱する研究者が、今も絶えない理由はそこにある。

しかし、それらの異説に証拠があるわけではない。 消去法で考えれば、残る可能性は限られてくる。 依頼主が受け取りを拒否したのである。 しかし、その可能性が、美術史家の間で真剣に検討された様子はない。


注1 ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511-1574)は、1550年に出版した著書『画家・彫刻家・建築家列伝』で、「フランチェスコ・デル・ジョコンドが妻であるリザの肖像画をレオナルドに依頼した」 と記述している。 しかし、これには根拠が記されておらず、ダ・ヴィンチの死後31年たってからの出版ということもあって長く疑問が持たれていた。

注2 ハイデルベルグ大学の図書館司書、A. シュレヒタ−博士(Dr. Armin Schlechter)が、2005年に大学図書館の蔵書カタログを作成していた時、この走り書きを発見した。 記載者はアゴスティーノ・ヴェスプッチ(Agostino Vespucci)という実在の人物で、筆跡も多くの書簡によって裏付けられている。 キケロ(Marcus Tullius Cicero, 106b.c.-43b.c.)は共和制ローマ時代の哲学者、政治家で、そのキケロがギリシャ時代の画家であるAppellesについて記した個所の右余白に手書きの注釈として、ヴェスプッチはレオナルド・ダ・ヴィンチを例にあげ、次のように注釈をつけている(Fig.45)。  Apelles pictor. Ita Leonardus Vincius facit in omnibus suis picturis, ut enim caput Lise del Giocondo et Anne matris virginis. Videbimus, quid faciet de aula magni consilii, de qua re convenit iam cum vexillifero. 1503 8bris. アペレス、 画家:レオナルド・ダ・ヴィンチも、彼のすべての絵画でそのような方法を使っている。 たとえば、リザ・デル・ジョコンドや聖処女の母である聖アンナの頭部がその例である。 それがどのように制作されているかを知りたければ、ゴンファロニエリ(フィレンツェ政府の要職)のホールで見るであろう。1503年10月)’。 ちなみに、ダ・ヴィンチ自身も「絵画論、III章」でアペレスの「誹謗」について言及している。 この文章は、これらの絵が制作途上にあり、近い将来に公開されるであろうと予想していると思われる。











Fig. 45. The note written by Agostino Vespucci in the right-hand margin refers to a specific passage of Cicero's letter.

From <http://en.wikipedia.org/wiki/Agostino_Vespucci>.


図45. キケロ全集のギリシャ時代の画家アペレスに関する記述について、当該ページ右余白に記入されたアゴスティーノ・ヴェスプッティの走り書き。



 この走り書きは、ヴァザーリの記述を裏付ける決定的な証拠である。 ここで書かれている「聖アンナの頭部」とは《聖アンナと聖母子(Fig. 43 A)》のことではなく、失われた作品と考えられている。

 なお、《モナリザ》のモデルが妊婦服を着用していることは、リザ夫人が1502年末に次男を出産していることと整合する。 当時の妊婦服は妊娠中だけではなく、授乳期にも着用されていた。 《モナリザ》のモデルがリザ夫人ではないという別人説は、繰り返し提唱されているが、どれも根拠は乏しい。 池上英洋は、「注文作品が完成後も納入されなかった」事実を指摘して、「現在、もっとも有力な説はモデルはリザ夫人ではなく、幼くして別れたダ・ヴィンチの母親(カテリーナ)である」と述べている。 さらに、この仮説を支持する証拠として、この婦人が着用する衣装は「喪服」であることをあげている(「ダ・ヴィンチの遺言」2006年5月刊)。 しかし、2006年9月に、カナダの研究者が、赤外線による3D解析の結果として、これは喪服ではなく、透明感のある妊婦服であったと発表している。

注3 次のような別人説が提唱されている。 ダ・ヴィンチの愛弟子サライ説、フィレンツェの娼婦説、雇用主だったルドヴィーコの愛人説、あるいはルドヴィーコの妻の姉(マントヴァのイザベッラ・デステ)説、養母アラビエーラ説、「あるミラノの女(ダ・ヴィンチの愛人)」説、ジュリアーノ・メディチの愛人説に至っては複数の女性があげられてきた。 しかし、現在では、シュレヒタ−博士の発見によって、リザ夫人説で決着がついたと考えられている。

 

非追従的肖像画 (An unflattering portrait

フランチェスコ・デル・ジョコンドがリザ・ゲラルディーニと結婚した時、彼は一介の商人にすぎなかった。 彼が妻の肖像画を依頼し、ダ・ヴィンチがそれに応じたことまでは間違いない。 しかし、ダ・ヴィンチが肖像画をデル・ジョコンド家に納入したという記録はなく、報酬を受け取った事実もない。 フランチェスコは、のちに娘たちをドミニコ女子修道院に入れるなど、教会との関係を強くし、フィレンツェの行政官にまで出世した。 一介の商人がエスタブリッシュメントの一員へと成り上がったのである。 それには、リザ夫人の生家が元貴族に連なる旧家だったことが幸いしたと言われている。 彼にとって、リザ夫人は単に愛すべき妻だったというだけではなく、処世的にも重要な役割を果たしていた。 その妻の肖像画を注文し、完成後にそれを受け取らないというのは考えにくい。

デル・ジョコンドが、妻の肖像画に何を期待したかは想像に難くない。 彼は妻の実家が貴族につながることを利用して出世を計っていた。 当然、妻は貴婦人として描かれねばならない。 当時、貴婦人の肖像には暗黙のルールがあった。 肖像画を依頼できるのは上流階級か、富裕層である。 彼らは夫人や愛人、娘たちの肖像画に、高貴な身分や裕福な富が表現されることを望んだ。 婦人たちは実際よりも美しく、やや若く、知的に、あるいは高雅に、そして貞節に描かれるべきだった。 その意味では、当時の肖像画は芸術作品ではない。 画家の自己表出でも、自己実現でもない。 そのような肖像画は、追従的肖像画(ritratti adulatori, flattering portraits)と呼ばれる。多くの場合、 婦人たちは高貴な衣服をまとい、高価な装飾で飾られた。 謹言や書物で知性を、宝石や装身具、愛玩動物で富を、そして髪型で階級や貞節が表現された。しかし、《モナリザ》にそのような追従、虚飾はない。 リザ夫人は決して美しくは描かれていない。そこでは、素朴な肉感をただよわせる女性が、簡素な衣装をまとい、笑みを浮かべて鑑賞者(画家)を正視する。 これを見たとき、フランチェスコの反応はいかばかりのものだったか。 追従的に描かれなかっただけでない。 ダ・ヴィンチ自身がそれまでに描いた肖像画と比べても、《モナリザ》はあまりに異常であった。


リザ夫人(Mrs Lisa

リザ夫人は旧貴族に連なるゲラルディーニ家に生まれた(1479年6月)。 ダ・ヴィンチがリザ夫人の肖像を描き始めたのは、彼女が24歳になって間もないころだった。 しかし、《モナリザ》に描かれた女性はとても24歳には見えない。 これもリザ夫人説を否定する理由の一つである。 だが、リザ夫人は15歳で嫁いでおり、すでに三人の子をなしていた。 実年齢から想像されるよりも豊かな体型であってもおかしくない。 それでも注文画家であれば24歳らしく、可憐な姿に修正することは可能だったはずだ。 ところが、ダ・ヴィンチはそれをしなかった。 《モナリザ》では、リザ夫人は肉感に溢れ、鑑賞者(画家)を正視して、大胆な笑みを浮かべる。 当時の肖像画にはあり得ない図法だった(注1)。 「大胆な笑み」に、ダ・ヴィンチはどのようなメッセージを込めたのか。 彼の「絵画論」にヒントがある。

ダ・ヴィンチは手稿(「絵画論、III章」)の中で、「貴婦人の美を書く詩人」と「画家」を比較し、画家は詩人に優ると主張する。 ダ・ヴィンチは成人女性を解剖して精細なスケッチ(「女性の臓器の研究」、1510年頃)を残している。 さらに妊婦の解剖も行い、生殖器や子宮内の胎児までスケッチしている(not shown)。 彼が成熟した女性の臓器、筋肉のありように関心を持っていたことは明らかである。 女性の美は究極的には裸婦像として表現されるべきと、ダ・ヴィンチが考えていたとすれば、これは理解出来る。 そのためには、女性の肉体について解剖学的知識が必要だったのだろう。 ダ・ヴィンチは、ミケランジェロが描く裸体の筋肉が、解剖学的に間違っていると批判しているくらいだ。

ダ・ヴィンチが描きたかったのは、おそらく、「自然な、生身の肉感」だった。 「生身の」という言葉には、解剖学的な真実という意味だけでなく、「実在の」、「世俗の」という意味も含まれる。 神話の女神や聖人、聖女はそれらには含まれなかったはずだ。 なぜなら、絵に描かれた婦人に接吻し、情欲を感じる為には神の徴(しるし)は邪魔になると考えていたからである(「絵画論」III、p50)。 したがって、女性の美は、世俗女性によって表現されるべきだった。 女性は淫靡に描かれてこそ、鑑賞者をして恋情を覚えさせ、情欲を催させるのである(同、p68)。 淫靡に描かれた女性とは、究極的には裸婦だったはずだ。 神の徴(おそらく光輪)が、恋情を妨げるなら、究極の美を体現する裸婦像を恋情の対象にするためには、その女性は世俗の人でなければならない。 。

しかし、実在する世俗婦人を裸婦像として描くことは禁忌だった。 追従的肖像画が求められていた時代に、画家が自分の美意識、価値観に基づき、婦人の肖像をエロティックに描くことが許されるはずもなかった。 彼自身にも躊躇はあったはずだ。 それを裏付ける証拠が《モナリザ》の髪型に見つかっている(後述)。 《モナリザ》が当時の婦人肖像画と比べていかに異常であり、非常識であったかは、彼が描いた他の肖像画や、同時代のボッティチェッリやギルランダイオの肖像画と比べても明らかである。


注1 《モナリザ》前の半世紀に描かれた28点の夫人の肖像画を参照した(The Web Gallery of Arts)。

《モナリザ》の前に描かれたダ・ヴィンチの肖像画 (Portraits by Da Vinci before Mona Lisa


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Fig. 46. Another examples of portrait for  ladies, painted supposedly by L. Da  Vinci


             (A) 1474-78, Portrait of Ginevra de’ Benci, Oil on wood, 38.8 × 36.7 cm,
                   National Gallery of Art, Washington

             (B) 1483-90, Portrait of Cecilia Gallerani (Lady with an Ermine)”,
                   Oil on wood, 55
× 40 cm, Czartoryski Museum, Cracow

             (C) c. 1490, La belle Ferronière, Oil on panel, 63 x 45 cm, Musée du Louvre,       

                    Paris

図46 ダ・ヴィンチ作とされている他の「婦人肖像画」


          (A)1474-78年、 《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》、油彩、木板パネル、38.8×36.7

                cm、ナショナル美術館、ワシントン

          (B)1483-90年、《チェチリア・ガッレラーニの肖像(白貂を抱く貴婦人)》、油彩画、

        木材パネル、 55×40 cm、チャルトリスキ美術館、クラクフ

          (C)1490年ころ、《ミラノの貴婦人の肖像》、油彩画、木材パネル、 63×45 cm、

       ルーブル美術館、パリ


《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像(Fig. 46 A)》に描かれたジネヴラは、1458年頃にフィレンツェの貴族の家に生まれた。 姓のデ・ベンチが生家のものか、婚家のものかは定かでない。 暗殺されたジュリアーノ・デ・メディチの未亡人だという説もある。 この肖像は彼女が15〜18歳のころに描かれたと推測されている。 彼女は知性に恵まれ、多くの人々を魅了したと伝わっている。 背景には、ヒノキ科のジュニパーが描かれているが、裏板には月桂樹とシュロが作る輪の中にジュニパーの若木が描かれている。 その若木には、ラテン語でVIRTVTEM FORMA DECORAT(美は徳を飾る)と書かれた帯が巻かれている(Fig. 47)。





Fig. 47. Symbol of intellectual and moral virtue for Ginevra, appearing on the reverse

               side of Portrait of Ginevra de Benci . See text.

図47. 《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》の裏板に描かれたジネブラの知性と徳を象徴する

          意匠。


ジュニパーはイタリア語で「Ginepro」と綴り、ジネヴラ(Ginevra)の名をかけていると思われる。 後ろにまとめられた髪と清楚な衣装が彼女の貞節と知性を表現し、伏し目がちに落とした視線は彼女の慎み深さを表わす。


《チェチリア・ガッレラーニの肖像(Fig. 46 B)》は《白貂を抱く貴婦人》としても知られる。 ダ・ヴィンチの雇用主であるルドヴィーコの愛人だったチェチリア(1473-1536)の肖像である。 彼女はルドヴィーコの城に住み、しばしば哲学などの知的サークルを主宰し、ダ・ヴィンチもそこに招待されていた。 彼女自身もラテン語を流暢に話し、詩を書き、音楽的才能にも恵まれた知的女性だった。 金の髪飾りや抱かれた愛玩動物、胸を飾るネックレスには、チェリチアが受けていた寵愛と富が象徴されている。 後のことになるが、ダ・ヴィンチのファンだったマントヴァ侯妃のイザベラ・デステ(1474-1539)が、この肖像画を見たいとチェチリアに貸与を希望したとき、「それは自分の若い時に描かれて今の自分のようには見えない」からと断わっている。 そのころは、ダ・ヴィンチも追従的肖像画を描いていた事を裏付けるエピソードである。

《ミラノの貴婦人の肖像(Fig. 46 C)》に描かれた女性の身元はわかっていない。  ルドヴィーコ・スフォルツァの妻ベアトリーチェ・デステ(1475-1497)説、ルドヴィーコの愛妾の一人であったルクレツィア・クリヴェッリ(1497-1535)説もあるがどちらも根拠に乏しい。 これがダ・ヴィンチの作ではないという説もある。 それによれば、ダ・ヴィンチから直接の指導を受け、強く影響された弟子の一人が描いたという。 しかし、ここで、そのことは問わない。 どちらにしても、この肖像画は三点の中では、もっともダ・ヴィンチ的と言われている。 欧米では“La belle Ferronière”と呼ばれるが、その理由は金細工の髪飾り(Ferronière)に由来する。 同様の髪飾りを付けている上記の《チェチリア・ガッレラーニの肖像(Fig. 46 B)》と混同されたこともあった。 いずれにしても、金細工の髪飾り、後ろにまとめた髪、洗練された衣装などが富、貞節、高貴さを表わしている。

これらの肖像画に共通する特徴は、いずれも髪を後ろにまとめ、視線を鑑賞者(画家)からそらし、外向きの盛装をまとっていることである。 それらは、彼女らの知性、品格、高雅さなどを表わしている。 いずれも、追従的肖像画といえる。

《モナリザ》に描かれたリザ夫人はこれらとは明らかに異質である。 第一に、リザ夫人は鑑賞者(画家)に視線を合わせ、誘うような笑みを浮かべる。第二に、リザ夫人は、あたかも湯上がりのように、まとめていない髪を胸の前に下ろす。 当時、この図法には重要な意味があった。 それは、神話や寓意の中を除けば、貴婦人に使われるべき図法ではなかった。

 

ボッティチェッリの肖像画(Portraits by Botticelli

次に、ダ・ヴィンチ(1452-1519)と同時代に活躍した、二人の有名な画家─ボッティチェッリ(1445-1510)とドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)─の婦人肖像画と比較したい。 ここでも、《モナリザ》がいかに異質であるかがわかる。 ボッティチェッリの婦人肖像画としては、少なくとも三点が知られている(Fig. 48 A, B & C)。


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Fig. 48.  Three examples of portraits for ladies by Sandoro Bottichelli


             (A) 1470-75, Portrait of a Lady, tempera on panel, 65.7 × 41 cm,
                   Victoria and Albert Museum, London

             (B) 1480-94, Portrait of a Young Woman, oil on panel, 47.5 × 35 cm,
                   Staatliche Museen, Berlin

             (C) 1480-1485, Portrait of a Young Woman, tempera on wood, 82 × 54 cm,

                  Städelsches Kunstinstitut, Frankfurt


図48 サンドロ・ボッティチェッリによる三点の婦人肖像画


          (A)1470-75年、「ある貴婦人の肖像」、テンペラ、パネル、65.7×41 cm、

                ヴィクトリア&アルバート美術館、ロンドン

          (B)1480-?年、「ある若い婦人の肖像」、油彩画、 パネル、 47.5×30 cm、

       ドイツ国立美術館、ベルリン

          (C)1480-1485年、「ある若い婦人の肖像」、テンペラ、木材、 82×54 cm、

       ドイツ国立美術研究所、フランクフルト


「ある貴婦人の肖像(Fig. 48 A)」は、婦人の妊娠中に描かれた肖像画である。その点では、《モナリザ》と共通するところがある。モデルはわかっていないが、世俗女性であることは確かである。 ダ・ヴィンチが、これを意識して《モナリザ》を描いた可能性もある。 《モナリザ》と同様に、決して美しくは描かれておらず、視線は鑑賞者(画家)を正視し、衣装も妊婦服で、必ずしも追従的ではないが、誘うような笑みはなく、湯上がりを思わせる下ろした髪型もない。 髪は後ろにまとめられ、被り物で包まれている。

残りの二点は「ある若い婦人の肖像(Figs. 48 B, C)」と呼ばれている。 どちらも、ジュリアーノ・デ・メディチ (Giuliano de' Medici, 1453-1478)の愛人だったシモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ (Simonetta Cattaneo Vespucci,1453-1476)を描いたと言われている。 複雑に結った髪型と高価な髪飾りと真珠で、女性の高貴さと美しさが強調されている。 彼女は「ビーナス誕生」のモデルであったとも言われており、ボッティチェッリの理想美を体現していたと考えられている。 しかし、そこには淫猥な光景も、匂い立つエロティシズムもない(注1)。


注1 ダ・ヴィンチはボッティチェッリを次のように批判している。  「一般性を見ぬ絵画、絵画の分野の他の一切のものを等しく愛さぬ絵画、風景を愛さず、又、風景画の研究は下らぬ物で、さまざまな色彩を含んだ海綿を壁に投げつければ其処に染(しみ)が出来て、其処に美しい風景が見えると云った我々のボッティチェッリのやうに風景画を時間のかかる平凡な思索であると見做す画家。それも一理ある。即ち斯(こ)んな『ごった混ぜ』の中に平凡な創意を見なければならぬと云ふのである(「絵画論」VI、p107)」(『』内は原文では傍点)。 この文からは、ボッティチェッリのどの絵を指して批判しているかは明らかではないが、「プリマヴェーラ(Fig. 49)」の背景に描かれた風景に、その特徴が見られる。




 

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Fig. 49. Primavera, c. 1482,  Sandoro Bottichelli,  tempera on panel, 203 × 314 cm,

               Galleria degli Uffizi, Florence, Italy.



図49. 「プリマヴェーラ」、1482年頃、サンドロ・ボッティチェッリ、テンペラ、パネル、

    203×314 cm、イタリア、フィレンチェ、ウッフィツィ美術館.



 背景の全体に、無数の花、果実が「さまざまな色彩」でちりばめられ、地上のビーナスに重なる聖母マリヤが中央に立つ。 その背景に光輪を暗示する円形の空が、樹々の影絵になって浮かび上がる。 世俗(ルネサンス)の流行とキリスト教への配慮を両立させるボッティチェッリの処世術が見えるようである。 おそらく、ダ・ヴィンチは、この風景が遠近法を使わない平板な描写(「海綿を壁に投げつけて出来るような染み」)であることだけを批判しているのでない。 彼の批判は、ボッティチェッリがキリスト教におもねり、究極の美=エロチシズムを表現することに失敗していると暗に批判している。

 ボッティチェッリが描く女性像はすべて細面で、瘦身に描かれている。 その時代が求めていた女性の理想美なのであろう。 「アペレスの誹謗」、「ホロフェルネスのテントを出るユディット」、「プリマヴェーラ」、「ヴィーナスの誕生」などで、すべての女性は同じ体型である。 若さを表現する瘦身は、女性の美を豊潤な肉感で表現する《モナリザ》とは明らかに異なる。  <The Web Gallery of Art>で確認できた、当時の世俗女性を描く肖像画では、ほとんどの女性たちは無表情であり、例外なく髪を結い、あるいはヘアバンドやキャップで後ろにまとめている。 《モナリザ》のように、鑑賞者を正視して微笑み、髪を胸の前に下ろした肖像はない。

 

ギルランダイオ兄弟による婦人肖像画(Women’s portraits by Domenico and Davide Ghirlandaio



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Fig. 50. Three examples of portraits for ladies by Ghirlandaio brothers (Domenico:

              1449–1494 and Davide: 1452–1525)


            (A) 1488, Portrait of Giovanna Tornabuoniby Domenico G., Tempera on

                    wood, 76 × 50 cm, Museo Thyssen-Bornemisza, Madrid

             (B) ?, Portrait of a Young Woman by Domenico G., Tempera on wood, 44

                   × 32 cm, Museu Calouste Gulbenkian, Lisbon

            (C) c. 1490, ‘Portrait of Selvaggia Sassetti’ by Davide G., Tempera on panel, 57

                   × 44 cm, Metropolitan Museum of Art, New York


図50 ドメニコギルランダイオ(1449-1494)とダヴィデ(1452-1525)・ ギルランダイオ

         兄弟の婦人肖像画


          (A)1488年、「ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像(ドメニコ)」、テンペラ、木材、

       76×50 cm、ティッセン=ボルネミッサ美術館、マドリッド

          (B)?年、「ある若い婦人の肖像(ドメニコ)」、テンペラ、木材、 44×32 cm、

       カルースト・グルベンキアン美術館、リスボン

          (C)1490年ころ、「セルヴァージャ・サセッティの肖像(ダヴィデ)」、テンペラ、

       パネル、 57×44 cm、メトロポリタン美術館、ニューヨーク




ドメニコ・ギルランダイオはダ・ヴィンチよりも3歳上だが、彼より25年も早く45歳で死亡した。彼の死後、助手を務めていた弟のダヴィデ(Davide)が後を継ぎ、遺児となった甥のリドルフォ(Ridolfo, 1483–1561)を指導した。 ドメニコは「最後の晩餐」だけでも三点のフレスコ画(Figs. 28 G, I, L)を残し、短い生涯にもかかわらず、ダ・ヴィンチよりも多作であった。 ミケランジェロの師でもあり、ボッティチェッリらとともに、ヴァチカンのシスティ−ナ礼拝堂の壁画制作に加わっている。 初期ルネサンスでもっとも著名な画家の一人である。 父親は彫金家だったが、三人の息子はいずれも画家になった。

ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像(Fig. 48 A)」はドメニコが30代の最後に描いた肖像画である。 モデルのジョヴァンナはロレンツォ・トルナブオーニの妻で、この肖像が描かれた年に出産し、死亡している。 夫人は上品な横顔で、妊娠中にも関わらずガムラ(当時のイタリアで流行していた体を締め付ける女性用ベスト)と高価なドレスを着用し、髪を後ろにまとめている。 背後には珊瑚のネックレスが壁に掛けられ、1世紀の詩人マルチアリス(Marcus Valerius Martialis、40 AD–102/104 AD)のラテン語の謹言、さらに開きかけの書物などで、貞節、富、高貴、知性などが象徴される。 妊婦であっても、妊婦服を着せて描く必然性はないことがわかる。

二点目の「ある若い夫人の肖像(Fig. 49 B)」のモデルは不明だが、後ろにまとめた髪に帽子、珊瑚のネックレスという姿は同様に貞節と高雅さを表わす。 三点目の「セルヴァージャ・サセッティの肖像(Fig. 49 C)」は、兄の工房を継いだダヴィデ・ ギルランダイオの作とされている。モデルはフランチェスコ・サセッティという銀行家の五女、セルヴァージャ・サセッティである。 彼女は1488年に結婚しており、その記念に描かれた肖像画と考えられている。 他の二点と同様に体を締めつける高貴なドレスをまとい、珊瑚のネックレス、3つの真珠と赤い宝石付きの金のペンダントを胸に付け、まとめた髪と帽子で、貞節、富、高貴が表現される。 いずれも、追従的肖像画である。


非追従的肖像画Unflattering portraits

以上の9点と比較しただけでも、《モナリザ》の異常さは明らかである。 24歳のリザ夫人は若くも、美しくも描かれていない。 リザ夫人の実家が元貴族につながる旧家であり、夫は成功した商人である。 しかし、高貴な家柄や、富を象徴する高価な衣装、宝石、金細工や、夫人の知性や美徳を象徴する謹言や書物などがまったく描かれていない。 そこには追従の痕跡すらない。 このような非追従的肖像が依頼主の不興をかうことは想像に難くない。しかし、それだけで受取り拒否、契約破棄にまで発展したとは断定できない。彼が怒りを覚えたとすれば、もっと決定的な理由があったはずだ。

今日の常識から判断してはならない。 依頼主のフランチェスコは上昇志向が強かった商人である。 《岩窟の聖母》(Fig. 42 A)の時とは違い、 ダ・ヴィンチが訴訟を起こすことはできなかった。 フィレンツェにルドヴィーコのような後ろ盾もいなかったし、ルドヴィーコ自身もすでに獄死していた。 いずれにしても、依頼主には契約を破棄する正当な理由があったのである。 訴訟をしても、ダ・ヴィンチに勝ち目はなかった。


《最後の晩餐》だけではなく、ダ・ヴィンチの宗教画には、実在のモデルがいたことが、多くの素描や下絵から知られている注1)。 しかし、《モナリザ》には素描や下絵はまったく残されていない。 完成作品が残っているだけである。 下絵と完成画の間に大きな落差があった可能性はある。 では、契約破棄の決定的な理由とは何か?


注1 Christ - Count Giovanni of the house of Cardinal Mortar. Giovannina - fabulous face. Lives in the Santa Caterina hospital. ALessandro Carissimo from Parma for the hand of Christ. Crisofano from Castiglione lives in the Pietà; he has a beautiful head. From Leonardo’s Notes” “The persons in that Last Supper are portraits, drawn from life, of several personages at Court and of Milanese citizens of the time painted life-size. Antonio de Beatis. 1517 p. 32 in ‘Leonardo da Vinci, The Last Supper’ by M. Ladwein.

 

異様な肖像画( An extraordinary portrait

《モナリザ》には、当時の婦人にとって、残酷な図法が使われていた。 リザ夫人は、鑑賞者を正視して、大胆な笑みを浮かべ、胸の前にほどけた髪を下ろす。 当時の肖像画では、「堕した髪(loose hair)」は「堕落(loose moral)」と等価であった(注1)。 《モナリザ》の娼婦説にも一理あることになる。

繰り返すが、リザ夫人は当時24歳だった。 しかし、《モナリザ》に描かれた夫人は、当時でもおそらく24歳には見えなかっただろう。 実際のリザ夫人に似ていたかどうかが問題ではない。 ダ・ヴィンチが実年齢に合わせて修正することは可能だったはずだ。 彼はリザ夫人の醸すエロティシズムに接して、追従するには惜しいと思ったのだろう。 ダ・ヴィンチにすれば、リザ夫人を侮辱したつもりはない。 ヴェスプッチがボッティチェッリにとって理想の美であったなら、ダ・ヴィンチの理想はリザ夫人だった。


彼は、「絵画論」のなかで、次のように述べている。「昔、私は聖母を現(ママ)して居る絵を描かねばならぬ事があった。 其の絵は其の熱愛者に買われたが、其の人は生一本な心からそれを接吻出来るやうに神の徴(しるし)を剥いで了ひたいと思った(同、p50)」。 肖像は、鑑賞者が「恋情を持つほどに淫靡なもの」に価値があり、「神の徴(光輪)」はそれを妨害するものだった。 ゆえに、彼にとって究極の美は、世俗女性によってこそ表現できることになる。 ダ・ヴィンチにとって、リザ夫人は、「鑑者をして情欲を催させる」ほどに魅力ある女性だった。 「神の徴」を付した女性(女神、聖女)がいかに美しく描かれていても、それは恋情や、接吻の対象とはならない。 ボッティチェッリと違い、彼は理想的な絵画を描くために、キリスト教会との対立も厭わなかった。 

先にも引用したが、ダ・ヴィンチは手稿の中で、次のように述べる。 「画家は淫猥なる光景を非常な淫靡さで描く為に観者をして同じ情欲を催させる(「絵画論III」、p68)」。 したがって、リザ夫人を「情欲を催させる」べく描くことで理想美を表現したいと思っただけであり、そこに他意はない。 ましてや侮辱の意図などはなかった。 ダ・ヴィンチはリザ夫人に「淫靡なるものとして表現されるべき魅力」、現代的に言えばエロティシズムを見いだしたに過ぎない。


世俗女性の肉感的な姿にこそ、鑑賞者をして情欲を催させる究極の美があった。 それは、理想的には裸婦像として描かれるべきだった。ダ・ヴィンチによれば、「ただ、頭部や顔を描く事を知って居る者を名匠(メートル)と呼ぶ人は間違って居る。一生を唯一の研究に捧げて或程度の完成に達すると云う事は大した事ではない。(中略)全体の多様さを見ない者は、貧弱なる名匠であると私には見えるのである。(『絵画論』VI、pp109-110)」 また、「いい値」を得る為(高く売る為)に描く画家を批判し、「利潤の豊かさは君に於いて芸術の名誉に優らぬと云ふ事を注意せよ(同、p120)」とも述べる。これらの言葉には、時代に迎合し、報酬の多寡により出来映えを変える画家たちへの痛烈な批判がこめられていた。 これを書いたときに、彼の念頭には、ヴァチカンやメディチ家に気に入られていたボッティチェッリ、ギルランダイオやその弟子ミケランジェロの名が、浮かんでいたののかもしれない。


前節で述べたように、ダ・ヴィンチはヴェロッキオの工房から独立した後に描いた宗教画で、光輪をいっさい使わなくなった(Table 17)。 その理由は、ここにもあったのだろう。 ダ・ヴィンチにとって、それはおそらく男女を問わなかった。 彼にとっては、生身の人にこそ究極の美が宿っていた。 言い換えれば、究極の美とは男女の自然な姿=裸体によって表現されるものだった。 ダ・ヴィンチがそれを意識して初めて描いた肖像画が《モナリザ》だったのだろう。 とはいっても、依頼された肖像画で裸婦を描くことはできない。そこには彼なりの節度はあっただろうし、依頼主との妥協やリザ夫人への配慮もあったはずだ。


注1  Virtuous women in Leonardo's day tended to have their hair covered to some extent. Mona Lisa's hair has, for the last few centuries, appeared to be totally unfettered. Her loose hair has been equated with loose morals. September 27, 2006, from canada.com’ <http://www.canada.com/story_print.html?id=d12e9f8f-d1fb-4c26-90c2-5dc72d56579e&sponsor=>

《モナリザ》前に描かれた裸婦像(Women in nude before Mona Lisa


ルネサンスの画家たちは、神話の神々を裸像として描くギリシャやローマの古代文明にあこがれていた。 したがって、ダ・ヴィンチの前にも、裸婦像は描かれていた。  しかし、それらは神話や寓意の世界に限られていた。 多くの場合は、古代神話や聖書の物語にこじつけて描かれた。

その典型的な例が、ボッティチェッリの「ヴィーナス誕生(Fig.51 A)」であり、「アペレスの誹謗(Fig.51 B)」である。 これは彼だけの傾向ではない、多かれ少なかれ、ルネサンス時代の画家たちは、古代神話や寓意にかけて裸体を表現しようとした。ジャコポ・デ・バルバリも、そのような一人である(Fig.51 C)。



    

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Fig. 51. Three examples of women with loose hair in nude before Mona Lisa,

     entrusted to Greek  myths or allegory.

            (A) c. 1485, The Birth of Venus (detail)by Sandro Bottichelli, Tempera on

                    canvas, 172.5 × 278.5 cm (original size), Galleria degli Uffizi, Florence.

             (B) 1494-95, Sandro Botticelli, Calumny of Apelles (detail), Tempera on

                    panel, 62 × 91 cm (original size), Galleria degli Uffizi.

            (C) 1497-1500, Jacopo de’ Barbari, Allegory (verso of the Portrait of a Man),     

                    oil on poplar panel, 61 × 46 cm, Staatliche Museen, Berlin.

                 

図51 《モナリザ》前にギリシャ神話や寓意に託して描かれた下ろした髪型の裸婦像の

          三例。


          (A)1485年頃、サンドロ・ボッティチェッリ、「ヴィーナスの誕生(部分)」、テンペラ、

        カンバス、172.5×278.5 cm(原画サイズ)、イタリア、フィレンツェ、ウフィツィ

        美術館蔵.

          (B) 1494-95年、サンドロ・ボッティチェッリ、 真理の女神(部分)、「アペレスの誹

        謗(ボッティチェッリによる復元画)より」、テンペラ、パネル、 62×91 cm(原

        画サイズ)、イタリア、フィレンツェ、ウフィツィ美術館蔵.

          (C)1497-1500年、ジャコポ・デ・バルバリ、「寓意(「ある男の肖像画」の裏絵)」、

        油彩、ポルラ材パネル、 61×46 cm、ドイツ、ベルリン国立美術館蔵.



ダ・ヴィンチもギリシャ神話に託して裸婦像を描いたことがある。 レダと白鳥の物語である。ギリシャ神話によれば、レダに恋をしたゼウスは白鳥に身を変えて、レダに近づいて交わりを持ち、子を生ませた。 この物語を描いたダ・ヴィンチの原画は残っておらず、教会によって処分されたと考えられている。 ダ・セストの模写が残っているが、おそらく、レダが抱き寄せる白鳥の首が男性器を想像させ、獣姦を思わせる図が禁忌に触れたのであろう(Fig. 52)。 ヴァチカンのお気に入りだったミケランジェロでさえ「レダと白鳥」は処分されている。




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Fig. 52. Leda and the swan  by Cesare da Sesto, believed to be a copy of the one by Da 

              Vinci. 1505-10, oil on panel, 69.5 × 73.7 cm, Wilton House, Salisbury, England.

                 

図52. チェザーレ・ダ・セスト によるダ・ヴィンチ作「レダと白鳥」の模写、1505-10、    

            油彩画、パネル、69.5×73.7 cm、ウィルトン・ハウス、ソールズベリー、イングランド


 

《裸のモナリザ》

Mona Lisa in nude


ダ・ヴィンチ作とされる世俗女性の裸婦像は現存しない。 かつて、《裸のモナリザ》が、ダ・ヴィンチ作とされたこともある(Fig 53)。 しかし、現在では、これは弟子のサライ作と考えられている。 ダ・ヴィンチの原画がありそれをサライが模写した可能性もあるが、確証はない。 この絵でさえ、70年間も秘匿されていた。 猥褻とされて処分されるのを避けたと推測されている。 他にも、サライ作とされるほぼ同じ構図で描かれた《裸のモナリザ》がエルミタージュ美術館に所蔵されているので、原画があったとするほうが考えやすい。

レオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館(ヴィンチ村)のアレッサンドロ・ヴェッツォージ館長は、ダ・ヴィンチの完成画はなく、これらは愛弟子のサライが師の構想に基づいて描いたとしている(「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想〔監訳〕大野陽子/〔翻訳〕西村明子+南田菜穂、毎日新聞社刊」)。 ダ・ヴィンチの構想は下絵として残っていると、彼は主張する。 シャンティイ城内のコンデ美術館が所蔵するカルトーネ(実物大の下絵)がそれではないかというのだ。 しかし、それを下絵とするには、 構図上の違いが大き過ぎるように思える(not shown)。 いずれにせよ、《モナリザ》のヌード版がダ・ヴィンチの構想にあったという点では異論はないようである。



  

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Fig. 53. 16th C., Mona Lisa in nude (aka La Gioconda nuda),  Gian Giacomo Caprotti or Salai, oil on canvas supported by wood panel, 78 × 58 cm, Musée du Louvre, Paris, France (deposited to the Ideal Museum Leonardo Da Vinci, Vinci, Italy).


図53. 《裸のモナリザ》(または《裸のラ・ジョコンダ》)、 16世紀、ジャン・ジャコモ・カプロッチ(通称サライ、油彩画(木板で補強されたカンバス)、78 × 58cm、フランス、パリ、ルーブル美術館.

 

《モナリザ》に見つかった修正 ( A  modification discovered in Mona Lisa


赤外線を使った《モナリザ》の3D解析にもとづく、大きな発見が今世紀になって報告された。 リザ夫人の髪型は、もとは後ろにまとめられ、通常の肖像画のルールに従っていたが、それが修正されて「娼婦」のように髪を下ろして描き直されたというのである(注1)。 しかし、その修正が行われた正確な年代は明らかになっていない。デル・ジョコンドに見せる前か、その後か?依頼主が契約を破棄した主要な理由が髪型にあったのか、受取を拒否された後にダ・ヴィンチが修正したのかは特定されていない。 常識的には、前者である可能性が高いが、いずれにしてもダ・ヴィンチの構想にはリザ夫人の豊かな肉感を裸婦像として描きたいという欲求は、当初からあったと思われる。 その欲求が、《モナリザ》の構想に影響を与え、リザ夫人を「娼婦」のように描いた理由だったのではないだろうか。 上流階級の夫人が、鑑賞者を正視し、誘うように微笑む姿だけでも十分に淫靡であり、当時としては異常であった。


その意味では、《最後の晩餐》と同様に、《モナリザ》は絵画芸術がキリスト教の頸城から脱し、時代をルネサンス初期から盛期に画するものであった。 ただし、《最後の晩餐》は神学的に、《モナリザ》は世俗的にである。 同時代の画家にも、その片鱗は見られるが、それらは微妙に、教会との対立を避け、妥協しているように思える。 そのような例を三点ほど紹介する。  

注1 これについては、カナダ国立研究機構のグループが興味ある研究結果を発表している。機構長(当時)のピエール・クーロンブ(Pierre Coulombe, The former president of the National Research Council of Canada, 2005-2010)は、赤外線レーザーによる3D解析をもとに、《モナリザ》の髪型があとから修正されたものであると発表した(2006.9.27)。 その解析によると、最初に描かれた時は後頭部でまとめられていた髪が、あとから修正されて下に降ろされたという。

     もっとも、この研究は、髪型が修正された年代までを明らかにしたわけではない。受け取りが拒否されたあとでダ・ヴィンチが修正した可能性もないことはない。 しかし、それは重要ではない。 画家を正視し、誘うような笑みを浮かべることに、娼婦的要素がすでにあったということである。 ダ・ヴィンチがリザ夫人の裸婦像をイメージし、そこに究極の美を潜ませる意図があったのであれば、修正が初期に行われていた可能性もある。 それが、注文主が受け取りを拒否した後であったとしても、裸婦像のイメージが先にあったことは間違いないだろう。 おそらく、ダ・ヴィンチはリザ夫人の裸婦像をイメージしていた。 しかし、それを肖像画として描く事は不可能だった。ダ・ヴィンチにとっての許容範囲内で、極限の描写をしたのが《モナリザ》だったのであろう。

   カナダ国立研究機構の解析で明らかになったことがもう一つある。 《モナリザ》に描かれた婦人の着衣は、「喪服」ではなく、透明感のある妊婦服の特徴を示していたことである。 ボッティチェッリの「ある婦人の肖像(Fig. 48 A)」の妊婦服とも似ているが、《モナリザ》の場合は、腹部の膨らみはなく、時期的にも妊娠中ではなく、次男を出産した後の授乳期の描写だったと思われる。 ダ・ヴィンチが肖像画の依頼を受けたのは1503年10月前であり、デル・ジョコンド夫人が次男を出産したのは1502年末だった。 ボッティチェッリのような細身の女性ではなく、円熟した女性に美の理想を見ていた可能性は高い。 そこに、幼くして離され、後年になって訪れて来た生母カテリーナ、あるいは幼い時から育ててくれた養母アラビエーラへの思いが重なっていたとしても不思議ではない。 その意味で、モデルの生母説、養母説にも一理ある。

ダ・ヴィンチと同時代に描かれた裸婦像(Portraits in nude during Da Vinci’s life time



   

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Fig. 54. Women’s portraits in nude during Da Vinci’s time


            (A) c. 1480, Portrait of Simonetta Vespucci by Piero di Cosimo, oil on panel,

                   57 × 42 cm, Musée Condé, Chantilly, France.

             (B) 1506, Portrait of a Young Woman (Laura) by Giorgione, oil on canvas

                   mounted on panel, 41 × 34 cm, Kunsthistorisches Museum, Vienna, Austria.

            (C) 1518-19, Portrait of a Young Woman (La Fornarina)’ by Raffaello Sanzio
                   oil on wood, 85
× 60 cm, Galleria Nazionale d'Arte Antica, Rome, Italy.

                 

図54. ダ・ヴィンチの時代に描かれた裸婦の肖像。


          (A)1480年頃、ピエロ・ディ・コジモ、「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」、油彩、

        パネル、57×42 cm、フランス、シャンティ−、コンデ美術館.

          (B) 1506年、ジョルジョーネ、「若い婦人の肖像(ラウラ)」、油彩、パネルにマウ

        ントされたカンヴァス、41×34 cm、 オ−ストリア、ウィ−ン、美術史美術館.

          (C)1518-19年、ラファエロ・サンツィオ、「若い婦人の肖像(「ラ・フォルナリ−ナ)」

             油彩、木材パネル、85×60 cm、イタリア、ロ−マ、国立古典絵画館.


《モナリザ》とほぼ同時代に描かれた裸婦像としては、三点ほどが確認できた (The Web Gallery of Arts)。コジモの「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」(Fig. 54 A)、ジョルジョーネの「若い婦人の肖像(ラウラ)」(Fig. 54 B)、ラファエロの「若い婦人の肖像(「ラ・フォルナリ−ナ)」(Fig. 54 C)である。

「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像(Fig. 54 A)」では、ボッティチェッリの肖像画(Fig. 48 B、C)と同様に、当時のフィレンツェでもっとも美しいと言われていたジュリアーノ・デ・メディチの愛人が描かれている。 上半身を露出しているという点では《モナリザ》よりも大胆である。 しかし、淫靡さという点では、《モナリザ》に及ばない。 なぜなら、この婦人の首を飾る蛇のネックレスはエデンの園のイヴを連想させ、聖書の物語を借りているからである。 しかも、モデルのヴェスプッチは、この絵が描かれた時点で、すでに死亡していた(死後4年)。 その意味では、モデルは「実在の世俗女性」ではない。 ボッティチェッリの「ヴィーナス誕生(Fig. 51 A)」のモデルになった彼女が、この絵ではイヴのモデルになったにすぎないとも言える。


「若い婦人の肖像(ラウラ)」(Fig. 54 B)は、《モナリザ》とほぼ同時期に描かれている。 ジョルジョーネが1506年に描いたことを示す記入が裏板に残っており、彼の作品であることは確実と言われる。 純潔のシンボルである月桂樹(Laurus)を背景にしており、結婚式でかぶるベールを着用しているので、花嫁を描いたという説もあるが、その解釈は苦しい。 肌を見せることが猥褻とされた時代に、実在の花嫁の裸婦像を描くとは考えにくい。毛皮の外套からのぞく乳房は、情欲と誘惑を象徴し、これは高級娼婦を描いているという説があり、そのほうがむしろ納得出来る。 ヴェニスの伝統では、「ラウラ(Laura)」は娼婦を暗示していたこともこの解釈を支持する。 神話や寓意的な表現で娼婦を象徴的に描くことが、この時代の流行でもあった。 この肖像も寓意的に描かれたとすれば、当時でも受け入れは可能だった。


ラファエロの若すぎる死(37歳)には謎が多い。 「若い婦人の肖像(La Fornarina)」( Fig. 54 C)には、諸説あるが、一般にはマルゲリータ・ルティというパン屋の娘だったとされる。ラファエロの隠し妻だったという説もある。 左腕には「RAPHAEL∙VRBINAS(ウルビーノ[出身]のラファエロ)」と書かれたバンドを巻いている。 左手薬指には結婚指輪がはめられているので、「妻説」にも説得力がある。 この絵は、ラファエロが死亡したときにアトリエにあった。 しかし、彼は後援者であるビッビエーナ枢機卿の姪、マリヤ・ビッビエーナと婚約していた。 ラファエロが結婚に踏み切らず、待たされたあげくにマリヤは病死している。 その原因が、この隠し妻にあったとも言われる。 スキャンダルを恐れた弟子が、ラファエロの死直後に結婚指輪を塗りつぶしたらしい。そのために、指輪の存在は長く知られていなかったが、最近の修復で明らかになった。 この絵は秘匿され、ラファエロの死後60年経って遺品の中から「再発見」された。 マルゲリータはラファエロの死後、修道院に入り、マリヤが婚約者としてラファエロの隣に埋葬された。 ヴァザーリは、ラファエロの死は愛欲行為が過ぎたためと書いている。 いずれにしても、この女性がラファエロと深い関係にあったことは間違いない。 この絵にも非売品であることを示す表示(E.I)があり、彼の私蔵作品であったと考えられる。 その意味では、後世へのメッセージを込めて描かれたのではない。

 

《モナリザ》論要約 (Tentative conclusions on Mona Lisa

ハイデルベルグ大学での発見があって、《モナリザ》がリザ夫人の肖像画であることほぼ確実になった。 長く疑問を持たれていたヴァザーリの記述は正しかったことになる。 しかし、その後も推測に基づく異説があとを断たない。 異論が絶えない理由には、触れておかれねばならないだろう。 主要な理由は二つある。

一つには、《モナリザ》は長くダ・ヴィンチの手元に置かれ、死後も依頼主に納入されなかったこと、二つは、《モナリザ》が当時の肖像画のルールを逸脱し、追従的に描かれていないことである。 依頼主である夫(絹布商人)の富を象徴する高価な衣装や、髪飾りや帽子、知性を象徴する謹言や書物もない。 それだけではなく、リザ夫人は淫靡にエロチシズムをただよわせ、娼婦のごとく描かれた。 ダ・ヴィンチがそれに無自覚だったとは思えない。 彼は「絵画論」の中で、貴婦人の肖像を描く画家を二種類に分け、一方を鑑賞者があくびをしたくなるような絵を描く画家とし、他方を鑑賞者に恋情を催させる淫靡な肖像を描く画家としている(「絵画論」VI、p107)。 おそらく、前者にはボッティチェッリが含まれている。

夫は、娼婦のごとく描かれた妻の肖像を受け入れることはできなかった。 彼は、契約を破棄し、肖像画の受取を拒否した。 当然、報酬が支払われることもなかった。 《岩窟の聖母(Fig.42 A)》と同じことが、《モナリザ(Fig. 44)》でも起ったのである。 《モナリザ》の魅力が世に受け入れられるには早過ぎたのであろう。 かくして、《モナリザ》の評価は後世に託された。


しかし、この結論には、まだ証明されるべきことがのこっている。 《モナリザ》だけを考えるなら、画家とモデル側の間にありがちなもめ事の一つにすぎない。 それが理由で、画家が作品を世に出せず、手元に置いたという例は、昔も、今も珍しいことではない。 それをことさらに、遺言作品と呼ぶほどのことはないという批判もありうる(注1)。 それに反論するには、《モナリザ》と一緒に最後まで手元に置かれていた《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》についても、同様の考察をしなければならない。

いずれにしても、《モナリザ》は、バロック期のピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640)の「鏡を見るヴィーナス」に影響を与え、スペインバロックのディエゴ・ベラスケス(1599-1660)の「鏡の前のヴィーナス」に伝わり、近代に入ってからは、さらにフランシスコ・デル・ゴヤ(1746-1828)の「裸のマヤ」に、そして印象派のピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の「陽光を浴びる裸婦」に引き継がれた。 現在では、肉感豊かに裸婦を描くことは常識のようになっており、ボッティチェッリのようなスリムな裸婦像のほうが珍しい。 その意味では、実際に、《モナリザ》は西欧絵画史上で、時代を画する大事件であった。


《モナリザ》が事件であった理由はそれだけではない。 おそらく、ダ・ヴィンチは、キリスト教による芸術への干渉に意識的抵抗を試みた初めての画家である。 彼は、画家を支配し、縛る一神教的価値観を拒否したのである(注2)。 このような「拒否」のメッセージは、《最後の晩餐》や《モナリザ》だけに描き込まれていたのではない。 フランソワ1世に売却された《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》にも、淫猥な光景、淫靡な裸像が表現されていたことを、次に明らかにする。 《モナリザ》のキーワードを淫靡(eroticism)とするなら、《聖アンナと聖母子》は女性の同性愛(lesbianism)、《洗礼者聖ヨハネ》はダ・ヴィンチによる同性愛の告白(coming-out)である。


注1 時代も国もまったく異なるが、同様の例は珍しくない。その一例を紹介する。日本でも、モデルとなった娘が侮辱されたと感じた父親が怒りを覚えて、画家に公開を禁じた作品がある。昨年の京都市美術館で開催された「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」で95年ぶりに、それが公開された(Fig. 54)。




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Fig. 55. Hikasegi (day laborer)’, 1917, Seiho Takeuchi (1864-1942), distemper on

              Japanese paper, private collection.


  This painting was exhibited on Nov. 2013 first time after 1917 at the Kyoto Municipal Museum of Art. When this was exhibited in 1917, the father of the model, Chiyo Tanaka, has got angry against the painter because his daughter was depicted as a poor day laborer with cheapie clothes. At that time, her father, a kimono merchant, was in a position of the top representative faithful of one of the Japanese biggest Buddhist temples, called Higashi-Honganji temple. He requested S. Takeuchi not to exhibit publicly this painting any more and the painter apologized and agreed with him not to do.


図55. 「日稼」、1917(大正6)年、竹内栖鳳(1864[元治元年]-1942[昭和17年])、 日本画、個人蔵.  


   この日本画は、1917年の第11回文展で発表されて以来、95年後にあたる2013年11月に京都市立美術館で初めて公開展示された。モデルの田中千代の父親(京都の呉服商)は、娘が粗末な着物を着て日雇い女として描かれていることに怒り、この絵を二度と公開しないように栖鳳に求めた。田中は東本願寺の信徒総代だったが、本願寺で奉仕活動をしていた娘の千代がたまたま栖鳳の眼に留まったことをしらなかった。栖鳳は千代をスケッチし、後に日本画として完成した。娘が、不本意にモデルとなり、そのうえ貧しい女として描かれたことを父親は侮辱と感じた。画家は、謝罪して、公開しないことを約し、その後、この絵は長く所在不明になっていた(【 2013年11月09日 09時05分、京都新聞電子版より)

<http://kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20131109000022>


注2 ここでいう「一神教的価値観」は、必ずしも「唯一の神をあがめる宗教の価値観」という意味ではない。唯一、万能の「権威」によって統一的価値観、自然観だけを許し、政治、科学、芸術などのあらゆる分野に干渉して、多様性を許さず、異端思想を排除する原理主義的思想を意味する。したがって、いわゆる宗教だけではなく、「政治思想」にも当てはまる場合がある。現在の主要宗教のほとんどは、その意味ではここで定義する「一神教的」ではない。現在では、キリスト教を含む多くの宗教が、他の宗教を容認し、芸術や自然科学、政治思想の多様性を許容している。

 

c) 《聖アンナと聖母子》再考 (Again about The Virgin and Child with St Anne

《聖アンナと聖母子(Fig. 43 A)》は、当初、フィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ (Santissima Annunziata, Florence) 教会の祭壇画として依頼された。 ダ・ヴィンチは、これをフランスに持ち出し、《モナリザ》とともに死ぬまで手元に置いた。 この事実は、《モナリザ》と同様のことが、この絵にも起こったことを示唆する。 依頼主から契約を破棄され、納入を拒否されたのである。 では、この絵のどこが教会側の怒りに触れたのか?《モナリザ》とは違って、その理由を推測することは難しくない。 なぜなら、レオナルデスキの一人であるチェザーレ・ダ・セストによる修正画、「聖母子と神の子羊」(Fig. 43 B)が残っているからである。 この修正画が制作された経緯は不明だが、修正個所は一目瞭然である。 下に、再掲する。





図43. (再掲) 《聖アンナと聖母子》(A)と「神の子羊を連れた聖母子」(B.

A)1510年頃、168 × 130 cm、油彩、板、ルーブル美術館.

B)1515-20年、37 × 30 cm、油彩、パネル、ポルディ・ペッツォーリ美術館.


ダ・セストはダ・ヴィンチの原画が完成して5〜10年後に修正画を描いた。 《モナリザ》と違い、これは宗教画である。 修正には当然、宗教的問題が関わる。 聖アンナの姿が削除され、立ち上がる雲に代えられているのは何を意味するのか? いずれにしても、この変更は明白であり、そこに何らかの問題があったと考えていいだろう。

誰がこの修正を命じたか、その経緯はわかっていない。  《岩窟の聖母》については、神学的問題が研究者によって議論されているが、《聖アンナと聖母子》については、あまり議論がされていないようである。 聖アンナが削除され、立ち上る雲がそれに代わったことを、マタイ伝を引用するためとする解釈はある。

マタイ伝26章64節に、「しかし、私は言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう。But I tell you, hereafter you will see the Son of man seated at the right hand of Power, and coming on the clouds of heaven.(26:64)」とある。 しかし、この解釈が正しいなら、「力ある者の右」という部分が描かれていなければならない。 単に聖アンナを消すために雲が必要だったと考える方が分かりやすい。

問題は、むしろ聖アンナが消されねばならなかった理由である。 この疑問に答えるには、聖アンナについて知らねばならない。 まず、アンナとはどのような女性で、マリヤとどのような関係にあり、当時の祭壇画で、通常はどのように描かれていたのかを知る必要がある。


聖アンナ (St Anne

聖アンナの名は、旧約聖書、新約聖書のいずれにも出てこない。 新約外典の「ヤコブによる原福音書」に、聖母マリヤの生母として登場する。 13世紀まではカトリックでも議論があり正式には認められていなかったが、ルネサンス時代に聖アンナを祭壇画に描くこと自体は異端でも、禁忌でもなかった。 実際に、聖アンナと聖母子を描いた宗教画は、ダ・ヴィンチ前のルネサンス初期にも多い。

ヤコブの外典によると、アンナは、年老いて子供がなかったが、天使から子を授かると告げられ、生まれたのがマリヤである。 したがって、聖アンナはイエスの母方の祖母ということになる。 老いてマリヤを出産したのであれば、アンナとマリヤにはかなりの年齢差があったはずだ。 少なくとも30歳、最大で50歳程の年齢差であろう。


実際に、当時の宗教画で、聖アンナは例外なく老婆として描かれている(Fig. 56 A, B, C)。 一部では、書物が高齢者の智慧を象徴し、アトリビュートとして使われているが、 頭巾をかぶる老婆として描かれるのが一般的だった。 ところが、ダ・ヴィンチは、どちらも採用していない。 二人の女性はほぼ同年齢に描かれ、アンナとマリヤの違いは一見して、わからない。 イエスに手を伸ばす方がマリヤという推測はできるが、他の例では、マリヤがイエスを抱く(Fig. 56 B)、アンナが抱く(Fig. 56 A)、あるいは両者が共に抱く(Fig. 56 C)例があるので、それだけでは断定出来ない。 ダ・セストの修正画(Fig. 43 B)は、「神の子羊を連れた聖母子」と名付けられているので、それから推測するとイエスに手を伸ばすのがマリヤであり、削除されたのがアンナであるとわかる。


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Fig. 56. Three examples of St Anne with the Virgin and Childduring Da Vinci’s period

            (A) 1490s, unkown master (Flemish), Tempera on canvas, 32.2 × 23.7 cm,

                   Museum Mayer van den Bergh, Antwerp.

             (B) c. 1500, Cornelis Engebrechtsz, oil on on oak, diameter 24 cm, Staatliche

                   Museen, Berlin.

            (C) 1519, Albrecht Dürer, oil and tempera on canvas transferred from panel,

                    60 × 50 cm, Metropolitan Museum of Art, New York.


                 

図56. ダ・ヴィンチと同時代に描かれた「聖アンナと聖母子」の三例.


          (A) 1490年代、氏名不詳のフラマン人、テンペラ画、カンヴァス、32.2×23.7 cm、

        マイヤー・ファン・デン・ベルグ美術館、ベルギー、アントウェルペン.

          (B) 1500年頃、コルネリス ・ エンゲブレヒツ、油彩、オーク、直径 24 cm、

                 ドイツ国立美術館、ドイツ、ベルリン.

          (C)1519年、アルブレヒト・デューラー、油彩とテンペラ、カンヴァス(パネルから転  

        写)、60×50 cm、メトロポリタン美術館、アメリカ、ニューヨーク.


ここで、いくつかの疑問が生じる。 ダ・ヴィンチが、アンナとマリヤをほぼ同年齢に描いた理由は何か。 ダ・セストはなぜ、アンナを削除したのか。 最大の疑問は、マリヤがアンナの膝に腰をかけている異例のポーズは何を意味するのか。 この光景は、教会関係者の目にはどのように映ったか? このような図法が神学的要請ではないことは、他に例がないことからも明らかである。 ダ・ヴィンチに固有の意図があったとしか思えない。 

微笑ましくさえ見えるこの光景を、現在の価値観で見てはならない。 ほぼ同年齢に描かれた二人の成人女性が下半身で体を接する光景が、教会の祭壇画にふさわしいはずはなかった。 答えは明らかである。 この絵に描かれた二人の女性は母娘として描かれてはいない。 愛し合う二人の独立した女性である。 ダ・ヴィンチの意図がどうであれ、この光景は、女性の同性愛(レスビアン)を想像させたはずだ。 おそらく、ダ・ヴィンチもそれを意識していたはずだ。 なぜなら、彼は、手稿の中で次のように述べている。 「画家は淫猥なる光景を非常な淫靡さで描く為に観者をして同じ情欲を催させる(絵画論II、p68)」。 これこそ、ダ・ヴィンチが絵画論で書いた「淫猥なる光景」だった。 ダ・セストの修正(Fig. 43 B)は、おそらく教会側の要請に基づくものだったと思われる。 祭壇画として拒否されたのであれば、修正を求められても当然である。 ルイーニによる《最後の晩餐》の修正(Fig. 36 A)や、ロンドン版《岩窟の聖母(Fig. 42 B)》と同様のことが起こったのであろう。 レオナルドを尊敬するゆえに、師を守るための修正に応じざるを得なかったのであろう。  彼らはバッハにとってのバムラーだった(注1)。

注1 彼は、バッハが破棄した《ヨハネ受難曲》初演稿を復元し、歌詞(19番アリオーソ、20番アリア)の一部を修正したが、それは教会の圧力によると考えられている。

 

d) 《洗礼者聖ヨハネ》(Baptist St. John

《洗礼者聖ヨハネ(Fig. 57)》の制作経緯は知られていない。依頼作品であったのか、あるいはラファエロが隠し妻(または愛人)の肖像「La Fornarina(Fig. 54) C」を私蔵目的で描いたように、愛するサライを描いたのかもしれない。 ただし、《洗礼者聖ヨハネ》は秘匿される必要はなかった。 女性的な顔の特徴は、ダ・ヴィンチが残したサライのスケッチと似ており、美術史家の多くもサライがモデルあることを認めている。 しかし、これが私蔵目的で描かれたのなら、洗礼者ヨハネのアトリビュート(十字架の杖と革の腰巻)を描く必要はない。 彼によれば、肖像に恋し、欲情を抱くには神の徴は邪魔なはずだった。 聖人の絵に、実在の人物をモデルとして使う事は日常的に行われていた。 そのこと自体が非難される理由は無い。



 


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Fig. 57. St John the Baptist

               1513-16, Leonardo Da Vinci, oil on panel, 69 × 57 cm, Musée du Louvre, Paris.


図57. 《洗礼者聖ヨハネ》

        1513-16、 レオナルド・ダ・ヴィンチ、油彩画、木板パネル、69 × 57 cm、フランス、

    パリ、ルーブル美術館蔵


洗礼者ヨハネは女性的顔貌の半裸像で描かれ、《モナリザ》と同様に画家(鑑賞者)を正視し、誘うような笑みを浮かべる。 そのこと自身も問題だが、さらに重要な事はそのモデルがサライだったことである。 二人は同性愛の関係にあったと信じられている。 ダ・ヴィンチはサライより39歳年長であり、当初の関係は少年愛に分類される(注1)。 ダ・ヴィンチが、サライを慈しむ様子は、さまざまは逸話からも想像できる。 サライの美しい横顔スケッチからも、それが伺える。


少年愛(〔希〕Παιδεραστία、〔羅〕paiderastia、〔英〕pederasty)の起原は、古代ギリシャにあると言われる。 アテネやスパルタでは兵士教育における年長者の義務でもあった。 年長の兵士(成人男子)が思春期の少年を兵士教育の一環として慈しむ性愛行為だった。 それによって、兵士たちの団結心、一体感の強化が図られた。 日本の戦国武将に広がった衆道に近い。 多くの場合、年長者には、妻や女性の愛人がいたので、純粋な意味での同性愛ではない。


キリスト教社会における同性愛の背景には、もう一つの流れがある。 誤解を恐れずに言えば、ユダヤ教エッセネ派に由来する禁欲主義の流れである。 それが、ネオプラトニズムに融合したのがルネサンス時代だった。 エッセネ派はイエスが活躍した時代のユダヤ教四大宗派の一つであったが、新約聖書には一切の言及がない。 他の三宗派は、サドカイ派、パリサイ派、熱心党であり、いずれも新約聖書では批判されるか、否定的ニュアンスで紹介されている。 エッセネ派に対する言及がないのは、イエス教団自身がエッセネ派に起原を持つためではないかと推測されている。 キリスト教に性差別はなかったが、エッセネ派の禁欲主義の流れを汲むキリスト教が、聖職者の妻帯や女性との性交を禁止し、一般信徒にも生殖目的以外の性行為の禁止(例えば避妊の禁止)をするようになった。 さらには、性欲を原罪と規定するようになり、女性を汚れの対象と見做して、聖職者や修道士の侍者や教会の合唱団から女性が排除されるようになった。 それによって、逆に聖職者の少年愛が助長されることになった。 だが、ルネサンス前までは、それが表沙汰になることはまれだった。 言わば、多めに見られたのである。

ところが、先に述べた東ローマ帝国の滅亡で、多くの知識人、科学者がイタリアに亡命し、ギリシャ文化が一挙に入ってきたことで事情は一変する。 新約聖書の原典はすべてギリシャ語でかかれているように、キリスト教は一種のヘレニズム文化でもあった。 そのために、ギリシャ文化に対する包容度は高かった。 その中には、プラトン主義の亜流とも言える、 プロティノス(c. 205 - 270) の新プラトン主義(ネオプラトニズム)が含まれていた。 その特徴は、愛の女神であるエロスへの憧憬である。 それには、いわゆる理想的な愛としてのプラトニック・ラブ、その変形としての少年愛が含まれていた。彼の思想が、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino、1433-1499)によってラテン語に翻訳されたことで、ルネサンス時代のイタリアに一気に広がった。 少年愛の歴史にネオプラトニズムが融合したのである。

古代ギリシャ文明に憧れていたルネサンス時代の画家たちは、ネオプラトニズムの影響を強く受けることになった。 画家の工房に入ってくる少年たちがその対象だった。ダ・ヴィンチもその例外ではなかった。 これが顕在化することで、 キリスト教会は少年愛が生殖を目的としない性愛行為の一種であり、罪悪であると見做すようになる。その結果、少年愛を同性愛として非難し、処罰せざるを得なくなった。 むち打ち、去勢などの身体刑だけではなく、悪質と見做されれば死刑もあった。 先述したように、ダ・ヴィンチは若いときに男娼を買った容疑でニ度逮捕されている。 彼の師、ヴェロッキオも同性愛でニ度の逮捕歴がある。 それが、独立後も継続していたとすれば悪質と見做される可能性もあった。 そのような状況で、愛するサライをモデルに裸像を描くことは危険な行為だった。 教会に対しては、それなりの配慮(エクスキューズ)が必要だったのである。


ボッティチェッリとは別の形で、ダ・ヴィンチは宗教的妥協を計った。 彼はあくまでも、光輪は避けた。 単なる淫猥、淫靡であれば、作品の没収で済むことである。 しかし、同性愛が疑われる肖像は命を危うくする。 サライを洗礼者ヨハネとして描くというのは、ある意味ではダ・ヴィンチなりの節度であった。 サライは、すでに30代の半ばを超えていた。 もはや、少年愛では済まない年齢だった。 そのサライを裸像で描くために、《洗礼者聖ヨハネ》のモデルとしたのである。 洗礼者ヨハネのアトリビュートは確立していた。 革の腰巻きと十字架の杖である。 光輪を描かずとも、裸像を描ける。

しかし、ダ・ヴィンチはただ妥協したわけではない。 《洗礼者聖ヨハネ》のサライに淫靡なポーズをとらせた。 ヨハネは、女性として描かれただけではない。 彼の胸は右腕によって隠された。 裸婦が局部を隠すポーズが淫靡を醸すのと同様に、サライは女性的顔貌で乳房を隠したのである。 ボッティチェッリの「ヴィーナス誕生」(Fig. 51 A)でも、ヴィーナスは局部に手をあて髪で隠す。 しかし、ヴィーナスは女神であり、聖ヨハネは男性である。 聖ヨハネを女性的に描くだけでも問題があるうえに、乳房を隠すことで淫靡が表現された。

ダ・ヴィンチは、洗礼者ヨハネを描くために、サライをモデルに選んだのではない。 その逆である。 サライの裸像を描くために洗礼者ヨハネを選んだのである。 通常は、女神や聖人、聖母を描くために、実在人物からモデルを探す。 しかし、この場合は逆だった。 洗礼者ヨハネは不自然なまでに淫汚(え)に描かれているからである。 その意味では、《洗礼者聖ヨハネ》は《モナリザ》の、同性愛バージョンである。 ダ・ヴィンチ自身の文章を借りるなら、「淫汚の極まりなさは、遂に熟視者をして『同じ欲情』を催させる程である(「絵画論」II、p37)」。


池上はギリシャ神話の両性具有神(hermaphrodite)やプラトンの「アンドロギュノス」、さらにグノーシス主義と関連させて、この絵を議論している。 ダ・ヴィンチには《聖セバスチャンのスケッチ(not shown)》や、《苦痛と快楽の寓意(not shown)》と呼ばれる素描があり、そこには同一の体に女性と男性の頭部が乗る姿がある。それらを根拠に、ダ・ヴィンチに両性具有への憧憬があったとする。 しかし、《洗礼者聖ヨハネ》を、あえてこれらと結びつけて議論する必要は無いだろう。 《洗礼者聖ヨハネ》はダ・ヴィンチからサライへの愛の告白(coming-out)だった。


注1 少年愛は同性愛(ホモセクシュアル)の一種ではあるが、 いわゆるゲイとは異なる。 ホモセクシュアルは、一般的に、男女に関わらず同性間の性愛関係を意味するが、 その中で成人間の場合がゲイと呼ばれる。 日本では、習慣的に男性にはホモまたはゲイを使い、女性にはレスビアンを使うことが多いが、英語圏では、成人間の同性愛には男女に関わらず、当事者を含めゲイ(gay)を使う。 ダ・ヴィンチは39歳のときに、10歳のサライを養子として入籍しているので、この肖像を描いた頃は、サライ30歳、ダ・ヴィンチ60歳のころだった。

 

結論( Conclusions


ダ・ヴィンチは、絵画と音楽を比較して次のように述べる。「絵画は音楽を凌駕し、支配する。何故と云えば絵画は頼りない音楽のように創られてからすぐに止って了ふ事はなく、又、本質の中に残るからである。」(「絵画論」IV、p75)。さらに、絵画が他の芸術、たとえば音楽、詩、彫刻などより優れた芸術であることを繰り返し述べる。その弁証法は、読む者が辟易するほどである。こんな絵画論を書くくらいなら、一点でも多くの絵画を描いて欲しかったと、皮肉を込めて批評する美術史家もいる。 しかし、ここで「絵画論」を取り上げたのは、そこに展開される議論が正しいからではない。 彼の絵画を理解したいからである。そのためには、彼が理想とした美とはどのようなものだったか、その追求を妨害し、抑圧するものに彼がどのように立ち向かったか、その理想を絵画としていかに自己実現したかを知るためである。 マドレーヌ・ウール(1913-2005)の言葉を借りれば、「理解のないところに愛はない。優れた芸術作品を愛するとはそれらをより深く理解したいと願うことである。」


ダ・ヴィンチは音楽(声楽)と絵画を比較して、次のように述べる。 「どれ程多くの絵画が聖なる美人の俤を永遠化したのであろう。然し此の自然のモデルは『時』あるいは『死』に依って時ならずも滅せられて居るのであった。そこで画家の作品は其の師たる自然のそれよりも価値がある事になる。もし君が、おお、音楽家よ、絵画は手を使ってなるものであるから機械的芸術であると云ふならば、何ぞや、音楽は味覚の為めでもなく、触覚する為めに手を使ふのでもなく、唇を以てなされるものである。

言葉は事実より価値少なきものである。君よ、科学者なる文学者よ、君が画家のするやうに君の精神の中にあるものを書く時、君は君の手を用ひて筆写するのではないか。『音楽は均斉からなる』ともし君が云ふなら、私は答えるであろう。『その故にこそ音楽は絵画を模し、其の御手本を追ふのだ』と(『絵画論』IV、pp78-79)」。


詩と絵画の比較では、「画家は詩人の才より非常に優れて居る為めに、現実の女を現して居ない絵画を愛し、又、熱愛させるに至る程である。詩人よ、君は現実の物を現さぬ美に就いて如何に書くであろうか。又、君は人々に同じやうな情欲を起こさせるであろうか。『私は地獄、極楽、甘味或は恐ろしい他のものを書こう』ともし君が云ふなら、画家は無言ではあるが其の美と恐ろしさとを表現し、又、魂を魅し、或は驚かす形を見いだすのであるから詩人に勝って居る。(『絵画論』III、p66)」と述べる。


ここまでの絵画至上主義に、人は辟易するかもしれない(注1)。彼は絵画こそが、もっとも科学的な芸術であり、科学は数学的検証なしでは成立しないと述べる。 これらの考え方に、他の芸術家が劣等感や敵愾心を持つ必要はない。知るべきは、ダ・ヴィンチが考えていたことであり、実現したことである。理解すべきは、遺言作品で後世に託されたメッセージの内容である。

彼には理想とする美があり、それは依頼者や顧客の報酬額に応じて描くようなものではなく、絵画とはあくまでも自分自身に根拠を持つ自己表現でなければならなかった。  これらの言葉には、宗教的妥協に終始したボッティチェッリ、ヴァチカンの寵児となって高額の報酬を得て描くラファエロや、人体を研究することなく裸体を描くミケランジェロへの批判が込められているように思える。 ダ・ヴィンチの理想が結実したのが、《モナリザ》であり、《聖アンナと聖母子》、《洗礼者聖ヨハネ》だった。 いずれも、顧客のために描かれた絵画ではなかった。 キリスト教的価値観を超越していたという意味では、彼は真にルネサンス的芸術家であった。 しかし、フランス革命前の西欧では、芸術家はキリスト教的価値観から支配され続けた。 それを検証するために、次の節では、ダ・ヴィンチ後の盛期ルネサンスからロココまでの300年近くにわたって描かれた「最後の晩餐」を取り上げる。 それぞれの時代の代表作8点を通して、ダ・ヴィンチ後の画家たちがキリスト教支配から決して解放されていなれなかったことを検証する。


注1 ダ・ヴィンチは、さまざまな比喩を駆使して、視覚と絵画の優越性を述べる。「画家は己れを魅する美を見ようとする。彼は創造の主である。 もし彼が恐ろしい怪物や、又はおどけた稽(おろか)しい光景とか、或は又身につまされる他の物を描き現したいと思へば、彼はその主であり、神である。[…] 動物でさへ絵画を見て欺される。犬は其の飼主の肖像を見てありとあらゆる歓待をする。我々は、犬が絵に描かれて居る犬に向って吠え、且つ噛付こうとするのを見た。 […] 視覚よりも聴覚、臭覚、触覚を失ふ方を取らぬ者は如何であるか?何故と云へば視覚を失ふ者は世界から追放された者の如くで最早何も見ない。そして、その一生は死の妹となる。(『絵画論』II、53節、pp36-37)」。 さらに、「動物はさまざまな理由から聴覚よりも視力を失って、更に酷い損害を受けねばならない。第一の理由は視力の助力に依って食物を見付ける。即ち一切の動物に取って欠く可らざるものである。第二に視力に依って創造されたものの美を認める。即ち愛に誘ふ至高の点である。こう云ふわけで生来の盲人は耳に依って何ら受けることが出来ない。 何故と云へば其の盲人は如何なる種類の中にも美なるものの知覚を決して得ないから。聴覚はただ声とか、人語を聞くに限られて居る(同54節、p37)」。 「恋情を以て或る貴婦人の美を歌ふ詩人を取って見よ。同じ貴婦人を現す画家を取って見よ。君は自然が其の恋々たる判断をいづれに廻(め)ぐらすか知るであろう。(『絵画論』III、78節)、p55」。 「絵画は音楽を凌駕し、支配する。何故と云えば絵画は頼りない音楽のやうに創られてからすぐ止つて了ふ事はなく、又、其の本質の中に残るからである。(同、IV絵画、96節、p75)」。 辟易する程の視覚至上主義、絵画至上主義である。 現在の生物学の知識では明らかな間違いを含むこれらの記述通りに理解してダ・ヴィンチを笑い、非難することは可能である。 しかし、画家が、他の芸術と比べて絵画の優位性を主張することに違和感はない。 詩人も音楽家もそれぞれの感覚の優位性を語ることができる。 重要なことは、彼が、「絵画はそのモデルである自然よりも価値がある(女性の美を描いた絵は女性自身の肉体よりも価値がある)」と考えていたことであり、その美の本質は淫靡(エロチシズム)に、言い換えれば情欲を催させることにあると考えていたことである。 「絵画論(加藤朝鳥訳、北宋社)」には、至る所に「神々」、「女神」という表現は出て来るが、キリスト教の三位一体を思わせる唯一神や、その規範や道徳律についての記述はない。 日本語訳で読む限り、単数形の「神」は、比喩的な表現に限られる。たとえば、「画家は創造主であり、神である」などの下りである。 「画家の営みは、神へ挑戦である」と言っているに等しい。 換言すれば、神に挑戦しない画家は画家の名に値しないと考えていたとも言える。






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