聖トーマス教会の音楽監督(トーマス・カントル)として、赴任後初の受難節(1724年4月7日)で演奏する大作に、バッハは最大限の努力を傾注したはずだ。ライプチッヒ市とトーマス教会は、前任者のヨハン・クーナウ(1660-1722)がライプチッヒ大学で法学を学んでいたこともあり、同じ経歴を持つゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)( 注1)を後任者として望んだが、辞退された。他の候補者も次々と辞退したため、大学教育を受けていないバッハを仕方なく採用せざるを得なかった。オルガン演奏試験、神学試験を経て採用されたバッハだったが、自分が決して望まれて採用された分けではないことは知っていたはずだ。彼には自分の能力を見直させ、少なくとも前任者と同様の待遇を得るためには、最初の大曲である《ヨハネ受難曲》を成功させる必要があった。そのためには、自分の音楽的、神学的能力を十分に示す必要があるという気負いがあっても当然である。そのために本意ではない妥協をしたのかもしれない。「悪魔の音階であるロ短調は教会音楽にそぐわない」という中世の慣習に配慮してロ短調の使用を控えめにし、教会の権威を象徴するペテロを、ヨハネ伝を逸脱してまで強調したのも、教会への追従だったと思われる。12使徒の筆頭弟子(マタイ伝10:2)とされ、イエスに教会を建てることを約束されたペテロが(同16:18)、イエスを三たび否定したあとで鶏の鳴声を聞き、イエスにそれが予言されていたことを思い出して慟哭する(JP12c)。その場面をヨハネ伝から逸脱してわざわざマタイ伝(マタイ26:75)から引用したのである。確かに、内省的なヨハネ伝はドラマ性に乏しく、それだけに頼っていると単調になりかねない受難曲を劇的にする効果もある。しかし、それだけではない。ペテロを美化することには重要な意味がある。それは、教会の権威への服従を意味する。だからこそ《ヨハネ受難曲》は好評を得て、ヨハネ伝から逸脱しているにもかかわらず、翌年の受難節にも再演された(注2)。マリセンによれば、教会で演奏する声楽曲の歌詞は、事前に教会に提出され検閲されていたという。そうであれば、このようなヨハネ伝からのあからさまな逸脱、マタイ伝からの長い引用が事前に気づかれぬはずはない。この逸脱は教会によっても認識され、了承されていたはずである。実際に、《ヨハネ受難曲》初演後に悪評がたったという記録はない。翌年の受難節にも《ヨハネ受難曲》が、ほぼそのままで再演されたのも、好評を得たことを物語っている(注3)。バッハ在任中に、《ヨハネ受難曲》は4度も演奏された記録が残っていることからも人気が高かったことが伺える。それにたいして、《マタイ受難曲》初演後の評判は惨憺たるものだった。上演の記録がはっきりと残っているのは、1729年の受難節だけで、他は推量されているにすぎない(注4)。したがって、1724年の《ヨハネ受難曲》初演の成功でバッハへの評価は見直されるはずだった。少なくともバッハはそう期待に違いない。しかし、その後の事実はバッハの期待を裏切るものだった。しかも、すでに述べたように《ヨハネ受難曲》初演の翌年、こともあろうにマッテゾンがバッハの宗教声楽曲(BWV21)を「言葉のむやみな反復」、「不必要な言葉の引き伸ばし」などと批判した(注5)。結果として、バッハの能力が再評価され、彼の処遇が改善されることはなく、《ヨハネ受難曲》で使用が最小限に控えられたロ短調は、5年後に演奏された《マタイ受難曲》で一挙に多用されることになった。これはそれらの冷遇に対するバッハの反応だったのかもしれない。四大宗教声楽曲の調性全体でみても、《ヨハネ受難曲》は例外的な曲である。《ヨハネ受難曲》は♭圏の曲が多数を占めるが、《マタイ受難曲》後は#圏の曲が多数を占める(注6)。それは単なる#(Kreuz=十字架の意味もある)圏への傾倒ではない。なぜなら、#圏への傾倒は、年代を追って短調ではロ短調に、長調ではニ長調(注7)に収斂していくからである。従って、ロ短調が教会音楽にたとえふさわしくなかったとしても、2#調への傾倒は、バッハの処遇改善がなかったことへの単なる一時的な反発ではない。その説ではバッハの調性選択の傾向が、4大宗教曲と教会カンタータの両方でその後の20年以上をかけて2#調に収斂していったことを説明できないからである。従って、《マタイ受難曲》でロ短調が多用された理由は、そこにバッハの何らかの想い、あえて言えば思想があったことが伺えるのである。現に、年代別カンタータ群の傾向分析の結果は、バッハの宗教音楽におけるロ短調とニ長調への傾倒が、《マタイ受難曲》を境にして始まり、年代とともに亢進したことを示している。さらに重要なことは、晩年に完成した《ロ短調ミサ曲》でそれがほとんど純化された形で実現されていることである。つまり、《ヨハネ受難曲》が自分の再評価につながらなかったために、その憤懣を《マタイ受難曲》でぶつけたというような単純な話ではない。しかし、逆の視点からみれば、バッハが2#調にのめり込んで行った理由があるとすれば、それを解く鍵は、ロ短調が多用された最初の大曲である《マタイ受難曲》にあるはずである。以下、その謎を解くために、《マタイ受難曲》と《ヨハネ受難曲》の違いを、マタイ伝とヨハネ伝の違いと対比させながら検証する。


注1 Georg Philipp Telemann, 1681.3.14-1767.6.25. 当時はバッハをしのぐ名声を得ていた。オペラ20曲、器楽作品430曲、マタイ受難曲だけでも6曲、受難曲全体で46曲、教会カンタータを1000曲と、合計で4000曲もの作品を遺し、楽譜の出版には熱心でヘンデルと同様に商業的野心家であった。そのような多作では駄作も多くならざるをえず、後世の評価がバッハと逆転するのは当然であった。聖職会議の記録によれば、バッハは、辞退者が相次いだのちに、「凡庸な中程度の音楽家」として仕方なく採用された。

注2 初演が受け入れられたという証拠の一つは、バッハの晩年に演奏した《ヨハネ受難曲》第4稿は、マタイ伝からの引用を削除した第3稿を使わず、また途中まで完成していた浄書譜での改訂(第1-10曲)も反映させず、初演稿をほぼ踏襲していることである。これは弟子が作成しており、そこにはバッハの意向よりも、教会の意向が反映されていたと思われる。ある意味では、晩年のバッハに対する嫌がらせである。実際に、そのような扱いは他にも多くみられた。たとえば、終身職であるトーマス・カントルは、慣例では前任者の死後に次の候補が募集されるのだが、バッハの場合は健康状態が悪化した段階で生前に募集が始まったし、寡婦となったアンナ・マグダレーナへの扱い、極めつけはバッハの墓所さえ記録されず行方不明となったことである。現在、聖トーマス教会の祭壇前の床下に移葬されている遺骨もバッハのものである証拠はない。

注3 実際には、第2稿では、開曲を初め、コラール、アリアなどが新しく差し替えられたり、楽器編成が変わっているが、聖書との関係ではほぼ初演稿のままである。なお、第3稿でマタイ伝からの引用が削除されているが、それは通説が言うような教会からの圧力ではなく、おそらくバッハ自身の意思である。ペテロの慟哭を削除することは教会への批判という意味が有ったのであろう。注2で述べたように第4稿が、第3稿ではなく初演稿を踏襲していることからも、それが伺える。他者が代筆する場合は、常識的には、新しい譜のほうが採用されるはずである。

注4 推量されている演奏とは、1727年、1736年などであるが、これらの推量が正しいか否かを問題にしているのではなく、たとえそれが事実であったとしても、これらの演奏について記録が残されていないことを、ここでは問題としている。筆者はこれらの年の《マタイ受難曲》上演には疑問をもっている。J.Rifkinが提唱し、通説になっている1727年初演も確かな根拠に基づいているわけではない(後述)。

注5 マッテゾンは《ヨハネ受難曲》初演の翌年に刊行された『Critica Musica(音楽批評)』で、バッハの凝った書法や歌詞を短く区切って反復する手法を批判し、例としてBWV21「Ich hatte viel Bekümmernis(われに憂い多かりき)」をあげた。その批判は後のシャイベによるバッハの声楽曲批判(1737年、1739年)にも通じる。それに反発したバッハは、マッテゾンの再三の要請にもかかわらず彼の編纂した人名事典『Grundlage einer Ehren-Pforte(音楽の凱旋門)』(1740)への寄稿を拒否したことが知られている。

注6 《ヨハネ受難曲》中の曲を#圏/♭圏の%比(小数点以下は四捨五入)で表すと、33/56と♭圏の方が多いが、《マタイ受難曲》では逆転して47/44、《クリスマス・オラトリオ》で80/9、《ミサ曲ロ短調》では96/4となる。

注7 マッテゾンの調性論では、ニ長調は「幾分鋭く頑固、騒動、陽気、好戦的、元気を鼓舞するようなもの、フルートやヴァイオリンが支配的になると繊細になる」とある(山下道子訳)。



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4章 《受難曲》比較論(Comparative studies in Bach’s two passion works)

(1)《ヨハネ受難曲》初演の後でAfter the first performance of John Passion)