今までの検証では、バッハの年代を追って2#調の相対使用頻度が4大宗教曲と教会カンタータ群で、それぞれ増加していったことを別々に確認した。それらを別に見た理由は、教会カンタータ群で見たときに、失われた曲に特定の傾向があり、現存する曲だけを見たのではランダムサンプルになっていない可能性があったからである。しかし、両者で同様の傾向が示されたので、その問題は考えなくてもよいと判断した。したがって、今回は前節で定義した9つの作品群をまとめて追ってみたい。そうすれば、先に教会カンタータ群と4大宗教曲で別個に見た調性の相対的使用頻度が整合するかどうかを検証できる(注1)。もう一度、まとめるとその9つの年代別作品群は以下のようになる。ただし、前節で述べたように、ライプチッヒ後期としたVI期は《クリスマス・オラトリオ》を挟んで、VI-1期とVI-2期の前後に分ける(注2)

1. I期カンタータ群(~1706-1716)、

2. II期カンタータ群(1723.2.7-1724.1.2)、

3. 《ヨハネ受難曲》(1724.4.7)、

4. III期カンタータ群(1724.4.10-1727.10.17)、

5. 《マタイ受難曲》(1729.4.15)、

6. VI-1期カンタータ群(1729.5-1734.8.27)、

7. 《クリスマス・オラトリオ》(1734.12.25-1735.1.6)、

8. VI-2カンタータ群(1735.1.30-1739)、

9. 《ロ短調ミサ曲》およびカンタータ群(1740-1749)





















Fig. 11. Age dependent increase of frequencies (%) of D major (A) and B minor (B) keys used in JS Bach’s the sacred works.

 I, II, J-P, III, M-P, VI-1, W-O, VI-2 and M-B represent the sacred vocal works in Period I (1706-1716), the sacred vocal works in Period II (1723-Feb., 1724), the John-Passion (Apr., 7. 1724), the sacred vocal works in Period III (Apr., 10. 1724-Oct., 17, 1727), the Matthew-Passion (Apr., 15, 1729), the sacred vocal works in Period VI-1 (Apr., 19, 1729-Aug., 27, 1734),  the Christmas-Oratorio (Dec., 25, 1734-Jan., 6, 1735), the sacred vocal works in Period VI-2 (Jan., 30, 1735-1739), and the sacred vocal works including the Mass in B minor (1740-1749), respectively. The time periods are defined by the date of the first performance in principle. In the case of the Matthew-Passion, the author assumes that the first performance was conducted on Apr., 15, 1729, but J. Rifkin’s assumption (Apr., 11, 1727) does not influence significantly on the conclusion of this trend analyses. The significance is defined as p<0.005.


Fig. 11A、Bを見ると、上下に振幅しながらも、ニ長調、ロ短調の相対的使用頻度だけが年代を経て顕著に増加していることがわかる。しかし、視覚的な判断だけでは、バッハがこれらの調性に何らかの思いを込めていたと結論することはできない。なぜなら、すでに述べたように各年代での母数に大きな違いがあるなどの問題があり、その数値を統計学的に検証しなければ結論できないからである。そこで、これらのデータから、各調の使用傾向がバッハの年代経過と有意に関連しているかを、傾向分析を統計学的に行うコクラン=アーミテージ検定によって判定した。表2はその結果である。p<0.005を有意としたときに、使用頻度が増加傾向を示した調(赤字)のうち、平行調が両方とも有意に増加傾向を示したのは2#調のみである。バッハは年代を経るなかでロ短調とニ長調に何らかの思いをつのらせたためと結論した。ただし、その思いが思想的なものか、楽器編成などの技術的なものかはこれだけからはわからない。3#についてはイ長調にのみ有意の増加が見られたが嬰ヘ短調については見られなかった。これについての判断は保留したい。


減少傾向を示した調(青字)では、ハ長調のみが、年代と有意に相関していたが、これは初期作品に演奏しやすいハ長調が多く使われていて、ニ長調の増加によって二次的に減少したためと思われる。これらの結果は、バッハは2#調に何らかの思いを託しており、それが年代ととともに亢進したことを示している。偶然に起こった現象ではないと言える。


Table2



Table 2. The χ2 and p values of the respective major and minor keys used in JS Bach’s sacred works composed during his musical life.

The values were obtained from the numbers of movements with respective keys versus the 9 age points as in Fig. 11A and B by using the Cochran=Armitage test. Trends were judged as significant when p<0.005. Red or blue figure indicates increasing or decreasing trend in each key, respectively. Only 2#  indicates significant age-dependent increases in both major and minor keys, namely D major and B minor, in Bach’s life.


表2 各調の使用頻度の実数をもとにして、年代変化をCochran-Armitage 検定で検証した。それによって得られたχ2値から自由度を1として、p値を計算した。ニ長調とロ短調のみが有意(p<0.005)に年代的増加傾向を示していることがわかる(それぞれ、p = 4.3x10-9、p = 0.0019)(注3)。



先に見たように(Fig. 5C)、ニ長調の増加は《マタイ受難曲》後のカンタータ群から顕著になるが、Fig. 11Aをみてもその傾向がわかる。ロ短調の場合は、その前の《マタイ受難曲》から増加が始まっており(Fig. 10B)、その傾向はFig. 11Bからも確認できる。ただし、先に述べたようにIII期の最後期ですでに始まっていた可能性もあるが(注4)、いずれにしても《ヨハネ受難曲》ではロ短調への傾斜は見られないので、1724年から1729年の間に、音楽的に表現された何らかの思想的変化がバッハに起こり、それが一時的現象に留まらずその後の生涯で発展していったことが推察できる。言い換えると、バッハが2#調(ロ短調、ニ長調)へのこだわりを示し始めたのは、《マタイ受難曲》からであり、生涯を通じて発展したのである。

ここで、《ヨハネ受難曲》でのロ短調の使用は宮廷音楽家時代のカンタータ群や、ライプチッヒ初期のカンタータ群と比べてむしろ控えられていることがわかる。それが意識的に行われたとは断定できないが、既に述べたようにその可能性は否定できない。Fig. 11A、Bを見れば、ロ短調とニ長調の相対使用頻度の増加が始まったのは、ややずれており、ロ短調は《マタイ受難曲》から、ニ長調は、《マタイ受難曲》後から始まっている。その理由が何であれ、バッハの思想的変化は《ヨハネ受難曲》ではなく、《マタイ受難曲》から音楽的に表現されたと結論できる(注5)。以上のこtから、1729年の受難節に至るまでの数年の間にバッハの周囲で何かが起こったという仮説が浮上する。


(注1)この比較には技術上の問題がいくつかある。初演、作曲年代が正確にはわかっていない場合、パロディ作品の場合、長期間にわたって作曲や改変が行われている場合などは、どこに作曲年代を置くかという問題がある。また、《マタイ受難曲》後の宗教声楽曲は数が少ない上に、《クリスマス・オラトリオ》を挟んでいくつかの曲が分散しているので、一つの群とすることはできない。例えば、Period IIIでは三年間あまりに100曲を超える教会カンタータが作られているが、PeriodVi-2の13年間に作られた教会カンタータは9曲しか知られていない。また、《ロ短調ミサ曲》はライプチッヒ時代の長期にわたって作曲されてきたことが知られているので、厳密に言えば、他の曲と年代的重なりがある。そのために、最初は小品の年代群と、大作を別々に傾向分析したのだが、両者にロ短調、ニ長調への同一傾倒が年代を追って見られたので、上記のような問題があることに留意した上で、成立年代別に一貫した流れとしてカンタータ群と4大曲を同一時系列に乗せて解析した。

(注2)カンタータ群の分類は2章5節の注3と基本的には同じだが、本文にあるように、《クリスマス・オラトリオ》を挟んで、VIを VI-1期(1729.5-1734.8.27)と VI-2期(1735.1.30–1748.8.26)の2群に分けた。ただし、1740年代に上演された4曲(BWV34, BWV69, BWV191, BWV200)のカンタータは、ここでは《ロ短調ミサ曲》と同じグループに入れている。《マタイ受難曲》初演は1729年4月15日としたが、通説の1727年4月11日初演としても、前節と同様に結論に影響はなかった。

(注3)医学、生物学では通常はp<0.05を有意とするが、本論では人為的作品の検定であるために、基準を一桁厳しくして、p<0.005を有意とした。この基準ではハ長調(♮)が有意に減少しているが、音楽家の初期作品では一般にハ長調が多く使われる傾向があり、バッハにもそれが当てはまるためと思われる。表2に見られるように、イ長調(3#)以外の他の調はすべてp>0.005であった。3#の場合、平行調である嬰ヘ短調には有意の増加は見られない。p<0.005とは、その現象が意味もなく偶然に起こる確率は200回に1度もないという意味である。

(注4)現存するIII期最後のカンタータ198番(Laß, Fürstin,laß noch einen Strahl)(1727.10.17初演)は6曲中の5曲がロ短調とニ長調で書かれているが母数が少ないために統計学的な意味付けはできない。《ヨハネ受難曲》初演直前のII期で現存する最後の2つのカンタータ(BWV144とBWV181)でも計8曲中5曲がロ短調とニ長調で書かれているがこれも同様に意味のある議論が出来ない。ただし、BWV198の開曲と終曲の合唱曲は葬送カンタータのBWV244a(1729.3.24)に転用されており《マタイ受難曲》(リフキン説では1727.4.11初演、筆者は1729.4.15と考える)との関係で興味深い。BWV198もBWV244aも本来は注文に応じて作られた世俗曲であるが、宗教性が強いために教会カンタータ群に含めたが、注文に基づき作曲された曲が既存の宗教曲からのパロディであったとすれば、知られているかぎりのバッハの曲で唯一の例外となる。

(注5)バッハの宗教曲には散逸して失われたものもあると推察されている。特に長男のフリーデマンが相続したカンタータの諸年巻は、彼の晩年までにはほとんどが酒代のために消えたと言われている。バッハの「個人略伝」に書かれた次男のエマニュエルによる記述によれば、バッハの宗教曲には5つの受難曲と五年分の日曜礼拝用のカンタータがある。これが正しいとすれば、3つの受難曲と約二年分の教会カンタータが失われたことになる。しかし、他の受難曲については、失われたというよりも、たとえバッハ自身が作曲しても、様式上からはバッハの「作品」と認め難いものになったのではないか。《マタイ受難曲》後の受難曲には情熱を失い、抗議の意味もあってあえて、「駄作」として作曲したのかもしれない。推量されているワイマール受難曲については、資料が遺されていないので何とも言えないが、部分的であったり不完全な楽譜として残っている《ルカ受難曲》、《マルコ受難曲》については、その可能性がある。そうであれば、これらがバッハの作であったとしても、傾向分析の対象に含められないことに問題はないと思われる。ベルリンに移ったエマニュエルが父親の晩年についてどこまで正確に知らされていたかには疑問がある。《フーガの技法》の最終小節のあとに彼の筆跡で書き込まれた「作曲者はここまで書いて死亡した」と、明らかに間違った記述をしていることからも彼が父親の晩年について十分に知っていなかったことが伺えるのである。


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  1. (7)年代別調性使用頻度の傾向分析Age-dependent trend analysis of respective key frequencies)