(2)《マタイ受難曲》中のロ短調 (B minor movements in the Matthew Passion)

バッハの受難曲としては《マタイ受難曲》と《ヨハネ受難曲》の二曲が一般に知られている。これらを比較して最初に気づくのは、両受難曲で調性の使用が対照的である、というよりほとんど逆転しているということである。ロ短調の使われかたについては両曲で全くと言っていいほど異なっている。主要調性を判定できる曲に限れば、《ヨハネ受難曲》中の37曲でロ短調の曲は2曲だけである。しかもそのうちの1曲はわずか4小節の短いものである。しかし、《マタイ受難曲》では、57 曲中の10曲でロ短調が使われている。短いものでも9小節、平均して31小節である。《ヨハネ受難曲》では、23f(4小節)の合唱(「Wir haben keinen König, denn den Kaiser.(我らは、ローマ皇帝のほかに王をもたず)」と、30番のアリア(「Es ist vollbracht!(ことは成就した!)」)がロ短調である。後者は、最初の19小節と、最後の5小節の計24小節がロ短調であるが、その間に20小節のニ長調が挿入されている。平均すれば、《マタイ受難曲》の半分以下で14小節に過ぎない。23fはイエスを裁くローマ帝国のユダヤ総督ピラトが、ユダヤ教の祭司長らに「Soll ich euren König kreuzigen?(お前たちの王[イエス]を十字架に付けるべきか?)」と問い、群衆がそれにたいして皮肉を込めて返す場面である。30番のアリアはイエスが、十字架上で息を引き取る直前に言ったとされ、ヨハネ伝だけに伝わる(従っておそらくイエスの神格化の過程で創作された)言葉「Es ist vollbracht!」に始まる、アルトとヴィオラ・ダ・ガンバのアリアである。曲はロ短調→二長調→ロ短調と推移して最後に「Es ist vollbracht!」を繰り返して終わる。23fの旋律に長音はなく8分音符が音節ごとに当てられた固い旋律である。30番は、イエスの臨終の言葉が、悲しみを帯びたロ短調のAdagioで始まるが、19小節目のアウフタクトからニ長調のVivaceに転じて、勢いのいい旋律が続く。このニ長調のパッセージには、'Held(勇士)'、'Macht(力)'、'Kampf(戦い)'などの戦闘的な語が続きイエスを闘士として英雄化し、ロ短調にもどって再びAdagioの「Es ist vollbracht!」で終わる。このニ長調には受難曲を劇的にする効果があり、そのあとの33番で、ヨハネ伝から逸脱して、マタイ伝27章51、52節から地震の場面を挿入し、同様に受難曲を劇的にする意図の伏線ともなっている。バッハも《マタイ受難曲》前のカンタータでは、ルター主義正統派を彷彿とさせるBWV18(1713年)、BWV19(1726年)、BWV126(1725年)などで、ユダヤ、ローマカトリック、サタン、イスラム、反福音主義などの(ルター派からみての)異端に対する戦いを鼓舞しており、その意味では《ヨハネ受難曲》は年代的にも、神学的にもルター主義正統派の枠内にある宗教曲である。このように受難劇をイエスの戦いの勝利として描く特徴は《マタイ受難曲》にはない。逆に《マタイ受難曲》の28番では、「剣を持つものは剣に滅びる(denn wer das Schwert nimmt, der soll durchs Schwert umkommen.)」というイエスの言葉(マタイ伝26章51節、第28曲7 - 9小節)に先立ち、ルター訳聖書にある 'Und siehe, einer aus denen, die mit Jesu waren, rekkete die Hand aus, und zoch sein Schwert und schlug des Hohenpriesters Knecht und hieb ihm ein Ohr ab.(すると見よ、イエスと一緒にいた者たちの一人がその手を伸ばして剣を引き抜いて、大祭司の下僕に打ちかかり、彼の一方の耳をそぎ落とした。)’ の中の下線部<und zoch sein Schwert(剣を引き抜いて)>という戦闘語句が削除されている。これらは両受難曲の性格の違いを反映しているだけではなく、それぞれの作曲動機が異なっていた可能性を示唆している。しかも、《ヨハネ受難曲》では、ロ短調の使用自体が控えめだが、《マタイ受難曲》では繰り返し使われる。

次に、《マタイ受難曲》で現れるロ短調で書かれた曲を具体的に検証する。まず、それらの冒頭の句を列挙すると次のようになる。

(1) 3コラ-ル(12小節)

Herzliebster Jesu, (心より愛するイエス)

譜例2

(2) 5レチタティ-ヴォ・アコンパニャ-ト(10小節)

Du lieber Heiland du, (君よ、愛しい救い主の君よ)

譜例3

(3) 8アリア(45小節、Da Capoを除く)

Blute nur,  (血にこそまみれ!)

譜例4

(4) 25コラ-ル(17小節)

Was mein Gott will, das gscheh allzeit, (わが神の望む事、常に成る)

譜例5

(5) 30アリア(123小節)

Ach! nun ist mein Jesus hin! (ああ今、私のイエスは去って行く!)

譜例6

(6) 39アリア(54小節)

Erbarme dich, mein Gott, (わが神よ、憐れみたまえ)

譜例7

(7) 46コラ-ル(11小節)

Wie wunderbarlich ist doch diese Strafe, (この罰は何と驚くべき)

譜例8

(8) 50b合唱(9小節)

Laß ihn kreuzigen! (彼を十字架につけろ!)

譜例9

(9) 50d合唱(17小節)

Sein Blut komme über uns und unsre Kinder.

(彼の血は我らとわれらの子らの上に滴る)

譜例10

(10) 58b合唱(14小節)

Der du den Tempel Gottes zerbricht und bauest ihn in dreien

tagen,

(お前よ、神殿を壊し、そしてそれを三日で建てる者よ)

譜例11

冒頭のフレーズを見ただけでも、これらの曲に統一した主題があるようには思えない。調性の選択は音楽技術的な要請であり、これらの曲がロ短調になったのは、歌詞との関係で言えば偶然であると言いたくなる。しかし、よく見るとこれらの10曲にも共通する特徴がないこともない。あえて言えば、すべての曲で、「人々からイエスあるいは神」に向けられた何らかの想いが主題になっているのである。言い換えると、ポジティブであれ、ネガティブであれ、イエスや神に対する何らかの感情、思想を歌っているのである。主体は全て民衆であり、客体はイエス、または神である。一方、《ヨハネ受難曲》では、民衆がピラトに答える言葉と、イエスが発する末期の言葉にロ短調が使われている。《マタイ受難曲》にも民衆以外にイエス、ペテロ、ユダ、ローマ総督、祭司長などの登場人物はいるが、彼らに調性上独立した曲は与えられておらず、ましてやロ短調で書かれた曲はない(注1)。つまり、これらの曲でロ短調が選ばれたのは偶然の結果では無く、歌詞との関係でバッハに何らかの意図があったという可能性も否定はできないのである。そこで、次節では、《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》での調性分布を比較してみる。すると、両受難曲の間には♭圏と#圏の使用について対称的な違いがあることに気づく。


(注1) MP42のト長調で歌われるバスのアリアはユダが歌っているという解釈もあるが、これはユダが自殺したあとに出て来る曲なので、それは不自然である。《マタイ受難曲》で最も重要な曲の一つであるこのアリアはバッハ自身の想いが歌われている、あるいはバッハ自身が歌っているとさえ、私は解釈している(後述)。


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