誤解を怖れずに言えば、ヨハネ伝はイエスを初めから神として描くが、他の三つの福音書、とくに最初に書かれたマルコ伝はイエスの歴史的実在を人間的に描く。しかし、ヨハネ伝だけではなく、マルコ伝をもとに書かれた、マタイ伝やルカ伝でもイエスの人間性がやや後退する。たとえば、ヨハネ伝では冒頭でイエスが神であることが示され(ヨハネ伝1章)、マルコ伝に処女降誕の話はない。そして、マタイ伝、ルカ伝はイエスの母マリアは身ごもったときに処女であったと、生物学的にあり得ない話が加えられる(マタイ伝1:18-25、ルカ伝1:28-35)。

《ヨハネ受難曲》開曲の合唱は、「Herr, unser Herrscher, ..., Zeig uns durch deine Passion, daß du, der wahre Gottessohn, ..., auch in der größten Niedrigkeit, Verherrlicht  worden bist.」(主よ、私達を支配する主よ、あなたの受難によって、神の子であるあなたが低い極みにおいても栄光を受けていることを示して下さい)と、神(の子)としてのイエスへの想いと信頼をト短調(2♭)で歌う。そこでは、イエスは、信徒が拠り、頼む神の子=神であって、人間的な同情や共感の対象ではない。「イエスがGottessohn(神の子)である」と自称したり、断定された表現は《マタイ受難曲》にはない。イエスが、自分自身を「神の子」と名乗ったか否かが裁判の焦点になるが、この言葉が出てくるのはすべてユダヤ人の口からであって(MP36a、MP58b、MP58d、MP63bの4カ所)、イエスの口からでも、弟子やイエスを慕うものの口からでもない。初めの三カ所は皮肉、あるいは否定的な使われ方で、最後のMP63bは、ユダヤ人達が「この人は誠に神の子であった(Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.)」と回心する象徴的な場面である。そこでは、《ヨハネ受難曲》のようにイエスの神格は前提になっていないのである。

これらは《マタイ受難曲》と《ヨハネ受難曲》の違いでもあるが、同時にマタイ伝とヨハネ伝の違いでもある。言い方を変えれば、《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》は、基本的にはそれぞれの福音書を踏襲しているように思える。《マタイ受難曲》では、開曲の二部合唱で、十字架を背負って刑場に向かうイエスを花婿(Bräutigam)に喩え、愛する男(イエス)に迫る死を目前にしたシオンの娘が、「(エルサレムの)娘たちよ、こちらに来て、嘆く私を助けてください。(あの人を)見てください(Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen, Sehet!)」と悲痛な声をあげる(注1)。つづいて、エルサレムの娘たちが「誰を?(Wen?)」と問い、シオンの娘が「子羊のようなあの人を、(als wie ein Lamm.)」と応え、コール・アンド・レスポンス(呼びかけと応答)が続く。バッハは、刑場に向かうイエスの足取りを人間的悲しみに重ねてホ短調(#、Kreuz)で表す。

このホ短調(Kreuz)は、後に《ロ短調ミサ曲》の「Crucifixus(十字架にかけられ)」(MB17)でも使われる。1#調であるホ短調で十字架(Kreuz)が象徴されていると考えてよいだろう。このように、《マタイ受難曲》で際立つのは、イエスが人間的存在として愛され、慕われている姿が描かれていることである。そのうえで、イエスは人々の身代わりとなって神への犠牲(いけにえ=子羊)として十字架に上がる。これはマタイ伝の性格でもあるが、バッハは、イエスが「人間的存在」である事を、福音書以上にリアルに描いている。そこでイエスの神格性は影を潜め、人間イエスが顕わになる。開曲のこのような性格は、カール・バルトが「バッハによる復活の否定」と指摘した《マタイ受難曲》終曲(MP68)や、MP63cのマタイ伝からの逸脱への伏線となっている。《ヨハネ受難曲》の開曲が、イエスが初めから「主」であり、「ロゴス」であり、「神」であるとするのとは対照的である。マタイ伝とヨハネ伝でイエスの位置づけに差がある以上、それぞれの受難曲冒頭の合唱でこのような違いがあるのは当然であるとも言える(注2)。

これが、逆ではおかしいが、《マタイ受難曲》でのイエスの描かれ方は、たんなる福音書の反映であることを超えて、神学的な観点から見れば不必要に人間イエスが強調されている。演奏においては、その音楽的な強調と脚色に、作曲者の想いと、演奏者の解釈(interpretation)が対立し、時には矛盾する事もある。両者が矛盾した演奏は失敗である。あるいはバッハの《マタイ受難曲》ではなく、演奏者の「マタイ受難曲」である。そのような演奏は少なくない。


(注1) エルサレムはイエスの受難物語の舞台となった現在のイスラエルの首都、旧約以来のユダヤ教、キリスト教、イスラム教共通の聖地。最初に人々が居住したのは市南東にあるシオンの丘である。そこは、近代史におけるユダヤ人のエルサレム帰還運動の象徴となり、近代シオニズムの語源ともなった。エルサレム市民はシオンの娘とも呼ばれた(イザヤ書1章8節、エレミヤ書6章2節、ミカ書4章8節)。《マタイ受難曲》では、シオンの娘はイエスに従う人たちを、エルサレムの娘は一般市民を象徴している。

(注2)《マタイ受難曲》でイエスは自らを「人の子」とし、「神の子」とも「キリスト(救い主)」とも名乗らない。ユダヤ議会による裁判で、「おまえは神の子、キリストか?」と問われ、それに対して「Du sagest(その通り)」と答えて、否定しないという形で暗に認めたに過ぎない。ペテロがイエスを神の子キリストと呼んだときも、イエスはそれに直接は答えない(マタイ伝16:16)。一方、《ヨハネ受難曲》(第2稿を除く)は、ヨハネ伝が冒頭から、「初めにロゴス(言、ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。」としたあとに続いて、1章17節でイエスをキリスト(救い主)と呼ぶことで神としていることに従っている。マタイ伝とヨハネ伝の間にこのような差は、のちにキリスト教がヨハネ伝系の「神(父)=イエス(言葉、子)=精霊」の三位一体説をとるアタナシウス派と、共感福音書系の「イエスを神の下位におく」アリウス派への分裂していく経過にも現れている。ミラノ勅令(紀元後313年)でキリスト教を公認したコンスタンティヌス一世は、三位一体説を正統としたが、自身はアリウス派の司祭から洗礼を受けるほどに、そのころのローマ帝国では必ずしも三位一体説が主流というわけではなかった。その後、両派はお互いを異端とし、悪魔と呼び合うまでに憎悪しあうが、結果的にアタナシウス派(カトリック)が残り、アリウス派は歴史から消えた。ルター派は三位一体説のカトリックから分離したもので、この点では本質的に変わらない。


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(2)受難曲に反映するヨハネ伝とマタイ伝の違い (Differences between the John’s and Matthew’s Gospels casting a shadow over Bach’s two passion works)