前章で明らかになったように、《マタイ受難曲》以後、バッハは宗教声楽曲で2#調を多用する傾向を深めて行く。そのこだわりは晩年までの20余年をかけて発展し、《ロ短調ミサ曲》で頂点に達する。《ヨハネ受難曲》後に起こった2#調の増加傾向は統計学的に有意であり(p<0.005)、 それらが偶然に起こったとは考えられない(ロ短調:p=1.9x10-3、ニ長調:p=4.3x10-9)。言い換えれば、年代を経るに従って何らかの思いがバッハの中で発展し、その結果が2#調の意識的な多用として反映された。バッハはこれらの調性に何らかの意味を込めていた、あるいはメッセージを託していた可能性が高いのである。《ヨハネ受難曲》の決定稿を放棄し、《フーガの技法》さえ未完で中断したにもかかわらず(注1)、乱れた筆致で、殆どがロ短調とニ長調からなる《ロ短調ミサ曲》を完成させた。つまり、死を前にしてかなりの思い入れが2#調にあったのである。小林義武によれば、《ロ短調ミサ曲》で最後に書かれた楽曲(MB16「Et incarnates est『聖霊によりて』」、MB17「Crucifixus『十字架にかけられ』」)は非常に乱れた筆致であり、これがおそらくバッハの絶筆であろうという(MB=Mass in B minor)。死が近いことを意識し、記譜を進める彼の執念が見えるかのようである。このことからも、《ロ短調ミサ曲》を自身が演奏することを前提にせず、後世に残すべく特別の想いを籠めて作曲したことは間違いない。そのころは、健康状態がかなり悪化しており、視力もかなり低下していたと思われるので、バッハが死を意識していた可能性は高い。しかし、なぜ最後の曲として取り組まれたのが、未完成の《ヨハネ受難曲》や未完の《フーガの技法》ではなく、演奏機会もない通作ミサ曲だったのだろうか。これをもってカトリックへの傾斜とか、ドレスデン宮殿への猟官運動というのは当たらない。《ヨハネ受難曲》はバッハ自身の意思で完成を放棄した作品であったが、《フーガの技法》はバッハにとっては珍しく、最初から出版を意識して、自らも版刻を試みていたくらいだから、演奏の可能性もないミサ曲よりそちらを優先させても良いはずである。そのような中で書かれた《ロ短調ミサ曲》である。そのミサ曲の大部分がロ短調とニ長調で書かれているのである。バッハは他にもラテン語ミサ曲を書いているが、いずれも小品でルター派の教会でも演奏されるミサ・ブレヴィス(短いミサ曲の意)の形式で書かれている。通作ミサ曲を礼拝で演奏する習慣は、その時代までのドイツプロテスタントにはなかったので、死後に演奏される可能性さえおぼつかない。年代傾向分析の結果を踏まえると、何らかのバッハの想いが《ロ短調ミサ曲》に込められたのは確実である。《ロ短調ミサ曲》は27の楽曲からなるが、その3分の2が2#調で、そのうちロ短調が5曲、ニ長調が13曲である。さらに言うなら調の曲はト短調の1曲だけで、実に96%が#圏の調性で書かれている。その2#調に込められた、バッハの「想い」を理解するためには、先にも述べたように何よりも《マタイ受難曲》を検証しなければならない。2#調の多用は、バッハの生涯で常に見られたのではなく、《マタイ受難曲》から始まったからである(注2)。またミサ曲だけをとっても、バッハが《ロ短調ミサ曲》にとりかかった1740年以降は、ルター派の形式で作曲されたラテン語ミサ曲は知られていない。それ以前のミサ曲にも2#調が多用された形跡はない。従って、ロ短調の多用が明らかに始まったのは《マタイ受難曲》からで、それは晩年までの20年をかけて発展し《ロ短調ミサ曲》として結実したのである。

ここで、話は振り出しに戻る。最初の疑問は、「バッハが《マタイ受難曲》の50dに美しいロ短調の旋律をつけた理由は何か」であった。しかも、ニ長調に転調して解決しているのである。傾向分析の結果から、そこにバッハが何らかの想いを込めたと結論しても間違いはないだろう。しかし、それで疑問が解消したわけではない。逆に、問題はより複雑になったとも言える。すでに見たように、《マタイ受難曲》でロ短調が使われた10曲に共通のアフェクトがあるようにはみえないからである。他方、《マタイ受難曲》後のカンタータ群から多用傾向が見られるようになったニ長調については、平行調であるロ短調と何らかの関わりがあると考えるのは自然だが、その意味ではロ短調からニ長調に転調して終わる50dに、すべての謎を解く鍵があるのかもしれない。《マタイ受難曲》には主要調がニ長調で書かれた曲は2曲しかない。MP38b譜例24とMP44譜例25である。前者は捕われたイエスの様子を隠れて見に来たペテロが、ユダヤ人たちに「確かに、お前も仲間の一人だ(Warlich, du bist auch einer von denen)」と、その場で問いつめられる場面で、後者は「(沈黙するイエスを見倣って)天を支配する父に身を委ねれば進むべき道が見つかる(Befiehl du deine Wege, [中略] , der wird auch Wege finden, da dein Fuß gehen kann.)」と歌うゲールハルトのコラールである。一見したのでは、両者の間にも共通のアフェクトがあるようには見えないが、後者の内容は「救い」を示唆している。それ以上に、注目すべきは前者の合唱にある。アルト、テナー、バスは明らかにニ長調で書かれているが、ソプラノはロ短調で書かれているのだ。いずれにしても、「お前も罪人の一味だ」と断定する毒気のある内容に比べて、旋律が美しいのである。なぜか、MP50dを連想させる不思議な合唱である。《マタイ受難曲》でのニ長調の使用は少ないので、これらの2曲をもとに二長調の意味についてこれ以上語るのは難しい。しかし、言い換えれば、MP50dの意味が分かれば、ロ短調の秘密が解かり、ロ短調の秘密が分かれば、おそらくニ長調の意味も明らかになるのだろうということである。そこで、《マタイ受難曲》とルター訳マタイ伝の関係をさらに検証して、この謎に迫る。

まず、マタイ伝である。先に述べたように、新約聖書のマルコ伝、ルカ伝、マタイ伝は基本的に似ており、ヨハネ伝はそれらとは趣を異にしている。そのために前三者を共観福音書と呼ぶことはすでに述べた。ペテロの通訳をしていたマルコが、ペテロからの伝聞をまとめたのがマルコ伝ということになっている。その真偽はともかく成立年代がイエスの死後20〜40年くらいとされているから、イエスを直接に知る人たちがまだ生存していた時期に書かれたことは間違いない。そのために、比較的史実に近いと考えられてきた。しかし、キリスト教が成立する過程で、いろいろな分派が生まれ、そのなかでそれぞれの教派に都合良く書き換える必要が生じて、マルコ伝をベースにして今では失われたイエス言行録(いわゆるQ資料)を参照しながらそれを改訂するなかで生まれたのが、ルカ伝とマタイ伝とされる。そのなかでも、バッハはマタイ伝に特に興味を持っていたことが知られている。彼の蔵書で妻のアンナ・マグダレーナが相続した「カロフ聖書注解本」(注3)が1934年にアメリカで発見されたが、その福音書記事ではマタイ伝にもっとも記入が多く、マルコ伝に3ヶ所、ルカ伝に10ヶ所、マタイ伝に19ヶ所、ヨハネ伝に8ヶ所の書き込みがある。これだけを見ると、バッハは特にマタイ伝に興味があったようである。しかし、《マタイ受難曲》に使われたマタイ伝の受難物語(26、27章)については全く書き込みがない。バッハが《マタイ受難曲》作曲時に使った聖書は、このカロフ版ではなかったか、何らかの事情で書き込みする必要がなかったのであろう。他のルター訳聖書から引用した箇所もあるのでバッハが複数のルター訳聖書を参照した事は確実である。しかし、《マタイ受難曲》決定稿の浄書(1736)の段階でカロフ版を参照しなかったという証拠があるわけではない。実際に、カロフ版に書き込まれた下線とダブルスラッシュのなかに《マタイ受難曲》を解釈するために重要な書き込みがあることを、筆者は旧約部分に見つけている(8章4節参照)。現在のところ、バッハが受難曲の作曲に際して使った聖書は特定されておらず、ルター訳聖書であることは間違いないものの、おそらく1545年発行の決定版ではない。ルター死後の改訂を含むルター訳聖書のいずれかの版を使ったことは確かだが、おそらく特定の版ではなくいくつかの版を参照したのであろう。当時の宗教音楽家が複数の聖書を参照することは珍しくなく、例えば、田川建三は、「たかがヘンデルでさえ、メサイアの中で欽定版(King James Version)とジュネーブ版の英語訳聖書を使いわけている(書物としての新約聖書)」と述べている。

バッハがライプチッヒに赴任して最初の受難節で、ヨハネ伝が選ばれた理由は定かではない。時代は違うが、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」もヨハネ伝をもとに描くように指定されたと伝えられているので教会が要請したのかもしれない。しかし、バッハはヨハネ伝の忠実な引用では満足せず、《ヨハネ受難曲》のなかに、イエスを知らぬと三度否定したペテロが、鶏の鳴声を聞いてイエスの予言を思い出し慟哭する場面や、イエスの死直後に起きたとされる地震の場面をマタイ伝から引用している。こうして、受難曲を劇的に脚色するとともに、ペテロの後悔を強調したあとで、そのように弱い存在である信者にもイエスによる救いが及ぶことを表現している(JP10のコラール、JP12cのAdagio)。しかし、《マタイ受難曲》では、このようなペテロの美化、信者との同化は行われていない。ユダの裏切りとユダヤ人達のイエスへの憎しみの強さを描いたうえで、逆に人の罪の本質は「弱さというよりも、人々の心の奥にある邪悪さ」にあるとして、その邪悪さはアダム以来のすべての人が本質的に持つ「原罪」であり、我々の本質はユダと同じであると主張する(MP10のコラール、MP64のレチタティーボ)。筆頭弟子ペテロを否定し、ユダを強調することで、弱さというよりも邪悪さこそが人の罪の本質であると言う。そこでは、信者(教会会衆)に対して、ユダとの同一性を自覚することを促しているのである。その意味では、すでに述べたようにイエス自身を別とすれば、《ヨハネ受難曲》の主人公はペテロで、《マタイ受難曲》の主人公はユダである。

バッハは1723年2月7日に聖トーマス教会のカントル採用試験でカンタータ22番と23番を演奏し、4月22日に採用が決定され、ちょうど一ヶ月後に聖トーマス教会のカントルとして着任した(注3)。その選考にあたった市参事会員の記録によると、バッハは上位二者(1位テレマン、2位グラウプナー)が辞退したので、卓越した音楽家としてではなく「凡庸な中程度の音楽家として仕方なく採用された」とされている。このような選考過程を考えると、着任後、初の大曲を提供する機会である1724年の受難節で、トーマス・カントルとしての自分の能力を最大限にアピールしたいという願望がバッハにあったとしても当然である。その結果、《ヨハネ受難曲》の作曲動機(モチーフ)と曲想にバッハの気負い、さらに言えば教会への追従が反映しているであろうことは想像に難くない。従って、バッハの受難曲について研究する立場からは、単に音楽的に検討するだけでなく、採用にあたり神学試験も受けたバッハであれば、彼が受難曲のなかで福音書をどのように扱ったかを検証することが必要である。

しかし、実際には《ヨハネ受難曲》初演後の数年で、バッハと教会、バッハとライプチッヒ市の間には徐々に確執が出て来る。それは次第に深刻化していき、バッハはカトリック系のドレスデン宮殿へと傾斜するが、その効は薄く次第に失望感だけが高まる。ついに、幼なじみのエルトマンに転職の斡旋を依頼してライプチッヒを去ろうという決意をするまでになる。それらを考えれば、バッハが《ヨハネ受難曲》に込めた願いが実現せず、その音楽的な成功が報われなかったことは確実である(注4)。《ヨハネ受難曲》の音楽的な完成度は高く、おそらく好評を得たに違いない。しかし、その成功はバッハの再評価、待遇の改善にはつながらず、彼への処遇は悪化の一途をたどったのである。

その結果として、バッハが《ヨハネ受難曲》にこめた当初の目的への忸怩たる思いが音楽的な迷いとなって、度重なる改訂に、さらには決定稿の放棄につながったのではないだろうか。その後の25年間に、《ヨハネ受難曲》は少なくとも4回の演奏機会を与えられたという記録が残っているが、そのたびに大きな変更が行われ、決定稿は1739年2、3月ころにJP10まで書かれて、JP11からあとが放棄されている。JP11に至ったときに、バッハが《ヨハネ受難曲》に込めた当初のモチーフと、その後の想いの間に横たわる矛盾を解決できないと悟った彼がそこでペンを置かざるを得なかったのだろう。しかし、そのころ受難曲演奏禁止命令が通告されるのだが、その直前にバッハは奇妙な行動をとっているがそれについては、重要なことが潜んでいるので後で考察する(注5)。いずれにしても、なぜ中断がJP11からなのか?それは、バッハの《ヨハネ受難曲》への想いを解く重要なヒントになる。興味深いことは、JP11のコラールはまったく同じ旋律と歌詞で《マタイ受難曲》のMP37として使われており、しかも《ヨハネ受難曲》初稿での歌詞第2節が《マタイ受難曲》では削除されているのである。その上、《ヨハネ受難曲》第2稿ではこのコラールのあとでバスのアリアが挿入されている。つまり、このコラールをめぐるバッハの想いに何らかの逡巡があったと推察できるのである。このゲールハルトの受難節コラールの第1節は「誰がイエスを打ったのか、イエスを罪に落としいれたのか?あなたは罪人ではないのに、(Wer hat dich so geschlagen,... so übel zugericht't? ... Du bist ja nicht ein Sünder,)」、第2節の趣旨は「私と私の罪があなたを打ったのです(Ich, ich und meine Sünden, ... das dich schläget, )」である。《マタイ受難曲》で第2節を削除した理由は、おそらく《マタイ受難曲》では、イエスはユダヤ法にもとづいても死刑に値する罪人ではなく、かといってユダヤ人たちの奸計にはまって冤罪に落ちたのでもなく、イエス自身の自由意志で死を受け入れたと強調するためであったと推察できるが、詳しくは後述する。ここで、第2節があるとないとでは、コラールの趣旨がかなり変わりうる。イエス自身が、自らの意思で罪を引き受けて十字架についたのか、あるいは我々がイエスに罪をかぶせたために、彼は不本意な死を迎えたのかの違いである。マリセンによれば、神学上はイエスの死について3つの異なる説があるるという。その一つがイエスの死はイエス自身が、愛故に自由意志で選んだ死であるという自由意志(Voluntary Will)説である。《マタイ受難曲》で表現されたロ短調はそれと関係しているのではないかと思わせる箇所が多くあるが、この点については、ここではこれ以上触れないでおく。一言だけ言えば、「愛する」とは、ドイツ語でも、英語でも他動詞である。当然にその愛が向かう「対象」が必要である。誰か、あるいは何かを愛するのであって、対象のない愛はない。そこで、「イエスは誰を愛し、誰を救うために自らを犠牲にしようとしたのか」という疑問が生じる。

《ヨハネ受難曲》に話をもどす。このゲールハルト作詞の受難節コラールを《ヨハネ受難曲》の決定稿でどう扱うか、バッハには答えが見つからなかったのだろう。いずれにしても、ここで彼のペンは止まった。つまり、二つの受難曲の間にある矛盾点、そしてそれはそれぞれが依拠する二つの福音書の違いを反映したものでもあるのだが、その矛盾点 — イエスを神とするか人の子とするか — を、この第2節があることで解決出来なかったのではないだろうか(注6)。単純に、受難曲演奏禁止を通告されたことに対する一時的な反発が、完成放棄の理由であれば、その後10年以上もバッハが《ヨハネ受難曲》浄書譜の完成に手を付けなかったことが説明できない。死の前年に行われた最後の演奏は、バッハの意に反して強いられたもので、いわばハラスメントであった可能性すらある。教会上層部にとっては、初稿譜こそが、最良の受難曲だったはずであり、それは歴史的事実とも一致する(弟子が書いた最終稿は初稿譜に戻る)。最後の《ヨハネ受難曲》演奏には、バッハのなげやりな態度さえ見えてくる。その点で《マタイ受難曲》は異なる。《マタイ受難曲》には赤と黒の二色に書き分けられたきれいな決定稿が自筆総譜(1736年)として残っている(注7)。《ヨハネ受難曲》決定稿の放棄にはバッハのある種の覚悟、あるいは絶望さえ感じられるのである。

一方、何度も演奏させられた、あるいは演奏を望まれた《ヨハネ受難曲》にくらべて《マタイ受難曲》には1929年の演奏しか確実な記録は残っていない。初演に対する当時の教会会衆の反応は厳しいものであった。おそらくそれは教会への苦情にもなったはずである。それを示す伝聞証言が記録されている。イギリスのバッハ研究家のテリーは、最初に客観的な『バッハ伝』を書いたことで知られるが、その中で、《マタイ受難曲》の初演について「この演奏の3年後に、確かにゲルバーは次のように書いた(注8)。『ギャラリーの一つにいた幾人かの高官と高貴な生まれの婦人たちは、本を見ながら、信仰心を込めて最初のコラールを歌い始めた。しかし、劇的な音楽が進行するにしたがって、彼らは《これはいったい何を意味するのか?》とお互いに言い出して、最大の驚愕へと投げ込まれた。やがて、未亡人である一人の老婦人が叫んだ。《神よ、お助けください。これは、きっと喜劇オペラに違いありません》』(注9)。《これはいったい》の《これは》は何を指すのだろうか。この文脈からは特定の楽章、またはパッセージを指しているように思える。文面通りに理解すれば、教会会衆は最初のコラール(MP3)は受け入れたが、次のコラール(MP10)で疑問を抱き、「最大の驚愕」をもって憤慨したととれる。また、第1部が終わると殆どの会衆は帰宅したという逸話も残っている。このように、バッハ自身の演奏では、《ヨハネ受難曲》に比べて、《マタイ受難曲》は人気がなかった。というよりも、ほとんど拒絶されたに等しい。どちらかというと《マタイ受難曲》の方に人気がある現在の我々には奇妙である。この落差は大きな研究課題であるはずだが、その理由がバッハ学者の間で真剣に研究されたとは聞かれない。通説の通り初演が1727年とすれば、弟子のゲルバーがこれを書いたのは1730年である。ということは、二回目の演奏の翌年ということになる。このような反発を受けた初演稿がそのまま二年後に演奏されたとは非常に考えにくい。上流市民がここまで拒否に近い反応を示したのである。その翌年に初演に対する批評に、次のような文章があるのは不自然である。「信仰心を込めて最初のコラールを歌い始めた。 しかし、劇的な音楽が進行するにしたがって、彼らは《これはいったい何を意味するのか?》とお互いに言い出して、最大の驚愕へと投げ込まれた」。これはどう考えても二度の演奏があったあとに書く文章ではない。二度目の演奏について全く触れられていないのは不自然である。もっとも、ゲルバーが何らかの事情で、二度目の演奏について何も知らなければ話は別であるが。

前の章で《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》の違いの一つに調性の使用、特に修道院と教会では避けられるべきとされたロ短調の使用頻度に顕著な差があり、《マタイ受難曲》で、初めて多用されたと述べた。それがマッテゾンへの反発であったかもしれないとも述べたが、たとえそれがあったとしてもそれだけが理由とは思えない。当時の教会が《ヨハネ受難曲》を好み、《マタイ受難曲》を嫌ったこととも何らかの関係があるのかもしれない。聖トーマス教会の音楽監督に就任後、初の受難節で、市上層部や教会の聖職者たちに自分の音楽的な能力を認めさせるというバッハの思惑があれば、教会の古い伝統に従って《ヨハネ受難曲》でロ短調の多用を避けたことは理解できる。しかし、ではなぜ《マタイ受難曲》ではロ短調が多用されたのか。《ヨハネ受難曲》初演後にバッハとマッテゾン、バッハの教会の間に何があったのかを見ることでヒントが得られるかもしれない。

マッテゾンは《ヨハネ受難曲》初演の翌年、1725年に刊行した『Critica Musica』で、バッハの声楽曲で使われる凝った書法や歌詞を短く区切って反復する手法を批判し、その一例としてカンタータ21番をとりあげている。そのことに、バッハは反発したと伝わっている(注10)。教会との関係では、同じ年に聖パウロ教会の新定礼拝に対する報酬をバッハは要求しているが、拒絶されている(注11)。その後、バッハはその年の9月14日、11月3日、12月31日と、たびたびライプチッヒの領主であるドレスデン宮廷のザクセン選定侯フリードリッヒ・アウグスト1世にこの問題で善処を請願しているが効果はなかった。さらに1727年の10月11日にはパウロ教会から、教会内の「音楽に関するバッハの譲歩」を求める通告が出ているが、バッハはその同意書への署名を拒否している。これらのことは、問題は報酬のことだけではなく、それ以外の問題が背景にあった可能性を示唆している。単なる報酬だけの問題であればここまで抵抗すると逆効果であるという認識はバッハにもあったはずである。バッハには報酬問題の裏にある何らかの理由に対する反発があったに違いない。そして、1728年の9月に決定的な事件が起こる。トーマス教会の聖職会議が、賛美歌選定権をめぐる音楽監督のバッハと牧師のG.ガウトリッツの間の争いについて、バッハから選定権を奪う決定をしたのである。同月20日付けで、バッハはこの件について、市参事会に請願書を提出しているがこれも効果はなかった。これは報酬の問題ではない。これらの事実は、《ヨハネ受難曲》の成功が、バッハへの再評価と待遇の改善にはまったくつながらなかったことを示している(注12)。報酬が上がらないばかりか大学教会の音楽監督としての収入が得られないことは、子だくさんで、家族思いのバッハとしてはつらかっただろう(注13)。しかし、トーマス教会の日曜礼拝における、賛美歌選定権の剥奪を巡る抗争は経済闘争ではない。宗教声楽曲で必ずコラールを挿入するバッハにとっては、コラールの選定権は重要な権利であったはずだ。それは、思想的な問題でもあった。しかし、教会から見れば音楽監督にすぎないバッハがコラール選定権を主張する事は論外であった。大学卒であった前任者のクーナウと違ってバッハは一介のオルガン弾きではないかという思いもあったにちがいない。なにしろ、上位者の辞退が続き、凡庸な音楽家として仕方なく採用されたバッハなのである。教会にすれば牧師の説教内容を拘束しかねない権利を学歴もないバッハに認める事はできなかったのである。このような一連の事件と、《マタイ受難曲》でロ短調が多用されたこととはどのような関係があるのか。ロ短調の多用は、教会旋法の伝統に逆らう事で教会への鬱憤をはらしたにすぎないのだろうか。その真の意味を検証するためには、やはり《マタイ受難曲》にもどって、その中でロ短調の使われ方に何らかの法則性があるのかどうかを見る必要がある。平均律クラヴィーア曲集はすでにバッハのケーテン時代(1720ー1722)に作曲されているが、バッハの器楽曲全体でも、鍵盤曲でもすでに見たように、特にロ短調への傾倒はないのである。《マタイ受難曲》から始まったロ短調の多用はバッハにとって、マタイ伝との関係で何らかの思想的意味があると考えるほうが自然である。言い換えると、50dの秘密を解く鍵とは、《マタイ受難曲》のなかで使われているロ短調を、《ヨハネ受難曲》との関係で検証せねばならないということである。なぜなら、すでに何度も述べたように、《ヨハネ受難曲》では、ロ短調はライプチッヒ赴任前や赴任後初期のカンタータに比べてもむしろ減少しており、その後に続くバッハのロ短調へのこだわりの転換点に当たるのが、まさに《マタイ受難曲》だからである。その意味では、ヨハネ伝とマタイ伝、《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》の違いに焦点をあてて、両者のあいだでどのような違いがあり、それがどのようにロ短調を使用した楽曲に影響を与えているかを検討する必要がある。


(注1)《フーガの技法》が本当に未完成で遺されたのかについては諸説あるが、少なくともバッハが出版を望んでいたこと、そして出版までに至らなかったことは確かである。従って、《フーガの技法》よりも《ロ短調ミサ曲》を優先させたと考えても間違ってはいないだろう。

(注2) ただし、現存する第III期最後のカンタータ198番(追悼式用の世俗カンタータで1727年10月17日初演)にその傾向が見えないこともない。この曲《侯妃よ、さらに一条の光を(Laß, Fürstin, laß noch einen Strahl)》(BWV198)は10楽章からなり、主要調性が決まる6楽章のうち、4曲がロ短調、1曲がニ長調で、残りの1曲がホ短調である。しかし、小品であるためにこの曲の2#調にバッハの思いが込められていると統計学的に議論することはできない。この曲の一部はBWV244a《子らよ嘆け(Klagt Kinder)》に転用されている。BWV244aは1729年3月24日初演の葬送音楽であり、どちらも世俗曲(教会内での演奏のためではなく、注文主の依頼に基づき作曲された曲)として分類される。BWV244aはさらに《マタイ受難曲》(BWV244)に転用されるが、BWV198の時点でロ短調に意味が込められていたのか、《マタイ受難曲》でのロ短調多用のきっかけになったにすぎなかったのかは、他の証拠がないかぎりはわからないのである。ちなみに、これらの経過には、《マタイ受難曲》初演年代の決定について重要な示唆がある。バッハは世俗曲から多くの教会音楽を転用しているが、宗教曲から世俗曲への転用はないと長く信じられていた。しかし、リフキンの《マタイ受難曲》1727年4月11日初演説をとるなら、以上の経緯からは、教会音楽から世俗曲への転用が行われた唯一の例外として《マタイ受難曲》を認めねばならない。

(注3)この「カーロフ聖書注解本」には、1733年付けでバッハの署名が入っており、使われたインクに含まれる重金属の元素分析の結果から、バッハ以外のものが行った書き込みと結論できるものは無かった。

(注4)この到着の遅れた期間に支払われた給与の返済を27年後のバッハの死に際して、未亡人となったアンナ・マグダレーナに請求するという信じがたいことが行われている。本来はバッハの死後に行われるべき、終身職のトーマス・カントル後任の採用試験が、病床にあるバッハに当てつけるように行われたこととも考え合わせると、バッハを一日も早く排除したいという願望、あるいは嫌悪に近い感情が教会にあったのではないかとさえ思える。これらの事実は、最晩年におこなわれた《ヨハネ受難曲》の演奏は、バッハの意志ではなく教会に強要されたものだったという仮説と両立する。したがって1739年の受難曲演奏禁止処分というのも、個別にはともかく実質的な意味としては「《マタイ受難曲》演奏禁止処分」と考えて良いのではないだろうか。

(注5)元弟子のシャイベがバッハの声楽曲が不自然な繰り返しや装飾をしていると批判したことに、ライプチッヒ大学の無給非常勤講師で修辞(レトリック)学者であるビルンバウムが、「不自然」「混乱」などの言葉尻を捉えた反論を試みて、バッハの擁護論文を書いている。いかにも陳腐なその擁護論文をバッハ自らが印刷を依頼しているのは不自然である。内容的に、バッハが有利になるようなものではなく、まさにレトリックにすぎないからである。このことは、二人の間に何らかの人間的な関係、あるいは打ち合わせがあったからとしか考えられない。詳しくは後述する。

(注6)イエスを人の子とすることは、教会の「父と子と聖霊の三位一体」説と対立することになる。ローマ教会から分岐したドイツプロテスタントでも、三位一体説は信じられた。

(注7)厳密には、パート譜での小さな改訂があるがそれが実際に使われ、演奏されたという確実な証拠はない。これも演奏禁止の対象だったか、あるいは演奏されたのであれば、その演奏ゆえに、その後の受難曲演奏禁止の処分が出た可能性がある。後述するように、《マタイ受難曲》決定稿はそれほどに異端性が顕著である。

(注8)Heinlich Nikolaus Gerber、バッハにオルガン、チェンバロを学び、彼の息子(Ernst Ludwig Gerber)は「歴史的=伝記的音学家辞典(全6巻、1790-1792、1812-1814)」を表し、父からの伝聞でバッハについても多くの逸話を残している。

(注9)"Surely of this performance Gerber wrote three years later: 'Some high officials and well-born ladies in one of the galleries began to sing the first Choral with great devotion from their books. But as the theatrical music proceeded, they were thrown into the greatest wonderment, saying to each other, "What does it all mean?" while one old lady, a widow, exclaimed, "God help us!'tis surely an Operacomedy!"

(注10)マッテゾンの再三の要請にもかかわらずバッハは彼の編纂した人名事典『Grundlage einer Ehren-Pforte』(1740)への自伝の寄稿を拒否している(文献10、p465)。

(注11)ライプチッヒにあった5つの教会の中ではもっとも新しく、大学教会とも呼ばれた。ライプチッヒ大学の在籍者、卒業生を対象にした高学歴者が集う大学附属の教会。

(注12)バッハ以前のトーマス教会の音楽監督は、ライプチッヒ市内5つの教会の全てで音楽監督を兼任することが慣例であった。しかし、選考過程でバッハの評価が低かったことの背景に彼が大学を卒業していないことがあり、そのために大学教職員が集う大学教会の音楽監督の兼任を認められなかったと言われている。また、礼拝時に会衆が歌う賛美歌を選定する権利は、バッハ以前には音楽監督に属していたが、おそらく同じ理由で、バッハからその権利を奪われたのであろう。

(注13)バッハは生涯で二人の妻から計21人の子供をなしている。


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