(3)自由詞(Libretto by Picander



聖句ではなくピカンダーの詞であれば、聖書的なバッハの改ざんはないかというとそうとも言えない。一般論を言うと、ほとんどの日本語対訳はイエスに関して儒教的身分関係を反映したものが多く、《マタイ受難曲》で描かれたイエス像とはかなり違う印象を与える。多くの訳者は、バッハがイエスを音楽的にどう描いたかよりも、意識するかしないかは別として、とりわけ文語訳聖書に基づく先入観に強く影響されているようである。たとえば、口語訳の対訳でも、イエスの “Wille”“Herz”が、アリアで書きわけられているのに、それぞれを「意志」、「心」と訳すのではなく、両者とも「御心」と訳したうえで、“aus Liebe(愛ゆえに)を「愛の御心から」と訳したりする。それでは、イエスの受難が、人間的苦悶を経た後にイエスが選択した意思によるものではなく、イエスの神性を強調しているかのようである。すでに述べたように、バッハは《マタイ受難曲》ではイエスの受難を人間イエスが自発的に「犠牲の子羊」となる決意した自発的意思であるという立場で描いており、《ヨハネ受難曲》のように、旧約で予言されたイエス(=神)の勝利論(Christus Victor)に組みしていない。イエス=神(父)ではないことを、開曲やゲッセマネの祈りだけではなく、MP22(Heiland≠Vater)やMP61a:8(lamaの繰り返し)など多くの曲でバッハは繰り返し暗示している。これらの曲を素直に解釈すれば、イエスは神というよりもヒトとして描かれていることは明らかである(注1)。すでに述べたように、調性分布と年代傾向分析の結果を踏まえたうえで、♭圏を中心に作曲された《ヨハネ受難曲》と#圏を中心に作曲された《マタイ受難曲》の調性分布を比較分析した結果からは、《マタイ受難曲》では調性の意味論的な差別化が行われ、とりわけロ短調に特別な想いが込められていることが明らかとなった。それは、たとえばイエスの人間性を表す迷い、苦悶の祈りがト短調で歌われたあと、犠牲の子羊としての身代わりの死を受け入れたイエスの愛の祈りがロ短調に変わることに端的に示されている。さらに、そのロ短調がイエスの愛が向かう「人々」を特定するためにも使われたと解釈すれば、《マタイ受難曲》の多くの謎が解ける。それらの「人々」には、イエスを信じ、愛し、慕ったものたちだけではなく、イエスを憎み、嘲り、殺意をもっていたものたちも含まれていた。そうであれば、イエスの受難が、「御こころ」から発したイエスの神(心)性に基づくものか、あるいは死への恐怖と苦悶を乗り越えたのちに決意した人間イエスの「意志」によるものかは重要な違いなのである。それについては、《マタイ受難曲》と《ヨハネ受難曲》を比べれば違いは明白である。すでに述べたように、後者は、イエス=神と初めから前提にしたうえで、彼の受難は旧約で予言されたことが成就したものであるとする。いわば、神としてのイエスの予定論である。受難がイエスの勝利であるという論理(JP30)は、キリスト教徒ではない素朴な立場からは理解しがたい。そこには、人間的な悲しみや、イエスへの同情や共感が入りこむ余地はない。ただ、神=イエスへの畏敬と感謝があればよい。人間イエスが苦悩と逡巡を経たうえで、十字架を受け入れ、受難を通して「人々の身代わり=犠牲の子羊」となり、父なる神のもとに召される《マタイ受難曲》とは本質的に違うのである(注2)。

予定論に組する立場は、イエスの「意思」を否定するために、MP34のテノールが歌うレチタティーヴォ・アコンパニャート(ニ短調)にあるイエスの意思を示す助動詞 “sollen”(MP34:8)を、わざわざ、話し手(ここでは信者を代表して歌うテナー)の意思として“wollen”であるかのように「誤訳」する。そこでは、イエスが我々(信者)に「そう(迫害のなかで沈黙)すべき」と範を示していると、イエスの意志を信者(テナー)が忖度して歌うのだが、それを逆に「そうしようではないか」と我々の意思として訳す。イエスの“Wille(意思)が訳出されなければ、 この意訳は結果的にイエスをヒトとして描くバッハの想いを裏切っていることになる。このように、自由詞であるから神学的、聖書的なバッハの改ざんはないとは言えないのである。ちなみに、このテナーが歌うMP34のレチタティーヴォの歌詞は、イエスの受難が彼の自発的意思であったとするバッハの思想をもっとも端的に表している譜例32

さらに問題が多いのは文語訳聖書の影響を受けた対訳(文語体対訳とは限らない)である。ドイツ語にはない儒教的身分関係を強くにじませているのである。たとえば、ドイツ語でイエスの"Herz"は「こころ」であり「こころ」ではない。その他にも、 “deinen Leib(御からだ) “dein Haupt(御かしら) “sein Angesicht(御かお) “vor dir(御まえに) “die Worte(御ことば)など、イエスについての名詞にことごとく「御(み)」が氾濫する。比較的に聖書に束縛されず、原則としてイエスへの敬語は排したとする対訳でも、文語体対訳に影響されて「御」を多用している例もある。しかし、これは「敬語」が多用される、特殊日本語の問題であるとも言えない。むしろ、イエスを描くにあたり、彼の人間性と神性のどちらを強調するかという中世以来の西欧芸術一般に見られた相克が日本語訳に反映していると言ったほうがあたっているかもしれない。例えば、上でも述べたが、MP26:29でユダがイエスの頬に接吻するときに、イエス(=神)を示す代名詞 “ihn(彼に)に不協和音を付けるべきではないと、通奏低音を1拍ずらしてバッハの決定稿を「訂正」して演奏する場合である(注3)。つまり、東アジア的儒教思想とは無縁のはずの西欧の指揮者にも、《マタイ受難曲》におけるバッハのイエス観への戸惑い、もっといえば批判がありうるのである。日本人だけではなく、彼らにもイエスに不協和音を当てるバッハの意図は理解できないのである。

日本語の問題に話を戻す。文語体対訳ではイエスの動作を示す動詞にことごとく、「給う」という助動詞が使われる。さらに、イエスから弟子への呼称は「お前」、弟子からイエスヘの呼称は「あなた」と一貫して上下関係を示す。原文ではどちらも “du, dich(親称) となっているのだが、日本語では多くの仏教諸派がそうであるように、教祖との上下関係が敬語として定まらないと落ち着かないという心理なのだろう。これは、バッハの問題、キリスト教の問題という以前に、日本文化の問題かもしれない。大祭司や総督がイエスを呼ぶときも "du" なのだから、弟子がイエスを呼ぶときに同じ訳語では居心地が悪いのだろう。聖書の中で、あるいは独立した詩でそのように訳すのは、それはそれで一つの立場であろうが、《マタイ受難曲》の対訳としては疑問である。口語訳聖書(注4)や新共同訳聖書(注5)でも「あなた」に統一されているのだから、新共同訳に準拠して訳しているとうたっている対訳ですら、「あなた」と「お前」に訳し分けているのは理解に苦しむ。イエスの神格を強調するために、そうしているのだろうが、イエスが神として描かれた《ヨハネ受難曲》ではともかく、バッハが《マタイ受難曲》で表現したイエスの人間性とそれに対する想い、共感は見えなくなる。たとえば、マタイ伝だけにある、イエスが追い詰められて苦悩の余りに節度を失ったかのような発言をする場面で(マタイ伝26:24)、バッハはイエスの余りにも人間的な言葉「その人(ユダ)には不幸である。その人は生まれなかったほうが良かった」を、MP11:7-11譜例33と不協和音を多用して、あたかもイエスの弱さを難ずるかのような曲付けをしている(注6)。そこでのバッハの意図は儒教的立場、あるいは神としてのイエスの立場では理解できない(注7)。《マタイ受難曲》では、一般的に人間的負の感情が♭調で、愛が#調で描かれているので、それは、イエスの人間性をバッハが強調したためと考えられる。そのようにイエスの人間的弱さを♭の臨時記号で強調することはイエスを冒涜するものではなく、むしろ、その苦悶を経たうえで十字架への道を選択した愛の偉大さに、より大きな感動と共感を覚えさせる効果があるのである。したがって、《ヨハネ受難曲》ではともかく、《マタイ受難曲》ではイエスと弟子、あるいはイエスと信徒の間を儒教的身分関係を類推させる敬語は極力さけなければならない。 “du” の訳語は「あなた」で統一するほうがドイツ語原文のニュアンスに近いのである。《マタイ受難曲》を理解するにあたり、訳語の選択でイエスの神性を強調するために儒教思想を持ち込むのは間違っている。それは、バッハが底本にしたルター訳からの逸脱であるばかりでなく、バッハの自筆譜に手を入れて改ざんするに近いバッハへの冒涜である。

《マタイ受難曲》の自由詞アリアでもっとも重要な曲の一つはMP42のアリアである。“der verlorne Sohn”というルカ伝の語句が唐突に出て来るが、殆どの対訳は「放蕩息子」と訳している。この曲が、祝宴曲風の明るいト長調で書かれていることの意味を理解すれば、本来なら「失われた息子」と訳すべきであることがわかる。「失われた」とは、このアリアの前に置かれたユダの自殺を意味しているからである。この聖句が使われたことがピカンダーの意思か、バッハの意思かは即断できないが、このアリアにつけられた曲が祝宴曲風に作曲されたことは、バッハがこの聖句を意識し、特別の思いを込めていたことは間違いない。詳しくは、次章2節で述べる。


(注1)ここで断っておきたいのは、著者はルター主義のあるいはキリスト教一般の神学について議論しているのではないことである。神学的な正統性について著者は関心を持っていない。バッハの受難曲を理解するために必要な範囲で、著者が知り得た断片的な神学的知識を紹介しているにすぎない。本稿の目的はキリスト教を正しく理解することではなく、音楽的に表現されたバッハの思想を正しく理解することである。

(注2)ちなみに、イエスの復活を表す音型として、上向音階を指摘する向きもあるが、歌詞との対応を考えずに上向音階が復活を意味する音型であると解釈する根拠はない。すなおに解釈すれば、上向とは天国に行く事、つまり死して神のもとに召される事を意味すると解釈するほうが自然である。それも、歌詞との対応がない限りは断定はできない。

(注3)29小節目の2拍目でイエスの頬にユダが接吻することで、ユダがローマ兵に逮捕すべき人間を指摘する、裏切りの瞬間を表す場面で、イエスを示す福音史家の歌う"ihn" の音(イ音)と通奏低温の音(ホ音)がぶつかる(MP26:譜例34。その不協和音がイエスの神性にふさわしくないと、通奏低音を後へ1拍ずらして演奏することもある。娘婿のアグリーコラ(Agricola)の筆写譜として残る初稿譜では、実際に1拍ずらされている(AgMP26:譜例35。バッハは初稿から決定稿へ浄書する段階で変更したと思われる。この不協和音は、ユダの裏切りの決定的瞬間を示すと同時に、苦悩するイエスの人間性を表現している。

(注4)戦後の当用漢字、新仮名づかいの導入などの理由により日本聖書協会によってだされた新約聖書(1954年)、旧約聖書(1955年)の現代日本語文語体訳聖書のこと。日本人だけが翻訳に携わった日本語聖書としては初めての聖書。慣例により「口語訳聖書」と呼ばれる。日本語聖書としての長所、短所はここでの議論の対象外だが、田川によれば、ギリシャ語原文に近いという意味では、次の新共同訳よりすぐれているという。口語訳聖書では一人称、二人称代名詞は、すべて「わたし」と「あなた」に統一された。動詞の敬語表現については、イエスと神への敬語は残され、原則として「れる」、「られる」だけが使用されている。

(注5)第二回ヴァチカン会議を受けて、プロテスタントとカトリックが協力して各国語の共同訳聖書を作る提案が行われ(1966)、日本でも『新約聖書・共同訳』が1978年に完成したが、両者の妥協の産物として生じた欠陥が随所にあって激しい批判が出た。その反省に立って、9年後に出たのが新共同訳聖書である。旧約聖書・新約聖書の両方が日本聖書協会より発行されている。

(注6)イエスは、最後の晩餐でユダの裏切りを予告したあとでこの発言をする。バッハは《マタイ受難曲》では、一般的に♭を使って俗、罪などを、♯で愛、神、聖なるものを象徴させるが、ここではイエスの言葉に♭を多用してヘ短調で歌わせる。イエスの言葉がヘ短調(4♭)で歌われると言うのは異例である。ここでも、イエスの人間性が強調されていると解釈できる。この描き方は、あたかもイエスの人間的な弱さを難じているかのようだが、実際には、イエスの人間性を表現することで、そのあとの受難を受け入れるイエスの決意が愛としてより強調される効果を持つ。ト短調(2♭)で歌われるゲッセマネにおける1度目の祈り(MP21:3-7)の伏線になっている。

(注7)ドイツプロテスタントの神学者であるカール・バルトはバッハが《マタイ受難曲》でイエスの復活(マタイ伝28章)を描いていないと批判したが、バッハがイエスの復活を否定していると思われる理由は、それだけではない。十字架から降ろされてアリマタヤのヨゼフに渡されたイエスが息絶えていなかった(LeichnamとLeibの対比、前節参照)と示唆することで、イエスの人間性を表現しただけではなく、死後の復活をも否定しているのである。バッハはマタイ伝の「この人は真に神の子であった」(マタイ伝27:54)という言葉を、ルカ伝のように「正しい行いの人」(ルカ伝23:47)であったとする史実に近い理解をしていたと思われる(MP63b)。


 

Back                目次                 Next