(2) 採用の条件Conditions given as Thomaskantor)


前任のトーマス・カントルであったJ.クーナウ(在職、1701-1722)が死亡した(6月5日)後に始まった後任の選考過程で、多くの候補者が現れた。その中にはバッハも個人的に親しかったG.P.テレマン(1681-1767)の名前もあった。彼は1701年にライプチッヒ大学法学部に入学し、1702年には、後にバッハもかかわる学生の音楽団体コレギウム・ムジクム(現ゲバントハウス・オーケストラの前身の一つ)を創設し、1704年に新教会のオルガン奏者兼音楽監督になった。クーナウが死亡した時、テレマンはハンブルグ市5大教会の音楽監督であった。ライプチッヒ市参事会はテレマンをトーマス・カントルとして採用すべく、彼に好条件を提示した。しかし、ハンブルグの市参事会は、テレマンの給与を引上げることでそれに応じた。ライプチッヒ市は、つぎにダルムシュタットの宮廷楽長で、クーナウの弟子だったC.グラウプナー(1683-1760)を狙った。しかし、彼も辞任が許可されないからと翌年の3月22日になって断ってきた。ライプチッヒ市参事会はさらに他の候補者を模索しつつ、失敗を重ねた果てに「凡庸な候補者である」バッハを選ばざるを得なくなった。そのときの議事録に、音楽史上もっとも恥ずべき発言が残っている。参事会員の一人である控訴院顧問官のプラッツは「最良の人たちが得られないのだから、凡庸の者を採用するしかない」と発言した。おそらくこれは市参事会全員の共通認識だった(注1)。ドレスデン宮殿の横やりがあってバッハを採用せざるを得なかったとも言われている。いずれにしても、バッハは生涯を通じてライプチッヒ市から冷遇され、晩年には彼が放棄した《ヨハネ受難曲》の演奏を弟子が書いた稿で演奏させられるという屈辱さえ受けた(後述)。

トーマス・カントルへの採用が決まってすぐに、さまざまな条件がバッハに示された。テレマンやグラウプナーのように決して辞退しないこと、校則を守ることなどの条件は当然としても、生徒への正規な歌唱指導の他に個人別歌唱指導も無報酬で行うこと、ラテン語授業を行うか、さもなければ代用教員を自費で雇うこと、さらにオペラ音楽を作曲しないことなどの条件が加えられた。テレマンやグラウプナーにはこのような条件はなかった(注2)。それでも、バッハがこれらの条件を受け入れた理由はバッハ自身が後に旧友のエルトマンにあてた書簡から推察できる。もともとバッハは音楽教育に労力を惜しむことはなかったし、前任地ケーテンでの収入には劣るものの、トーマス・カントルとしての報酬以外にも、本業の教会音楽で好評を得れば、副業として葬式や祝典で臨時収入が期待できた(注3)。

バッハはヘンデルやテレマンと違って商売としての音楽出版に興味は無く(注4)、収入源としてはもっとも期待できるオペラの作曲にも興味を持っていなかった。したがって、これらの条件を受け入ることにバッハはさほどの苦痛を感じなかったはずだ。しかし、条件を受け入れたバッハはさらに軽んじられる効果を得ただけだった。つぎつぎと前任者から受け継ぐはずの権利を剥奪されていく。市参事会、教会聖職会議は、商業オペラを作曲させないという条件だけでは物足りずつぎつぎとバッハへのハラスメントを拡大し、晩年から死後にかけてはバッハ夫婦への冷遇は、生前にバッハ自身がエルトマンに訴えたように迫害としか呼べないものになる(後述)。

ともかくも、このような条件で採用されたバッハは、最初に演奏する大曲で自らの才能を最大限にアピールせねばならなかった。上位候補者が次々と辞退するなかで、いわば繰り上げ当選で仕方なく採用されたバッハは、自分の音楽的才能を見直させない限り、前任者と同等の権利を享受できない可能性が実際にあった。その機会は、翌年の就任後初の受難節に訪れた。

カトリックが復活祭を重視するのに対して、伝統的にドイツプロテスタントは受難節を重視してきた。したがって、赴任後最初の受難節で演奏する大曲はとくに重要であった。前任者並みの処遇のなかで、バッハがとくに望んだ条件は、次の二つであった。日曜礼拝で牧師の説教前に演奏する賛美歌を選定する権利と、ライプチッヒ大学附属の聖パウロ教会の音楽監督を兼任する事である。それは収入の面だけではなく、「整った教会音楽の実践」という彼の信念にとっても重要であった。そのために、《ヨハネ受難曲》初演の成功は必須条件であった。そして、それは高い評価を得た。それが好評だったことは、翌1725年の受難節に再演する機会を与えられたことからも推察できる。この成功は彼に一定の満足感をもたらしたはずである。

しかし、その成功はバッハの処遇には反映しなかった。ライプチッヒ市が音楽的才能ゆえにバッハを見直すことはなく、音楽的には平凡なクーナウやテレマンよりもあくまでも格下とされつづけたのである。大学教育を受けていないバッハに比べて、彼らはライプチッヒ大学を卒業した法学士であったことも影響したのであろう。彼らに保証された賛美歌選定権はバッハに与えられず、大学教会の音楽監督兼任の件は、旧礼拝についてのみ認められ、新礼拝については認められなかった。


注1この発言は参事会員たちの音楽的感受性が貧しかったことを示しているだけではない。さまざまな不利益をバッハにもたらした。次章で述べるように、バッハの妻(アンナ・マグダレーナ)は、バッハの死後でさえライプチッヒ市と教会から迫害に等しい扱いを受けた。

注2 テレマンにはトーマス学校でのラテン語授業の義務は免除され、市内の5教会の音楽監督を兼任することが当然とされた。しかも、契約書にオペラの作曲を禁止する条項はついていなかった。バッハに提示された条件とはかなり違っていた。

注3 G. Erdmann(1682-1736)はバッハの幼なじみである。バッハが両親の死によって1698年に三歳年上の兄(ヨハン・ヤコブ)とともにオールドルフの聖ミカエル教会オルガニストの長兄(ヨハン・クリストフ)に引き取られ、そこのラテン語学校でバッハと知り合う。エルトマンはのちにロシアの外交官となり、ダンチッヒのロシア大使になっていた。その後も、バッハとの友情は厚く、現在では殆どは失われたが書簡のやり取りやワイマールへの訪問など親しい関係が続いた。バッハは《マタイ受難曲》初演の翌年受難節に教会への抗議を込めたいわゆる駄作の《ルカ受難曲》を上演し、8月2日に職務怠慢で減俸処分を受け、10月28日付けの書簡をエルトマンに書く。この書簡で、バッハは、自分はケーテン侯レオポルトのもとで生涯を終えるつもりだったが、侯が結婚した女性が音楽嫌いだったためにライプチッヒのトーマス・カントルに応募した事、社会的身分としては宮廷楽長から一介の教会附属学校教師への転身というのは面白くはなく3ヶ月も迷ったことを述べている。その後、トーマス・カントルの地位にはかなりの副収入が期待されることを知り、転職を決断したとある。しかし、実際に転任してこの職務が当初期待した程に有利ではないことを経験し失望しているとして、その理由として、期待した副収入が得られなくなったこと、市参事会や教会の態度が奇怪で音楽に対する敬意がないこと、絶えない不快や迫害が続く中で生きてゆくのは耐えられないことを訴えている。要するに、良い転職の機会があれば推薦して欲しいと言うことである。バッハの思想を理解する上で重要な書簡である。ミュールハウゼンのブラジウス教会に辞職願いを出した中で自分が究極の目的とするのは「整った教会音楽を上演する」ことであると述べていることと、矛盾する書簡であるとされ、どちらをバッハの本音と理解するかで、バッハ学者を二分する原因の一つとなった書簡である。現在もその問題は解決していない。しかし、どちらも本音であり、相互に矛盾するものではないという解釈が本稿筆者の立場である。つまり、私の解釈は、バッハの究極目的である「整った教会音楽の上演」が望めなくなった聖トーマス教会のトーマス・カントル職に絶望し、当局から受ける迫害を逃れるために転職を望んだと考えれば矛盾はまったくない。問題は「迫害」を受けた理由である。バッハ学者の通説では、バッハの頑迷な性格的欠陥が迫害された理由とされているが、筆者はバッハの異端思想に原因があったと確信する。バッハの死後まで続く迫害の理由としてはそれ以外に理解できない。

注4 ヘンデルの音楽はまさに商業的作品であり、彼は世界初の音楽の株式会社を作って、倒産、再建を繰り返しながら、楽譜の出版、販売を行う新興ブルジョワジーの匂いを紛々とさせていた。社長室のドアには「貴族以外の入室を禁ず」と貼り出したほどだ。人気を博した彼の作品は海賊版まで出版されてその対策に彼は頭を悩ませた。テレマンも楽譜の出版には熱心で、それだけでなく自分の楽譜の出版目録、カタログに至るまでも販売している。その意味では、彼らは勃興期資本主義の申し子であった。しかし、バッハは自筆浄書譜や板刻を作成して自分の曲を後世に残そうとした形跡はあるが、それらを作品として販売することはなかった。実際に、磯山によればバッハが自分の曲を作品(Werke)と呼んだ形跡はないという。


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