8章 マタイ伝からの音楽的な逸脱 (Tuneful deviations from St Matthew)

(1)音楽と歌詞 (Tune and lyrics)

前章で、《マタイ受難曲》の歌詞には、ルター訳マタイ伝からの逸脱や、コラール歌詞が原意を変えて使われた例があると述べた。少なくともいくつかの逸脱は、バッハが意図的に行った可能性が高いとも述べた。もしこれらがバッハの思想を反映しているとすれば、どのように解釈できるかも述べた。その要点は次のようになる。

(1) イエスによって教会と天国の鍵を与えられ、権限の委譲を約束された筆頭弟子ペテロ(マタイ伝16:18-19)を聖句から削除することは(MP24、MP28)、彼が象徴する教会の権威を否定することを意味する。

(2)十字架上のイエスに神への疑問を繰り返させ(マタイ伝27:46 vs MP61a)、十字架から降ろされた直後にイエスはまだ息絶えていなかったとすることは(ルター訳マタイ伝27:59 vs 66a:1-2)、イエスの人間性を強調している。

(3) ユダの裏切りを人の原罪と同義とすることは(MP10:1-2)、ユダもイエスの受難による救いの対象であることを意味する。

これらは、歌詞の解釈から得られた結論だが、歌詞上の逸脱は他にも多くある(表3)。それらの中には、一見、些細なものもあるが以上の結論と整合的に解釈できるものが少なくない。例えば、MP45a:12-13に見られるgesagtgesagetへの変更についてもそれが言える。これについては本章5節で取り上げる。いずれにしても、これらの解釈が正しければ、バッハの思想は当時のキリスト教できわめて異端的であったことは明白である。上流階層が集うライプチッヒ中央教会(聖トーマス教会)の音楽監督がこのような思想を公にすれば、解雇されるだけでは済まない。糾問の対象になってもおかしくはない。従って、それらの表現は一見、無意味な歌詞の変更、あるいはあたかも不注意による誤記であるかのように装われ、巧妙に仕組まれねばならなかった。実際に、後世のバッハ研究者や演奏家だけでなく、ほとんどの神学者もその異端性に気づかなかった。しかし、芸術作品である以上、鑑賞者、聴衆に作者の思いがまったく伝わらないものでは意味がない。すでに紹介したように、最初のバッハ伝を書いたテリーによれば、初演時の教会会衆は《マタイ受難曲》を喜劇オペラとののしり憤慨したという。つまり、異端性は当時の会衆には伝わったのである。だが、初演後100年を経たメンデルスゾーンの再演時には、彼にも、聴衆にもその異端性は伝わらなかった。《マタイ受難曲》の核心的な曲は削除され、純粋音楽的に演奏され、鑑賞されたのである。

これらの異端性が表現されたのは歌詞によってだけではない。♭圏と♯圏の差別化や、イエスの愛をロ短調で表し、その愛が向かう対象をロ短調で指定するなど、調性選択によっても表現された。このようにして生まれたのが《マタイ受難曲》であり、それはバッハ独自の福音書解釈であった。いわば第5の福音書として成立したとも言える。従って、そこに含まれる聖書からの逸脱を「バッハは敬虔なクリスチャンであった」という理由で正文批判後の現代語訳聖書に基づき訂正して解釈することは、バッハの思想を裏切ることになる。それは、芸術作品をありのままに理解し、解釈することが困難であることを示す例でもある。意識するかしないは別として、演奏家や研究者は、作品を解釈するとき、作者の思いではなく、自らの願望や先入観に影響される。なによりも、《マタイ受難曲》のように、音楽、宗教史、ドイツ史、聖書学、ユダヤ人問題など広範な知識を必要とする作品を、客観的、総合的に理解するのは現代社会では至難の業である。それぞれの分野が細分化、専門化しているからである。音楽でさえ、指揮、作曲、器楽演奏、声楽、調律と分かれており、器楽演奏はさらにそれぞれの楽器に特化している。バッハのように指揮、作曲、複数の器楽だけでなく、聖書、歴史、神学などに精通した音楽家を見つけることは現在では難しい。「バッハはたんなる音楽家とも、思想家とも言えない。彼は自然現象そのものである」と、タチアナ・ニコラエヴァがかつて語っていたと児島宏子氏から聞いたことがある。そのとき、さすがだなと思ったものだ。声楽家やドイツ語学者の多くは《マタイ受難曲》の解釈で苦しむことはない。なぜなら、彼らはドイツ語文章を理解するので、それだけで解釈は十分にできたと思うからだ。その意味ではネイティブのドイツ人も同じだろう。むしろ、ドイツ語を母国語としないバイオリニストやピアニストが真剣に理解しようと取り組むのは理解できる。ドイツ語が堪能であることが、かならずしもメリットにはならない例である。同じことはキリスト教についても言える。バッハの宗教曲をアナクロニズムと考えるドイツ人が増えているのもそのためかもしれない。バッハを自然現象のように理解するというニコラエヴァの言はいろいろな忠告を含んでいる。自然を理解するには、客観的、総合的に理解しなければならない。そのためには多分野からの視点を必要とする。一つの側面だけを見て判断してはならない。視覚障害者への差別意識を助長すると最近では避けられる格言だが、自戒を込めてあえて使わせていただくと「群盲象を撫でる」が、現在のバッハ学ではないだろうか。

では、私の解釈には同様の批判を受ける余地はないのだろうか。「バッハは《マタイ受難曲》において、ルター訳聖書を改変している」として、歌詞上の逸脱を根拠に、バッハの異端性を主張するのは、私の先入観ではないか。実際に、友人のドイツ語教師は「バッハが聖書を不注意に誤記し、コラールを誤用しただけであり、無理筋を通して主観的に解釈している」と私を批判した。言い換えると「聖句の不自然な削除や改変は意図的に行われたものであるから、それらはバッハの思想が異端的であったことを示している」という解釈の前半は、それ自身が証明されるべき命題であり、「逸脱は意図的に行われた」と「バッハの思想は異端であった」というのは同義復順であると言うのである。つまり、「バッハは異端のクリスチャンであったから歌詞が聖書学的に逸脱しているのは不注意ではなく、意図されたものである」と言っているに過ぎないというのである。その意味では、マリセンの《ヨハネ受難曲》に関する主張は同様の批判を浴びうる。マリセンは、調性や音楽的構造よりも、歌詞上の変更を主要な根拠に「バッハは《ヨハネ受難曲》で反ユダヤ主義を煽る意図はなかった」と結論する(注1)。つまり、マリセンの《ヨハネ受難曲》解釈は聖句やブロッケス受難詞の書き換えをバッハが行っているという事実を過大に評価しているとも言える。それらの書き替えを根拠に、《ヨハネ受難曲》は親ユダヤ的であると結論することはできない。その解釈を支持する音楽的根拠は示されていない。むしろバッハは自分の本来の思想を隠蔽して《ヨハネ受難曲》を作っている。いずれにしても、《ヨハネ受難曲》の場合、その証明は難しい。4章で述べたように、バッハは《ヨハネ受難曲》決定稿をJP10で中断し、その後死ぬまでの10年余の間にJP11以降を完成することはなかった。これは、バッハが自分の《ヨハネ受難曲》を放棄、あるいは否定したことを意味している可能性がたかい。そのことを、どう解釈するかに触れることなく歌詞の変更だけで、《ヨハネ受難曲》の思想を議論するのは無理がある。マリセンのバッハ論の最大の弱点はそこにある。また、バッハ宗教声楽曲の時代的変遷についても検討しておらず、《ヨハネ受難曲》、《マタイ受難曲》、その他の多くの宗教カンタータを区別せずに議論している。バッハの宗教曲は、彼の年代的変遷を反映しており、全てを同一線上で議論するのは適切ではない(注2)。《ヨハネ受難曲》では、ヨハネ伝を逸脱して、マタイ伝からわざわざ引用して、ペテロの慟哭を強調していることは既に述べた。そこには、ペテロが象徴する「教会の権威」におもねるバッハの意図さえ見え隠れする。音楽的には、むしろホフマン=アックステルムが言うように、繰り返し現れるユダヤ人の粗暴さを提示するパッセージが聴くものの耳に響く、と言うのが素直な感想であろう。仮にマリセンの解釈が正しいとしても、結果的にその音楽的効果は、バッハ自身の思想を裏切っており、《ヨハネ受難曲》はバッハにとって失敗作であったことになる。それが、バッハの《ヨハネ受難曲》完成放棄の原因だったのかもしれない。

バッハがある思想を表現しようとするなら、単なる歌詞の変更だけではなく何よりも音として表現したはずである。なぜなら、バッハは作詞家であるというよりも作曲家だったからである。したがって、マリセンの《ヨハネ受難曲》に関する問題提起は貴重なものではあるが、歌詞の変更だけを根拠に、音楽解釈をおろそかにしているというそしりを免れない。私としてはマリセンの論考は貴重なものであるが、その方法論的弱点を他山の石としたい。

これまでのところ、《マタイ受難曲》のなかで、バッハは「イエスが人であり、自らの意志で人々の救済のために「神の子羊」になる決意をしたこと、ペテロの優位性は否定され、裏切りを真に悔いたユダこそイエスがもっとも愛したこと」をどのように音楽化したかを明らかにしてきたが、その根拠の音楽的基盤は、調性の年代傾向分析の結果であった。しかし、厳密に言えば、傾向分析の結果はバッハが調性選択に、《マタイ受難曲》以後、何らかのこだわりを強くしていき、とくに2#調の使用頻度が晩年に向かって極限にまで亢進ことを証明しただけであり、そのこだわりが思想的理由であったことは、厳密にはまだ示されてはいない。ロ短調がイエスの愛、ニ長調がイエスによる救済を表現していると考えれば多くの謎が解けるということであって、バッハが実際に個々の調性によって思想を表現したという確実な証拠が示されたわけではない。

このような問題意識を持ち《マタイ受難曲》を聴き直すといくつかの不自然な曲付けに気づく。調べてみると、それらはこれまでの研究者によって不自然であるがゆえに非難されたか、あるいはさしたる検証もなく軽くあしらわれただけであった。その不自然さは、シャイベが指摘したバッハ声楽曲の混乱や不自然さに通じるところでもある。また、メンデルスゾーンもその不自然さを嫌ったためか、演奏せずに削除したアリアがあったほどである(注3)。しかし、それは、歌詞との組み合わせにおいて不自然であるがゆえに意味を持つ、調性と旋律による聖句の引用であった。

(注1) M.Marrisenは、Hoffmann-Axthelmの《ヨハネ受難曲》に対する批判、すなわち「《ヨハネ受難曲》の意図が何であれ、実際に耳に響くものは〔中略〕幾人かのユダヤ人がイエスに対してとった態度を大げさに繰り返し強調して描く事により〔中略〕部分的、あるいは全面的にユダヤ民族全体への普遍的な憎悪あるいは否定的な見解を投影している」に対して、「バッハが《ヨハネ受難曲》に込めた思想は、(ペテロに代表される)クリスチャン自身のイエスに対する罪の認識であり反ユダヤ感情を醸成することではない」としている。つまり、ホフマン=アクステルムは、バッハの音楽的な処理がユダヤ人群衆のイエスへの憎悪を歌う聖書由来の歌詞を強調していることを指摘してバッハの作曲法に疑問を呈している。《ヨハネ受難曲》の第2部にキリスト(Christus)の頭文字Cのギリシャ語文字のX【chi】に由来するギリシャ語のChiasmus(交差配列法)という建築学的な左右対称構造に類似した前後対称構造がJP22を軸にして現われており、その結果としてイエスの裁判の場面でのユダヤ人のイエスへの憎悪の叫びが効果的に強調され、繰り返される。しかし、マリセンは、「繰り返し歌われるのはユダヤ人の合唱だけではなく、コラールも、ローマ兵やクリスチャンの合唱や、マールプルグの言う “Wohin?”など子供じみて、粗野な言葉さえも繰り返されている」ので、格別にユダヤ人への敵意を煽る意図はバッハに無かったと主張している。しかし、これは彼女への反論にはならない。なぜなら、彼女の《ヨハネ受難曲》への批判は歌詞に込められたバッハの意図ではなく、曲の音楽的繰り返し構造を問題にしているのである。つまり、実際に《ヨハネ受難曲》を聴くものにどう響くかについて、「バッハの意図がなんであれ結果的に反ユダヤ感情を増幅させる効果がある」と指摘している。つまり、もしマリセンのいうようにバッハに反ユダヤ主義を扇動する意図がないというのなら、《ヨハネ受難曲》の音楽的構造はバッハの意図に反して反ユダヤ主義的になっていることなり、それは作曲者の失敗を意味しているというのが、彼女の論点である。その場合は、《ヨハネ受難曲》はバッハにとっても不本意な曲になっているはずである。実際に、バッハ自身が何度も大きく《ヨハネ受難曲》の書き換えを行い、最終的にその完成を放棄しているので、バッハが彼女と同じ印象を自分の《ヨハネ受難曲》に感じていた可能性を否定出来ない。いずれにしても、音楽的効果についての議論に対して、歌詞解釈に頼った反論ではあまり説得力はない。先入観によってバッハを解釈して、《ヨハネ受難曲》を放棄したバッハの「贔屓の引き倒し」になりかねないのである。

(注2) マリセンだけではないが、《ヨハネ受難曲》や《マタイ受難曲》を理解するためにバッハの他の教会カンタータを引用して安易に解釈することが、しばしば行われている。しかし、年代傾向分析の結果(2章7節)は、バッハの宗教曲は作曲年代によって思想的に異なり、発展している可能性を示唆している。マリセンは、BWV44(1724.5.21)やBWV183(1725.5.13)を引用してバッハがイエスの死の責任をユダヤ人に帰していないとする。しかし、この様な手法を使うなら、この文脈で、ルターの反ユダヤ主義、反イスラム主義、反パプティスト主義、反カトリック主義を煽動する戦闘的教会カンタータ、BWV18(1713.2.19)、 BWV19(1726.9.29)、 BWV126(1725.2.4)などもあることに言及せねばならない。もちろん、バッハのどの年代をとっても、明らかに反ユダヤ主義と言えるカンタータはない。おそらく、現存する音楽作品を見る限りは、バッハは生涯において反ユダヤ主義者であったことはない。しかし、最初から異端に対する融和主義者でもなかったし、全教会主義(ecumenicalism)者でもなかった。それは、異端への戦いを鼓舞するこれらの初期カンタータを見れば明らかである。また、マリセンはルター説教集の詳細な検討から、ルターの反ユダヤ主義とヒトラーのそれとは同じではないとしているが、それも意味ある議論とは思えない。もちろん、彼が言うようにヒトラーがルターの著作を読んで、彼の反ユダヤ主義を積極的に取り入れた形跡はないというのは正しい。その意味では、ナチの反ユダヤ主義がルター主義に源泉を持つとは言えない。たしかに、ルターは「ユダヤ人種」の生物学的な抹殺(ジェノサイド)を主張したことはないし、イエスの死の責任をユダやユダヤ人に帰すべきでなく、我々の(原)罪ゆえにイエスの受難があったとしている。しかし、ルターがイスラム教やユダヤ教に対する戦いを、「コーランを燃やせ、シナゴーグを焼き払え」と煽ったことは事実であり、それがドイツ民衆に与えた影響が20世紀のナチスまで続いたことは、カール・ヤスパースが指摘した通りである。マリセンはGordon Ruppの論文を引用して、「ヒトラー自身はおそらくルターの著作の1ページも読んだことはなかった。実際は、ルターが語った言葉が一人歩きして、それを読まなかったものにまで影響を残したのである。ルターの思想とナチスのホロコーストは、単純な原因と結果の関係ではなく、それに寄与した一つの因子である。このことは誇張されるべきではない。なぜなら、ルター派教会が支配的ないくつかの国では、ナチスからユダヤ人を守ったという詳細な記録もある。そして、何よりもヒトラーはオーストリアのカトリック家庭の出身であることを覚えておくべきである。」と述べている(‘Luther and Hitler’ in 「Lutheranism, Anti-Judaism, and Bach’s St. John Passion」by M. Marissen, pp24-25)。あくまでも、ヒトラーの反ユダヤ主義はルターのそれとは一線を画すべき、と主張する。そのこと自体は間違っていない。しかし、それをいうなら、ヒトラー自身も、人種としてのユダヤ人を例外無く迫害したのではない。母の主治医であったユダヤ人医師、エドワルド・ブロッホには、彼が母を病から救えなかったにもかかわらず、死後も感謝の念を持ち続け、ゲシュタポの手から守ったという事実もある。私は、ルターの思想がホロコーストに至るナチスの反ユダヤ主義思想の形成に「寄与」したという事実は否定できないと思う。ヒトラーが、ルターとは違って「ユダヤ人種」の生物学的な抹殺を計画し、実行したのは事実ではあるが、カトリック出身の彼がなぜそのような狂気の政策を打ち出しかについては、多くの研究がされたにも関わらず個人的な動機は見つかっていない。大澤によれば、ドイツ労働党が国家社会主義ドイツ労働党に改組されたときの綱領に(1)ドイツ民族主義による大ドイツ国家の建設、(2)ヴェルサイユ条約破棄、(3)反ユダヤ主義が唱われたのは、ヒトラーの野心を反映したものだという。労働党時代には50人の集会をするのがやっとだった弱小勢力が、彼がナチ党の専従になって最初の集会で1200人を集めるほどになった。この急激な勢力拡大に反ユダヤ主義が貢献したことは間違いない。「こうして、青年アドルフの政治的野心を満たすため宣伝効果が大であった《反ユダヤ主義》は欠かすことができないものになっていった。〈略〉彼の青少年時代を振り返ると、彼がユダヤ人をそれほど憎み、否定しなければならない個人的な体験や理由は何もないのである。果たしてアドルフが心底から本当にユダヤ人を憎んでいたのであろうか。わたしにはそのようには思えない。大衆の支持を得るための政治闘争の手段、タクティークだったのではなかろうか(大澤武男著「青年ヒトラー」p204より)」。つまり、彼の反ユダヤ主義は支持を大衆に拡大するための手段であった。実際に、ナチスは選挙によって民主主義的に国会多数派になる。問題は、反ユダヤ主義を標榜することで、ドイツでは民主的に国家権力を奪取できる土壌があったことである。ヒトラーがルターを読んだことがあるかどうかが問題なのではない。第一次世界大戦のあとヴェルサイユ条約のもとに国家経済が破綻し、失業と貧困が蔓延するなかで、大衆の憎悪はユダヤ金融資本に向かった。その憎悪はやがてユダヤ人一般に向かっていく。国民的反ユダヤ感情が醸成するのに決定的な役割を果たしたのが、ルター以来の反ユダヤ思想であったことは否定できない。マリセンは、バッハがルター派の敬虔なクリスチャンであったという先入観を他のバッハ研究者と共有するため、ルターの弁解者にならざるを得ないのであろう。もちろん、このことによって現在のルター主義を批判するのは正しくない。しかし、ヒトラー登場前のドイツの歴史において反ユダヤ主義を蔓延させた責任はルター主義にあるというのは否定できない。もちろん、歴史的には、ローマ帝国内においてすでにその萌芽は生まれていたし、さらにその前にはユダヤ教の側からキリスト教徒迫害の歴史があった。しかし、それらの迫害と被迫害を繰り返した歴史から、人々が何を学んだかは別の問題である。たとえば、ナチの迫害に対して無抵抗に殺されて行ったユダヤ人の歴史から負の教訓だけを学ぶ人々に、バッハは何を語るだろうか。

(注3)バッハの元弟子でオルガン製作者を父に持つJ.A.Scheibe(1708-1776)は、1737年5月14日号のDer Critische Musicus(批判的音楽家)6. Stück, Dienstag, den 14. Mai 1737, S. 46 ff.で、バッハの名前を伏せて啓蒙主義的、合理主義的音楽批評の立場から、彼の声楽曲には「装飾が多く、複雑に過ぎ、混乱を来している」とし、バッハの指が鍵盤楽器で行うような演奏を歌手の喉にさせようとしていると批判した。これに対して、バッハ擁護論を書いたJohann Abraham Birnbaum(1702-1748)には、バッハがその神学的意味を説明していた可能性が高い。しかし、残念なことに修辞学者のビルンバウムが展開したバッハ擁護論は、「混乱とは何か?」に始まる陳腐とも言えるレトリック(修辞学)だった。おそらく、バッハを擁護するためには彼を窮地に陥れかねないバッハの思想に触れる事は出来なかったのであろう。マリセンの引用によれば、ビルンバウムはキリスト教に改宗した「ユダヤ人」家庭の出身であった(Hans Joachim Kreutzer, 1991, “Johann Sebastian Bach und das literarische Leipzig der Aufklärung.”Bach-Jahrbuch 77:7-31)。その彼も《マタイ受難曲》については何も語っていない。彼はバッハの前に世を去っているので、バッハに危険を及ぼさずに真相を語ることは出来なかったのではないだろうか。メンデルスゾーンは100年ぶりの《マタイ受難曲》演奏で、もっとも核心的なMP42のアリアを削除していることから、この曲の重要性には気づいていなかったと思われる。シュピッタ、デュルについては次節を参照。


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