11章 《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》の狭間に

    (In a slot between the John and Matthew Passions)


(1)放棄された《ヨハネ受難曲》Abandonment of the John Passion)

《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》の初演は5年(または3年)しか開いていない。どちらも40歳前後のバッハがライプチッヒ時代の「第1期」(「バッハ事典」磯山/小林/鳴海編著による)に作曲している。しかし、二つの受難曲には、同じ作曲者が、同じ時期に作曲したとは思えない異質な響きがある。異質な響きとは音楽的な意味だけではない。神学的矛盾、あるいは対立と言ってもいい。その矛盾は、それぞれが底本とする福音書(ヨハネ伝とマタイ伝)の違いを超えている。その違いはイエスが最も愛した使徒はだれか─ペテロかユダか─から、イエスは神か人かにも及ぶ。これらについて、二つの受難曲にバッハが書き込んだ思想は両立しない。その意味では矛盾であり、バッハ学者たちが定義する「ライプチッヒ第1期」(1723.5.15- 1729.12.31)を一つの区分にまとめることには無理がある。キリスト教の立場からは《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》は「正系と異端」の関係にあると言えるだろう。神学試験を経てトーマス・カントルに採用されたバッハであれば、そのことに無自覚だったはずはない。前後関係から言えば、あとで書かれた《マタイ受難曲(初演稿)》(1729)は《ヨハネ受難曲》(1724年の初演稿と翌年の第2稿)を否定して成立したことになる。これは、バッハの思想を理解するには《ヨハネ受難曲》ではなく、《マタイ受難曲》を理解しなければならないことを意味する。しかも、《ヨハネ受難曲》との違いを意識したうえで…。《ヨハネ受難曲》は1732年に第3稿が書かれ、1739年には未完の浄書譜が途中まで書かれて中断された。その後、死の前年に弟子たちが初演稿に近い形で復元したものが最終稿(第4稿)とされている。この経過を見ると、《マタイ受難曲》(1729)後に書かれた《ヨハネ受難曲》第3稿(1732)と未完の決定稿(1739)は他の稿と異なり、なんらかの意味で《マタイ受難曲》に近いはずである。ただ、後者については第11曲以降が書かれていないので推測の域を出ない。1739年3月17日ころ、受難節を間近に控えたバッハに受難曲演奏禁止の処分が市参事会から通告されたため、バッハの《ヨハネ受難曲》は上演の機会が失われた。決定稿は作成されず、その後の10年間でも再び取り組まれることはなかった。それに代わって、その期間に取り組まれたのが《ロ短調ミサ曲》である。言い換えると、バッハが《ヨハネ受難曲》決定稿に込めようとして、果たせなかった思想は《ロ短調ミサ曲》に託されたと言えるかもしれない。したがって、《ヨハネ受難曲》の完成が放棄されたのは、演奏禁止処分が出たという一時的な理由でも、肉体的、時間的限界という理由でもない。《ヨハネ受難曲》は、何らかの理由でバッハ自身が積極的に放棄したのである。バッハが《ヨハネ受難曲》の初演稿に迷い、あるいは不満を持っていたことは、毎回の改訂で大きな変更が加えられていることからも推測できる。とすれば、《ヨハネ受難曲》初演稿のモチーフは本来の自分の思想と相容れず、修正不可能と判断したのであろう。この解釈に立てば、バッハにとっては、《マタイ受難曲》と《ロ短調ミサ曲》こそが自分の思想を結実させたマスターピースと言えるのかもしれない。

では、《ヨハネ受難曲》と《マタイ受難曲》の決定的違いはどこにあるのか?後者が前者を否定した上で成立したのなら、《ヨハネ受難曲》には、初演稿、第2稿、第4稿にはあって、第3稿になく、かつ《マタイ受難曲》が否定した何かがあるはずである。それはバッハの意志に基づく改変であり、彼の思想の核心であるにちがいない。さらに言えば、それはヨハネ伝とマタイ伝の間にある福音書の違いに基づくだけのものではない。それ以上の対立であり、矛盾である。なぜなら、単に福音書の違いを反映しているものであれば受難曲演奏禁止処分が出るはずはない。歌詞に問題があると指摘されたことを伺わせるバッハの反論が記録に残されているが、確かな理由は記録されていない。記録することが出来ない、または記録することで不都合が生じる教会側の事情があったのであろう。結論を言えば、謎を解く鍵は《ヨハネ受難曲》の第3稿と初演稿/第2稿/第4稿の違いにあるはずだ。これらは同じ福音書であるヨハネ伝に基づいて書かれているので見つけるのは難しくはない。それは《マタイ受難曲》と何らかの共通性をもつ筈である。

しかし、この問題がバッハ学の世界で議論されたことはないようである。少なくとも、一バッハファンに過ぎない筆者には聞こえてこない。それぞれの稿の内容は細部までほとんど解明されており、専門家にとって違いは明らかである。クリスチャンの研究者も多いバッハ学の分野で、二つの受難曲の音楽的な違いと、《ヨハネ受難曲》の稿の変遷にどのような思想的関連があるかという検証がされないのは不思議である。それは技術的問題あるいはバッハの性格的問題にすぎないかのように扱われている。バッハは音楽家(技術家)であって、あるいは敬虔なクリスチャンであって、思想家ではないと言われているかのようである。偉大な音楽家はすべて思想家でもあると言うバッハ学者もいるが、その場合でさえ思想とはルター派の説教集の中だけの話で、受難曲の音楽的変遷を思想問題とは考えてはいない。《マタイ受難曲》は間違った聖書解釈に基づいており、異端的な独自の福音書解釈たろうとしていると非難したのは、筆者の知る限り、音楽家でも音楽学者でもないカール・バルトただ一人である。バッハの思想が正しいか否かは別として、彼には独自の思想がありそれが受難曲に反映していると認めているのが、バッハの批判者だけであるというのは皮肉である。受難曲に込められた矛盾する思想と、それぞれの音楽表現の違いについて、なぜ音楽家や音楽学者は沈黙するのか、それ自体が研究テーマになってもおかしくない。次節では、それぞれの受難曲の成立、演奏に前後して、バッハにたいするさまざまな「嫌悪、嫉妬、迫害(Verdruß, Neid und Verfolgung)」が実際にあったことを明らかにする。





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