11章(3) 宗教的抑圧への芸術的抵抗(Artistic resistances to religious suppressions

  1. (II)一神教的価値観への挑戦  (Challenges to the monotheistic values)


─ダ・ヴィンチコードの真実─ (-Da Vinci Code in reality-)


(i) シェイクスピアについての雑感(Impressions on Shakespeare

15年くらい前になるが、ある人がバッハ(1685-1750)は音楽史におけるW. Shakespeare(1564-1616)だと言ったことがある。その時は真意はわからなかったが、一方が偉大な劇作家で、他方が偉大な音楽家だという程度のことと聞き流した。しかし、バッハの《マタイ受難曲》を学んだあと、この例えはふさわしくないと気づいた。シェイスクピアにバッハのような思想的普遍性や深い哲学はない。イギリスに聖書が伝えられたのは、2〜3世紀のころと言われる。イギリスにはユダヤ人よりも先に反ユダヤ思想が上陸したと言われる所以である。中世初期にユダヤ人たちが初めてイギリスに到着したとき、すでに島は反ユダヤ思想に染まっていた。その点では、大陸ヨーロッパと異なる。イギリスにユダヤ人たちが定住したのちも、彼らは幼児の儀式殺人などお決まりの事件をでっち上げられて、数十〜百人単位の殺戮、処刑が繰り返された。そして、1290年にはエドワード1世によって、イギリス全土から完全に追放され、その後の約370年間、ユダヤ人が島に戻ることはなかった。シェイクスピアが、「ヴェニスの商人(1594-1597)」を書いたのはそのころである。ユダヤ人と会ったことも、話したこともなく、巧みな想像力だけでシェイクスピアはシャイロックという吝嗇で醜悪なユダヤ人像を作り上げた。その点で、確かにシェイクスピアは天才的だった。シャイロックに巧みな弁をふるわせ、借金のかたとして肉塊を求めるユダヤ人高利貸しへの憎悪を観客に植え付けることに成功した。これを、逆説的に彼が人種差別を告発したのだと、好意的に理解するむきもある。しかし、その解釈は苦しい。なぜなら、「ヴェニスの商人」はシャイロックを改心させ、キリスト教に改宗させて終わるからである。その結末は、当時のキリスト教的価値観に辻褄を合わせた大団円にすぎない。シェイクスピアは興行的成功によって莫大な財をなした。もちろん、この作品だけが成功の理由ではない。しかし、このような世俗に媚びる反ユダヤ主義が彼の思想の底辺になければそれも適わなかったであろう。彼の作品がいかに心理描写と人間観察に優れていたとしても、彼がユダヤ人差別を告発する思想の持ち主であれば、彼自身が迫害を受けたはずだ。バッハはマグダレーナの老後のために財産を残すこともできなかった。バッハを支えて来た彼女は、夫の死後、生活保護を受けて貧窮院に入った。何を怖れたのか、バッハの前妻バルバラの息子であるエマニュエル(ベルリンのバッハ)はともかく、マグダレーナの実子であるクリスチャン(ロンドンのバッハ)などの息子達も彼女の老後を支援しなかった。生活保護を受けられたのもバッハが遺した教会カンタータの年巻を教会に寄付することが条件だったという。これらを考えても、シェイクスピアをバッハにたとえるのは無理がある。


(ii) バッハとダ・ヴィンチ(Bach and Da Vinci

芸術家の自立は、キリスト教が西欧で世俗権力に強い影響力を持っていた時代には、事実上は不可能だった。キリスト教は芸術家に対する最大のスポンサーであり、干渉者でもあった。暗黒の中世時代と良く言われるが、その点ではルネサンスやバロックに入っても状況はそれほど改善していない。啓蒙主義の勃興したバロック時代の最後世代に属するバッハでさえ、教会から自立した思想を持てば、冷遇に耐えるしかなかった。迫害に抵抗するには、暗号を使って教会音楽に想いを託すしか表現の自由はなかった。

宗教絵画ではどうだったか。バッハ以前の西洋史で、バッハのように教会による干渉と迫害に耐え、自立した思想を作品に込めた画家はいたのだろうか。人によっても違うだろうが、筆者はLeonardo da Vinci(1452-1519)を第一にあげる。もちろん、ダ・ヴィンチとバッハには画家と音楽家という違いがあり、時代にもルネサンスとバロックの隔たりがある。ダ・ヴィンチはイタリア生まれでドイツとの接点はなく、バッハがドイツの外に出ることはなかった。私生活でも、結婚もせず子をなさず、常に美少年を伴い、同性愛の疑いで二度も逮捕、拘禁されたダ・ヴィンチと、二度結婚して21人の子をなしたバッハに共通点はないように見える。しかし、二人の芸術家には重要な共通点がある。もちろん、その第一は後世の画家や音楽家に与えた影響の大きさである。しかし、それだけではない。彼らが、それぞれの作品で表現した思想が酷似しているのである。二人がもし同時代に生きていれば、どこかで語り合っていたのではないかとさえ思える。絵画と音楽という異なるジャンルでこれほどに近い思想を、しかもキリスト教の原理主義的価値観が世を支配していた時代に、200年以上も離れた二人の偉大な芸術家が、酷似した異端思想を共有し、作品に込めたというのは奇跡に近い。その作品とは《最後の晩餐》(1495-1498)と《マタイ受難曲》(1729-1736)である。前者は、ヨハネ伝に記述された「最後の晩餐」のある瞬間(ヨハネ伝13章24節)をテンペラ壁画(あり得ない組み合わせだがダ・ヴィンチはそれを使った)として描いており、後者は「最後の晩餐」を含むマタイ伝の受難物語(マタイ伝26章1節-27章66節)の進行を時間軸に沿ってオラトリオ形式で描いている。仔細に研究すれば、どちらもキリスト教会の権威を象徴するペテロの優位性を否定し、ユダの救済をテーマにしていることがわかる。時代と宗派も異なり、芸術分野も違う二人ではあったが、彼らは共に、当時としては科学者のような合理的解釈で福音書を理解していた(注1)。そして、その思想を芸術作品のなかに表現し、解釈を後世にゆだねた。彼らが無神論者だったとか、唯物論者だったというのではない。二人ともキリスト教徒であったことは間違いない。いうまでもなく、ダ・ヴィンチはローマカトリックであり、バッハはドイツプロテスタントである。しかし、彼らは教会の教条に捕われず、作品の中に自らの思想を描き込んだ。だが、彼らが作品に込めたメッセージは現代には伝わらなかった、というよりも彼らの思想は抹殺された。無視したのは教会だけではない。美術史家や音楽学者でさえ、技法や様式については語るが、彼らの異端思想について語ることはない(神学者カール・バルトは例外)。彼らの異端性は、あたかも戯れか気まぐれ、あるいはさしたる意味のない逸脱であるかのように扱われる。あるいは、「正しいキリスト教」の立場から作品の「間違い」が、他の画家や音楽家に修正(歪曲)されたこともある。二人とも異端の思想を芸術作品として表現しただけで、論文や著作として発表することはなかった。結果として、彼らが公に裁かれることは無かったが、ダ・ヴィンチは事実上の亡命を余儀なくされ、墓は暴かれた。バッハは死後に墓さえも行方不明となり、妻のアンナ・マグダレーナへの冷遇は続いた。それぞれの教会は、彼らの異端性を封印し耳目から遠ざけた。ダ・ヴィンチは1516年にフランス国王フランソワ1世に招かれ、フランスのアンボワーズに移ったが三年後に当地で客死した。当時のフランスはヴァロワ朝のもとでイタリアと戦火を交えており、その後も神聖ローマ帝国に囲まれて、フランスはヨーロッパで四面楚歌となる。ダ・ヴィンチは《モナリザ》を含む絵画や全資産を持ち出して、フランスに移っていた。それは、帰国を前提としない事実上の亡命だった。


注1 ここで言う「科学者」は英語のScientistではない。フランス語の「Scientifique」に近い。「-ist」とは、いわゆる「プロ」の意味であり、Scientistは、科学を職業とする者、科学を飯の種にしている者という意味になる。チャールス・ダーウィンの支持者であったトーマス・ハクスレーがScientistと呼ばれることを嫌ったことは有名。「-ist」には、本来は良い意味はない。「Scientifique」は「科学的に考える人」の意味である。科学的に考えるとは、既存の思想や価値観から自由であり、事実に基づき合理的に考えるということである。既存の思想には宗教も含まれるが、科学的であることと、どのような信仰を持つかとは直接の関係はない。宗教が道徳、倫理、人生観、死生観などに留まるかぎりは科学的であることと矛盾はしない。福島原発の爆発後に、反原発を唱える著名な科学者たちが。「科学者であることをやめて、サイエンティストになる」と宣言したときは我が耳を疑った。「科学的に考えることを止めて、科学で飯を食うことにした」と宣言したに等しいからである。ダ・ヴィンチは「『絵画論』一般科学について」の中で、「如何なる探求も、もしそれが数学的証明を通過しなかったならば『科学』の名に価ひしない(第6節)」と述べている。ダ・ヴィンチは自然を理解し、それを写し取ること(自然をモデルにそれを絵画化すること)も科学と呼んだ。


(iii) ダ・ヴィンチとバッハが生きた時代(Ages that Da Vinci and Bach lived

今日的に言えば、《最後の晩餐》と《マタイ受難曲》は、西洋の宗教絵画と宗教音楽の歴史における事件だった(以下ではバッハの場合と同様に、ダ・ヴィンチあるいは彼の影響を受けた弟子や後継者が制作した作品は《》内に、作品一般または他者の作品は「」内に記す)。その議論を進める前に、ダ・ヴィンチとバッハが生きた時代に留意しておく必要がある。彼らの時代は、キリスト教が世俗社会を支配し、異端思想を断罪した時代であった。Giordano Bruno(1548–1600)やGalileo Galilei(1564-1642)は、論文や著作として聖書の記述に反する価値観、自然観を公表したことで異端審問にかけられた。前者は主張を撤回せず火刑に処され、後者は有罪判決のあとで自説を撤回し、死を免れて終身刑(終生軟禁)に減刑された。宗教改革後のドイツでは、異端審問は魔女裁判と名を変えて、異端が拡大解釈され迫害はさらにひろがった。ドイツだけで数万人もの人々が嫌悪、嫉妬の感情から魔女(注1)として密告、迫害され、拷問によって自白を強要された果てに処刑された。意外かもしれないが、魔女裁判がもっとも盛んだったのは、中世カトリック社会ではなく、宗教改革後のドイツだった。ドイツで魔女裁判が終わったのはバッハ死後の18世紀も後半に入ってからである(注2)。

ダ・ヴィンチとバッハは教会にとってやっかいな存在だった。エルトマン書簡で紹介したように、バッハは「嫌悪、嫉妬、迫害」に囲まれて生きていた。バッハも魔女と密告されておかしくない環境にいたのである。ダ・ヴィンチは同性愛の疑いで二度も密告された。最終的には証拠不十分で放免されたが、教会には好ましくない存在だったに違いない。それでも、彼らの世俗作品 ─とりわけ《モナリザ》と《平均律クラヴィーア(ピアノ)曲集》─ は模写、筆写されて後世の画家や音楽家に多大な影響を与えた。ダ・ヴィンチの場合、作品が模写されただけでない。アンボワーズに伴った愛弟子のFranchesco Melzi注3)が手記の遺稿を「Libro(またはTrattato di Pittura(『絵画の書』、日本では『絵画論』と訳されることが多い)」として編纂したもの(注4)が手写本として密かに流布した。内容がキリスト教的価値観に反していたのでメルティも出版できなかったのであろう。現在では、Michelangelo Buonarroti(1475-1564)やRaffaello Santi(1483-1520)に比べて影は薄いが、生前には「間違いのない画家」としてよく知られていたAndrea del Sarto (1486–1530)は、ダ・ヴィンチの影響を強く受けた一人である。彼がダ・ヴィンチの29年後に制作した《最後の晩餐》(フレスコ画)には彼の影響が強く伺えるが、ダ・ヴィンチを裏切らない程度で教会にも配慮した慎重な修正を行っている。ダ・ヴィンチとバッハは、それぞれの時代と社会でキリスト教会の権威と迫害に怯まず、異端の思想を作品化した数少ない芸術家であった(注5)。


注1ドイツ語の「die Hexe」は魔女と訳されるが、男性形の「der Hexer」もあり、魔女裁判に書けられ、処刑されたのは女性とは限らなかった。「魔女」の概念は時代により変遷するがバッハの時代は「悪魔と交わった者」、「悪魔がとり憑いた者」と広義に解釈された。密告があれば、誰もが拷問、処刑される可能性があった。肉親による密告もしばしば行われた。ちなみに、聖書によればユダは悪魔がとり憑いてイエスを裏切った(ルカ伝22:3、ヨハネ伝13:27)

注2 美術史家、音楽学者は、画家や音楽家、そして彼らの作品を芸術史以外の歴史から切り離して議論する傾向がある。しかし、ダ・ヴィンチやバッハが生きていた社会では異端審問、魔女裁判が横行していた。そのことを考慮せず、彼らの宗教芸術の価値を論ずることはできない。ローマカトリックでの異端審問はガリレオ裁判のこともあってかなり知られているが、ルターによる宗教改革後のドイツで横行した魔女裁判については、日本であまり知られていない。魔女裁判は容疑者の財産没収によって教会の資産を殖やす手段ともなり、ルター主義のもとでは凄まじい勢いで増加した。魔女裁判を初めて法的に整備したのは、ドイツ近代刑法の祖と言われるルター派法学者で判事でもあった、ライプチッヒ大学教授のBenedict Carpzov(1595-1666)である。一説では、彼だけでも2万人の「魔女」に死刑判決を下したとされる。ドイツで、魔女裁判が終息したのは、バッハ死後の18世紀後半に入ってからである。普通の人が周囲の嫌悪、嫉妬、迫害により、魔女として密告され、拷問、処刑された。のちのスターリン主義支配下のソビエトを思わせる。バッハは、そういう時代に生きていたのである。

注3 フランチェスコ・メルツィ(1493-1570)は14歳のころダ・ヴィンチの養子となる。フィレンツェ、ローマ等のダ・ヴィンチの遍歴には常に伴われた。晩年にダ・ヴィンチがフランソワーズ1世に招聘されたときも同伴した。フランスのアンボワーズでダ・ヴィンチが1519年5月2日に客死したときに最期を看取ったのは彼である。ダ・ヴィンチは生涯結婚せず、実子はいなかった。メルツィが遺言執行人に指名され、多くの絵画作品、手稿類、機械道具類、画材、金銭を相続した。メルツィ家は貴族の家柄で、ダ・ヴィンチもその居城に滞在したことがある。彼が、相続したダ・ヴィンチの手稿は膨大な量で、そのうち重要と思ったものを編纂し手写本を作成したが、メルツィの生前に出版されることはなかった。ダ・ヴィンチがフランスに亡命したおかげで、多くの名画がフランスで保存されたのは幸運だった。ダ・ヴィンチが描いたとわかっている名画(「レダと白鳥」など)のいくつかはイタリアで失われたことがわかっている。わいせつとされて処分されたのではないかと推量される。

注4 今日ではウルビノ稿本(Codex Urbinas Latinus)として知られ、ヴァチカンの教皇庁図書館が収蔵している。原文は鏡像として筆記されたが、メルツィが写すときに書き直した。手稿が他人に読まれることをダ・ヴィンチが怖れていたことが伺える。1651年に最初の活字本が出版されるまで、かなりの数の手写本が流布した。当初は貴重な資料としてというよりも、危険な書として秘匿されたのかもしれない。しかし、教皇庁が入手するまえに多くの手写本が作成されて、地下で広く流布した。

注5 ダ・ヴィンチとバッハの思想的背景がまったく同じと言うわけではない。ダ・ヴィンチは多神教的アニミズムに近く、バッハは宗教改革初期のルター主義(反教会的、親ユダヤ的で信仰は聖書にのみ基づくとする)あるいはユニテリアン(三位一体説を拒否する)に近い。絵画論を読むかぎりは、ダ・ヴィンチにとっての神は、なによりもギリシャ神話やローマ神話の神々である。おそらく、聖書の神も、イエスや聖母、聖人もその中の「ひとり」である。バッハにとっての神は福音書の中でイエスが「父」と呼んだ神であり、イエスは神の子ではあっても神自身ではない。その意味では初期キリスト教のアリウス派にも近い。宗教音楽の自筆浄書譜の冒頭に「Jesu juva!(イエスよ、救いたまえ)」、最後に「SDG(Soli Deo Gloria、神のみに栄光あれ)」と、Jesu(イエス)とDeo(神)を使い分けていることにもそれが伺える。


(iv)《最後の晩餐》検証の前に(Before inspecting ‘The Last Supper’ of Da Vinci

《マタイ受難曲》の中で、バッハは「ユダの罪は人の原罪と同質であり、ユダもイエスの犠牲による救済の対象である」と表現した。ダ・ヴィンチは《最後の晩餐》でユダをどのように描いたか?その問いに答えるには、中世からルネサンスまでの「最後の晩餐」と、ダ・ヴィンチと彼の影響を受けたアンドレア・デル・サルトが描いた作品を比較、検証しなければならない。ダ・ヴィンチの作品だけを見たのでは、彼のメッセージ(真のダ・ヴィンチコード)に気づくのは容易ではない。《最後の晩餐》をもとに「ダ・ヴィンチコード(ダン・ブラウン著)」が結論した「とんでも説(イエスはマリア・マグダレーナと結婚して子を残し、現在も子孫が続いている)」は、そのような科学的検証を経ていない単純なフィクションである。ダ・ヴィンチ前に描かれた「最後の晩餐」と比較すれば、ブラウンのフィクションが成立しないことは明白である。ダ・ヴィンチ前に描かれた「最後の晩餐」では少なくとも24の彩色画が現存する。これらの多くはフレスコ技法による壁画かテンペラ技法によるパネル画である。しかし、ダ・ヴィンチは、なぜかテンペラ技法で壁画を描くという、常識的にはありえない手法を使った。ダ・ヴィンチ後には少なくとも29の彩色画が確認できる。その多くは油彩によるカンバス画である。これらについても議論する価値はあるが、アンドレア・デル・サルト以外については割愛する。一つだけ言えるのは、アンドレアの他にダ・ヴィンチの思想を継承したと思われる作品はないということである。様式はともかく思想的には、ダ・ヴィンチ前と後で大きな違いはない。むしろ、ユダについてはより醜悪に描かれる傾向が見られる。中世を暗黒時代と言うが、こと「最後の晩餐」に関するかぎり、芸術家がキリスト教支配から相対的に自立し、表現の自由度が増すにしたがって、ユダがより邪悪に描かれたというのは理解に苦しむ。西洋文化におけるキリスト教的価値観の表層と底辺にはさしたる温度差はないということなのかもしれない。そのほかに、無彩色の木彫や版画などもあるが議論するのは難しいので取り上げない。

ともあれ、《最後の晩餐》に込めたダ・ヴィンチの思想を理解するには、悪を代表するユダと、善(あるいは偽善)を代表するペテロが、ダ・ヴィンチ以前にどのように描かれたかを研究しなければならない。しかし、その前提として、各福音書が「最後の晩餐」をどのように記述しているかを知っておく必要がある。ただし、「最後の晩餐」の場面に直接の関係はないが、ユダとペテロの絵画上の表現に関わる他の記述についてもある程度の知識が必要である。なぜなら、中世初期の「最後の晩餐」はマタイ伝に基づいて描かれているが、中世後期からの「最後の晩餐」は基本的にヨハネ伝に基づいて描かれるようになったからである。それがほぼルール化したといっても良い。その過渡期(中世盛期)を経るなかで、この変化は画家たちに悩ましい問題を突きつけた。その理由は、マタイ伝とヨハネ伝の間にある矛盾に原因がある。これらについて、少し長くなるが各福音書の記述を要約して概観したい。引用は口語訳聖書による。


(v)「最後の晩餐」に関係する福音書の記述 (Descriptions in the four Gospels

マタイ伝:マタイ伝10:2-4には12使徒が次の順に書かれている。すなわち、「ペテロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、トーマス、マタイ、小ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダ」である。さらに、次のような場面がある。イエスは、ピリポ・カイザリヤに行ったときに、弟子たちと次のような会話をする。「人々は人の子をだれと言っているか(16:13)」とイエスが問うと、弟子たちがいろいろと答えたあと、最後にペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです(16:16)」と答える。それに対して、イエスはペテロをほめて応える。「あなたはペテロ(ギリシャ語で『岩』を意味する、筆者注)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない。(16:18)」、「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう(16:19)」。イエスは天でも地でもペテロを自分の後継者と指名し、彼のために教会を建てると約束したのである。それゆえに、ペテロは初代ローマ教皇に擬され、カトリックの総本山である聖ペテロ大聖堂はペテロが殉教したと伝わる場所に創建された。教会の権威はペテロを介してイエスから与えられたことになる。

    この背景を留意した上で、マタイ伝26章の「最後の晩餐」の場面を、さらに追う。過越祭の前に、ユダは事前に祭司長らの所に出かけ、イエスを引き渡す約束をし、報酬として銀貨30枚を事前に受け取る(26:14-15)。祭の初日の夕べにイエスは弟子たちと一緒に過越しの食事をとる(当時は日没から一日が始まる)が、その中でイエスは弟子たちの一人が自分を裏切ると予告する(26:21)。彼らは心配して口々に自分のことではないかと言い始めた(26:22)。イエスは「(裏切るのは)わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者」だと言い(26:23)、ユダが「まさか、わたしではないでしょう」と質問すると「いや、あなただ」とユダを特定する(26:25)。最後の晩餐で、固有名詞が出てくる弟子は、ユダ以外では、ペテロだけである。食事が終わって、ゲッセマネにある農園にのぼり、イエスが死の恐怖に苦悶するときも、呑気に寝ていた弟子たちに失望したイエスの怒りは、筆頭弟子としてのペテロ向かう(26:40)。

    食事のあとオリブ山に出かけときに、ペテロが「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26:33)と誓うと、イエスは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないという」と彼の弱さ、偽善性を指摘する(26:34)。ユダが群衆を伴いイエスを捕縛に来たとき、「イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き」イエスを守ろうとしたが、その名は記されない(26:51)。前後の文脈からは、この勇者がペテロであったとは考え難い。

マルコ伝:マタイ伝と同様に、マルコ伝3:16-19には12使徒が次の順に書かれている。「ペテロ、大ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トーマス、小ヤコブ、タダイ、シモン、イスカリオテのユダ」。途中の順に多少の違いはあるが、筆頭はペテロであり、最後がユダであることは共通している。ピリポ・カイザリヤで、イエスはマタイ伝と同様に弟子たちに問う。「人々は、わたしをだれと言っているか(8:27)」ペテロが「あなたこそキリストです(8:28)」と答える。しかし、イエスがそれを誉め、ペテロのために教会を建てるとは言わない。逆に、口止めをして「彼らを戒めた(8:30)」とある。

    最後の晩餐に先立ち、ユダは祭司長らのところに出かけ、イエスの引渡しを申し出る。祭司長らは喜び報酬を約束するが、金額は示されず事前の支払いもない(14:10-11)。除酵祭の第一日(過越の子羊をほふる日)にイエスは食事中に「わたしと一緒に食事をしている者が裏切ろうとしている」と発言するが名は明かさない(14:18)。「弟子たちは心配して、『まさか、わたしではないでしょう』と言い出す(14:19)」。

    食事が終わってオリブ山に出かけたあとに、ペテロが「たとい、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」というが(14:29)、イエスは彼に、「今夜、にわとりが二度鳴く前に、そういうあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」と、ペテロの偽善を指摘する(14:30)。イエスの捕縛の場面で、イエスのそばに立っていた者の一人が剣を抜いてイエスを守ろうとしたが、その名は明かされない(14:47)。マルコ伝でも、ペテロが弟子たちのなかで優位な地位を占めるが、マタイ伝のように、彼がイエスの最側近者で、後継者であるとまでは言われていない。

ルカ伝:マタイ伝、マルコ伝と同様に、ルカ伝6:14-16には12使徒が次の順で書かれている。すなわち、「ペテロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トーマス、小ヤコブ、シモン、タダイ(ヤコブの子ユダ)、イスカリオテのユダ」である。順序に違いはあるが、ペテロが筆頭でユダが最後である点は共通である。ベツサイダ(ピリポ・カイザリヤではない)で、イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれと言うか」と問い、ペテロが「神のキリストです」と答える(9:20)。イエスは、口止めをして彼らを戒めた(9:21)。マルコ伝と同様に、ペテロの後継指名も、彼のために教会を建てるという約束もない。

    最後の晩餐の前に、サタンが入ったユダは、祭司長たちや宮守がしらたちのところに行って、イエスを引き渡す協議をした。喜んだ彼らは報酬の取り決めをするが、金額は示されず事前の支払いもない(22:3-5)。「過越の子羊をほふるべき除酵祭の日」が来て、イエスは弟子たちと共に食卓についた(22:7-14)。晩餐のなかで「私を裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている」と告げるが、ユダの名は明かされない(22:21)。「弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互いに論じはじめた(22:23)」。食事の中でペテロは「わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」と言うが(22:33)、イエスは「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とぺテロの偽善を指摘する(22:34)。

    食事の後、イエスは弟子たちとともにオリブ山に出かけた(22:39)。ゲッセマネの祈りのあとでは、イエスは「ペテロ」ではなく「弟子たち」を叱る。そこでは、ペテロは筆頭弟子として認められていない(バッハはMP24:3でこれを使った)。捕縛の場面で「イエスのそばにいた人たち(22:49)のうちのひとりが、祭司長の僕(しもべ)に切りつけた(22:50)」とあるが、その名は明かされない。これらのことから、ルカ伝では、ペテロの優位性はマルコ伝よりさらに低下してはいることがわかる。

ヨハネ伝:意外なことに、ヨハネ伝には12使徒全員の名前と序列を示す記述がない。それらしい記述は、イエスに会った順として書かれている部分である(1:40-44)。そこでは、「アンデレ、シモン(ペテロ)、ピリポ」までが書かれている。しかも、最初にイエスに出会ったのはペテロではなく、ペテロの弟アンデレである。多くの弟子が去ったのち(7:66)、残った12人の弟子たちに、イエスが、「あなたがたも、去ろうとするのか(7:67)」と尋ねたとき、ペテロが「わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています(7:69)」と答えたが、イエスはそれに答えず「あなたがたのうちのひとりは悪魔である(7:70)」と、ここでは名をあげることなくユダの裏切りを予告する。ここで、ペテロの言葉がまったく無視されたのは、イエスがペテロを後継者指名したマタイ伝とはもちろん、ペテロを戒めたマルコ伝、ルカ伝とも違う。そのほかに、共観福音書と大きく違うのは、ユダが事前に祭司長らのところに出かけて裏切りを約束する場面がまったくないことである。ユダの裏切りはイエスも了解していたかのごとくに扱われている。それは、イエスの臨終の言葉(口語訳「すべてが終わった」だが、ラテン語訳「consummatum est」、ルター訳「Es ist volnbracht」は「ことは成就した」)とも矛盾しない。最後の晩餐は過越祭の日ではなく、その前日(13:1)の夕食である。ユダの裏切りを知っていたイエスは夕食の前に弟子たちの足を洗い、その意味は後にわかるとだけ告げる(13:4-15)。これらのことからは、ヨハネ伝の著者は、他の3つの福音書を参考にしてはいないと推量されていることが納得できる。食事の中で、イエスは弟子たちのひとりが裏切るともう一度予言したが、弟子たちは誰の事かわからず、互いに顔を見合わせた(13:21-22)。弟子たちのひとりで、イエスの愛していた者が、イエスの胸に近く座っていて(13:23)、ペテロが彼にイエスが誰の事を言ったのか聞いて、知らせてくれと頼む(13:24)。その弟子はイエスの胸によりかかって、誰の事かと問う(13:25)。イエスは「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」と言ったのち、イスカリオテのユダに与え(13:26)、「しようとしていることを、今すぐするがよい」と言う(13:26)。しかし、イエスが言った言葉の意味は誰にもわからず(13:28)、人々は、ユダが(教団の)金入れをあずかっていたので、イエスが彼に「祭のために必要なものを買え」と言ったか、あるいは貧しい者に何か施しさせようとしたのだと理解した(13:29)。ユダが去ったあと、弟子たちはイエスの長い説教を聞く。最後に、ペテロが「あなたのためには命も捨てる」(13:37)というのを、鶏が鳴く前に自分を三度否定すると予言し、ペテロの偽善を指摘する(13:38)。食事が終わった後、オリブ山に出かける場面はない。したがって、イエスが恐怖に苦悶するゲッセマネの祈りも、その時に呑気に寝ていた弟子たちを叱責する場面もない。捕縛の場面では、「シモン・ペテロは剣を持っていたが、それを抜いて、大祭司の僕(しもべ)に切りかかり、(18:10)」とある。ここで他の福音書では出て来ない勇者の名が突然「ペテロ」であることが明らかになる。その前にペテロへの無視、偽善の指摘が続いたあとだけに、やや唐突な印象を受ける。それを見たイエスは、「剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか」と言い、ここでもペテロが自分を理解していないことをとがめる。ヨハネ伝の最後には、甦ったイエスがペテロの誠意を疑うように「あなたは、わたしを愛するか」とペテロに何度も問うので、彼も悲しくなったとある(21:17)。ヨハネ伝21;20には「最後の晩餐」でイエスの胸近くに身を寄せていた愛弟子がヨハネであったことが明かされ、ペテロが嫉妬する様子も書かれている(21:21)。



Table 13. Major incidents relating to ‘The Last Supper’ by L. Da Vinci are shown with their biblical references in the respective gospels.


 According to the Matthew Gospel, the betrayer is a man who has dipped his hand in the dish with Jesus. In the John Gospel, it is a man to whom Jesus gives the morsel when he has dipped it. Then, Judas can be identified in these two Gospels as the betrayer. ‘A guard for Jesus with sword (John 18:10)’ may not concern to the last supper but is listed here, because Da Vinci uses this episode as a trick to indicate that his ‘Last Supper’ is truly based on the John Gospel. This implies that the betrayal reward (30 pieces of silver) should not be in Judas’ bag in his work, because it appears merely in the Matthew Gospel (26:15). This effectively emphasizes also Peter’s hypocrisy, since Jesus predicts repeated denials of Jesus by Peter during the supper (see the text). English expressions are based on the RSV (1946).


日本語はこちら


13. 「最後の晩餐」に関係する主要な出来事とそれぞれが記述されている福音書の章節。


マタイ伝では「わたし(イエス)と一緒に同じ鉢に手を入れている者(26:23)」、ヨハネ伝では「わたし(イエス)が一きれの食物をひたして与える者(13:26)」が裏切るとあり、裏切り者がユダとして特定される。「剣を抜きイエスを守る勇者」は、イエスが捕縛される場面の話であり、「最後の晩餐」とは直接の関係はない。ダ・ヴィンチはこの逸話を利用し、《最後の晩餐》がヨハネ伝に基づくことを強調すると同時に、それによってユダが持つ金入れ袋もマタイ伝ではなく、ヨハネ伝に従っていることを暗示している。裏切りの報酬(銀貨30枚)が入っている袋を卓上に持つと解釈する通説は間違っている(本文参照)。ペテロは最後の晩餐のなかでイエスに偽善性を指摘されており、食事中のペテロに剣を持たせる事で、ペテロの偽善性が強調される効果もある。日本語表現は口語訳聖書(1963)に準じる。


Table 13を見ると、ヨハネ伝では、共観福音書とりわけマタイ伝と比べて、ペテロの優位性を示す記事がほとんどなくなることに気づく。キリスト教に改宗しないユダヤ人への最後通牒として書かれたと言われ、ユダの裏切りを強調し、ペテロが筆頭弟子として重要視されるマタイ伝では、イエスの人間性があふれる。ユダの裏切りに我を失い、彼について「その人はわざわいである。生まれなかった方が、彼のために良かった(26:24)」とまでいうイエスには、神の威厳はない。しかし、その分だけ、読む者にはイエスの苦しみ、辛さが伝わり、人々の罪を背負って身代わりに死ぬ彼に感謝と感動を覚える。ヨハネ伝では、イエスが死に怯え、苦悶する様子は書かれていない。イエスは、旧約で定められたように行動し、悄然と死を迎える。ユダはイエスを裏切るというよりも、イエスが進もうとする道を準備し、あるいは手伝うかのように行動する。むしろ、イエスにすれば、自分を理解しないペテロの言動は妨害であるかのように思えたようである。イエスはペテロをあるいは無視し、あるいは戒める。マタイ伝のようにペテロを後継者として指名することもなく、彼のために教会を建てると約束することもない。捕縛の場面でイエスを守ろうとして祭司長の下僕に切りかかったペテロは、妨害者のごとくとがめられる。したがって、「最後の晩餐」がマタイ伝に基づくか、ヨハネ伝に基づくかは、絵のテーマが180度も転換する重要な選択となる。そして、画家は、マタイ伝のペテロと、ヨハネ伝のペテロの違いは、理念上の違いもさることながら、彼をどこに座らせるかで究極の選択をしなければならなかった。具体的には、イエスの隣に座るのは、イエスが愛したヨハネ(ヨハネ伝13:23)か、イエスが後継者に指名したペテロ(マタイ伝16:17-19)か、という問題である。もちろん、イエスを中央に描き、左右に一人ずつ座らせれば、両方を実現できないでもない。しかし、それでもヨハネ伝の記述とは矛盾する。ヨハネ伝では、ペテロはヨハネよりもイエスから遠くにいなければならない。ここで、マタイ伝派とヨハネ伝派に画家たちは分かれた。中には、苦し紛れに矛盾する福音書の両方を立てるために、禁じ手を使う画家もいた。異時同図法ならぬ、異書同図法である。



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