1. (4)ボタンの掛け違い

    No second chance to make a first impression)


1723年4月22日にライプチッヒ市参事会はバッハの採用を決定したが、彼はすぐに赴任しなかった。理由は定かではないが、何らかの迷いがあったのであろう。ライプチッヒの北北東約50kmにある前任地のケーテンから家族とともに転居したのは、1ヶ月後の5月22日である。ライプチッヒ市参事会は、この遅れが面白くなかったようだが、このときは問題にしなかった。だが、バッハの死後に寡婦となった妻、アンナ・マグダレーナに、このときの初任給を返還するように要求している。夫を亡くし、生活保護を受けざるを得なくなっていた彼女に、夫の27年前の給与を返還させるというのはむごいとしか言いようがない。バッハの着任が遅れたのは、迷いがあったとしても確かにバッハに責任がある。しかし、初任給を27年たった死後に妻に請求するというのは異常である。いずれにしてもバッハとライプチッヒ市、教会との間には初めからボタンの掛け違いがあった。

凡庸な音楽家として仕方なく採用されたバッハに、最初の受難節で教会の要請と期待を裏切ることできない。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のように、ヨハネ伝に基づく受難曲が教会からの要請だった可能性は高い。5世紀以来、ローマ教会では受難節でヨハネ伝を朗唱する伝統が確立しており、バッハもヨハネ伝に基づく受難曲を書いた。ゲッセマネの園でイエスのひ弱さすら感じさせる共観福音書(ヨハネ伝以外の三福音書)よりも─その弱さはイエスの人間的魅力ともいえるが─、イエスの神格を強調するヨハネ伝の方が、ドラマ性を欠く難はあっても教会への服従、追従を装うにはバッハにとっても都合が良かったはずだ。

「ドラマ性は部分的に、他の福音書からの引用で補えば良い」とバッハが思ったかどうかはわからないが、ペテロの慟哭(JP12C:33-38、マタイ伝26:75)と、イエスの死の直後に起こったとされる地震の場面(JP33、マタイ伝27:51-52)をマタイ伝から引用することで、ヨハネ伝の単調な受難物語に劇的な脚色を導入することに成功した。《ヨハネ受難曲》の初演が好評を得たことは間違いない。翌年の受難節には第2稿が上演された。それにもかかわらず、ボタンの掛け違いが正されることはなかった。バッハへの待遇が改善されることはなかったのである。

ドイツプロテスタント系の教会では、礼拝音楽について、マルティン・ルター(1483ー1546)自身が信徒教化のために奨励したという伝統があった。彼は自分でもドイツ語賛美歌(ドイツ語でChoral、英語でchorale)のみならずラテン語ミサ曲も作曲したほどである(注1)。しかし、1680年にA.H.フランケ(1665-1727)が起こした分派であるルター派敬虔主義の流れはゲルマン系カトリックに起源を持つドイツ神秘主義の伝統を導入し、神秘的信仰体験と禁欲主義を重視して、華美な音楽を礼拝から排除する傾向を強める。その結果、ルター派正統主義との激しい神学論争が巻き起こった。

聖トーマス教会は正統主義に属していたが、バッハ在任中の市長は敬虔主義的傾向の強い市長が多く、そのこともバッハの音楽が必ずしもライプチッヒ市で好評を得られなかった原因の一つだったと言われる。テレマンは教会カンタータを約600曲も作曲しているが、現在ではそれらのほとんどが忘れ去られ、演奏される事もほとんどない。しかし、ライプチッヒ市にとってはある意味で、駄作で簡素な音楽のほうが受け入れやすかったと思われる。一方、バッハの声楽曲(実質的には教会音楽)は装飾が多く、複雑に過ぎ、混乱を来していると《ヨハネ受難曲》初演の翌年にマッテゾンによって批判された。のちに、バッハからオルガンを教わった元弟子のJ.A.シャイベも同様の批判するようになる( 注2)。

バッハの教会音楽には、死後にイエスとの精神的、肉体的合一を願うなどのドイツ神秘主義の思想的な影響が見られるが、簡素な音楽を礼拝に使用するという敬虔主義の立場からすると、一見して不可解な転調、装飾や、臨時記号、不協和音が多く使われているのは好ましくない。すでに述べたように、コラールすらも対位法的に複雑な和声付けをしたものや、中には器楽演奏とリズムをずらして、会衆の唱和をわざと困難にしたとしか思えないものもある。その典型は、《ヨハネ受難曲》第2稿の開曲から《マタイ受難曲》完成稿の第1部終曲に転用されたMP29である。しかし、それこそがバッハの真骨頂であり、教会音楽で自らの思想を会衆に伝えるためには必要な手段だった(VIII-1)。

バッハが最初に、表立って異議を唱えたのは前任者のクーナウが持っていた権利がバッハから奪われたときである。トーマス・カントルの権利と義務の一つに、市内に他にも4つあった教会の音楽監督を兼任することがあった。そして、それらの活動からも追加報酬が得られるとバッハは期待していた。しかし、大学附属の聖パウロ教会の日曜礼拝に関する権利は彼に与えられず、ライプチッヒ大学を卒業し、当時聖パウロ教会、聖ニコライ教会(後に聖トーマス教会も)のオルガニストであったJ.G.ゲルナー(1697-1778)に与えられた。バッハは、この決定に異議を唱え、1725年の受難節前に聖パウロ教会の音楽監督権とそれに対する報酬を要求する。しかし、彼の要求は市参事会に拒否され、ライプチッヒ領主であるドレスデン宮廷に上訴するも、彼の要求は一部しか認められずバッハを失望させた。

1728年の秋に、もう一つの問題、おそらくバッハにとってはもっと重大な問題が起こった。それは報酬とは別の本質的な問題であった。聖トーマス教会の日曜礼拝で、カントルの伝統的権利と見なされていた「その日の礼拝にもっとも適した賛美歌を選ぶ権利」いわゆるコラール選定権が牧師のG.ガウトリッツ(1694-1745)に移されたのである。この決定に関する聖職会議の公式の理由は、それまでのコラールが当時の俗曲などの影響を受けて「宗教的民謡」になり下がっていることへの啓蒙主義的批判であったとされている。おそらく、彼らにはその日の礼拝で説教する牧師こそがその内容にふさわしいコラールを選ぶことができるという思いがあったのだろう。第三者からみれば、牧師がコラ−ル選定権を持つべきという出張はもっともにも思える。バッハの主張は牧師に対する越権行為と言えなくもない。しかし、前任者には与えられていた権利であり、「整った教会音楽」が究極の目的あると考えるバッハにとっては( 注3)、ある意味では彼の音楽家生命をかけるほどの重大な問題であった。テレマンやヘンデルのような商業的作曲家と違って、バッハの教会声楽曲にはほとんど例外無くコラール楽曲が含まれるほどに、彼にはコラールへのこだわりがあったし、コラールこそが自分の信仰、思想を市民、会衆に伝える重要な手段だったからである(VII-1)。教会行事や日曜礼拝で使われるコラールを選ぶ権利を奪われたことは、バッハとしては教会音楽家として否定されたに等しかった。すでに触れたように、《マタイ受難曲》の初演で、バッハの意図は会衆に正しく伝わった。その上で、教会会衆はバッハの思想を拒絶したのである。教会がバッハの「整った教会音楽」を怖れたのも、ある意味で当然だったのかもしれない。


バッハは残りの音楽人生を《クリスマスオラトリオ(BWV248)》、《ロ短調ミサ曲(BWV232)》の二つの大曲を別として、ほとんどの作曲活動を世俗音楽に集中した。小林義武は、「最近の研究で、1735年以後、教会カンタータが今まで知られた以上に頻繁に再演されていた、という新事実が判明した」と述べているが、教会音楽の作曲について言えば、上記の二曲を除いて単発的な小作品しかない。教会カンタータについては、《マタイ受難曲》初演後の1730年以降には、ブルーメが指摘するように、バッハは教会の礼拝行事への貢献を「お荷物」に過ぎないと感じるようになったとさえ思える。とくに、1739年の受難曲演奏禁止処分以降は、バッハにとっての教会音楽は文字通りの「お荷物」となった。しかし、そのころから死の直前まで続く「ロ短調ミサ曲」の執筆が続く。それは宗教音楽ではあるが、教会での演奏を前提にした音楽ではないことは明らかである。少なくともバッハ自身が生存中に教会でそれを上演することはありえないと承知の上で作曲されたはずである。

現存している作品だけでの話ではあるが、ライプチッヒ赴任の最初の3年間でバッハは137の教会カンタ−タを作曲しているが、1729年の受難節で《マタイ受難曲》を上演した以降の20年間で21の教会カンタータしか作曲していない。後世に失われた教会カンタータがあるにしても、年間当りの数にすれば46倍の差である。《マタイ受難曲》初演が1727年であっても1729年であってもこの数字は基本的に同じである。《マタイ受難曲》初演を挟んでバッハが教会カンタ−タ作曲への興味を失ったのは明らかである。ほとんどが宮廷音楽家として勤めていた1708〜1716年の間でさえバッハは23の教会カンタ−タ(3曲/year)を作曲しているのだから、トーマス・カントルとして1730年以降のバッハが教会カンタ−タの作曲から引いたのは明らかである。1730年以降のバッハは《フーガの技法(BWV1080)》と《ロ短調ミサ曲(BWV232)》という大曲に、死の直前まで取り組んでいるので、作曲自体から引いたわけではない。教会の礼拝行事への音楽的責務に対して興味を失うか、何らかの「心境の変化」があったためと考えられる。小林は、この時期のバッハが旧作の教会カンタータ再演に熱心であったことと、1740年以後にされたと推測されるカロフ聖書への宗教的関心を示す書き込みからもブルーメの言う「教会音楽に背を向けた」という仮説は説得力がないという。しかし、そのことで《マタイ受難曲》後のバッハの心境の変化を過小評価することはできない。なぜなら、2章7節(II−7)の傾向分析でも明らかになったように単に教会音楽の創作数が急減しただけではなく、数少ない新作の教会音楽においてさえ音楽上の変化が起こっているからである。マッテゾンの調性格理論では教会音楽としてはふさわしくないはずのロ短調と、二長調の2#調を中心として#圏への傾倒が顕著になる。それだけではなく、フーガへの傾倒が器楽作品だけでなく教会カンタータにも見られるようになる(例えば1736年のカンタ−タ14番)。以上のことは、《マタイ受難曲》を境にして、バッハに心境の変化、あるいは思想的変化が起こり、それが音楽上に反映したことを示唆している。



注1 このことからも、バッハがラテン語ミサ曲を作曲した事自体をルター派からの逸脱と解釈したり、カトリックであったドレスデン宮廷への猟官運動のあったという捉え方は間違っている。たとえ、《ロ短調ミサ曲》のキリエとグローリアがドレスデンのフリードリッヒ・アウグスト2世選帝侯に献呈されたときに、バッハがライプチッヒでの窮状を訴えて「宮廷音楽家」の称号をドレスデンに嘆願しているとしても、猟官運動であるという証明にはならない。それでは、ラテン語の通作ミサ曲を死の直前まで出稿して《ロ短調ミサ曲》を完成させたという執念が説明できない。

注2バッハの元弟子であったJ.A.シャイベ(1708-1776)が音楽雑誌《批判的音楽家、Critischer Musiks》に掲載したバッハ批判論文。これに対してライプチッヒ大学の無給非常勤講師であった修辞学者J.A.ビルンバウム(1702-1748)がバッハ擁護論を展開して泥沼の論争に発展する。文章だけから判断するかぎり、正しいか否かは別にしてシャイベの議論の方が説得力はある。ビルンバウムの擁護論は殆どが言葉のレトリック(修辞学)であり音楽論とはほど遠い。シャイベが、バッハの声楽曲は自分が鍵盤楽器を使って指で出せる音を、歌手の喉に要求していると、不自然な装飾や混乱した構造、過剰な技巧で美しさを曇らせていると具体的に批判しているのに対して、「音楽にとって仰々しいとは何か、混乱とは何か」などの定義から議論を始める。バッハはこの印刷を自身で注文し、代金を支払った領収書が残っているが、ビルンバウムとの親密な、あるいは密かな関係が事前にあったと考えない限り、この陳腐な擁護論をバッハがありがたがるというのは奇妙である。シャイベはバッハの器楽曲(イタリア協奏曲BWV971)は絶賛しており、バッハ自身はシャイベのオルガン演奏について推薦状を書いたことあり、シャイベのバッハ批判後でも、シャイベの父が製作したオルガンを称讃している。子弟の関係にありがちな感情的なしこりはなかったようである。(さらに詳しくは、11章2節注4参照)。

注3バッハのミュールハウゼン時代は、聖ブラジウス教会は敬虔主義のJ. A. フローネ(1652-1713)が、聖マリア教会は正統主義のG.C.アイルマー(1665-1715)が牧師を務め、市参事会は中立の立場をとっていた。バッハ自身は聖ブラジウス教会のオルガン奏者だったにもかかわらず、むしろアイルマーと親しくして教会の上司とは、しばしば険悪な関係に陥った。バッハは一年そこそこで辞表を出しているが、そのなかで次のように述べている。「私はつねに神の栄光のために、また皆様の希望にしたがって、整った教会音楽の上演(定期的なカンタータの上演とも読める)を試みてまいりました。(中略)。しかし、これを実現するには抵抗がないわけでなく、(中略)。しかし、いまや神は予期せぬ地位をお与えになり、より十分な生計と、他人の干渉なしに教会音楽を作曲することをお許しになりました。それゆえに(中略)、できるだけかぎり早く辞任の許可を与えて下さいますよう、お願い申し上げます。(中略)。1708.6.25」。バッハは後にライプチッヒでも市参事会あてに「十分に整備された教会音楽」に必要なトーマス教会附属学校の改善を一通の要望書として提出したが、それに激怒した参事会は、それに返答するどころか、先にバッハの教師としての怠慢に「矯正の見込みなし」と減俸処分を決定していた(1730.8.2)市参事会は、さらにバッハのあらゆる臨時収入の道までも削減することで応じた。


Back                目次                 Next