次に、両受難曲で使用された調性の分布について検証するが、その前にそれぞれの受難曲が依っている福音書の宗教的側面について簡単に触れておきたい。というのは、すでに前節で見た《ヨハネ受難曲》の例だけではなく、《マタイ受難曲》も福音書から逸脱している箇所が様々な形で見られるからである。いうまでもなく、両受難曲はルター訳聖書の「Das  Evangelium nach Johannes(ヨハネによる福音書)」と「Das Evangelium nach Matthäus(マタイによる福音書)」の受難物語(それぞれ18、19章と26、27章)に基づいている。ヨハネ伝は、共観福音書と呼ばれる他の三つの福音書と違って、イエスを冒頭から神、創造主としている。最初に成立したマルコ伝と、それをもとに加筆、修正されたルカ伝、マタイ伝の共観福音書は比較的史実に近いとされるが、最後に成立したヨハネ伝ではイエスの神格化が顕著になり、旧約聖書に基づく神話的要素が強くなっている(注1)。しかし、両受難曲ともに、それぞれの出典元福音書からの逸脱がある。《ヨハネ受難曲》ではすぐにそれとわかる引用や挿入であり比較的に単純なものだが、《マタイ受難曲》では、特定のキーワードを他の福音書からとってきたものや、あるいは、歌詞ではなく音楽的臨時記号や調性記号を使った巧妙な逸脱もあり、楽譜を見ずに鑑賞するだけでは気づきにくい。中には、聖書に精通し、かつ豊かな音楽的感受性がないとそれと気づかぬ、トリックとさえ呼びたくなるものもあるが、バッハの時代に教会に集っていた上流市民にはこれらの条件を満たした人たちが多かったようである。当時の教会会衆は日曜礼拝前のオルガンコラールの冒頭を聴くだけでその日の牧師が行う説教が聖書のどの部分に基づくのかを想像できたという。いずれにしても、これらの事実は、それぞれの作曲のモチーフを考える上で重要な示唆を与える。なぜなら、F.ブルーメ(注2)がマインツ講演で述べたように,「バッハが宗教曲の作曲を、職務上の義務を果たすために『負担』と感じながら、いやいや行っていた」のであれば、このような逸脱を説明することは難しい。それはよけいな手間であり、不必要な労苦であって、G.P.テレマンのように、教会音楽家の分を守って単純に聖書通りに曲を付けていれば、容易に多作、連作が可能であり、それがたとえ駄作であったとしても、それによって当時の聖職者や後世の神学者によって非難されることはなかったはずである(注3)。しかし、バッハは《ヨハネ受難曲》では、鶏の鳴声を聞いてイエスの言葉を思い出したペテロが慟哭する場面(JP12c)をわざわざマタイ伝から引用し、"weinete bitterlich"(激しく泣いた)のわずか6音節を二度繰り返して6小節、47音符に広げて強調する譜例12JP。一方で、ユダについての独立した音楽的扱いはない。《マタイ受難曲》ではそれが逆になる。上記のペテロの慟哭はMP38cに一度だけ現れるが、2小節、17音符の1/3以下に簡略化され譜例13MP、MP24ではペテロの名さえ削除され譜例14、いかにもペテロを軽く扱っている(注4)。他方で、イエスを裏切り、それを悔いて自殺したユダについては65小節を割いて独立したMP42のアリアが与えられる。しかも、そこでユダは「der verlorne Sohn」(注5)と例えられるが、MP42は自殺したユダについての悲痛な歌という主題にはそぐわない祝宴曲風の明るい旋律がト長調で書かれている譜例15。後述するようにこの祝宴曲はルカ伝の音楽的引用である。その他にも両受難曲には作曲技法上の顕著な違いがいくつかある。よく知られているのは、《ヨハネ受難曲》にはF.スメントのいう交叉配列法(注6)が現われるが、そのような対称性は《マタイ受難曲》には見られない。《ヨハネ受難曲》に見られる、この対称性は、繰り返し歌われるユダヤ人の残酷さを強調することで、バッハの意図はともかく結果的にはユダヤ人への憎悪を煽る効果があると指摘され、西欧の演奏ではしばしば問題にされるという。それと違って、《マタイ受難曲》では、合唱を二部構成にして、左右に配置することで、Jazzにも通じるcall and responseの形式で臨場感を演出する。また、レチタティーボの通奏低音の伴奏や、調性の使用についても明らかな違いがある(注7)。調性については特に短調でその違いが顕著である。《ヨハネ受難曲》では圏は1/5にも満たないが、《マタイ受難曲》では半数を超える曲が圏で書かれている。


注1マルコ伝をもとに、現在では失われたQ資料と呼ばれるイエス言行録を参考にして、マルコ伝を修正する目的で書かれたのがルカ伝とマタイ伝で、ヨハネ伝はそれらとは独立に書かれたという。従って、ルカ伝、マタイ伝の著者はマルコ伝を知っていたが、ヨハネ伝の著者はおそらくマルコ伝を読んでいないと推測されている。「新共同訳新約聖書注解」(橋本滋男)によれば、マルコ伝が60-70年代前半、ルカ伝、マタイ伝が80年代のほぼ同じ頃に、ヨハネ伝が90年代に書かれたという。「書物としての聖書」(田川建三)は、4つの福音書の成立年代は、マルコ伝が紀元後50-70年の間で、マタイ伝、ルカ伝、ヨハネ伝は70-90年の間に書かれたと推測しているがどちらもヨハネ伝がもっとも後に書かれたとしている。

注2 Friedrich Blume, (18931975)は1962年にマインツで行われたバッハ祭で、宗教音楽家としてのバッハを否定する講演を行った。彼によれば、バッハの宗教音楽はそれ以前に作曲した世俗曲からの転用であり、オリジナル作品はないので、義務としていやいや作曲していたのだという。

注3 ここで、後世の神学者とは、20世紀最大のプロテスタント神学者と言われるカール・バルトをさす。彼はバッハの《マタイ受難曲》を非難している。

注4 ただし、初演稿ではマタイ伝のとおりにイエスが叱責した相手は"zu Petro"(ペテロに)とあるが、浄書譜では、マタイ伝から離れてルカ伝に基づく逸脱が行われ、三人称複数形の"zu ihnen"(彼らに)と変更される。NBA版の英語対訳と多くの日本語対訳は、これをバッハの不注意によるエラーであるかのごとくみなして聖書的な改ざんを行っている。

注5 日本語聖書では伝統的に「放蕩息子」と訳されるが原意は「lost son、迷える息子」である。ちなみにベーレンライター版《マタイ受難曲》の英訳ではこの語は全く訳出されていない。ルカ伝のイエスの言葉では、父は自らを善人と称する長兄(ルターの誤訳であり正文では「兄」)を諌めて、弟(lost son)の生還を祝福した。

注6 Friedlich Smend(1893-1980)ドイツ福音派の神学者、バッハ研究者。《ヨハネ受難曲》がJP22のコラールを中心とする時間軸に沿った前後対称構造になっている事を見つけて、交差配列法と呼んだ。これはギリシャ語のChiasmusに由来し、本来は十字架とキリスト(Christusの頭文字のCはギリシャ語ではχ【カイ】であり、十字架のシンボルでもある)を象徴する中世建築技法上の対称構造のことである。スメントはJP22のコラールを《ヨハネ受難曲》の心臓部とした。しかし、この対称構造の場面は受難物語中のイエスの裁判の場面であり、ユダヤ人群衆のイエスへの憎悪、殺意、嘲笑の言葉が頻出する。D.Hoffmann-Axthelmは、《ヨハネ受難曲》のこの部分が整然とした繰返し構造をとることにより、バッハの意図はともかく、それを聴く者はユダヤ人の粗暴さ、野蛮さが音楽的に強調されていると感じるとバッハを批判する。

注7 《ヨハネ受難曲》ではイエスが歌うレチタティーボの伴奏が、他と同様に四分音符だが、《マタイ受難曲》では、イエスにだけは通奏低音が長音になって区別される。それが宗教画の光背に相当するもので、イエスの神性を表現していると解釈するむきもある。確かに受難物語の主人公であるイエスを際立たせる効果を持っている事は確かであるが、バッハがそれ以上の意味付けをしたという証拠はない。




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  1. (3)マタイ伝、ヨハネ伝からの逸脱Deviations from St Matthew and St John Gospels)