7章 歌詞によるマタイ伝からの逸脱 (Lyrical deviations from the St Matthew

(1)コラールの役割(The role of chorals in Bach

《マタイ受難曲》の歌詞は、大きく分けて三つのグループからなる。(1) 選択と配置はバッハにゆだねられているが、広く知られていた既存のコラール歌詞、(2)ルター訳新約聖書マタイ伝26章、27章の受難物語による聖句 (Biblical text)、(3) H.ミュラーの受難説教集「Der leidende Jesus(1681)」などルター派神学者の著作にもとづきピカンダーが作詞した自由詞の三種類である。原則的に自由度があるのは(3)だけなので、ピカンダーの作とはいえ、バッハとの綿密な協議がされたはずであり、自由度の無い(1)や(2)に比べて、バッハの思想がもっとも濃く反映しているのは自由詞であるとされる。そのためか、バッハ学者による研究もアリアなどの自由詞に集中している。それが間違っているとは言わないが、これを過大に評価して、コラールや聖句の重要性が看過されると、バッハ像を見誤る可能性がある。

実際のところ、自由詞の場合は、歌詞にバッハの意向、あるいは思想がどこまで反映しているかの判定は難しい。なぜなら、ピカンダーは、《マタイ受難曲》の自由詞を自作の詩として、独立して出版しているからである。つまり、ピカンダーは《マタイ受難曲》の自由詞を「共作」ではなく、「自作」 と認識していた。そうであれば、バッハの自由詞への関与は限定的だったと考える方が自然である。たとえばいくつかのヒントを与えただけかもしれない、あるいは特定のキーワードについて指示しただけかもしれない。したがって、全文にわたってバッハの思想が、正確に表現されているとは言えない。どの部分がバッハの意向を正確に反映しているかを指摘するのさえ容易ではない。一般的には、すくなくともバッハが反対するような語句、歌詞は含まれていないだろうという程度のことしか言えない。言い換えると、自由詞へのバッハの関与がどの程度であったかは、歌詞からは分からないことになる。バッハが思想を表現するのであれば、歌詞につけられた旋律、調性、リズムなど、「音」によってこそ表現されたはずである。とくに、歌詞と音との間に、何らかの意図なしにはありえないような不自然さがあれば(例えばMP50d)、バッハの思想が反映している可能性が高い。その場合は、 その歌詞の中で使われた語句の中に、音と対応したキーワードがあると考えていいだろう。

もっとも、同様のことは自由詞だけではなく、多かれ少なかれ聖句やコラールについてもあてはまる。言い換えると、《マタイ受難曲》の歌詞解釈については、そこにバッハがつけた音楽との関係で 議論すべきであり、歌詞だけを単独に解釈するのは危険ということである。実際に、多くの日本語だけの問題ではないが、とくに自由詞の日本語対訳を見ると、ドイツ語テキストのニュアンスからかなり違った印象を与える。儒教臭ささがふんぷんとするのである。それについては、本章3節で触れる。

以下、この節では、《マタイ受難曲》のなかで、コラールはどのような役割を担っているかを検証したい。まず言える事は、コラール歌詞には既存のものが使われているので、作曲者の思想が反映する余地は少ないと言うのは間違っている。コラールについて、原曲や作詞者についてとおりいっぺんの説明で済ませた解説があれば、そこには盲点がある。既存のコラールであっても、何番の節がどのような前後関係で使われたのか、その文脈の違いによって原詞とは全く違った意味になりうる。

以下、その代表的な例について述べるが、その前に、コラール(ドイツプロテスタントの賛美歌)についての一般的な説明をする。コラールについては、ルター自身も作詞、作曲したほどに、ルター派では重要な役割を担ってきた。信者が礼拝式のなかでコラールを唱和することは、会衆の信仰と教化にとって有益であるとされ、 ルター派では伝統的に礼拝式のなかでコラールの唱和が奨励された。そのため、コラールに、当時の恋歌など世俗曲の旋律が使われることもあった。一般会衆に親しみやすく、歌いやすい曲であることが求められたからである。

「声楽曲に、自分が鍵盤上で使う指のテクニックのような高度な装飾を使う」と、バッハの弟子であったシャイベは師を批判したが、オルガンコラールなどの器楽作品は別として、バッハがオリジナルなコラールを作曲することはなかった。そのことをもって、バッハの宗教曲への熱意を疑う向きもあるが、そういう批判は、ドイツプロテスタントの伝統を知らないからである。そのことで、バッハがコラールを軽視したというのはあたっていない。彼はコラールの重要性を認識していたことは間違いない。日曜礼拝における賛美歌選定権にこだわって教会と衝突したし、ヘンデルやテレマンと違って、彼の教会カンタータには必ずと言っていいほどコラールが含まれていることからも明らかである。

牧師ではないバッハは、説教を通して信仰を語ることも、会衆に思想を伝えることもできない。会衆が歌うコラールこそが、自分のメッセージを会衆に伝えるもっとも直接的な手段だったのである。バッハが器楽用に作曲したコラールは数多くあるが、それらは一般会衆が唱和できるような簡単なものではない。では、既存のコラール歌詞を使って、どのようにして自分の思想を表現できるのか。それこそが、「コラール選定権」にバッハがこだわった理由である。

日曜礼拝で牧師の説教に先立って演奏されるコラール前奏曲や、賛美歌として唱和されるコラールは、それに続く牧師の説教を予告するという重要な役割があった。場合によっては、同じ説教でも、その前に使われたコラールによってニュアンスが異なって伝わることもありうる。ひとたび、コラールが演奏されれば、次に来る牧師の説教は、それにふさわしいものであることが期待される。その意味では、牧師の説教は、コラールからの拘束を受けるのである。もちろん、バッハが牧師の意に反して賛美歌を決める事は考えにくい。事前に牧師と打ち合わせたうえで、説教内容を忖度した賛美歌を選定したはずである。しかし、それでも微妙な違いが生じる余地はある。バッハが選定したコラールによって、場合によっては、牧師は自分の説教へのある種の干渉を感じたのかもしれない。選定権がバッハにあれば、牧師にすれば、やりにくい状況ではあっただろう。それは牧師とカントルの個人的対立ではなかったが、それぞれの存在理由にとって、自分がコラール選定権を持つ事は重要だったのである。

バッハはテレマンや、前任者のクーナウと違って、大学を卒業していないために軽く見られたという事情もあった。1728年に、バッハは日曜礼拝でのコラール選定権を奪われた。しかし、受難曲で使うコラールを選定する自由は残されていた。彼には、「どのコラールをどのような文脈で配置するか」という決定権と、既存の主旋律(ソプラノ)に付ける他の声部については裁量権があった。さらに言えば、コラールに付けられた歌詞の何節を使うかについても裁量の余地があった。実際に、すでに述べたように、自筆譜にはそのような迷いの形跡も残っている(MP15については後述)。バッハにとっては、歌詞の選択に重要な意味があったことを示唆する。

日曜礼拝のコラール選定権を奪われたバッハであれば、1729年の受難節で演奏する《マタイ受難曲》のコラールには、最大限の権利を行使したのではないだろうか(注1)。 なぜなら、何度もいうように既存のコラールであっても、それが配置された前後関係の文脈によっては、まったく異なる意味を持たせる事が可能だったからである。

その代表的な例は、MP9e(譜例26)の次に置かれたMP10(譜例27)のコラールに見られる。冒頭、「Ich bins(「私がそれです」あるいは「それは私です」)」から始まるゲールハルトの受難詩を使ったコラールである。《ヨハネ受難曲》のJP11でも使われた同じコラールの第5節である。《ヨハネ受難曲》では第3節、第4節が使われて、それぞれ「Wer hat dich so geschlagen,(誰がイエスを打ったのか)」、「Ich, ich und meine Sünden,(中略)das dich shläget,(私が、私が、私の罪が,,,あなたを打ったのです、)」と続く。その後の第5節が「Ich bins,」である。この受難詩を前後関係なしで、第1節からそのまま歌えば、この歌詞にある「Ich bin’s」の「s(それ)」は人の原罪を抽象的に表現しているに過ぎない。イエスではなく自分たちこそが鞭に打たれるべき罪を負った人間であるという意味になる。

このコラールを、単独で歌えば、会衆はイエスに代わるべき自分を意識する。言わば、イエスと自分を等価できる。しかし、《マタイ受難曲》は、イエスが弟子に向かって「Einer unter euch wird mich verraten.(あなた達の一人が私を裏切ろうとしている)」と予言した(MP9c:28-29)」(譜 例28)あとに、 「Bin ich’s?(それ〈裏切り者〉は私のことですか?)」と、使徒が次々と11回繰り返す合唱(MP9e)の直後に、このコラールは置かれている。ここで12番目に答えることになる会衆が「Ich bin’s(それは私のことです)」を歌ったときに、彼らは「’s(それ)」が意味するのは12番目の使徒、すなわち裏切り者のユダであることに気づく。

バッハは、教会会衆に、あなたたちの罪とユダの罪は等価であるというメッセージを送っているのである。これは、もはや抽象的な原罪ではない。自分の罪とは、エデンの園で誘惑に負けてリンゴを食べたアダムとイブが負った罪、その子孫であるすべての人が負うことになった罪のことではないと歌わされた上流市民は驚愕する。イエスを裏切り、殺したユダヤ人の代表であるイスカリオテのユダと自分が等しいと歌わされたのである。殺神(Deucide)の罪ゆえに、差別し、虐待することが正当化されたユダヤ人と自分は同じであると歌わされたことに気づいた会衆は憤慨し、おそらくそれ以降のコラールを歌う事を拒否し、《マタイ受難曲》自身を拒絶する。初演時に、多くの会衆は前半の第一部が終わると帰宅したと言われる。

彼らにとって我慢がならなかったのは、日常的に自分たちが、種々の法令と規則によって差別し、迫害し、日曜市が立つとき以外ではライプチッヒ市内に入る事さえ禁じてきたユダヤ人たちと自分たちが同列におかれたことである。受難節で教会に集った上流市民たちが驚愕と憤激に陥ったことは、MP9e-MP10の流れを追えば、そしてドイツにおけるユダヤ人迫害史を知っていれば、テリーの「バッハ伝」を読むまでもなく容易に想像つく。日曜礼拝以外の、受難曲などのコラールを会衆が実際に唱和したかどうかについては、バッハ学者のあいだでも確定していないという。しかし、テリーによれば、伝聞引用ではあるが「《マタイ受難曲》の最初のコラールを、少なくとも何人かの上流市民たちは厳かに(賛美歌の)本を見ながら歌い始めた (Some high officials and well-born ladies in one of the galleries began to sing the first Choral with great devotion from their books.)」とある。日曜礼拝で用いる良く知られたコラールが使われているのだから、会衆はたとえ発声しないとしても頭の中で唱和したはずである。そのためにも、バッハにとっては《マタイ受難曲》で使われるコラールは、良く知られた、既存のものである必要があったのである。ここでオリジナルな曲を使ったのでは、歌詞だけを見て一般会衆が唱和することは難しく、バッハのメッセージが会衆に伝わる事はない。

コラールについて、《ヨハネ受難曲》に比べて《マタイ受難曲》では相対的比率が下がっているので、 《マタイ受難曲》ではコラールの重要性が低下したと言う議論もある(注2)。最近のソリスト、古楽器中心の《マタイ受難曲》の演奏にはこのような理解と共通するものがある。 しかし、少なくともバッハの教会音楽については、その理解は本質を見誤っている。事実は逆であって《マタイ受難曲》では《ヨハネ受難曲》に比べてコラールの重要性は質、量ともに増しているのである。バッハは「自分の究極目的は神の栄光を賛美するために整った教会音楽を演奏することである」という主旨の意見 書を、生涯に二度、ミュールハウゼン時代(1708年)とライプチッヒ時代(1730年)にそれぞれの市参事会に提出している(前者は辞表の中で)。これらの意見書を、バッハの建前であり、本心と考える必要はないという議論もあるが、20年以上の期間を経て同様の意見を表明するということは、それなりの重みを持たせて理解すべきではないだろうか。単なる方便であれば、20年間も同じ事を思い続けるのは難しい。バッハは、「コラールを歌うことを通して教会会衆を教化する」というドイツプロテスタントの伝統にこだわりを持っていた。礼拝の中で自分の演奏する教会カンタータや受難曲は牧師の行う説教と同等か、あるいはそれ以上の比重を持つとバッハは考えていたのではないだろうか。大学を出ていない一介の教会オルガニスト、音楽監督の態度としては、市参事会や聖職会議からみれば不遜な態度と映っただろう。前任者のクーナウがもっていたコラール選定権は、すでに述べたように1728年9月にバッ ハから奪われた。そして、バッハはそれに強く抗議した。そのことを考えれば、《マタイ受難曲》でコラール楽曲の比率が減少したから、バッハがその重要性を後退させた と解釈するのは間違っている。相対数ではなく、独立したコラール曲の絶対数が増えていることに注目すべきである。

《マタイ受難曲》では、独立したコラールのほかに、コラールが挿入された合唱曲が2曲(第一部の開曲と終曲)あり、それも加えれば、《ヨハネ受難曲》の11曲に対して《マタイ受難曲》ではコラールが 15曲へと増えているのである。コラール楽曲の数が増したことは、教会会衆によって意識される。なぜなら、重ねて述べるが、ルター派の伝統では、会衆はコラールに唱和することが期待され、奨励されていたからである。従って、受難節の大曲では、たとえ発声はしなくても、心の中では唱和したはずであり、曲に合わせて少なくとも歌詞を目で追ったはずである。コラールに挟まれるアリアやレチタティーヴォなどが相対的に多くなっても、教会会衆にとっては、それらは自分が歌うコラールとの関係で意味を持ち、コラールの重要性が薄まったと感じることはなかったはずである。むしろ、会衆にとっては、自分たちが意識を集中するコラールの曲数が、《ヨハネ受難曲》よりも《マタイ受難曲》において増えたことに、より濃密なメッセージ性を感じたはずである。具体数として意識するかどうかはともかく、コラールとコラール以外の曲の相対比率という数学的指数よりも、コラールの絶対数が増加したことのほうに、よりメッセージ性を感じたはずだ。 当時の会衆はコラール前奏曲の冒頭を聴くだけで、その後に行われる牧師の説教内容を想像したというのだから、なおさらである。言い換えれば、 現在の《マタイ受難曲》の聴衆はコラールに唱和しなくなったので、「比率」が低下したことでコラールの重要性までが《マタイ受難曲》では低下したという俗説が信じられるようになったのかもしれない。

意味情報を無視して音楽技術的に完成度の高い《マタイ受難曲》の演奏を目指す純粋音楽的な演奏、鑑賞が主流となっている現在では、声楽、器楽のソリストに如何に有能な人材を揃えるか —しかも、できれば古楽器を使って—、が成功の鍵であるかのような考え方が強い。それはコラールを理解し、唱和する聴衆(=教会会衆)がいなくなった結果なのだろう。また、ソリストを最前列に配置して視覚的に強調し、オペラまがいにボディアクションを見せたり、指揮者自身が派手なアクションを見せる演出すらある(注3)。現在の 《マタイ受難曲》演奏会で、コラールを介してバッハが会衆に送った想いを聴衆が感得することは困難かもしれない。それだけに、せっかく優秀なソリストを揃えても、彼らのすぐれた演奏、歌唱力の技術的側面だけを強調するパーフォーマンスに終止するなら、バッハ自身の演奏とはかけ離れることになる。

理想的には、聴衆がコラールに参加する演奏が望ましいが、現在では、特に日本ではそれを望むことは不可能である。そのためには、教会会衆に代わる、コラールだけを歌うアマチュア合唱団を配するというリヒターやリリングの考えには意味がある。たとえば、バッハは第1部終曲(MP29)に、あえてリズムをとりにくく、歌いにくいコラール(譜例29)を配置している(注4)。これによって、あるメッセージを送っているのである。つまり、前曲(MP28)で「イエスを見捨てて、逃げさった弟子達」の不安心理(譜 例30)を追体験させようとしているのである。このコラールは《ヨハネ受難曲》第2稿(1725)の開曲で使ったことがあるので、バッハにはその効果は分かっていたはずだ。それを承知の上で使ったことは間違いない。言うならば、これは「不安のコラール」である。バッハとってのコラールの重要性に気づかなければ、この第1部終曲を、バッハがオリジナルに作曲せず、《ヨハネ受難曲》第2稿の開曲で間に合わせたと言って不満を言うバッハ学者がいても不思議ではない。初演稿にないこの第1部終曲を、バッハが何らの意図もなく、間に合わせの転用ですませたとは考えられない。時間がなく、手抜きをするなら、なにもせずに初演稿の簡素なコラールをそのまま残せばいいだけである。

コラールの重要性を理解しない最たるものは、《マタイ受難曲》をCD2枚に納めるために、コラールを全曲省略する演奏である。ソニーがベートーベンの「第九」を一枚に収めるために基準設計したCD規格が《マタイ受難曲》の省略演奏を生んだとすれば、残念である。これでは、「バッハ(Bach)は小川(Bach)ではなく大海(Meer)である」と言ったベートーベンも泣くに違いない。このような傾向は《マタイ受難曲》の演奏評にも現れている。

ソリストや指揮者にばかり言及してコラールについてはまったく触れない評が多い。しかし、《マタイ受難曲》の主役はコラールであり、バッハは聴衆(教会会衆)に向けてコラールを通して自らの思想を伝えているのである。アリアやレチタティーヴォ、合唱その他の部分は、コラールの意味を強調し、時には変更することで、コラールを通して会衆にバッハの思想を届けるための伏線であり、手段なのである。もちろんそうは言っても、いやそうであるからこそ、その装飾や引き立て役の器楽演奏、ソリスト、合唱の音楽技術的な完成度も重要である。コラール単独では、 バッハの思想は聴衆に届かないからである。コラールを省略した《マタイ受難曲》は、バッハの作品ではなくパロディにすぎない。

注1メンデルスゾーンの粗演(1829)以来、長く1729年初演が信じられてきたが、J.リフキンが新たに発見  したバッハの手紙などの証拠をもとにそれ以前に初演されていたはずという説を出し、そうだとすれば、演奏された受難曲の記録がない1727 年しかないとして、近年は多くのバッハ学者が1727年初演説を信じている。しかし、その手紙の内容を見ると、1729年の受難節に、二重合唱付きの受難曲(《マタイ受難曲》のこと)の楽譜を借りようとした弟子の一人に、バッハが、自分が使うのでお貸しできないと丁重に断っているだけなのである。これだけでは、1729年の受難節前にすでに《マタイ受難曲》の存在を知っていたものがいたとは言えても、バッハがその前に実際に演奏したことがあるという証拠にはならない。楽譜を見せられただけかもしれないし、あるいは曲について何かを知っていたのかもしれない。結果的に、貸し出していないのだから、バッハが初演は自分自身の手でやりたいと、断ったのかもしれない。むしろ、重要な問題は、初演にしろ、再演にしろ、その弟子が、バッハが 1729年の受難節にそれを演奏しないと思っていた理由は何かということである。そこにはバッハが演奏できない、あるいはしないだろうと思える何らかの事情があったと考えられる。したがって、この手紙は1729年初演説を積極的に否定する証拠にはならないのである。むしろ、1726-1727年 にかけてバッハは、給与の問題等はあったとしても、教会との間に決定的な亀裂をまだ生じさせていなかったことを考えると、これほど、独創的で、複雑に構成 され、かつ重大な異端的要素を含む大曲をそのころに書き、演奏したと信じるのは難しい。さらにもう二つ、別の問題がある。1727年初演説を認めると、バッハが旧作の世俗曲をパロディ化して宗教曲に使うことはあっても、その逆はなかったという従来信じられていた説に唯一の例外を認めねばならなくなる。 実際に、注文にもとづき、報酬を得て作る曲に旧作のパロディを使うというのは想像しにくい。ましてや、その曲は、BWV244a(1729年3月24日)として知られるケーテン侯レオポルトの追悼カンタータである。このケーテン侯は、バッハが書き残したところによれば、一時は一生を彼のもとで終えるつもりでいたほどに敬愛していた君主である。二年前の旧作を転用して、手抜き作品を捧げるとは考えにくい。もう一つは、先に述べたテリーが紹介している、ゲルバーが 書き残した初演時の反応である。1727年に初演であれば、1730年に書かれた記述に再演時(1729)の反応が全く触れられていないのは不自然である。

注2 この議論では、《ヨハネ受難曲》では全40曲中の11曲がコラール(27.5%)だが、 《マタイ受難曲》では全68曲中の13曲しかコラール(19%)がないからだという。

注3 バッハの時代には、イエスや福音史家を歌うソリストと合唱団の区別はなく一緒に並んで同じパートは一つの楽譜を見て歌った。リフキンはソリストだけで合唱も歌ったとしているが、それについて証拠はない。いずれにしても、教会会衆と楽団、合唱団が対面することはなく、聖トーマス教会では、楽団と合唱団は二階後方と側面の桟敷席に居て、会衆の視覚には入らないので、バッハがオペラ的な演出をするはずはない。

注4 MP29は《ヨハネ受難曲》の第2稿(1725.3.30)の開曲で使われたものを、《マ タイ受難曲》の完成稿に転用したもので初稿譜にはない。このコラール合唱では、会衆は器楽が奏でる、2拍子、4拍子、8拍子、16拍子が入り交じったリズムに合わせて歌うので、一般会衆が揃えて歌うのは至難である。会衆が混乱に陥り、うまく唱和できない自分に不安を感じることを、《ヨハネ受難曲》第2稿演奏時にバッハは体験していたはずである。それを承知の上で、1736年の《マタイ受難曲》決定稿で使ったことは間違いない。それには理由があった筈である。スタジオ録音も含む K.リヒターのすべての音盤でも、このコラールの合唱は器楽のリズムからずれている。ここで、プロの歌手を使って「上手く」歌う事はバッハが望んだ演奏ではない。かといって、プロが器用にずらして歌う事も間違っている。あくまでも教会会衆に変わるアマチュア合唱団が自然に歌うべきであろう。




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