11章(2)受難曲の変遷とバッハへの迫害の年代的相関

     (Chronological correlation between Bach’s passion works and persecutions)


《ヨハネ受難曲》各稿の変遷を検証する前に、繰り返しになるがバッハが受けたという「迫害(die Verfolgung)」の実態と受難曲成立との年代的関係を確認しておきたい(Table 11)。この語は、プロシャ領ダンチヒ(現ポーランド領グダニスク)駐在のロシア大使となっていた旧友のエルトマンにバッハが宛てた手紙(1730年10月28日付け)の中に現れる。今日ではエルトマン書簡(Erdmann-Brief)と呼ばれているその手紙は、バッハの伝記についての重要な資料となっている。そのなかで、バッハは条件の良かったケーテンの宮廷楽長の地位を辞し、聖トーマス教会の音楽監督になったいきさつを述べている。一時はケーテンで一生を終えても良いと思ったほどにケーテン侯レオポルトを尊敬し、経済的待遇にも恵まれたバッハであったが、三ヶ月も迷ったあげくトーマス・カントルの地位を選択したという。その理由の一つに、息子たちが大学進学を希望していたことをあげており、教育熱心なバッハの子煩悩ぶりが垣間見えて微笑ましい。しかし、この書簡が書かれた目的はそのいきさつを旧友に説明するためではない。トーマス・カントルの地位が、まえもって聞いていたほど良くなかったことなどから自分の窮状を訴え、旧友に転職の依頼をすることが目的だった。バッハはライプチヒ市と教会に絶望していたのである。実際に、前任者クーナウへの待遇や、テレマンに提示された条件と比べて、トーマス・カントルとしてのバッハへの待遇は劣悪なものだった。給与も大幅に下がり、副収入も期待より少なく、音楽監督としての重要な権利も奪われた。そのうえ、トーマス学校のラテン語教師を自費で雇うことまでも求められていた。


Table 11. Chronology of the persecutions and passion works in Leipzig.


Items left- and right-aligned represent respectively non-musical and musical incidences. Letters in red and blue indicate ‘repugnance, envy and persecution’-related matters and ‘composition and performance’-related matters. The 4th performance of John-Passion is recognized as a possible harassment against Bach. Questionable performances of the Matthew-Passion are shown with ‘?’.

表11(日本語)はこちら

右詰めは作曲、演奏関係の、左詰めはそれ以外の事件、事象を示す。「嫌悪、嫉妬、迫害」に関連するものは赤字で、バッハによる演奏、作曲活動は青字で、両者が重なる場合は赤字を優先した(1749年の《ヨハネ受難曲》第4稿の演奏は、バッハへのハラスメントである可能性が高い)。それ以外は黒字でしめした。受難曲演奏年代について筆者が懐疑的なものは ? を付した。資料は「バッハ頌」(角倉/渡辺編)白水社、「バッハ事典」(角倉一朗監修)音楽之友社、「バッハ事典」(磯山/小林/鳴海編著)東京書籍による。


それでも、就任当初は、毎週の日曜礼拝に教会カンタータを作曲するなど、市参事会、教会など世俗の権威に服従し、職責をまっとうすることで、バッハは待遇の改善を期待した(注1)。そして、その延長で赴任後初の受難節の聖金曜日(1724年4月7日)に大作の《ヨハネ受難曲》を上演した。それはゴチック様式の建築美にも譬えられる回文的交差構造(Chiasmus または Χιασμός)をもつ壮大な受難曲であり、翌年の受難節にも再演を求められるほどに高い評価を得た。しかし、そのことでバッハの待遇が改善されることはなかった。むしろ、その後の困難を予想させる不愉快な伏線があった。《ヨハネ受難曲》初演の翌年にマッテゾンがBWV21Ich hatte viel Bekmmernis.「われに憂い多かりき」)を例にバッハの教会カンタータを批判したのである。さらに前任者には与えられていたライプチヒ大学附属聖パウロ教会の新礼拝(大学教官とその家族のための日曜礼拝)への報酬がバッハには拒否された。バッハが、クーナウやテレマンと違って大学を卒業していないという学歴が問題とされたのである。バッハはその決定に納得せず、ライプチヒ市の領主であるドレスデン宮殿のザクセン州選帝侯アウグスト1世に、この問題についての善処を繰り返し請願する。しかし、願いも空しく上訴は受け入れられなかった。それに追い打ちをかけるように、1728年には聖トーマス教会での日曜礼拝の説教前に会衆によって歌われるコラール(賛美歌)の選定権がバッハから奪われた。実際に説教を行う牧師のガウトリッツに選定権が移されたのである。賛美歌が当時の世俗曲に毒され、「宗教的民謡」に堕しているという啓蒙主義的批判であった。しかし、そこにはバッハの重要な意図があった。7章1節で述べたように、世俗曲や流行歌に起源を持つ賛美歌であることがバッハにとっては重要な意味を持っていたのである(VII-1)。もはや、ことは経済問題ではなく政治的、あるいは思想的問題となった。バッハが考える真のルター主義(宗教改革初期のルター主義)にとっては、賛美歌選定権がこのような啓蒙主義的批判に曝されることは受け入れられないことであった。この通告を機にバッハは、待遇改善を期待して教会の権威へ追従することを止め、教会批判へと舵を切る。その結果が、《マタイ受難曲》であり、その反動として始まったのがバッハへの「絶え間ない嫌悪、嫉妬、迫害」だった。エルトマン書簡でバッハはライプチヒでの窮状について、「(自分は)絶え間ない嫌悪、嫉妬、迫害の中で生きてゆかねばならない(in stetem Verdruß, Neid und Verfolgung leben muß)」と述べたうえで、当地(ダンチヒ)で自分にふさわしい地位の職があれば推薦して欲しいと書き、転職の斡旋を依頼している(注2)。これをバッハの頑迷な性格からくる被害妄想と片づけることはできない。バッハが「嫌悪、嫉妬、迫害」と書く状況が、どのようなものだったかを見れば、それは一目瞭然である。それらは、ある種の意図をもって行われた思想的弾圧であった。すくなくともライプチヒ市や聖トーマス教会の上層部はそれを意識していたはずである。なぜなら、迫害は、一過性の偶発的なものではなく、真綿で首を絞めるかのように緩慢に、しかし確実にバッハの死まで絶え間なく続いたからである。中世の社会病理的な異端審問にも近い近代版異端審問であった。どちらが原因で、結果なのかはともかくとしても、それらの迫害がバッハの教会音楽の作曲動機と深く関連することは容易に想像できる。そのような視点からの研究がされていないことのほうがむしろ不思議である。

年表を見てもう一つ気づくのは、迫害は大学教会からの報酬拒否(1725)、聖トーマス教会での賛美歌選定権の剥奪(1728)、職務怠慢による減棒処分(1730)、受難曲演奏禁止処分(1739)などの分かりやすい、露骨なものだけではないことである。もちろん、これらの赤裸々な迫害も受難曲の変遷と深く関わる重要な事件ではあるが、それ以上に陰湿な ─社会病理的ではあるが一般にはあまり注目されていない─ ハラスメントがある。マッテゾンやシャイベからの批判もバッハにとっては不愉快であったろうが、それらはバッハにも表立って反論できない理由があり、彼らからすればやむを得ないところもあった。陰湿なハラスメントとはバッハの晩年と没後に集中して現れたより陰険なものであった。

最初は、1749年の《ヨハネ受難曲》(第4稿)の上演である。これは明らかにバッハの意思によらない強制された演奏である。この演奏で使われた稿は、25年前の初演稿を弟子たちが復元したものであり、バッハの意思は反映されていない。そうであれば、10年前に未完で終わった浄書譜の第10曲までの変更が反映されたはずである。バッハが何度も書き直したあげくに、決定稿作成が放棄された初演稿が実質的に再演されたのである。それは、バッハにとっては苦い記憶に遡る追従的演奏の稿 ─おそらくバッハ自身によって棄却され失われていた稿─ による演奏である。さらに、追い打ちをかけるように、その二ヶ月後には病床にあったバッハの死を期待するかのように、市参事会はバッハの後任人事の選考を始める。トーマス・カントルの地位は死没するまで身分は保証され、伝統的には生前に後任の選考が行われることはなかった。いかに、体調不良で職責を果たせなくとも、前任者クーナウの場合は、長く病床にあった彼が没するまで、後任が募集されることはなかった。病床にあるトーマス・カントルの後任を募集することは、当時は死を期待することと同義だったのである。さらに、追い打ちは続く。この年表には無いが、バッハの没後に彼の遺体の埋葬先は記録に残されず、墓所は行方不明になる。現在、聖トーマス教会の祭壇前にある「墓」は、20世紀になってバッハの音楽が世界的に受容され、人気を博すようになってのち、いわば観光目的で作られたものである。そこに埋葬されている骨は、ライプチヒ市の城壁外にあった聖ヤコブ教会近くの雑草に埋もれた墓所から、1894年に発見された身元不明の5遺体のなかで頭蓋骨が肖像画の骨相に近いとして選ばれたにすぎない。バッハの男系子孫はすでに絶えたが女性の子孫は生存しており厳密に調べれば、一定の確率で特定のDNAマーカーの鑑定も不可能ではない。間違っていれば否定はできる可能性が残されている。しかし、そのような試みがされることはないだろう。バッハの骨だと証明することは不可能に近いが、否定されることはありうるような鑑定は必要ない。あくまでも観光目的の墓であれば、真実はどうであれ存在すればよいのである。筆者が問題にしたいのは、この遺骸が真にバッハのものであるかどうかではない。バッハの墓所が行方不明となり、格別の敬意も払われず、所在に留意がされてこなかったという事実である(注4)。バッハはあきらかに疎まれていたし、彼の死は望まれていたとさえ言っても過言ではないだろう。

迫害を裏付ける証拠はさらにある。すでに何度も述べたように、「1723年5月15日に初任給が支払われたにもかかわらず、採用の決定からライプチヒ赴任が一ヶ月遅れた」という理由で、バッハ没後に妻のA.マグダレーナに初任給の返還が要求された。27年前の初任給である。ここまでくると、ライプチヒ市参事会と聖トーマス教会の陰湿さは、まさに社会病理学的現象であるといえる。迫害の意図があったことは明白である。筆者は、バッハがこのように迫害されたことを告発したいわけでも、非難したいわけでもない。どのような経緯であれ、結果的にバッハ音楽が正当に評価され受容されているのは喜ばしい。その点では、筆者はバルトとは意見を異にする。ただ、このような迫害があった事実が、バッハの思想形成とどのような関係にあるか、音楽的にどのような影響を与えたかを検証すべきであると主張したい。


表11を見ると、受難曲との関係でさらに奇妙な現象に気づく。1729年から1732年にかけて、《マタイ受難曲》、《ルカ受難曲》、《マルコ受難曲》、《ヨハネ受難曲》と四つの福音書すべてに基づく受難曲が順番に上演されている。このような演奏のされかたは、他にはない。もちろん、これは記録に残っているだけで語っているにすぎないのだが、他には記録が残っていないこと自身がすでに何かを物語っている。

周到に書かれた《マタイ受難曲》(初演稿)と《ヨハネ受難曲》(第3稿)に挟まれて、稚拙な作品、パッチワーク的手抜き作品とされる《ルカ受難曲》、《マルコ受難曲》が上演されているのは暗示的である。そのころに何かあったのかと疑うのは当然だろう。その前の1728年には、賛美歌選定権剥奪の通告があり、《マタイ受難曲》初演には教会会衆の憤慨と拒絶があった。筆者は、通説で言われる《マタイ受難曲》1727年初演説には懐疑的だが、たとえそれが正しいとしてもこの問題に本質的な違いは無い。1729年に《マタイ受難曲》の上演があったことは確かなのである(VII-1の注1参照)。《ヨハネ受難曲》初演稿、第2稿のあとに《マタイ受難曲》の「初演」があり、《ルカ受難曲》と《マルコ受難曲》を挟んで《ヨハネ受難曲》(第3稿)があったという事実は変わらないのである。

この年表はさらに奇妙で、重要な問題について語っている。シャイベの執拗なバッハ批判(より正確には宗教曲批判)が数年間(1737〜1740)にわたって続くのだが、バッハはそれらに対して自らは何ら反論していない。1738年にビルンバウムがバッハの擁護論を発表しているが、内容的には反論になっておらず、まさに修辞学的レトリックであり、説得力はない(注5)。ビルンバウムが音楽的には素人であったと言われる所以である。バッハ自身が反論する方がより説得力があったとおもわれるが、バッハはなぜか自らは反論せず、このビルンバウムの擁護論の印刷を注文しているのである。ドイツ語圏の人たちには、自明のことであるが「Birnbaum」という姓はイディッシュ語を話すディアスポラのユダヤ人家系に固有の名前である。これらのバッハへの虐待と迫害にまつわる諸事実がバッハの思想と、受難曲の変遷には関係していないと言うバッハ学者がいれば、その根拠を知りたい。

注1ライプチヒ初期に演奏された教会カンタータには、市参事会、教会など世俗の権威に服従し、ルター派セクト主義に染まった多くの戦闘的な曲が含まれている。それらには、市参事会に神の威光を与えるBWV119(1723)、反カトリック的なBWV18(1713初演、1724再演)を初め、サタンへの戦いを歌うBWV19(1726)、「あなたたちを殺しにくる迫害者にたじろぐな」と鼓舞するBWV44(1724)やBWV183(1725)、「軽佻浮薄の者ども」を罵るBWV181(1724)、「にせ預言者」に擬された啓蒙主義者との戦いを歌うBWV178(1724)、カトリック、イスラム教徒との戦いを鼓舞するBWV126(1725)などがある。  

注2 バッハは自分の窮状について4点を箇条書きにしたためた。その第4項は以下の通りである。

   (4) eine wunderliche un der Music wenig ergebene Obrigkeit ist, mithin fast in stetem Verdruß, Neid und Verfolgung leben muß, als werde genöthiget werden mit des Höchsten Beystand meine Fortun anderweitig zu suchen.(当局は音楽への理解も少なく、奇妙な態度をとっており、そのため私は絶え間ない嫌悪、嫉妬、迫害の中で生きねばならず、このままではいずれ至高なる神の援助で私の幸運を他の地に求めることもやむを得ないこととなるでしょう。)

注3 繰り返しになるが、その理由を再掲すると、1)バッハが宗教曲と世俗曲に同じ旋律を使う場合は、例外なくオリジナルは世俗曲であり、宗教曲がパロディであると長く言われて来たが、1727 年初演説をとると、バッハが尊敬するケーテン侯レオポルトの追悼式でのBWV244aの上演を唯一の例外としなければならず、レオポルトへの尊崇の念が深かったバッハが彼の追悼式で間に合わせのようにパロディを使うとは考えにくい、2)テリーのバッハ伝によれば、《マタイ受難曲》の初演は会衆からの憤激をかい、第一部終了後にはほとんどの会衆は帰宅したと伝わっているが、1727年初演に続いて1729年にそのまま再演されたとは考えにくく、テリーのバッハ伝が二度目の演演について何も述べていないのは不自然である、3)1729年初演とすれば、教会と会衆の怒りをかったバッハが翌年、翌々年の受難節で反発して《ルカ受難曲》(1730)、《マルコ受難曲》(1731)という駄作、手抜き作品を上演したことはバッハの性格からよく理解できる、4)リフキンが発見したバッハから弟子の一人にあてた手紙で、1729年の受難節で二部合唱の受難曲(《マタイ受難曲》のこと)を自分で演奏するために楽譜を貸すことはできないと謝絶していることをもって、それ以前に弟子が楽譜の存在を知っていたとは言えても、演奏されたことがあるという証拠にはならないなどである。

注4 1800年3月12日付けの「一般音楽新聞(ライプチヒ)」でロホリッツは次のように証言している。「例えば、深く尊敬されて当然な、いや、その生前においてすでに深く尊敬されていたゼバスティアン(ママ)・バッハのねむる墓所でさえ、あるいはそのほか彼の思い出をつなぎとめているはずの何ものであれーライプツィヒで探し出そうとしてもむだである。」バッハの死後50年ばかりしか経っていないときに、すでに彼の墓ばかりかバッハにつながる思い出のすべてがライプチヒから消えていたのである。今日の感覚からすれば、そこに意図的なものを感じても不思議ではない。角倉一朗監修「バッハ事典」、「墓所」の項( 久保田慶一)より。

注5 シャイベのバッハ批判は声楽曲について書かれており、実質上は宗教曲の批判である。これはマッテゾンのバッハ批判と共通する。マッテゾンは後にシャイベのバッハ批判を自らの「音楽批評」に採録しており、バッハの理論的批判を展開した二人の音楽家が、それぞれが寄って立つ音楽思想の違いにも関わらず(マッテゾンは、バッハと同じく対位法技術を基盤とするバロック時代を代表する音楽思想家で、一方のシャイベはライプニッツ=ヴォルフ学派の思想的影響を受けて、新時代の合理的明晰さを求める啓蒙主義音楽思想の持ち主だった)バッハの宗教曲批判の基盤は共通していたことは注目に値する。彼らが意識していたかどうかは別として、批判の基盤は、バッハの音楽が時代的要請や流行に乗っているか、遅れているかの問題ではないのである。両者ともに、声楽曲以外のバッハの曲は称讃している。実質的には、彼らの批判はバッハの異端性に向けられているのである。もちろん、二人はそれについては直接に何も語っていない。むしろ、気づいていなかった可能性が高い。しかし、彼らの批判点が、自らの異端思想に根があることを知っていたバッハ自身は文章として反論を書くことはできなかった。そこで、ビルンバウムが登場するのである。

 話はそれるが、ドイツ人であればすぐに気づくことがある。「Birnbaum」は19世紀に著名なユダヤ人思想家を輩出する家系と同じ名のユダヤ家系の姓である。ユダヤ人をユダヤ教徒としてではなく、民族として定義し、シオニズム(イスラエルへの帰還運動)を初めて提唱したNathan Birnbaumや、その息子であるSolomon Ascher Birnbaumなどが有名である。もっとも、彼ら自身はのちにシオニズムとは距離を置き、イディッシュ語の保護などディアスポラ主義運動、すなわちそれぞれの居住地でのユダヤ教徒の権利獲得を目指す運動へと転向する。

 6章で触れたように、H.J. Kreutzerによれば、バッハを擁護したJ. A. Birnbaumはユダヤ教からキリスト教に改宗した家庭の出身であった。シャイベとビルンバウムの間で行われたバッハの音楽(実質的には宗教声楽曲)に関する論争の一部を、長くなるが重要なことを示唆しているので以下に抜粋する。日本語訳はいずれも角倉/渡辺編「バッハ頌」(白水社)に収録された東川清一訳による。( )内は筆者による挿入。

 シャイベ:「この偉大な人物(最初は匿名で批判した)は、もしも彼がもっと快適さをもち、仰々しく混乱した様式によって彼の作品から自然的要素を取り去るようなことがなければ、また、技巧の過多によって作品の美しさを曇らせるようなことがなければ、全国民の敬慕の的となるであろうに。彼は自分の指にてらして判断するので、その作品はおそろしく演奏が困難である。つまり彼は歌手や楽器奏者にたいして、自分がクラヴィーアで弾けることはなんでも喉や楽器でやることを要求するのである。だが、そのような要求にこたえることは不可能である。彼はすべての装飾音、すべての小さな装飾、一般に双方の事柄と考えられているものいっさいを残らず音符に書きあらわすわけだが、そのために彼の作品から和声美が姿を消すばかりか、主旋律までがまったく聴き取れなくなってしまうのである。要するに、音楽における彼は、文芸における、かってのフォン・ローエンシュタイン氏と同じである。誇張が二人を煩雑な労苦やたぐいまれな努力を称嘆しているが、このせっかくの努力も、理性に逆らうものであるがために、徒労に終わったのである。」

 この批判はその12年前のマッテゾンのバッハ批判と共通するものがあり、バッハの楽譜を見たことがあれば、批判は具体的で説得力がある。バッハ自身がこの批判に反論することはなかったが、不愉快であったことは間違いないだろう。マッテゾンに対しては、再三の依頼にもかかわらず彼が編纂した音楽家人名事典にバッハは自伝を寄稿しなかった。しかし、オルガン製作者であったシャイベの父親が制作したオルガンはその後も称讃しているので、元弟子に変なこだわりはもっていなかったようだ。マッテゾンとシャイベに共通しているのは、バッハの声楽曲以外は称讃しており、事実上は宗教曲を批判の俎上にあげていることである。シャイベの批判に対して反論したビルンバウムのバッハ擁護論の要旨(抜粋)は次の通りである。

 ビルンバウム:「宮廷作曲家殿(バッハ)が『仰々しく混乱した様式によって彼の作品から自然的要素を取り去る』として批判されるのだが、その非難は辛辣であるのに劣らず曖昧である。いったい音楽で『仰々しい』とはどういうことだろうか?修辞学では、些細なことに最もぜいたくな装飾がほどこされるために、そのくだらなさがますます明るみにさらされるばかりであるとか、本質的に美しいものを見失ってありとあらゆる不必要な虚飾を外側からもちこんでいるとか、装飾してもとるに足らない、わざとらしい、子供じみた小事にこだわって、根本的な思想を子供じみた思いつきと取り違える、といった書きぶりが『仰々しい』といわれるのだが、もしもこれと同じ意味に理解すべきものとすれば、音楽におけるそのような誤りが、作曲の規則を知らないとか、知っていてもそれの正しい使用法を心得ない人々によって犯されることもありうることは、私も認めるところである。

 だが宮廷作曲家殿がそのような誤りを犯したということはもちろんのこと、そのようなことの可能性を考えることだけでも、とんでもない誹謗といえよう。たしかにこの作曲家は、酒の歌、子守歌、あるいはその他の流行曲に装飾をほどこすのではない。彼の教会作品、序曲、協奏曲その他の音楽作品に見られる装飾はみな、彼が展開しようとした主要楽想に即したものである。批評家氏の言ったことが曖昧であり、実証できないのだから、結局彼はなんの根拠もないことを言ったのである。したがってまた、彼がそのすぐあとでおこなった宮廷作曲家殿とフォン・ローエンシュタイン氏の比較も、それ自体非難されるべき装飾、つまり表現の仰々しさのひとつに数えられる思いつきにすぎない。

 いったい音楽で、『混乱』とはどういうことだろうか?批評家氏が何を言っているのかを推察しようとするかぎりは、一般に「混乱」という語がどういう意味に使われているか、その一般的な意味を手がかりにするしかない。私の知るかぎりでは、「混乱」とは、秩序がなく、個々の部分がたがいに奇妙に入りまじり、まざり合っていて、相互の関係がわからなくなっていることをいう。

 〔中略〕

 ところで私は、批評家氏が宮廷作曲家殿を作曲の規則の違反者と見なすことがないように期待しておきたい。ついでながら、この大家の曲では諸声部がたがいに複雑に入り組んで動くことはたしかだが、ほんの少しの混乱もなしに動くのである。諸声部はたがいに手をとり合って進んだり、互いに反対方向に進んだりするが、いずれも必然的なのである。互いに離反しても、ちょうどよいときに再びいっしょになる。たがいに模倣し合うときも多いとはいえ、各声部はそれぞれ独自の動きによって、他の声部からはっきりと際立っている。諸声部はたがいに逃げたり追っかけたりするとはいえ、いってみればたがいに相手に先んじようとする諸声部の動きには、少しの不正行為も認められないのである。(下線は筆者)

 〔中略〕

 私は、偉大なバッハを正当に尊敬する他のすべての人びととともに、批評家氏が将来もっと健全な思想の持ち主になられるように、また、音楽旅行を終えられたあかつきには、いっさいの不要な非難ぐせから完全にまぬがれた新しい人生の幸多き第一歩を歩まれるように願っている。」

 シャイベ:「ライプチッヒのバッハ氏自身は、彼が誠意をつくして判断しようとし、また判断できるかぎりは、ビルンバウムの(シャイベへの)非難とは反対のことを述べるであろう。この高名な人物は当時のオルガニスト採用試験にさいして判定者に任命されたのである。(括弧内はTHG)」

 ようするに、シャイベは自分のバッハ批判は正当であり、バッハ自身には理解されるという自信を示している。そして、ビルンバウムの擁護論はひいきの引き倒しだというのである。しかし、実際にはバッハはビルンバウム擁護論の印刷を注文している。このような経過は以下の理由で奇妙である。(1)なぜ、ビルンバウムはバッハを擁護することにもならないレトリックでバッハを弁護したのか、どこか奥歯にものが挟まった言い回しに終始しており、みずからが音楽的に素人であると曝したようなものである、(2)シャイベはなぜ、バッハ自身は自分の批判を理解する筈だと自信をもっていたのか?問題を純粋に音楽技術的なものであるかのように論をたてているのは、バッハが実際にはビルンバウムの擁護論を印刷注文していることを考えれば、シャイベが知らないなにかがあることを示唆しているのではないか、(3)バッハはなぜ自分自身で反論をしなかったのか、あるいはできなかったのか、そればかりか、(4)ビルンバウムの陳腐な擁護論の印刷を注文したのはなぜか?弁護にもならない擁護論さえありがたく思うほどに追いつめられていた理由があるのか、そして、最後に(5)上の下線で示したビルンバウムの擁護論は具体的にどの部分を指すのか?このような反論をするなら具体例をあげて反論しなければ説得力はないと思われるが、なぜ例を示すことができなかったのか?このように考えるとこのシャイベvsビルンバウムの論争は謎だらけである。筆者は、(5)上の下線部の文章で《マタイ受難曲》のMP33(アルトの偽証をテナーが追いながらイエスが死罪に価する罪を犯したと歌う)を想像したい誘惑にかられる。もし、シャイベにもビルンバウムにも、MP33が念頭にあって議論しているのであれば両者の議論はよく理解できる。そして、バッハの異端思想をシャイベが理解していないのであれば、彼のような批判もむべなるかとも思うのである。富田氏が指摘したように、カデンツァのこのような崩れ(譜例23)は対位法的な終止形としては協奏曲や鍵盤楽器の曲では不自然ではない。問題はそれをなぜ宗教声楽曲でアルトとテナーの「フーガ」に使う必要があったのかである。8章4節で述べたように、そこでバッハは、イエスの死を、旧約の予言としてではなく、また、冤罪によって強いられた無念の判決ゆえにではなく、イエスの自発的意思としてえがく必要があったからである。みずからが神の子羊になるという人間イエスの愛の決意をロ短調で表現する(V-1)ために必要な仕掛けが、♭の臨時記号によるマタイ伝からの逸脱だったのである(VIII-4)。そう解釈すれば、バッハが反論できなかった理由も、それを知っていたユダヤ人のビルンバウムが奥歯にものの挟まった言い方でしか、擁護論を書けなかった理由も理解できる。それを出せば、《マタイ受難曲》の異端性が赤裸々となり、バッハの教会批判までが芸術的表現を超えて、散文的プロパガンダに堕すからである。たとえ、暗に気づかれてはいてもバッハ自身の言葉として言質をあたえることは出来なかった。政治的配慮はバッハにも、ビルンバウムにも必要だったのである。



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