6章 ドイツ史におけるユダヤ人 Jews in German history)

ヨーロッパにおけるユダヤ人問題はアジア人、とりわけ異民族との接触が少なかった島国の日本人には分かりにくい。しかし、前章の仮説を検証しょうとするなら、バッハの生きていた時代にドイツでユダヤ人がどのように扱われていたかについて、ある程度の知識が必要である。それなしでは、バッハの《マタイ受難曲》をバッハの初演で聴いたときの教会会衆の憤激は理解できないだろう。そもそも、ユダヤ教徒とキリスト教徒は最初から厳然と区別され、対立していたわけではない。我々は、現在のユダヤ教とキリスト教というとまったく異なる宗教のように感じるが、両者は同じ宗教の分派に過ぎない。少なくとも、教義上の違いは、我々が同じ仏教と呼ぶ禅宗と浄土宗ほどの差はないと、筆者は思っている。初期にはユダヤ教に留まったままでイエスを聖人として崇拝するユダヤ人も少なくなかった。福音書の中でもそのようなユダヤ人が登場する(たとえば、イエスの「遺体」の引き取りを願い出たアリマタヤのヨセフ)。以下、西欧におけるキリスト教と、ユダヤ人迫害の歴史を概観してみる。以下は主に大澤武男著の「ユダヤ人ゲットー」、「ユダヤ人とドイツ」(両者とも講談社現代新書)による。

その前に、我々日本人が陥りやすい誤解について触れておきたい。英語やドイツ語で「the Jews, Jewish」、「die Juden、jüdisch」というときに、我々は「ユダヤ人(の)」と訳することが多いが、実際にはこれらの語は、西欧では「ユダヤ教徒」「ユダヤ教信者」という意味で使われることが多い。どちらの意味でも使われうるということは、どちらの訳語を宛てても良いとは限らない。日本人に誤解を与えるからである。また、その使われ方はナチスドイツの時代だけでなく、現在の西欧でも差別的意味になることもある。あえて出典は揚げないが、「ユダヤ人がユダヤ人のままでは生きて行けない」とか、「ユダヤ人がキリスト教徒を訪問する」、「ユダヤ人をやめて、オランダ人になる」という表現が頻繁に出てくる翻訳に出会うと疑問を感じるのである。下線のユダヤ人は、ユダヤ教徒と読み替えた方が原意に近い。もちろん、翻訳者にはあえてその誤解が日本人には必要であると考える理由があるのかもしれない。しかし、西欧でのユダヤ人差別が、政治問題、民族問題、宗教問題を使い分けられずに意図的に混同されていまも続く現状を見る時、一貫してユダヤ人と訳された文章をストレートに受け入れる我々の差別問題に対する無邪気さに気づく。本題に戻る。ここではバッハとの関係で西欧、とりわけドイツでのユダヤ人問題だけを扱っているが、本質的にはイスラム教徒への差別、トルコ系、アジア系、アフリカ系など他の民族や集団への差別でも同じ問題はありうる。日本人の差別感覚は非常にナイーブであり、ある意味では無邪気とも言えるが、自分たちの内にある差別意識は不問にしたままで西欧での差別を他人事のように指弾するのは適切ではないことを承知の上で、以下、述べることをあらかじめ断っておく。我々にも、同じような差別をして来た過去があり、今もあるからである。

話をユダヤ人問題に戻す。新約聖書が書かれたころのキリスト教徒はユダヤ教徒に対して少数派であり、自己防衛的ではあっても攻撃的にはなりえなかった。彼らはユダヤ教徒からの迫害を逃れるために、拠点をエルサレムから、シリア、エジプト、イタリアなどへと移したのだが、それに伴って、多くの分派に別れ、のちにそれぞれが自らの正当性を主張して他のキリスト教分派を異端として、時には悪魔とさえ呼んで非難するようになり、それが異教徒攻撃としても発展した。しかし、それはずっと後の話である(注1)。イエスの処刑直後の指導者であった筆頭弟子のペテロや、復活したイエスに会ってユダヤ教からキリスト教に改宗したことになっているサウロ(パウロ)はユダヤ教徒に激しい言葉を使ってはいても実際に彼らを肉体的、暴力的に攻撃することはなかった。また、それをするだけの力もなかった。ただ、パウロの書簡(例えばテサロニケ人への第一の手紙、2章15-16節)やマタイ伝にあるユダヤ教徒への非難の言葉には、後に言葉が独り歩きをして反ユダヤ思想が庶民に影響し、定着するだけの激しさがあった。しかし、それも彼らが少数派であるために、最初のころは自分たちの結束をはかる防衛的なものにすぎなかった。アウレリアヌス皇帝時代(在位、270-275)から、ローマがキリスト教の中心地と見なされるようになった後に、コンスタンティヌス一世(在位、306-337)が出したミラノ勅令(313年)によるキリスト教の公認(注2)、グラティアヌスとテオドシウス両皇帝による国教化(380年)、それに続くローマ支配下人民のユダヤ教への改宗禁止(383年)、ユダヤ教徒とキリスト教徒の結婚禁止(388年)と4世紀にはキリスト教は迫害される側から、迫害する側に徐々に変身していく。しかし、それでも、これらの法令はユダヤ教徒を根絶するとか、徹底的に排除するという思想には発展しなかった。むしろ教皇グレゴリウス一世(在位、590-604)のころには、イエス・キリストの生き証人としてのユダヤ教徒を保護する必要があるという考え方さえあった。その後、ユダヤ教徒に対してキリスト教への強制的な改宗の試みられたことはあったが実効はなかった。中世から10世紀までは比較的平穏に両者はローマ帝国のなかで共存していたのである。しかし、10世紀から11世紀にかけて農業の発達に伴う生産力の向上は大幅な人口増加を可能にして中世都市の発達を刺激した。その結果として進んだ社会の深刻な階層化、貧富の拡大、貧困層の増加と社会不安、弱小封建諸侯の没落などの増加(注3)は、教会改革運動や叙任権闘争における教皇権と皇帝権の対立に発展した。教皇ウルバヌス二世(在位1088-1099)は、自己の権威を高め、内憂を外患に向けるため、聖地奪還の十字軍を呼びかけ、異教徒への闘争を煽った。その運動は対イスラム教徒だけではなく、ユダヤ教徒に対しても向けられ、最初に犠牲となったのはライン川沿いに住むユダヤ教徒達であった。十字軍の結成から「改宗しょうとしないユダヤ教徒の殲滅」という思想がはじめて現れる。このように、「十字軍」こそが、ユダヤ教徒迫害史の始まりであり、そのような事情を知らぬ日本人が無関係な文脈で安易に「十字軍」という語を美化して使うべきではない。第1回十字軍で、最初の犠牲となったライン川中流域のシュパイエル(1096年5月3日)、ヴォルムス(同年5月18日、25日)でのユダヤ教徒殺戮は悲惨だった。キリスト教の洗礼を拒み、自宅に火を放って焼身で一家心中を余儀なくされたユダヤ教徒も少なくなかった。十字軍時代の最盛期の12世紀中ごろにはユダヤ教徒による聖体冒涜(キリストの聖体を盗んで冒涜する)、儀式殺人(ユダヤ教の儀式のためにキリスト教徒の幼児を拉致して生き血を吸い取る)などのデマが一般庶民に流布され信じられた。その結果、ユダヤ教徒達が選んだのは、民衆の迫害から身を守るために諸侯を頼る道だった。また、王侯達もヨーロッパ全土に広がるユダヤ教徒の通商、金融力を利用することに利益を見出す。ユダヤ教徒には過重の税が課せられ、14世紀に入るとユダヤ人を国王の私有財産と見なす考えが出てくる。ユダヤ教徒達は移動の自由を奪われ、王権による彼らへの徴税権はしばしば借金の抵当となった。この過程で、13世紀には社会からユダヤ教徒を隔離することが決定される。1215年に教皇インノケンティウス三世(在位、1198-1216)の下、ローマで開かれた第4回ラテラノ宗教会議で、ユダヤ教徒には特定の服装をつけることを義務づける決定がされた(注4)。とんがり帽子とマント、頭巾、ユダヤの印としての黄色のリングなどがそれである(カノン6条)。1347年半ばになって、中世最大の黒死病(ペスト)の大流行という疫災がヨ-ロッパを襲った。当時のヨーロッパ人口の3分の1にあたる3500万人が1348~49年の二年間に死亡したのである。ユダヤ教徒にとっても、これは別の意味で不幸だった。彼らはユダヤ教の戒律(カシュルート)のために、厳しい食事衛生上の制限をしていたために死亡者が少なかったのである。これが、不審をかうことになった。「ユダヤ教徒が井戸に毒を投げ込んだ」という風評が広がり、ドイツだけで三百数十ケ所で計10,000人以上のユダヤ教徒とされた人たちが、火刑、生き埋め、絞殺、八つ裂き、撲殺、水責めその他の拷問で虐殺されたのである。これは、関東大震災で朝鮮人が虐殺された経緯と似ている。群衆というものは自然災害による大規模な悲惨的状況を目前にすると冷静な判断ができなくなり、ある種の狂気に支配されるらしい。重要なことはこのような状況下で、狂った群衆は殺す相手が実際にユダヤ教の信者かどうかを確認しようとはしなかったことである。すでにキリスト教に改宗していても、ユダヤ人とみなされたものがひとくくりにされたのである。本来、ユダヤ教徒に対して向けられていたキリスト教徒の憎悪が、キリスト教に改宗した「元ユダヤ人」に対しても向けられるようになったのが、どの年代からなのかは正確には分かっていない。しかし、この大虐殺が教えてくれるのは少なくとも14世紀半ばには、迫害の性質が宗教的なものから、「人種」的なものへと変り始めたことである。バッハも読んだに違いないヨゼフスによれば、紀元後70年のエルサレム陥落で捕虜となった10万人近い女子供を含むユダヤ人は全ローマ帝国に奴隷として売られて行った。伝説によれば、ドイツ系ユダヤ人の起源は、ゲルマン系ローマ兵が戦功の報償として連れ帰った美しいユダヤの女性たちに由来する。遅くとも、紀元321年にはユダヤ人たちがローマの植民地だった現ケルン市に定着していた。そのほかに、中世の十字軍が連れ帰った女性たちに起源を持つものもあった。彼女らがドイツで生んだ子供たちは、ドイツ人として認知されず、本来は父系宗教であるユダヤ教の信者を母親として持つことがユダヤ人と定義されるようになる。彼らの子孫が混血を繰り返し、ヨーロッパ各国、特に北欧では金髪碧眼の白人系ユダヤ人として定着する。人種としてのユダヤ人への迫害はヒトラーの狂気によって発明されたのではない。少なくとも、中世ドイツにおいてすでに、あたかも人種であるかのように言われて、キリスト教に改宗したのちも、「Christian Jews注5)」として差別されて続けたのである。ドイツ国王カール四世(1355-1378)ですら、自分が私有財産として所有するユダヤ人への迫害に対してはなす術もなかった。いずれにしても、十字軍派兵(注6)からペスト流行時の大虐殺を経て、ユダヤ人差別の伝統が西欧社会では理論的にも、実質的にも確立していく。しかし、それは同時に、ドイツではユダヤ教徒の都市人口が虐殺と逃亡により激減したにもかかわらず、経済力では以前にもまして影響力を強めて行く過程でもあった。そのことも、さらに民衆の反感を増した(注7)。その後、1460年7月にキリスト教側と行政の合意のもとに、フランクフルト市では、城壁内に住んでいたユダヤ教徒を隔離するためのゲットー(ユダヤ人収容所、または集合住宅)の建設が始まり、2年後には全世帯(当時で11~14世帯)の移住が終わっている。その後、ユダヤ人たちがゲットーから解放されるのはナポレオンによる解放を待たねばならなかった(注8)。この300年の間、ユダヤ人は完全に一般ドイツ人から隔離されたのである。ゲットーは必ずしも全都市に建設されたわけではないが、フランクフルトだけでなくライプチッヒでも、ユダヤ人は市街地から追放され、隔離された。そこでは、排水溝に蓋を設けてはならないとか、風通しのよい窓を作ってはならないとかの規制を受け、不衛生な状態が強いられた。

バッハが死亡する前年に生まれたゲーテは60歳を過ぎて少年時代を回想し『詩と真実』の中でフランクフルトにあったゲットーの印象を次のように書いている。

「ユーデンガッセ(ユダヤ人横丁)の門をすぎながら、ちょっとのぞき込むだけで、狭さ、汚なさ、不快なアクセントをもった言葉、これらは全てが嫌悪な印象を与える。(中略)私は一人でそこへ入っていく勇気を持つまでには長い期間を必要とした。」(大澤武男訳、「ユダヤ人ゲットー」より)

ゲットーはユダヤ人保護のために作られたと発言して物議をかもした現代政治家もいたが、これはまさに強制収容所だった。日曜、祭日は昼間でも外出は禁止され、ゲットー内に閉じこめられた。外出するには、男女とも指定された特異な服装の着用を義務づけられ、二人以上で歩いてはならない、歩道ではなく馬車の走る車道を歩く、公園で休んではならないなどと細かく規制された。このような、ユダヤ教徒への差別、迫害は1096年の第一回十字軍に始まり、1215年のラテラノ宗教会議から発展していき1348~49年のペストの流行でピークを迎える。その後、フランクフルト大橋のタワーの内側には大きな壁画が掲げられ、そこでは人糞を喰らう豚の乳を飲むユダヤ教徒の赤子と、その豚に逆向きに跨がって尻尾をあげるユダヤ教のラビ、そこに曝された肛門に舌を延ばして糞を喰らうユダヤ教徒の図が描かれていた。その上には、ユダヤ教徒が行うとされたデマに基づく儀式殺人を表す両手足を縛られたキリスト教徒の赤子の無残な刺殺体と9本のナイフが描かれていた(Fig.13)

「橋の塔の円屋根の下の壁に掲げられた大きな『嘲笑と恥の絵画』は、まだかなりよく見ることができたが、それは情容赦のない反ユダヤ的表現であった。(そして)問題はその絵が何ら個人的な強い意向によるものではなく、公共の機関(市側)によって制作されたものであったということである(Johann Wolfgang von Goethe著『詩と真実』第一部四章、大澤武男著「ユダヤ人ゲットー」より再引用)。

その嘲笑はゲットー建設の数十年後の15世紀末に市参事会がわざわざ作らせ、もっとも人目のつくところに250年以上も掲げさせたものである。バッハの生きた時代は、その期間にすっぽりと含まれる。ユダヤ人を取り巻くこのような状況は、バッハ在住時のライプチッヒにおいてもほぼ同様であった(大澤氏より私信)。
























Fig.13 マイン川橋塔の内壁にかけられていたユダヤ人嘲笑画(大澤武男著「ユダヤ人ゲット(講談社現代新書)」164頁より許可を得て転載。

「絵の上方にはユダヤ人による『幼児の儀式殺人』の様子が描かれている。これは1475年、北イタリアのトリエントで、二歳半のシモンという幼児がユダヤ人による儀式殺人の犠牲になったという伝承を絵にしたものである。この伝承は、全く根拠のない中世キリスト教徒のユダヤ人憎悪によるものであった。この絵柄の下には、主題《ユーデンザウ(ユダヤ人の豚)》が吐き気を催すような姿で描かれている。糞を食べあさっている豚の乳房にユダヤ人の幼児が吸い付いている一方、ユダヤ教のラビが豚の背に尻の方に向かってまたがり、豚のしっぽを引き上げて、豚の排泄物を他のもう一人のラビに飲み込ませている。そのそばに立って見ているユダヤ人女をはじめ、幼児も含め、そこに描かれている全ての人物は、ユダヤ人と一目で分かる印のリングを服装の目立つところに付けている。(上記著書163-165頁より引用)」


さらに、バッハとユダヤ人問題の関係について、いくつかの重要な点について触れておきたい。一つ目はバッハの教会カンタータが強く影響を受けている神秘主義(注9)の開祖であり、第二回十字軍を勧進して廻った修道士であるクレルヴォー修道院の聖ベルナルド(1091頃~1153)のことである。彼は兵士達の攻撃からユダヤ人を守ろうとしたことが知られている。バッハがその事実を知っていたかどうかについては直接の記録はないが、神秘主義の影響を受け、多くの神学書や、ヨゼフスの「ユダヤ史」を読んでいたバッハであれば知っていたと考えても不自然ではない。

二つ目は、マルチン・ルターに関わる。ルターはドイツプロテスタントの開祖であり、彼に先立ち民衆の側にたって宗教改革を唱えたフスの敗北と処刑を教訓として、民衆ではなく封建領主の側に立って宗教改革を成功させた。ドイツ農民戦争(1524-1525)で彼を慕う農民を裏切り、領主を支持したばかりか徹底した弾圧を勧告した。その意味では彼は単なる宗教改革者や思想家ではなく、マキャヴェリストであった(注10)。そのルターは、ユダヤ人問題で大きな過ちを犯している。1946年のニュールンベルグ軍事法廷で死刑を宣告され、処刑されるまで徹底した反ユダヤ主義者であったユリウス・シュトライヒャ-(1885-1946)は、法廷で「もし、マルチン・ルター博士が生きていたなら、必ずや本日、私の代わりにこの被告席に座っていたであろう」と証言している。ルターは1543年に著した書「ユダヤ人と彼らの虚偽について」の中でのちにナチ政権が行う反ユダヤ政策の大方のプログラムを提供している。即ち、ユダヤ教会、ユダヤ学校の永久的な破壊、ユダヤ人の家の打ち壊しとバラックか馬小屋のようなところへの収容、彼らの全ての書物の取り上げ、ユダヤ教の活動禁止、ユダヤ人の交通、護送の安全保護の取り消し、ユダヤ人の金融業禁止、財産の没収、若い男女への強制肉体労働、等である。しかし、そのルターも最初から反ユダヤ主義者だったわけではない。その二十年前に、彼は「イエス・キリストはユダヤ人であった」という論文を書いており、「イエスと同族血統であるユダヤ人」の社会的地位を改善し、ユダヤ人への憎悪を強く批判している。彼はそれらを通じてユダヤ人が自分の教えに共鳴し、キリスト教に改宗することを期待した。しかし、これは成功しなかった。ユダヤ人との論争に勝てなかったルターは、彼らへの態度を転換させて、反ユダヤ主義者に転向したのである。バッハならルターのこれらの変遷を知っていたことは間違いないだろう。

最後に、これがもっとも重要な点であるが、バッハはおそらく身近にユダヤ人あるいはユダヤ教徒を知る機会があっただろうということである。上に述べたように当時のドイツ主要都市ではユダヤ人は市内に住むことはできなかった。これはライプチッヒも例外ではない。忘れてならない事は、バッハの前半生は教会音楽家ではなく、宮廷音楽家であったことである。バッハはライプチッヒに赴任する前に通算17年近くをヴァイマールとケーテンで宮廷音楽家、宮廷オルガニストとして仕えているのである。ライプチッヒに来てからも、彼はトーマス教会よりもドレスデン宮殿の方に近しさを感じていた。それも含めれば15歳で独立して65歳で死ぬまでの50年間の大半を宮廷で、あるいは宮廷近くで過ごしたのである。それはユダヤ人との関わりという点で重要であった。17、18世紀のバロック時代から、19世紀に至るまで、ドイツ諸侯でユダヤ教徒を宮廷内側近として(ホフ・ユーデン、宮廷ユダヤ人)を持たないものはほとんどいなかったからである。1618年に始る30年戦争から19世紀のナポレオン支配からの解放戦争(1813年)にいたるまで、ユダヤ人の資金援助なしで行われたヨーロッパの戦争はほとんどなかった。バッハが「音楽の捧げ物」を献呈し、戦争に明け暮れたプロイセンのフリードリッヒ大王も側近ユダヤ人の資金に軍事物資の調達を依存していた。アメリカの奴隷解放戦争でも、北軍はフランクフルトのロスチャイルド銀行に軍資金をあおいでいる。ロスチャイルド家の記録でもロシアを含む全ヨーロッパの王侯、貴族の多数が彼らから融資を受けていることが明らかになっている。バッハより少し時代を下るが、金融帝国を築いたロスチャイルド五人兄弟の母親グードゥラは「私の息子達がお金をださないかぎり戦争は起こりません」と知り合いの夫人に発言したと伝わっている。これら宮廷ユダヤ人達は多くの特権を賦与され、ゲットー内の強制居住だけでなくユダヤ人としての義務からも免除され、貴族の位すら与えられた者もいた。

以上をまとめると、バッハとユダヤ人との関係についていくつかのことが分かってくる。バッハが個人的に知り、親しくなったユダヤ教徒がいたかどうかについて何かを語る確実な証拠は見つかっていない。しかし、(1)宮廷音楽家としてのキャリアを積み重ねていったバッハが少なくとも宮廷ユダヤ人と接触する機会はあった、(2)当時のドイツでユダヤ人が置かれた状況についてバッハが知らなかったとは考えられない、さらに(3)彼が個人的に親交を持っていた「ユダヤ人、またはユダヤ家系出身者」がいた可能性は高い(注11) 。もっとも、「ユダヤ人(Juden、Jews)」とは何を意味するかという問題は残る。これは、迫害する側とされる側で定義上の違いがある。例えば、「キリスト教に改宗したユダヤ人」という言い方はないと言う「ユダヤ教徒」の立場もある。しかし、実際にはキリスト教に改宗した後も、「ユダヤ人」として扱われ、迫害、差別された人達がいたことはペスト流行時の例で述べたとおりである。フランス革命後ですら、詩人のハインリッヒ・ハイネはキリスト教に改宗した自分を、なお「ユダヤ人」として差別しつづけるドイツに失望してフランスに移った。近世後のドイツでは「ユダヤ人」とは必ずしもユダヤ教信者とは限らない。また人種、民族、国籍ですらない(注12)。あえて一般化すれば、「本人がユダヤ教徒か、または近親者にユダヤ教徒がいて、生活習慣上、伝統文化上、その影響を受けていると本人が自覚するか、周囲が見なしている人たち」とでも定義するしかない。かなり曖昧な定義しか出来ないのである。たとえば、北欧系ユダヤ人とアフリカ系ユダヤ人の遺伝子的距離は、パレスチナ系イスラム教徒とイエスラエル系ユダヤ人の平均的距離よりも離れているはずである。しかし、ナチスドイツの時代になると、ユダヤ人の定義が、実質上「ユダヤ人に好意的な人物」という意味にまで拡大、変質して行く。V-2の注4に記したカトリックのコルベ神父が、ユダヤ人と一緒に強制収容所に送られ、殺害されたのがその好例である。彼は、ユダヤ人家庭の出身でもなく、ユダヤ教の信者でさえなかったが、ユダヤ人に好意的であったゆえに、ユダヤ人達といっしょに餓死形に処された。

「ユダヤ人」を憎悪する感情は、バッハの時代もドイツ全土を覆っており、ライプチッヒも例外ではなかった。キリスト教徒がユダヤ教徒を憎悪する気分を醸成するのにマタイ伝27:25の聖句が重要な役割をもっていたことは否定できない。とくに、マタイ伝はユダヤ教徒に迫害された初期キリスト教徒が、自分たちこそが正当なユダヤ教の継承者であると主張して、サドカイ派のユダヤ教徒に改宗を促し、かつ自分たちの結束を高めるために書かれたとされる。ユダヤ人を子々孫々まで呪うこの節は悔い改めない、愚かで、頑固なユダヤ教徒への最後通告としての意味を持っていたのである。

多くのヨーロッパ諸国では、ユダヤ人への憎悪は現実のユダヤ教徒と接して始まったのではなく、キリスト教とその聖書が持ち込んできた。ただし、ドイツでは西暦70年のエルサレム陥落にローマ兵として参加したゲルマン系蛮族が「戦利品」として連れ帰ったユダヤ教徒の女性達に産ませた子供がユダヤ人としてライン川沿いに定着したとされており、キリスト教が浸透する前にユダヤ人との接触があった可能性が高い。しかし、イギリスではユダヤ教徒が上陸する前にキリスト教が広がり、ユダヤ人への憎悪は現実のユダヤ人を知る前に始っていたという。

以上をまとめれば、バッハにとってユダヤ人問題はおそらく日常的に経験しうる現実的な問題であり、決して机上の知識、理論の類いではなかった思われる。とくに自らの出自を、ハンガリー系と意識していたバッハが、ユダヤ人問題を聖書のなかだけにある神学上、理論上の問題にすぎないと考えていたとは思えないのである。

(注1)イエスの死後、今では考えらぬほどに初期キリスト教は排他的ではなかった。ローマ皇帝アウレリアヌスのころでさえ、キリスト教は現在のシリア、トルコなどに移ったグループと、イタリアに移ったグループが主導権争いをして争うが、それでも、アンティオキア(現シリア国境近くのトルコの街アンタキア)司教とローマ司教(=ローマ教皇)のどちらが上位であるかを、異教徒のアウレリアヌスに裁定を求めているほどであり、ある種の微笑ましささえ感じる。

(注2)この勅令は、実際にはリキニアス皇帝(在位、308-324)との共同で出されたが、リキニアスは後にキリスト教の弾圧政策を取りコンスタンティヌス一世により処刑される。コンスタンティヌス一世はキリスト教を公認しただけでなく後の国教化につながる様々な優遇措置を施行し、キリスト教側から「大帝」の称号を送られる。彼は死の直前に洗礼を受けてキリスト教徒になるが、自らがニケーア公会議を招集して、アタナシウス派(=ローマカトリック)の三位一体説を正統としたにもかかわらず、自分自身は、異端としたアリウス派の司祭(イエスと神は別として、神の下位にイエスをおく)から洗礼を受けた。このことからも、このころまでのキリスト教諸派はお互いを非難しつつも、実際には相互を殲滅するほどの過激な排他主義ではなかったことが伺える。

(注3)一般に生産力の増大、経済の発展は社会を幸福にするかのように論じられるが、歴史をみるかぎり、事実は逆である。そのことから、社会的な貧富の拡大が、経済発展の必要条件であるかのごとき主張する本末転倒の政治家さえ、我々の近くに存在したし、今も存在する。富の再配分が考慮されない経済発展、生産力の増大は人口増加による貧富の格差と、それに伴う社会不安の増大を結果する。科学技術の発展による食料や工業生産の拡大などという発想もそれに近い。その結果が自殺や、凶悪犯罪の増加である。産業革命が西欧にもたらした社会的結果が何であったかは、「共産党宣言」を読むまでもなく、すでに同様のことは中世でも起こっていたのである。

(注4)この宗教会議ではキリスト教徒間での利息を伴う金の貸借も禁止された。結果として、キリスト教徒で有利な金の運用をするものはユダヤ教徒に金を貸し、ユダヤ教徒がそれをキリスト教徒に転貸しするというユダヤ人銀行業が始る。ロスチャイルド家は、その中から国際金融一族として発展した。

(注5)キリスト教に改宗後も、ユダヤ人として差別、迫害された人たちを意味する。しかし、無神論者となってユダヤ教を放棄したのちも、ユダヤ人というidentityを持ち続けた人たちも多かった。たとえば、カール・マルクスやレオン・トロツキーも自らをユダヤ人としていた。あるユダヤ人に私が「Christian Jews」という言葉を使ったとき、彼は私を咎めた。「Christian」であるものが「Jews」であるはずがないというのである。この表現を使うこと自体、私がナチズムに影響されているといわんばかりだった。しかし、それは「ユダヤ教徒」側の定義ではありえなくとも、すくなくともナチズム以前からドイツで実質上は存在していた定義なのである。ナチス登場の前でも「キリスト教に改宗したユダヤ人」への差別、迫害事件は歴史にいくらでも登場する。ハインリッヒ・ハイネだけがその例ではない。

(注6)日本では、安易に「十字軍」という名を使った慈善事業やボランティア団体があるが、そういう命名に何も疑問を持たないところに、差別と迫害の歴史一般に対して無知な国民性が現れている。もっとも、アメリカのブッシュ(息子)大統領も、9.11の直後に同レベルの発言をしているが、少なくとも欧米では、それが失言と指摘されてすぐに撤回せざるを得なくなるだけの良識がある。

(注7)大澤氏によれば、1442年にはフランクフルト市のユダヤ教徒はわずか六世帯(60~75人)であったが、国王戴冠祝賀金として1000グルデンを支払っている。この時の統計では、フランクフルト市民の73%が20~100グルデンの財産所有者でしかなかった。「ユダヤ人ゲットー(大澤武男著)」(講談社現代新書)

(注8)ただし、ナポレオンの対ユダヤ人観は一貫していない。フランス革命と啓蒙主義の流れで歴史に登場した彼にとっては、1796年のフランクフルト市のゲットー大火災などの偶然もあって、成り行きでユダヤ人の解放という歴史的役割を果たしたに過ぎないのかもしれない。

(注9)イエスとの合一を旧約聖書の雅歌にある男女のエロチックな性的和合になぞらえて、死への憧れをイエスとの結婚や性的な合一として歌う一見奇妙なカンタ-タ(例えば、BWV126、BWV140)は、旧約の雅歌をイエスの受難の予言と解釈する神秘主義の影響を受けていると言われる。

(注10)日本では、政治的な宗教家といえば蓮如がいるが、ルターの場合は、意識的、積極的に時代の権力者に取り入ったという意味では、蓮如とは異なる。蓮如はむしろ浄土真宗信徒による自治権を求めていたように思える。

(注11)M. マリセンによれば、バッハの声楽曲を擁護したヨハン・アブラハム・ビルンバウムはキリスト教に改宗したユダヤ人家庭の出身であった(Kreutzer, Hans Joachim. "Johann Sebastian Bach und das literarische Leipzig der Aufklärung." Bach-Jahrbuch 77 (1991):7-31)。

(注12)日本人には分かりにくいが、いかにゆるく定義しても、ユダヤ人という人種は存在しない。肌や髪の色なども様々で、黒人もいれば白人もいる。ユダヤ人が使う日常言語も地域により異なり共通母語はない、まして国籍も同一ではない。しかし、ユダヤ人=ユダヤ教徒ではない。改宗した、あるいはユダヤ教の戒律を守らない元ユダヤ教徒やその子孫も「ユダヤ人」として扱った西欧の歴史は、ハイネを例を見るまでもなく存在したのである。


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