先に《ヨハネ受難曲》の主人公はペテロであると述べたが、《マタイ受難曲》は彼をどのように扱っているのだろうか?イエスは自分に迫る死を予感して、できるものなら死を免れたいという人間的な不安、苦悶をペテロとゼベダイの二人の息子と上ったゲッセマネの園で、父(神)に表白する(MP18、マタイ伝26:36-38)(注1)。しかし、三人の弟子たちは、イエスの苦しみに気づかず、呑気に寝てしまう。イエスは、彼らを待たせて、少し離れたところで、出来れば助かりたいという迷いを含む、父への「苦悶の祈り」(MP21:3-7譜例16、マタイ伝26:39)をあげた。そのあと、弟子達のところに戻って来て、呑気に眠りこけている彼らを見てイエスは落胆し、「自分の死後の指導者として天と地の鍵を授け、教会を建てると約束した筆頭弟子のペテロに」失望する。《マタイ受難曲》(決定版、1736年)で、バッハは、イエスに「(ペテロではなく)彼らを」叱責させたのちに、もう一度、父への祈りをあげさせる(7章2節、9章4節18項を参照)。しかし、二度目の祈りでは、彼は自らの死は父なる神の意志であり避けられないと悟り、死を受け入れ、毒杯を飲む決意を「ich trinke ihn(私はそれを飲みます)」と神に告げる(MP24:11-15譜例17、マタイ伝26:42)。この場面をバッハがどのように音楽化したのかを理解するためには4つの福音書すべてを知っておく必要がある。

実は、4つの福音書のすべてが、この場面で異なる記述をしている。最初に書かれ、史実にもっとも近いとされるマルコ伝では、イエスが、出来れば助かりたいと最初の祈りをあげるまでは同じだが(マルコ伝14:36)、二度目にも同じ祈りをあげた(sprach die selbigen wort)ことになっている(同39)。ルカ伝では、同様に一度目の祈りで助かりたいという「苦悶の祈り」を神に表白するが、二度目の祈りの内容は明示されていない。しかし、「天使が現れて力づけたあとに、苦しみもだえてますます激しく祈った(und betet hefftiger)」とある(ルカ伝22:42-44)ことから、おそらく同じ祈りを続けたであろうと推察させる。しかし、ルカ伝には、他の共感福音書とは重要な違いがある。ルター訳で見ると、マタイ伝(26:40)とマルコ伝(14:37)にある、一度目の祈りのあとに、眠っていた三人の弟子を見たイエスが叱責して「ペテロに言った(und sprach zu Petro )」という記述が、ルカ伝にはない。ルカ伝では全ての祈りのあとで「彼らに言った」(und sprach zu ihnen)とあり、叱責した相手を特定しておらず弟子たち三人を平等に扱っているのである(ルカ伝22:46)。ギリシャ語正文(ネストレ=アーラント26版)だけでなく、私がチェックしたラテン語訳、独語訳、英語訳、仏語訳、露語訳、日本語訳聖書のすべてが同様であり、《マタイ受難曲》での違いはルターの誤訳から来ているではない。共感福音書の間にある重要な違いの一つであるこの場面で、バッハはマタイ伝から逸脱してルカ伝を引用して「彼らに言った」としているのである(MP24:3、譜例14)。つまり、筆頭弟子であればこそ、代表として叱るべきペテロの優位性を否定しているのである(IX-4-18.MP24:1-3参照)。一方、初めからイエスを神とするヨハネ伝は、イエスと父(神)は同一であり分離していない。したがって、死を前にしたイエスにいささかの苦悶や迷いがあり、助かりたいと神に祈ったという話にヨハネ伝はまったく触れていない。十字架上の死はイエスの戦いの勝利であるとされるので、神なるイエスに不安や苦悶があったのでは、ヨハネ教団にとっては都合が悪かったのであろう。ペテロの慟哭(JP12c)やイエスの死に際しての天変地異(JP33)を例外的にマタイ伝から《ヨハネ受難曲》に引用したにもかかわらず、《ヨハネ受難曲》の4つの稿のいずれも、イエスを人間的に描くこれらの共観福音書の劇的な記述(イエスの苦悶)を使っていない。これは、《ヨハネ受難曲》でのマタイ伝からの引用が単に劇的効果を狙ったものではないという解釈、すなわちバッハが教会への服従と追従を表明するために教会の権威を象徴するペテロをヨハネ伝が求める以上に美化したという解釈とも両立する。さらに、マルコ伝(15:34)、マタイ伝(27:46)では、イエスは十字架上で「Eli, Eli, lama asabthani?(わが神よ、わが神よ、なぜに、なぜに私を見捨てたのか?)」(譜例18注2)と、イエスの母語であるアラム語で叫ぶ(MP61a)。これは、神への恨みごととも解釈できる言葉であり、イエスが苦しみ、迷いさえ持つ歴史上に実在したヒトであり、「救い主(キリスト)」ではなくユダヤ教の一信徒であったことを強く示唆する。

しかし、イエスが、実在の人(ヒト)だったか、本質的に神であったのかという点については、クリスチャンでない私には、共観福音書とりわけマタイ伝は矛盾を含んでいるように思える。史実に近いと言われるマルコ伝にはないイエスの家系(人としてのイエス)と、処女降誕の物語(神=聖霊としてのイエス)を、ルカ伝と同様に記述しているが、ルカ伝とは違って、彼の家系を冒頭に置いている。しかも、ルカ伝ではイエスの系譜の前に「ヨゼフの息子であるはずの(ルター訳では...ward gehalten)イエス(ルカ伝3:23)」と保留付きで記述するが(注3)、マタイ伝ではいきなり「イエス・キリスト誕生の系譜(das Buch von der geburt Jesu Christi)」(マタイ伝1:1)と断定して、イエスの父であるヨゼフまで延々と続く系譜の最後で、ヨゼフの妻であるマリアから生まれたとある。そのあとで、「イエスは処女マリアがヨゼフではなく聖霊によって身篭もった子であった」(同18-25)と記している。あたかも、イエスがユダヤ王家の正統な後継者でダビデ王直系の男系男子であるという印象を与えたあとに、神の子であると矛盾することを記している(注4)。しかし、イエスの受難を音楽化するにあたっては、内省的なヨハネ伝に比べて、人として生まれたイエスが十字架へと向かう苦悶を通して神への生け贄として人々の身代わりになる決意をするマタイ伝はドラマ性に富み、悲劇の主人公としてのイエスには人間的共感を呼ぶ魅力にあふれている。その意味では、バッハはマタイ伝による受難物語を音楽化するにおいて創作意欲を強く刺激されたのではないだろうか。前述のように《ヨハネ受難曲》にはヨハネ伝にないペテロの慟哭(JP12c)と、イエスの死に際して起こる地震(JP33)という二つの場面でマタイ伝からの引用がある。これは、一般には内省的な福音書であるヨハネ伝を定本に作曲された受難曲が単調になることを避けたためと理解される。《ヨハネ受難曲》にマタイ伝をあからさまに挿入したのでは、福音書の改竄と非難されるおそれもある。

JP12cでペテロを美化することにより、バッハの雇用主である教会の権威を高める意図があったと思われる。バッハがその効果に気づかず、ペテロを強調したとは思えない。それは、教会の権威に対する迎合であり、追従であった。マタイ伝によれば、イエスを最初にキリスト(救世主)と認めたのはペテロであり、その恩賞としてペテロのために教会を作るとイエスはペテロに約したことになっている(マタイ伝16:16-18)。キリスト教がローマ帝国のコンスタンティヌス一世(在位306年-337年)によって国教化への道を開かれたときに、彼はペテロが殉教し、埋葬されたとされる場所に聖ピエトロ大聖堂を創建した(注5)。そのため、ペテロはローマ教会の初代法皇と擬され、カトリックとそこから分岐したルター派を含むプロテスタント諸派にとっても教会の権威の象徴となった。したがって、ペテロを美化し、強調することは、教会の権威を認め、それに服従することを意味するのである。トーマス・カントルの第一候補としてのテレマンの招聘に失敗したあげく、つぎつぎと辞退されて、「凡庸な音楽家」として仕方なくバッハを採用したトーマス教会に対して、自分が大学を卒業していないために低く評価されたとバッハは思ったのだろう。息子達の大学進学にバッハがこだわったことが知られている。凡人バッハがみてとれる微笑ましいエピソードである(注6)。バッハは音楽監督に就任後、初の受難節に演奏する《ヨハネ受難曲》で、ペテロを強調することで教会への追従と服従の意思を表明し、かつ自らの音楽的能力をアピールしたかったと思われる。そこには、彼の人間的な成熟、自信にもかかわらず、音楽的能力が認められないという正当な不満があった。

しかし、もう一点に注目したい。《ヨハネ受難曲》において、バッハはペテロを強調したのとは対照的に、ユダの裏切りについては、ヨハネ伝の記述通りに取りあげて、音楽的強調も歌詞上の脚色もしていないことである。ユダの醜悪さ、ユダの裏切りを福音書以上に強調することで、それと対照的にペテロの後悔を際立たせる方法も可能だったがそういう手法も使わなかった(注7)。いずれにしても、このような努力と配慮があって、音楽的にも神学的にも《ヨハネ受難曲》は成功した。それにもかかわらず、このような追従もバッハにとって満足の行く結果をもたらさなかった。バッハの処遇が改善され、評価が見直される事はなかったのである。所詮、愚者には、能あるものを評価することはできないということだろう。

では、バッハが《ヨハネ受難曲》でペテロを強調して教会に媚びたとは、どのようなものか、その形跡をユダとの対比で具体的に見る。福音書にもとづく受難物語の登場人物では、イエス自身を別とすれば、《ヨハネ受難曲》の主人公はペテロである。イエスを知らないと偽って逃げようとしたペテロの後悔と慟哭「und weinete bitterlich(そして、激しく泣いた)」のわずか6音節をわざわざマタイ伝26:75から反復、引用して、6小節48音(JP12c:33-38)にわたって福音史家に歌わせる(譜例12JP)。ヨハネ伝でも、ペテロの離反(ヨハネ伝13:36-38)とユダの裏切り(同13:21-30)はイエスによって予言されている。しかし、《ヨハネ受難曲》では、マタイ伝を引用してペテロを強調したにもかかわらず、ユダについてはヨハネ伝の通りで脚色していない。しかし、この関係は《マタイ受難曲》で逆転する。そこでは、ユダのためにマタイ伝を離れて、ルカ伝(15:24/32)の言葉(der verlorne Sohn、失われた息子)を引用し、独立した62小節のアリア(MP42譜例15)が与えられるが、ペテロについての強調はない。ユダの後悔と改心が強調されているのである(IX-6-31.MP42:5-8参照)。ペテロの慟哭は、マタイ伝(26:75)の6音節を、わずか2小節18音(38c、譜例13MP)で処理し、先にも触れたように重要な二カ所でペテロの優位性を否定している(IX-4-18.MP24:1-3、IX-5-23.MP28:1-5)。《ヨハネ受難曲》での扱いに比べれば、いかにもペテロの存在は軽い。これら筆頭弟子ペテロの否定がバッハの不注意や、偶然によって起こったとは考え難い。両受難曲でペテロとユダの比重が逆転したことは明白である。これらの事実と、先に見たように、《ヨハネ受難曲》でほとんど使われていないロ短調が《マタイ受難曲》で多用されていることとは、どのような関連があるのだろうか。

  注1 ペテロは12使徒の筆頭弟子として、ヴァチカンの聖ピエトロ寺院に名を残し、ローマ教会の初代法皇に擬されている。ゼベダイの二人の子とは、ヤコブ(イエスの十字架のあと十数年後に殉教)と、ヨハネ(福音書の成立年代からは疑問があるがヨハネ伝の著者とされる)である。

注2 正確に言うと、この叫びは、ギリシャ語正文のマルコ伝ではアラム語で、マタイ伝ではヘブライ語のギリシャ語表記で書かれているという。しかし、ルター訳ではどちらもヘブライ語のドイツ語表記になっている。当時のユダヤ人庶民は日常の会話ではアラム語を使い、ヘブライ語は文章や知識人の改まった言葉として使われていた。イエス自身もヘブライ語は解したであろうが、日常会話はアラム語を使っていたと言われる。また、バッハは《マタイ受難曲》の中でヘブライ語の叫び「わが神、わが神、なぜに私を見捨てたのか?」の「なぜに(lama)」を2回繰り返している。しかし、次に来るドイツ語訳で「なぜに」を意味する「warum」は繰り返していない。アラム語にない「hast du」の挿入に合わせて音節数を調節するための音楽的処理ともとれる追加だが、事は福音史家の言葉ではなく、イエス自身が言った臨終の言葉である。その重要な言葉を、「なぜに、なぜに」と2度繰り返して、「わが神」への恨みを強調するように音楽的処理をするのは、単に音楽技術上の理由であったとは考えにくい。バッハの意図はともかく、そこにはニュアンスが出てくるからである。この箇所は、バッハも参考にしたであろうシュッツの《マタイ受難曲》では、「Eli,  Eli, Eli,」と「我が神よ」を三度繰り替えし、「lama」は一度しか使っていない。どちらもイエスの神への依存度を強調するが、神への恨みを強調するバッハでは、シュッツのそれとはニュアンスは正反対になる。ちなみに、《マタイ受難曲》を6曲も作曲したテレマンは聖書通りである。ここで、「lama」を繰り返すことは、イエスの最期の言葉が、神を讃美するための詩編22の引用であるという神学的説明をバッハが拒否しているとも解釈できる(後述)。

注3 口語訳聖書では「人々の考えによれば」、TEVでは「so people thought」となっている。

注4 キリスト教の立場からは、これらの文章に矛盾は無いのかもしれないが、神学的な解釈はともかく、一般人が読んだときの素朴な印象では矛盾と感じるのが自然である。

注5 ペテロがローマで殉教し、埋葬されたとする証拠はないが、ペテロの殉教の地として巡礼者の参拝を集めていた場所に創建され、カトリック教会の総本山とされた。イタリア語では、Basilica di San Pietro in Vaticano。

注6 凡人という言葉にバッハをおとしめる意図はない。むしろ、それこそが彼の偉大さの所以であると思っている。彼の音楽活動の支えとなったのは、家族への愛情であり、ヘンデルやテレマンのような金銭的、商業的執着や、モーツアルトのような倒錯した嗜好ではなかった。バッハ自身が書き残したように、平凡な能力と健康な家庭生活からも、たゆまぬ努力と勉学によって、優れた芸術作品が生まれうるのだと証明したことこそが彼の偉大さである。

注7 マリセンによれば、《ヨハネ受難曲》でバッハはユダだけではなく、ユダヤ人全体への敵意を煽る方法も巧妙に避けているという。例えば、彼は、バッハがヘンデルやテレマンが作曲したブロッケス受難曲の歌詞を意図的に改変していることを指摘している。ヨハネ伝では総督ピラトは兵士達(Kriegsknechte、直訳すれば「戦争奴隷」、マリセンによれば史実でも聖書学的にもそれはローマ兵を意味したが、ブロッケス受難詞ではユダヤ人傭兵を意味していた)にイエスを打たせたとある(Da nahm Pilatus Jesus und ließ ihn geißeln.)が、《ヨハネ受難曲》のJP18cでバッハはピラトが自分で打った(Da nahm Pilatus Jesum und geißelte ihn.)ようにテキストを変更していることを指摘して、バッハがユダヤ人への非難を回避しょうとしたと主張している。その他にも、JP24の合唱付きアリアで同様の主旨でバッハが、ブロッケス受難詞から変更していることを指摘している。そこではユダヤ人達を「悩める魂達よ」、「お前達の「Märderhöllen『殺人者の隠れ家』とMarterhöllen 『責め苦の穴』から早く出てこい」とするブロッケス受難詞の文章で" Märderhöllen "がバッハの《ヨハネ受難曲》では削除されている。しかし、後述するように、少なくともこの議論の前半はなりたたない。なぜなら、この部分はブロッケス受難詞をバッハが意図的に改変したという証拠にはならないからである。「ピラトが自分でイエスを打った」とするのは、ルター訳ヨハネ伝のままを書き写したものでありバッハの思想がそれで表現されたとは必ずしも言えないからである。現に、《マタイ受難曲》ではルター訳をそのまま書き写して「兵たちに打たせた」となっている。もし、《ヨハネ受難曲》ではブロッケス受難詞をバッハが意図的に改変したとするなら、《マタイ受難曲》でそうしなかった理由が説明できない。この部分についてはどちらもルター訳聖書を踏襲しただけと解釈するほうが合理的である。




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(3)《マタイ受難曲》における聖ペトロSt Peter in the Matthew Passion)