10章 ライプチッヒ時代のバッハBach in Leipzig)


  1. (1)バッハの時代のライプチッヒ (Leipzig in Bach’s time)

バッハは、フランクフルト(アム・マイン)の東北約150kmのドイツ中部に位置するテューリンゲン州アイゼナッハで1685年に生まれた(注1)。ザクセン州ライプチッヒは、アイゼナッハから東北東約150kmにあり、州都である宮廷都市ドレスデンから西北西約110 kmの距離にある。バルテ、プライセ、白エルスターの三つの河川が合流する中部ヨーロッパの交通の要で、当時から商業、手工業を中心とする経済都市であった。

バッハが生まれる半世紀前は、ドイツ全土でカトリックとプロテスタントが戦った三十年戦争のただ中にあった。その戦いで、ドイツ全人口の2/3が犠牲になったといわれる。しかし、ライプチッヒの被害は比較的少なかった。そのため、18世紀に入ってライプチッヒは「新時代のアテネ」と呼ばれ、36,000人の人口を擁し、豪華な邸宅や大規模な住宅が建ち並ぶ近代都市となった。その威勢は、ニュルンベルグ、ハンブルグ、フランクフルトをもしのぐドイツ最大の経済都市であった。


市街は城壁で囲まれ、ユダヤ教徒の市内立ち入りは日曜日のマルクト(青空市)の時以外は禁止された。彼らは城壁の外に造られたゲットーに隔離され、ライプチッヒ市民から差別されていたのはフランクフルトと同様である(VI)。17世紀後半にはドイツで最初の日刊紙がライプチッヒで発行され、市民の知的水準は高かった。学問の世界ではハイデルベルグ(1386年創立)についで、ドイツで二番目の大学が1709年に創立され、文学、法学、歴史学、自然科学、医学においてドイツの指導的役割を担っていった。市街は高級住宅や豪華な建造物に満ち、人々は豊かな生活を享受していた。

市は人口の増加にともなって増えた礼拝参列者を受け入れるために、12世紀に遡る主要教会である聖トーマス教会、聖ニコライ教会の他に、副教会として1699年に新教会(聖マタイ教会、現存せず)、1712年に聖ペテロ教会を創立した。さらに1710年にライプチッヒ大学の附属教会(聖パウロ教会)がそれまでの行事用礼拝だけでなく、日曜礼拝も行うようになったのも合わせると、市内に5教会を擁する大都市となった。

聖トーマス教会附属学校の音楽監督(トーマス・カントル)はこれら5教会の礼拝音楽の作曲、演奏に責任を負うことが先任のJ.クーナウ(1660-1722)からの権利であり、義務でもあった。バッハはその職責を踏襲し、それに見合う報酬を受けると期待した。しかも、カントルは永年雇用だったので、長く病床にあったクーナウの場合は職責を果たせなくなっても彼が没するまで在職は保証され、後任者の募集、選考すら行えないというほどに安定した職であった。

注1 ドイツと日本は近代化の流れが似ている。そのため、明治期以後の日本はドイツを意識的にモデルとして西欧化した。日本史と比較するため、あえてバッハの時代に対応する日本の有名な事件をあげると元禄赤穂事件(1702)がある。父大石内蔵助とともに吉良邸に討ち入った大石主税(1988生)や、彼らに殺された上野介の孫で吉良家を相続していた義周(1686年生)はバッハとほぼ同年である。奇しくもこの事件を題材にした近松門左衛門(1653-1725)原作の「仮名手本忠臣蔵」(1748/49初演)には体制批判がこめられたため、長く上演禁止になった。再演されたのは近松の死後で、初演からは半世紀も後のことである。この状況は《マタイ受難曲》と似ている。貨幣経済が急速に発達するなかで、資本主義勃興の波に乗れず、没落し差別された階層への想いを描いた芸術作品という意味では、「仮名手本忠臣蔵」と《マタイ受難曲》には共通するものがある。両国ともに30年戦争(1618-48)、天草の乱(1637-1638)という宗教的大乱を経験した後の時代に生まれた批判的芸術作品である。


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