私が最初に《マタイ受難曲》を聞いたのは1976年の秋だった。ライブで初めて聞いたのは、その5年後、ハイデルベルグの旧市街にあるゴシック様式の聖霊教会だった。それぞれの経験に強烈な思い出があるが、それは別の機会にゆずるとして、音楽自体には特に不可解な印象はなかった。私が最初に疑問を持ったのは、1993年に京都のあるアマチュア合唱団に参加して、自分で《マタイ受難曲》を初めて歌ったときだった。正確にいえば、第50曲d(以下、受難曲が自 明の場合は50d、自明ではない場合は、MP50dなどとMPまたはJPを付す)のバスパート(譜例1)を歌ったときだった。それまで聴いた演奏で一度も感じたことがない疑問だった。

この曲は、イエスを憎悪するユダヤ人群衆(トゥルバ)が、 「Sein Blut komme über uns und unsre Kinder.」と歌うところである。これは、「イエスの血が我らや我らの子孫の上にしたたる(注1)」 という不気味ささえ漂う聖書由来のテキスト(聖句)である。キリスト教から見れば、ユダヤ人たちがイエスの死に対する責任を自覚し、自分たちだけでなく、子孫までが呪われ、祟られることを覚悟しているという意味にとれる。ルター訳聖書のマタイによる福音書27章25節(以下、マタイ伝27:25)から引用 された聖句(biblical text)だが、厳密にはそれとも少し違う。本来は 「Sein Blut komme über uns und über unsre Kinder.」 と、「über(上に)」が二度繰り返される。「我々」と「我々の子孫」が独立に強調されており、ギリシャ語聖書でもそうなっている。しかし、私が気になったのはそのことではない。違和感があったのは、この歌詞につけられたロ短調の旋律である。50dはイエスへの憎悪と、イエスから受けるであろう呪いの予感という内容にそぐわない美しいメロディーで書かれていたからである。それまで、どの演奏を聞いても気づかなかったのだが、実際に自分で歌うとこのロ短 調の響きは憎悪の感情には、いかにもそぐわない(注2)。マタイ伝に由来するこの聖句は「イエスの死に直接の責任があるユダヤ人(教徒)達だけでなく、彼らの子孫にまで災いが及ぶ」と宣告しているに等しい。実際に、マタイ伝が書かれた目的は、キリスト教への改宗を拒むユダヤ教徒たちに対して発せられた「マタイ教団からの最後通牒」であると言われる。とすれば、これはマタイ伝の中でも、もっとも醜悪なテキストと言える。ところが、この曲は最後の8拍で「 über uns, über uns und unsre Kinder(我々の上に、我々と我々の子孫の上に)」と繰り返すところで、哀愁を帯びたロ短調の旋律が、突然、明るいニ長調に転調する。この転調は、いかにも唐突でバッハに何らかの意図があったことを伺わせる。この疑問は、一般の演奏を聴くかぎり湧いてこない。なぜなら、バッハが速度指定していないこともあり、この曲は歌詞の意味に合わせて、一般に速いテンポで荒々しく演奏されるからである。そうすることで、音楽家はこの旋律と調性に疑問を感じないで済むように意図しているとさえ思える。この聖句は西欧におけるユダヤ人差別と迫害の根拠となり、ドイツの宗教改革では、ユダヤ教会(シナゴーグ)を焼き払 い、ユダヤ書を焚書にせよと煽動したルターの根拠でもあった。民衆レベルでも、ユダヤ人への迫害はこの聖句によって正当化された。そのテキストに、バッハ はなぜロ短調の美しい旋律をつけたのか。彼は、歌詞の意味や情感(Affekt)に対応する調性の選択には注意を払わなかったのか。実際に、バッハの調性 選択には思想的な意図はなく、意味論的には無頓着だったと考える音楽家も少なくない。しかし、バッハが生まれた約800年前のドイツに始まり、その600年後にルターに引き継がれて、20世紀のナチズムまで続く千年以上にわたるドイツのユダヤ人迫害史において、この聖句がドイツ人民衆の深層心理に与えた影響は大きいはずだ(注3)。正確に言えば、ルターが迫害をあおったのは、キリスト教への改宗を拒んだ、「頑迷なユダヤ教徒」だったが、民衆の間では「キリスト教に改宗した元ユダヤ教徒」やその子孫も「ユダヤ人」とみなされていた。多くの場合、彼らは区別されることなく迫害、差別されたのである(注4)。その意味では「ユダヤ人種」という虚構の概念はヒトラーの発明ではない。彼はドイツ一般民衆が持つ反ユダヤ感情をニュルンベルグ法として、定式化しただけである。ヒトラー自身はカトリック家庭の出身であり、幼少期に反ユダヤ主義の環境で育ったわけではない。ドイツプロテスタントが醸成した反ユダヤ主義にヒトラーが迎合したのであり、その逆ではない。ナチの思想がドイツに育ち、結実するには、ドイツプロテスタントによって発酵された反ユダヤ主義の土壌が必要 だったのである(注5)。

いくつかの《マタイ受難曲》の演奏を聴くと、私が初めて聴いたK.リヒターの58年盤をはじめ、50dはユダヤ人達の「憎悪の感情」を最大限に表現すべく、早く、激しく、荒々しく演奏されている。H.リリングの「マタイ受難曲演奏法」も、そのように指示している(注6)。しかし、本当にバッハはそのような演奏を望んだのだろうか?このような美しい旋律を付けたということは、逆に、バッハがその旋律にふさわしく歌詞を解釈していたという可能性はないのか?バッハがバロック期の他の作曲家と同様に、音型論(Figuralenlehre)、音楽情緒論 (Affektenlehre)(注7)を駆使していたことは知られている。そうであればこの聖句を、バッハがどのように理解していたかを解くヒントはその美しいロ短調に秘められているのかもしれない。しかし、そもそも、歌詞と調性の関係にバッハが無頓着ではなく、こだわっていたことを何らかの方法で証明しないかぎりその議論は意味のない泥沼に陥るだろう。

単純に考えれば、次の二つのどちらかであろう。「1.バッハに何らかの意図があって、この聖句のためにあえてロ短調を選択したうえでニ長調に転調した、あるいは、2.個々の調性と聖句の関係にさしたる意味は無く、楽器編成や、前後の曲との関係で、たまたまこの組み合わせになったのであり、歌詞との関係は偶然に過ぎない」というものである。リリングや世の音楽家たちは、後者と解釈して、速く荒々しく演奏することで、バッハの不適切な調性の選択が聴き取れないように演奏法的に修正しているのかもしれない。前者であれば、その「何らかの意図」が何かということが次の問題となる。そして、それにふさわしい演奏はどのようなものかという問題になる。しかし、自然現象とは違って、バッハという一個人が遺した人為的所産(芸術作品)である《マタイ受難曲》でのロ短調の使用が、音楽技術的な偶然なのか、何らかの思想、意図が込められていたのかを、後世の我々が、単なる印象や主観、感性ではなく、客観的、科学的に検証することは可能なのだろうか。どのように検証すれば、バッハ2#調(ロ短調とニ長調)へのこだわりを否定するにしても、肯定するにしても、それが証明されたと言えるのだろうか。そのためには、バッハの全作品において調性分布がどのようになっているかを解析しなければならない(調性分析)。まずは器楽曲と宗教声楽曲との間でバッハの調性選択の傾向、調性分布に違いがあるか、あるいは無いのかを次に検証する。



(注1)ギリシャ語聖書でも、ラテン語訳のウルガータ本でも、この「komme」に相当する語はなくルターが付け加えたものである.。誤訳ではないにしても、あえて補うなら、kommen(英語のcome)ではなく、新共同訳聖書のように「ある」、ドイツ語ではsein(同be)のほうが適当だったのではないだろうか。「sein」よりも「kommen」の方が、血に具体性が出て来てユダヤ人たちの残虐性がより強調されるように思える。

(注2)以下の譜例はフリーソフトのMuseScoreを使用している。Windows版、Mac版とも<http://musescore.org/ja>からダウンロードできる。速度を変えて演奏することも可能であり、50dについては特に有用である。

(注3) 多くの文献はルターの反ユダヤ主義とヒトラーのそれとは一線を画すべきとしている。前者は「ユダヤ教信者」に対する扇動で、後者は人種としての「ユダヤ人」に対する扇動であるというのが理由だ。しかし、かならずしもそうとは言い切れない。両者の違いは微妙であり、ルター主義のもとでも「(キリスト教に改宗した)元ユダヤ人」をも人種的に差別する世論は醸成されていたし、ナチスのニュルンベルグ法でいう「ユダヤ人」の定義も最終的には、本人ではなく祖父母 の代におけるユダヤ教への信仰が根拠になっている。同法では、祖父母四人の中に三人以上のユダヤ教徒がいれば第一級ユダヤ人、一人でもいれば第二級ユダヤ 人とされ、本人の宗旨にかかわらず、両者ともが殲滅の対象であった。ヒトラーも「ユダヤ人」という生物学的な人種が存在しないことを知っていたので、このような定義をせざるを得なかったのである。

(注4) 中世十字軍以来のドイツ(あるいはゲルマン民族)の歴史で「キリスト教に改宗した元ユダヤ教徒」も「ユダヤ人」として迫害されたという記録は多い。ペストが流行したときは、「ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れた」として殺戮されたが、そのときにキリスト教に改宗したかどうかは問われなかった。現実には、ユダヤ教家系の出身で、いわゆる「ユダヤ的伝統と文化、習慣」をもったものが「ユダヤ人」とされた。たとえば、時代を下るが、詩人のハインリッヒ・ハイネはデュッセルドルフのユダヤ人家庭に生まれ、プロテスタントに改宗してもユダヤ人として差別され続けたためにナポレオン革命に憧れてフランスに亡命した。しかし、革命後のフランス社会も彼の理想からほど遠く、ユダヤ人として差別され続けた彼は絶望した。

(注5) ルターは宗教改革の初期において、ユダヤ教徒にキリスト教への改宗を勧誘したが、彼らが好意を示さなかったために、その後は強烈な反ユダヤ主義者となった。しかし、ナチス以前のドイツでも「キリスト教に改宗したユダヤ人(Christian Jews)」も「ユダヤ教徒」と同様に迫害されていたのである。それはバッハの時代でも同様で、ヒトラー時代の発明ではない。ナチスは民主的に国家を乗っ取り、国家として組織的に、迫害を実行したという点でユニークであったにすぎない。

(注6) Helmuth Rilling(1933- )、ドイツの合唱指揮者、音楽教育者。バッハの合唱曲を初めて全曲録音したことで知られる。旧全集で第59曲(本稿が使う新全集では第50曲)について「アーティキュレーション:合唱とそれをなぞっていくオーケストラ(ここではフルートも)は、終始歯切れのよいノン・レガートで。言葉の使い方:子音はきわめて鋭く。seinのsは鋭いというよりはむしろ音になるように発音すること。über uns und unsre の喉声は激烈に。kommeと Kinderのk音は意識した気息音で。テンポ、指揮法、接続:速い。4分音符振り。リタルランドはない。そしてこの場面に劇的な終わりを告げながら、振り続けたまま先へ」(松原茂訳)と記されている。

(注7) 音型論は、歌詞の意味を、それにつけた旋律の音符の型で表現する方法論。たとえば「蛇」という語には蛇のように曲がりくねった形に音符を連ねる。♯音が十字架状に配置される十字架音型も良く知られている。音楽情緒論は情念論とも言い、歌詞の意味、情景に合わせた調性の選択、旋律の使用を行う理論。5章1節 のFig.12を参照。



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1章 最初の謎第50曲dThe first question ─ MP50d)