(2)ト長調祝宴曲MP42によるルカ伝の引用

(Quotation from St. Luke by the feast music MP42 in G major)

-失われた息子とその長兄- (–The lost son and his eldest brother–)


前章2節で述べたようにマタイ伝から逸脱している聖句の歌詞を見つけるのは難しくない。両者の間でテキストを比較すればよい。問題は、その逸脱がバッハの思想を反映したものか、ただの誤記あるいは音楽技術的問題なのかである。前者であれば、次にその内容が問題となる。その判定は必ずしも容易ではないが、歌詞の中に、関連する複数の逸脱があり、それらが整合していれば、意図があって変更されたものと推論できる。次に、それがどのような思想を表現しうるかを理解するには、楽譜とルター訳マタイ伝についてだけでなく、聖書やキリスト教の一般的な歴史について多少の知識が必要である。

MP24:3(マタイ伝26:40)の例で説明する。ゲッセマネの園でイエスが苦悶の祈りを上げたあとに、呑気に眠りこけていた弟子たちを見て、イエスは彼らの代表として筆頭弟子の「ペテロに」苦言する場面がある。ルター訳マタイ伝では、ここは “zu Petro”だが、《マタイ受難曲》では “zu ihnen(彼らに)になっている。NBA(新バッハ協会)はそれをバッハの誤記と判断したようで、彼らは “to Peter”と訂正して英訳している。日本語対訳でもバッハに忠実に「彼らに」と訳したものは多くない。単数代名詞として訳したり、目的語を省略したり、NBAにならって聖書に基づき「ペテロに」と訂正したものすらある。しかし、キリスト教の歴史を多少とでも知っているものなら、ペテロの名前には特別の意味が込められていることを理解している。単に12使徒の一人というだけではないし、ただの固有名詞でもない。イエスはペテロ(ギリシャ語で「岩」を意味する)のために「岩の上に」教会を建てると約束し、天国の鍵を授けて、地上と天国の権限を彼に委譲するとすら発言している(マタイ伝16:18-19)。そのため、ペテロは初代ローマ法皇に擬され、カトリックの総本山である聖ピエトロ寺院は彼の殉教の地に創建されたとされる(注1)。この背景を知れば、この逸脱がバッハの誤記であると簡単に片づけることはできないはずだ。実際に、キリスト教ではペテロの名は教会の権威を象徴するとされている。そのペテロが複数形の代名詞に置き換えられた。筆頭弟子としてのペテロの優位性が否定され、彼は他の弟子たちと同列に扱われたのである。バッハに何らかの意図があってこの変更が行われた、あるいは彼の思想がこの変更に込められているという可能性を疑ってみるべき重要な変更である。もちろん、この一事だけで、バッハが意図的に変更を行ったとは言い切れない。これがバッハの不注意による誤記である可能性もないことはない。しかし、この変更は、MP28:3-4(マタイ伝26:51)で “zog sein Schwert aus(剣を抜いて)が削除されていることに気づくと、ペテロの削除は意図的であったと考えざるをえない。なぜなら、イエスを捕縛しようとする大祭司の下僕に「剣を抜いて」抵抗した勇気ある弟子は、ペテロであるとされているからである(ヨハネ伝18:10)。つまり、二カ所でペテロの優位性や勇気を示す語句が削除されているのである。これら二カ所の変更は矛盾しないばかりか、見事に整合している。しかも、《マタイ受難曲》成立のころに、日曜礼拝で使われるコラールの選定権をめぐって、バッハは教会と激しく対立していた。これだけの情報があっても、これらの変更が偶然の一致とするなら、逆にそう判断する根拠が必要である。さらに重要なことは、ペテロの優位性を否定したと思われる重要な音楽的証拠が別に存在する。

音楽論に入る前に、前置きが少し長くなるが、もう一度、調性について述べたい。音楽の場合は、音響的に思想的逸脱を判定するのは容易ではない。《マタイ受難曲》以後のバッハの宗教声楽曲でロ短調が多用されていったことで、バッハがロ短調に思想を込めたとはかならずしも言えない。たとえば、先に述べたようにゲッセマネの二度の祈りがト短調とロ短調で差別化されているという一例だけで、ロ短調の思想的意味を論じるのは飛躍が過ぎるという批判もある。たとえば次のような議論である。

「中世の教会と修道院で避けられ、悪魔の音階と言われたロ短調をバッハが多用するようになったのは、教会批判というよりも、バッハを批判したマッテゾンの調性論への個人的な反発ではないか。言わば花袋の「蒲団」に対する鴎外の「vita sexualis」のような関係である(注2)。調性に思想が込められたと結論するには、統計学だけではなくもっと具体的な根拠が必要である。たとえ、どの調であれ、バッハが思想を込めたと確実に言える調性と旋律の存在を証明しない限りロ短調仮説は支持できない。」

実は、当の《マタイ受難曲》のなかに、そうとしか理解できない楽曲があり、それがペテロの削除とまさに整合しているのである。バスが歌うMP42のアリア譜例36である。その中で、バッハは、ペテロの筆頭弟子としての優位性を音楽的に否定している。

磯山雅著の『マタイ受難曲』によれば、このアリアは従来から不思議な曲であると言われていたそうだ。まず、誰が歌うのかはっきりしない。最初の “Gebt mir meinen Jesum wieder”mirmeinen(私に、私の)が誰かについて、古くから解釈が定まっていないという。「私のイエスをもう一度、私に返せ」と歌うこのアリアは、銀貨30枚でイエスを裏切ったユダが、それを後悔した(MP41a)あとに置かれているので、ユダが歌っているかのように思える。しかし、銀貨を神殿に投げ込んで出て行ったユダは、このアリアの直前に絶望して首を吊って死んでいる(MP41c)。したがって、そのあとのアリアで死んだユダがこのアリアを歌うことは不自然である。

さらにもう一つ、この曲の不思議な点はその明るい響きである。歌詞の悲痛な意味に比べ、楽しく歌い、踊るようなト長調(1#)の響きがいかにも不釣り合いである。しかも、このアリアの19小節目には、マタイ伝にない “der verlorne Sohn”(日本語では一般に「放蕩息子」と訳されるが原意は「失われた息子」)という語が唐突に出て来る(注3)。西欧の宗教画でもレンブラントを初め「放蕩息子の帰還」(ルカ伝15:20-24)を描いた作品(Fig.15)は多い。









Fig. 14. “The Return of the Prodigal Son” by Rembrandt Harmensz van Rijn. Oil on canvas; 262 x 205 cm

From ‘The State of Hermitage Museum: Collection Highlights’ at <http://www.hermitagemuseum.org/html_En/03/hm3_3_1_4d.html>



磯山はこのアリアが明るい響きで歌われることに意味があると言う。しかし、その意味が何かについては語っていない。この言葉はルカ伝に出て来る言葉であるが、正確に言えば、ルター訳ルカ伝にも “der verlorne Sohn”という語句はなく、 “Er war verloren(彼は失われた)という短い文章で二度出て来るだけである(15:24、15:32)。現代ドイツ語訳聖書では、ルカ伝の15章に、 “Vom verlorenen Groschen(失われた羊)について “Vom verlorenen Schaf(失われたコイン)についてのあとに続いて、 “Vom verlorenen Sohn(失われた息子)についてという見出しがあり、それぞれのたとえ話しが出てくる。英語訳聖書(Today’s English Version、以下TEV)の見出しでは、 “The Lost Sheep(失われた羊) “The Lost Coin(失われたコイン) “The Lost Son(失われた息子)となっていて、形容詞はどちらも統一され、 “prodigal(放蕩した)は使われていない。ところが、日本語の口語訳聖書では、「迷い出た羊の譬」、「なくした銀貨の譬」、「放蕩息子の譬」と、3つの見出しとも異なる形容詞が使われている。 “verlorne” “lost”には「放蕩した」という意味はないにもかかわらずである(注4)。「放蕩したコイン」、「放蕩した羊」とは絶対に言えない。このアリアで「放蕩息子」と訳すと、その言葉から日本人が、例えば「迷い出た羊」を連想することは難しい。

ルカ伝15:11-32の「放蕩息子の譬」を読むと、親の財産を生前に贈与されて、家を出て放蕩三昧を繰り返し、落ちぶれたはてに親元に帰ってきた弟が父親に赦され、子牛をほふり祝宴を開いて祝福されたという話がある。これを知った「兄」が、真面目に働いてきた自分のほうがより愛されてもいいはずなのに、自分のためには子やぎの一匹もくれたことがないと不平を言う。彼に対して父が答えた言葉(ルカ伝15:32)が、このアリアの謎を解く鍵である。


その前に、これまでの説を紹介する。磯山によれば、このアリアはシュピッタも《マタイ受難曲》の中で唯一批判されるべき曲と言っているという。イエスを売り渡したことを後悔してユダが返した銀貨30枚を手にした祭司長たちが、「(イエスを売った代価である)血塗られた金を金庫に納めるのは良くない」と歌う前曲(MP41c)を受けて、悲痛な思いを歌うアリアが、明るいト長調で書かれているのはそぐわないと考えたからであろう。

このアリアを歌う主体は誰かという問いについて、磯山は以下のような説を紹介している。

1)シュピッタ説:出来事を間近で見た人、すなわち弟子か、イエスにしたがっていた他の者。

2)アルフレ−ト・ホイス説:イエスを救おうとする勇気ある一人の弟子。このアリアは「決闘の情景」を描く。

3)プラ−テン説:ユダ。しかし、ユダの自殺のあとでしかも祭司たちの二重唱を経たあとに置かれているのは不適切である。

4)デュル説:別の曲から転用された。

磯山の師である杉山好は、このアリアをユダが歌っていると解釈すれば、バッハが「イエスはユダを見放さなかった」と考えた根拠になるという。しかし、既に自殺しているユダがここで歌うというのは無理があるからか、次のような「根拠(?)」を示す。このアリアが(3+2)x13=65小節で書かれているからだという。この数式は、3は三位一体の神、2は人、13はユダを示すという。申し訳ないが、このような数象徴論には苦笑を禁じ得ない。このような数式は任意にいくらでも作ることが可能であり、これが唯一可能な数式であるという証明がないかぎり、これをもってユダがこのアリアを歌う根拠であるとは認められないし、そのような証明ができる筈もない。

やはり、このアリアがユダによって歌われるという解釈は無理である。最初の “Gebt mir(私に返せ)、meinen Jesum(私のイエスを)にある「私の」が「ユダの」を意味するとするのは良いとしても、それに続いて “Seht, das Geld, den Mörderlohn, wirft euch der verlorne Sohn zu den Füßen nieder(見よ、失われた息子があなたの足下に殺人報酬の金を投げ出した)という歌詞では、殺人報酬の金を投げ返した主体を “der verlornen Sohn”としている。これをユダが歌うというなら、ユダが自分自身を “der verlorne Sohn”であると認定したことになる。それはありえない。なぜなら、ユダは自分の行った裏切りは許されるべきはないと考え、それを悔いたゆえに自殺したのである。

磯山はミュラ−の受難節説教で「彼は、銀貨30枚を提供し、それを祭司長たちの足元に投げ出して、こう言おうとする。『さあ、あなたがたの金だ。私の主を私に返してくれ。』しかし、遅すぎた。」とあるから、やはり、杉山と同様にこのアリアの主体は基本的にユダであると結論する。しかし、磯山もユダが歌うという設定にはやはり無理があると気づいたのか、「究極的には、他のアリアと同様に普遍的主体が歌っている」と結論する。「基本的にはユダ」が歌い、「究極的には普遍的主体」が歌うという論理を理解するのは難しい。「ユダ=普遍的主体」ということか。それとも、師を批判できない日本的アカデミズムゆえなのか。しかも、「他のアリアと同様に普遍的主体が歌っている」というなら、このアリアがバスで歌われる理由を説明しなければならない。このアリアはユダにしてユダにあらざるユダ的な普遍的主体が歌っているということになるのだろうか。

私は、このアリアはバッハ自身が歌っているのではないかと推量する。自由詞であってもバッハが作詞に深く関与していた証拠の曲であるとも言える。バッハは、MP10でユダの裏切りを人の原罪と同義であるとしている。だとすれば、ユダも「神の子羊」となったイエスの愛の対象であり、イエスの死によって救われねばならない。このアリアには、それを意味するバッハの思いが巧妙な音楽的暗号によって書き込まれている。その暗号を解く鍵が「der verlorne Sohn」とト長調の旋律である。

その暗号を解く前に、磯山が紹介しているこれまでの解釈について検証する。まず言えるのは、彼らが、いずれも同じ陥穽に落ちていることである。どの説も、このアリアは同一の歌手(バス)が歌うから、すべての言葉が同一人物のものであると仮定している。しかし、このアリアを前後関係から素直に読めば、最初の文章はユダの言葉の引用であり、歌う主体であるバス(バッハ自身)が、ユダの言葉に託して、自分も同じ気持ちであることを、引用に続く歌詞で表現しているとすればすべてが矛盾なく説明できる。

「ユダは後悔してこう言ったではないか、『私のイエスを返してくれ』と。それは、失われた(死んだ)息子(=ユダ)があなたたちに返した殺人報酬の金を見ればわかるではないか。」

つまり、このアリアで最初に、繰り返される「私のイエスをもう一度私に返せ(Gebt mir meinen Jesum wieder!)」の “mir(私に)はユダを意味するが、この文章はユダの言葉の引用であり、その後に続く言葉は、それを引用した別人の言葉である。最初の言葉はユダの引用だから、この歌詞がユダ死後のアリアにあっても不自然ではない。それだけではない。ここで “der verlorne Sohn失われた息子)verlorne失われたはルカ伝15:32の “Er war verloren(彼は失われた)とその直前の “dieser dein Bruder war tod(あなたの弟は死んだ)に掛けているので、このアリアはユダの死後に歌われるべく意図されて作曲されたのである。他曲からの転用ではない。そのことは、ルター訳ルカ伝を注意深く読めば分かることである。

したがって、このアリアを歌う主体は、ユダ(プラ−テン説、杉山説、磯山説)ではない。ユダを “der verlorne Sohn(真の悔い改めを認められ、許され、祝福された息子)と認めた者(バッハ)である。当然、その場に居合わせた者(シュピッタ説)でも、イエスを救おうとした勇気ある弟子(アルフレート・ホイス説)でもない。なぜなら、ペテロを含むすべての弟子たちは巻き添えになるのを嫌ってイエスを見捨てて逃げたし(MP29)、バッハは「勇気ある弟子」の存在を否定している(MP28:3-4)からである。

このアリアでバッハは自分の思いを歌っており、MP42は《マタイ受難曲》で中心の曲なのである。バッハが歌っている曲はこれだけではない。MP63bの合唱にも参加している。そこでは、「真に悔い改めた者の一人として」バスパ−トに自らの署名を刻印している(注5)。この合唱は、自筆譜のページに十字架が浮かび上がるように書かれていることで有名である。MP63bの合唱には特別の意味があった。それは、MP42でバッハの思いが歌われていることを示しているのである。しかし、それだけではない。このアリアには、さらに重要な情報が隠されている。それこそが、筆頭弟子ペテロ(=教会の権威)への批判であり、このアリアが明るいト長調で書かれている理由でもある。それこそがバッハコード(Bach Code)の核心部である。それを解く暗号表(Codon Table)は、先に述べた “der verlorne Sohn”の出典元であるルター訳ルカ伝15:32である。その節は、3つの文章からなっている。


(1) Du soltest aber frölich und guts muts sein.

(2) Denn dieser dein Bruder war tod und ist wider lebendig 

    worden.

(3) Er war verloren und ist wider funden.


口語訳聖書では、ルター訳とは若干の違いがあり、文章の順序も違うのでルター訳に合わせて再訳すると次のようになる。

(1) しかし、あなたは上機嫌で、喜び祝うべきだ。

(2) なぜなら、あなたの弟は死んだ、そして再び生き返った。

  1. (3)彼は失われて、そしてもう一度見つかったのだ。


それぞれの文章のキーワード(下線部)を書き出すと次のようになる。


(1) frölich=喜び祝う

(2) tod=死んだ

(3) verloren=失われた


これを見ると、“der verlorne Sohn” “verlorne” “Er war verloren” “verloren”だけでなく、 “dieser dein Bruder war tod” “tod”をかけていることがわかる。MP42のアリアで “der verlorne Sohn(失われた息子)に「死んだ息子=ユダ」の意味が掛けられているのである。したがって、ユダの言葉が彼の死後に現れるのは当然であり、不思議ではない。しかし、それだけではない。(1)のキーワードを対応させれば重要な仕掛けが見えて来る。MP42の調性とその旋律は歌詞と密接に関連しているのである。これは、MP42がルカ伝を音楽的に引用しているということである。このアリアの調性と旋律は「frölich=喜び祝う」に対応するだけでなく、その前にある “Aber der elteste Son war auff dem felde. Und al ser nahe zum House kam höret er das Gesenge und den Reigen.(しかし、長男は畑にいた。そして、彼が家に近づくと、歌や踊りの音楽が聞こえてきた)(ルカ伝15:25)の “das Gesenge und den Reigen(歌や踊りの音楽)に対応している。このアリアがユダの裏切りと自殺という悲劇のあとに書かれているにも関わらず、祝宴曲風の楽しく歌い、踊るようなト長調で書かれている理由は、それが長男(=筆頭弟子)への批判を意味する音楽的暗号となっているからである。言い換えると、バッハはこのト長調で「放蕩し、悔い改めた弟が赦され、祝福された」ことを「イエスを裏切り、悔い改めたユダが赦され、祝福された」ことにかけただけでなく、さらに “der elteste Son(長男)を「筆頭弟子ペテロ(=教会の権威)」にかけて批判している。そのための明るいト長調である(注6)。しかし、多くの音楽家、バッハ学者はその暗号に気づかず、このアリアを批判し、その価値は低いと理解してきた。5章2節の注7にも記したように、メンデルスゾーンも1829年の再演で、このアリアを削除している。

しかし、それだけではない。聖書に通暁した当時の教会会衆は、このアリアを聞いてルター訳マルコ伝、同ルカ伝にある次の言葉を思い出したはずである。


“Was düncket euch? Wenn irgend ein Mensch hundert Schafe hette und eins unter den selbigen sich verirret? Lesst er nicht die neun und neunzig auff den Bergen gehet hin und suchet das verirrete? Und so sichs begibt das ers findet, warlich sage ich euch, er frewet sich darüber mehr denn uber die neun und neuntzig die nicht verriret sind. Also auch ists fur ewrem Vater im Himel nicht der wille, das jemand von diesen Kleinen verloren werde.(あなた方はどう思うか?だれかある人が100頭の羊を持っていて、それらの1頭が道に迷ったときに、彼は99頭を山に残して、迷いでた羊を探しにいかないか?そして、彼がその羊を見つけたとき、あなた方によく言っておきますが、そのときは、彼は迷わなかった99頭についてよりもその1頭のために喜ぶ。そのように、これらの小さな誰かが失なわれる事は天にいるあなたがたの父の望みではない。)(マタイ伝18:12-14)


“Ich sage euch: So wird auch Freude im Himmel sein über einen Sünder, der Buße tut, mehr als über neunundneunzig Gerechte, die der Biße nicht bedürfen. (あなた方に言う。『それと同じように、悔い改めを必要としない99人の正しい人達によりも、悔い改めた罪深い一人のためにこそ天国の喜びはある。』)(ルカ伝15:7)(注7)。


つまり、このアリアの明るいト長調は、以下のメッセージを聴衆に送っているのである。

「ユダの後悔は真の悔い改めであり、天国の喜びは、ペテロなど他の弟子によりも、ユダにこそふさわしい。」

このアリアが意味するところはイエスからユダ一人への愛、ユダ一人の救済にとどまらない。マタイ伝で、イエスの死に責任あるとされたユダヤ人の代表としてユダが救済されるとは、すべてのユダヤの人々が救済されることを意味する。それにはルター訳マタイ伝にあるルターの誤訳も一役かっている。後世のものが、正文批判的に正された現代語訳聖書に基づいて《マタイ受難曲》を理解してはならないのである。そのためには、MP50b、MP50d、MP58b、MP63bの意味を注意深く理解しなければならない。それについては次章で述べる。

(注1) マタイ伝16:18-19には、「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」とある。口語訳聖書では、ここの意味は分かりにくい。まず、イエスは、相手がペテロであると知った上で、その相手に向かって、「あなたはペテロである」というのは不自然である。次に、その前に「岩」についての話は何も出て来ないのに、「この岩」という指示形容詞の表現は何のことかわからない。しかし、ここで人名として使われているペテロ(Πετρος)の原意はギリシャ語では「岩(πετρα)」を意味すると知れば氷解する。要するに、イエスはペテロのために教会を建てると約束しているのである。続いて、天国の鍵を授けると約束している。つまり、前者で、地上での、後者で天国でのイエスの権限を委譲すると言っているのである。このイエスの言葉が根拠となり、ペテロは12使徒の筆頭弟子であり、教会の権威の象徴とされる。その点、TEV聖書の英訳は分かりやすい。“And so I tell you, Peter: you are a rock, and on this rock foundation I will build my church, and not even death will ever be able to overcome it. I will give you the keys of the Kingdom of heaven; what you prohibit on earth will be prohibited in heaven, and what you permit on earth will be permitted in heaven.(そして、私はあなた、ペーター、に言う。『あなたは岩である。そして、その岩の基礎の上に、私は私の教会を建てる。死さえもそれに勝つことは決してできないだろう。私は天にある王国の鍵(複数)を与えよう。あなたが地上で禁じる事は天でも禁じられるだろう。あなたが地上で許す事は天でも許されるであろう』)”。聖書学的にどちらがより正しいかではない。バッハの《マタイ受難曲》を理解するときにどちらがより分かりやすいかという問題である。しかし、聖ピエトロ寺院が実際にペテロの殉教の地に建てられたという証拠はない。

(注2)自然主義文学が日本に入ったときに、田山花袋らはそれを私的な性的体験を描写する文学として理解したことに、森鴎外は批判的で、そんなものでも小説なら、これでも小説なのかと自分の小児時代の性的体験を書いた。しかし、現在では「ヰタ・セクスアリス」も、鴎外の意に反して立派な小説と見なされている。

(注3) “der verlorenen Sohn”を「死んだ息子」、「道に迷った息子」と訳すこともできるが、「放蕩息子」と訳すのは間違いである。西欧でも「放蕩息子」を意味する “Le fils prodigue”(フランス語)、 “Il figlio prodigo”(イタリア語)、 “the Prodigal Son”(英語)などのタイトルを使った文献や絵画は多いが、これらは聖書の言葉ではない。たしかに、ギリシャ語、ドイツ語、英語のルカ伝15:13には「放蕩をして」に相当する “ασωτως”(ネストレ=アーラント26版)、 “brassen”(ルター訳聖書)、 “prassen”(現代ドイツ語訳聖書)、 “with riotous living”(KJV)、 “in reckless living”(TEV)などはある。しかし、現代ドイツ語訳ルター訳聖書やTEVのルカ伝15章にある見出しは “der verlorenen Sohn”、 “the lost son”であって、「放蕩息子」に相当する “der verschwenderische Sohn”や “the prodigal son”ではない。バッハの歌詞を訳すときに日本語聖書の間違いを踏襲する必要はない。

(注4)ルター訳ルカ伝15:32の、 “verloren”は “tod(死んでいる、現代ドイツ語訳ではtot)”と同義に使われている。従って “der verlorne Sohn”を「放蕩息子」と訳すと、このアリアがユダの死を意味していることが理解できない。

(注5)MP63bで “Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.(彼は真に神の子であった。)”と、ユダヤ人群衆が歌うとき、このバスパートだけは、他のパートから独立して旋律で14の音符からなる。バッハがB-A-C-Hのテーマ、またはその数象徴である14(ABCD,,,を1,2,3,4,,,の数字に置き換えて合計するとBACHは2+1+3+8=14になる)を、曲中に入れて署名したことは良く知られている。この解釈は複雑な数式によるこじつけではない。また、自筆譜でこのページは十字架が浮かび上がるように、楽曲の区切り方に人為的な装いがされていることからも、MP63bにバッハの特別な意味があったことが伺える。このようなMP63bの処理は、アリアのバスはバッハの思想を歌う事を示していると理解できる。

(注6)ルカ伝の15章で出て来る「兄」はルター訳では “der elteste Son(長男)”と誤訳されていて、長男=筆頭弟子とかけることが可能となる。これを聖書学的に正しく “der ältere Sohn”と「正しく理解する」とバッハの思想が見えてこない。ここはギリシャ語聖書では “πρεσβυτερος(年長の方の)”となっているのでルターの誤訳である。 しかし、この誤訳があってこそMP42が教会批判の意味を持つことを可能とした。この語句は《マタイ受難曲》の歌詞には直接は出て来ないが、これを見ても、《マタイ受難曲》を正文批判的に解釈してはならないことがわかる。IX-6-31を参照。

(注7)これは、法然の言葉を伝えた『選択本願念仏集』や、親鸞の言葉を伝えた『歎異抄』にある「浄土思想」、「悪人正機」の思想を思わせる。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや(悔い改めを必要としない善人にすら浄土(救いの世界、天国)があるなら、悔い改めた悪人にこそ浄土はある)」。法然と親鸞の他力本願思想には微妙な違いがあるが(相対他力と絶対他力)、どちらも阿弥陀仏信仰という一神教的な意味では仏教諸派のなかではキリスト教に近い。



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