(3)成功と挫折Success and failure as Thomaskantor)

《ヨハネ受難曲》(1724)と《マタイ受難曲》(1729)の間には、ヨハネ伝とマタイ伝の違いを反映した音楽的不整合がある(II-4IV-2)。問題は、それ以外のおそらくバッハ自身の作曲動機を反映したものである。それは、バッハによる《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》の扱いへの違いとして表れる。両方を等しく自分の作品とは思っていなかったのではないかと思わせるほどに扱いに差がある。《マタイ受難曲》の浄書譜は赤と黒の二色で美しく完成されたのに対し、《ヨハネ受難曲》の浄書譜は最初の10曲まで書かれて、その後は中断されたまま放棄され、最終演奏に使われた第4稿の作成には自ら関与することもなかった。《ヨハネ受難曲》の初稿から第4稿までの変遷を、《マタイ受難曲》の思想的背景と比べると、前者にはバッハの迷いさえ感じられる。両受難曲の間にある矛盾は、ペテロとユダの対照的な扱いについて顕著に表れる(IV-3)。後世の我々に分かっている事は、バッハはユダのアリア(MP42)を含む《マタイ受難曲》の完成稿(1736)は浄書譜として遺したが、ペテロを美化する《ヨハネ受難曲》の完成稿の作成は1739年に中断され、その後も完成されなかったということである。


ライプチッヒ赴任前から、バッハには教会音楽についての信念があった。「整った教会音楽」を通して自らの信仰、思想を表現し、伝えることである。ミュールハウゼン時代とライプチッヒ時代に20年も隔てて繰り返し主張されていることから、これは単なる言葉の綾というものではない。その内容は、本来のルター主義とも言うべきもので、バッハは、自身が聖書の中に見いだす信仰の根拠を音楽化し、それを伝えようとしたのである(注1)。その信念を現実化するために、必要な条件があった。その条件は、バッハが生涯でもっとも良い待遇をうけた前任地ケーテンの宮廷楽長の地位を辞してまでも、そしてそこで得ていた高収入を捨ててまでも得た教会音楽監督という職で得られるはずだった。

採用にあたって厳しい条件を飲まされたバッハだが、彼にはまだ期待があった。たしかに、前任地ケーテンでの雇用主との関係は人間的にも、収入の面でもはるかに良かった(注2)。聖トーマス教会の教会音楽監督になったことで、棒給が下がり、複雑な人間関係にも囲まれることになった。それでも、自分の音楽的能力には自信があったし、優れた教会音楽を精力的に提供し、演奏することで教会や市参事会に自らの能力を認めさせることも可能であると言う自負もあったはずだ。市上層部や教会礼拝に集う市民から彼の音楽に好評が得られれば、追悼式、結婚式、教授就任式用などの世俗曲の注文が増え、正規の棒給以外に十分の副収入が期待できるはずであった。子だくさんのバッハにとっては、それは実際的問題であり、教育熱心なバッハであれば当然の期待でもある。そのために、最初の大曲である《ヨハネ受難曲》に、バッハは精力的に取り組んだはずだ。バッハの性格なら多少の気負い過ぎがあったかもしれないが。

1723年5月22日に赴任したバッハは、最初の受難節である翌年の4月7日に《ヨハネ受難曲(初演稿)》を演奏、続いて1725年の受難節である3月30日に第2稿を上演している。《ヨハネ受難曲》が二年連続して演奏されたことは、それが好評を得たこと、教会音楽監督として成功したことを意味している。しかし、その成功にもかかわらず、トーマス・カントルとしてバッハの能力が見直されることはなかった。彼の期待が裏切られたことは、バッハの眼にも次第に明らかになって行く。そして、ボタンの掛け違いが鮮明になっていった。《ヨハネ受難曲》の5年後に初演された《マタイ受難曲》は、教会批判の立場を鮮明にした異端的作品となった。


注1 ルターはカトリックに反旗を翻した当初には、自らの信仰は教会の解釈、指示によってではなく、自らが聖書の中に見いだすべきであると主張した。

注2 ケーテンの宮廷楽長であったバッハの上司はケーテン侯レーオポルト・フォン・アンハルト(1694-1728)だけであり、彼は生涯を通じてバッハの良き理解者であった。バッハも尊敬していたし、若くして亡くなった彼の追悼ミサ曲(Klagt, Kinder, klagt es aller Welt、子らよ嘆け、全世界に嘆け) BWV 244a)は《マタイ受難曲》からの転用で9曲が使われたとされたと一般には理解されている。しかし、どちらが転用であるかについては疑問がある。すでに述べたように、バッハの世俗曲が宗教曲からの転用で作曲された例はほかに知られていない。ケーテン侯へのバッハの特別な思いを考えれば追悼曲の方がオリジナルと考えるのが自然である。一方、トーマス・カントルとしてのバッハの上司は、トーマス教会牧師、附属学校校長、市参事会、ライプチッヒ大学、ザクセン州領主(ドレスデン宮殿)などが複雑に重複しており、赴任前から人間関係の難しさが予想されたはずである。安定した本俸だけを比較すると、ケーテンでは400ターラーを得ていたが、トーマス・カントルとしては約1/4になった。


Back                目次                 Next