11章(3) 宗教的抑圧への芸術的抵抗(Artistic resistances to religious suppressions

  1. (II)一神教的価値観への挑戦  (Challenges to the monotheistic values)


─ダ・ヴィンチコードの真実─ (-Da Vinci Code in reality-)


(vi)初期キリスト教と最古の「最後の晩餐」図 (Early Christianity and the oldest depictions for the ‘the Last Supper’)


最古の「最後の晩餐」図(The oldest depictions for ‘the Last Supper’


新約聖書は1世紀後半〜2世紀前半ころに成立したと言われる。その後、現在の形が第三回カルタゴ会議(397)で正式に決定、公表されるまでに、さまざまな「愛の晩餐(Agape feast)」図がカタコンベの壁に描かれた(注1)。中にはイエスと12使徒を思わせるものもあるが(Fig. 24 A)、多くは人数もまちまちで、福音書との関係だけでなく、キリスト教との関係すら議論することが難しい。最後の晩餐ではなく、来る世でのイエスとの正餐の場面と解釈されているものや、ユダヤ教、ローマ土着の宗教との融合が推察されるものもある。劣化が激しいこともあり、それらと福音書の関係を議論することはほとんど不可能に近い。


Fig. 24.  The oldest depictions for ‘the Last Supper’ in the early Christianity and early Medieval.

    Years, techniques and current locations

     初期キリスト教時代と中世初期に描かれた最古の「最後の晩餐」図

     制作年、技法、所在地




(A) 2-3 Century, fresco, Roman catacomb. Obtained fromAgape feast in a catacomb’.

  2−3世紀頃、フレスコ、カタコンベ(ローマ).






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(B) Beginning of 6th Century, mosaic, Basilica di Sant'Apollinare Nuovo, Ravenna, Italy.  Obtained fromSacred Destinations’.

6世紀初頭、モザイク、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(イタリア、ラヴェンナ).




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(C) 6th Century, an illustration in the Rossano Gospels, Diocese Museum at Rossano Cathedral, Calabria, Italy. Obtained fromCodex Purpureus Rossanensis

6世紀、ロッサーノ福音書挿絵、ロッサーノ司教区美術館(イタリア,カラブリア).



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福音書との関係が議論でき、現存する「最後の晩餐」図で最も古いものは、世界文化遺産に登録されているラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(注2)の壁に残されたモザイク画である(Fig. 24 B)。この聖堂は、東ゴート王国テオドリック大王(454-526)の命令で490年にアリウス派の教会堂として創建された。テオドリック自身もアリウス派に属していた。しかし、東ゴート王国は540年に滅ぼされ、ラヴェンナに東ローマ(ビザンチン)帝国の総督府が置かれたときに、教会堂はアタナシウス派に改宗させられた。その時、アリウス派の思想を反映した装飾はことごとく改装、補修されたという。このモザイク画は6世紀初頭の作と推定されており、それが正しいならアタナシウス派はこの構図を受け入れたことになる。後の「最後の晩餐」との比較で重要なことは、このモザイク画ではイエスが画面左端に座り(実際には当時の風習に従い下半身を横たえている)、イエスの隣にペテロ(白髪の使徒)が描かれていることである。ユダは画面右端の末席に座る。イエスとペテロの手がユダを示し、少なくとも8人の弟子がイエスに差された方向に座るユダに視線を向けている。イエスや他の弟子たちの間には隙間はないが、ユダだけは隙間が空いて彼が物理的、心理的に孤立している状況が描かれている。ペテロからユダへの序列がマタイ伝(10:2-4)に従って描かれているならヨハネはペテロから4人目に描かれていることになるが証拠はない。この構図は、ヨーロッパで最古の新約聖書(6世紀)であるロッサーノ写本の挿絵と似ている(Fig. 24 C)。この挿絵は、マタイ伝26章21節の下に挿入されており、マタイ伝に基づいて描かれていることは明らかである(注3)。ただし、ユダは鉢に手を伸ばす姿で描かれているので、末席ではなく6人目に座る。これもマタイ伝(26:23)に基づく描き方には違いない(Table 13)。しかし、これらの描写ではヨハネの特定はできない。

イエスはペテロを後継指名し、岩(ギリシャ語でペテロ)の上に彼の教会を建てると約束した(マタイ伝16:17-19)。教会の壁にイエスの最側近としてペテロを描くことは、その教会がペテロから相続した正統なものであると主張する意味があった。初期キリスト教の時代には、教会の権威はペテロを介してイエスから与えられたと考えられていたからである(注4)。ペテロがイエスの隣に座ることは、彼が筆頭弟子であったとする共観福音書と整合するが(マタイ伝10:2-4、マルコ伝3:16-19、ルカ伝6:13-16)、この構図を引き継いだ「最後の晩餐」は、現存する限りではこれを最後に見られなくなる。以下、このように「ペテロがイエスの側近として一人だけ隣に座る」構図をマタイ伝(M)型と呼ぶ。

その後の中世初期(c.500〜c.1000)に、まったく描かれなかったとは考え難いが、いずれにしても次の「最後の晩餐」図は中世盛期(c.1000〜c.1300)に飛ぶ。その図は、一転してヨハネ伝に基づいて描かれる。マタイ伝からヨハネ伝への転換を理解するには、初期キリスト教で最大の対立となったアリウス派とアタナシウス派の異端論争について知っておく必要がある。以下の記述は、主に「新共同訳新約聖書注解Iマタイによる福音書—使徒言行録(川島貞男、橋本滋男編集、日本基督教団出版局)」、「ローマ人の物語、XII、XIII、XIV(塩野七生著、新潮社)」、「書物としての新約聖書(田川建三著、勁草書房)」を参考にした。必要に応じてWikipediaも利用したが、取り上げたのは「最後の晩餐」図を理解するために必要な情報が中心であり、客観的ローマ帝国史でもキリスト教史でもない。



注1 英語で、catacomb(カタコーム)。もとは地下墳墓一般を意味するが、時としてローマ帝国時代に弾圧を逃れたキリスト教徒の避難場所として利用された。ローマのサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会(Basilica di San Sebastiano fuori le mura)の地下墳墓が有名だが、ローマだけではなくパリを初め、現在の中近東を含むローマ帝国に広く分布していた。遺体の埋葬場所であるが、壁画の装飾が施されていたものが多い。

注2 イタリアのエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県の県都にあり、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。現在の名は、9世紀に近くの港で発見された聖アポリナリスの遺物に由来する。この壁画のテーブル中央に置かれた魚料理は初期キリスト教徒が弾圧を免れるために使ったイエスを意味する符号とされる。ユダヤ教では、過越祭で無発酵のパン(ペサハ)とオスの子羊の肉を焼いた料理を食べるので、その意味ではこの絵はマタイ伝の記述と合わない。魚(ギリシャ語でΙΧΘΥΣ[イクトゥス])がイエスの象徴として使われた理由には諸説あるが、一説ではギリシャ語で「イエス(ΙΗΣΟΥΣ)、キリスト(ΧΡΙΣΤΟΣ)、神(ΘΕΟΥ)の子(ΥΙΟΣ)、救世主(ΣΩΤΗΡ)」の頭文字をつなぎ合わせたと言われる。後の「最後の晩餐」図は、魚料理、子羊料理、不明なものと分かれる。ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》は近年の修復時に、魚料理だったことが明らかになったとされている。

注3 この写本は、南イタリアのカラブリア州コゼンツァのロッサーノ大聖堂で1879年に発見された。ヨーロッパで最古の写本である。羊皮紙をムラサキガイから抽出した赤い染料(プルプレウス)で染めた冊子本(コデックス、巻本[スクロール]に対する言葉)で、ラテン語でCodex purpureus rossanensisと呼ばれる。ロッサーノ福音書は、マタイ伝と大部分のマルコ伝、ルカ伝の一部を含む。大部分のルカ伝とそれ以降の新約聖書の後半部分は発見されていない。

   この挿絵の上には、

  ΑΜΗΝΛεΓωΥΜΙΝΟΤΙεΙσ

  ΕΞΥΜωΝΠΑρΑΔωσεΙΜε

  と読めるギリシャ語テキストが確認できる。

  ネストレ=アーラント版(左近義慈・平野保監修、川端由喜男編訳「ギリシャ語新約聖書1マタイによる福音書」)では、


Άμὴν      λέγω           ὑμῑν             ὅτι        εἷς    ἐξ      ὑμῶν  

(1)まことに (3)私は言う   (2)あなた方に  (9)     (6)一人が (5)うちの   (4)あなた方の


          παραδώσει      με

  (8)裏切る     (7)私を


  となっている。

  口語訳聖書(1963)では、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と訳される。

注4 アリウス派が消滅した後に、ローマカトリック(アタナシウス派)は、教皇はイエスの直接の代理人であると主張するようになり、ペテロは教会の権威の象徴的存在となる。カトリックから分離したプロテスタント諸派も同様である。


「愛」から「憎悪」へ(From ‘Love’ to ‘Hatred’

イエスなき後、第一世代の使徒たちが布教する原始キリスト教の時代に、内紛はすでに始まっていた。それにもかかわらず、キリスト教は信者を広げ、布教は着実に進んだ。その成功に重要な役割を果たしたのは、ユダヤ教から改宗したサウロ(後のパウロ)だった。しかし、彼の布教もイエスの筆頭弟子で、イエスから後継者に指名されたペテロ(マタイ伝16:17-19)の存在なくしては難しかったと思われる。教団内で起こった個々のトラブルはペテロの名で裁き、処断することができたし(使徒行伝5:1-10)、分派的内紛も彼の一言で沈黙させることができた(同15:2-12)。パウロが異教からの男子改宗者に割礼を免除したことは、キリスト教が世界宗教へと脱皮する分岐点になったが、ユダヤ教からの改宗者たちには許し難いことだった。しかし、そのような批判も、ペテロの言葉で沈黙させられた(同15:7-11)。非ユダヤ教徒の成人男子が改宗に際して割礼を要求されることには心理的抵抗があったはずだ。その抵抗を除いたパウロの戦略は画期的だったに違いない。それは、キリスト教が、ユダヤ教イエス派として留まるか、民族を超えて普遍的愛を説く世界宗教となるかの分水嶺だった。しかし、キリスト教の急速な拡大は、ローマ帝国の支配者に不安と警戒心を与えた。西暦64年7月19日に起こったローマの大火を、皇帝ネロ(在位54-68)はキリスト教徒の放火と断定して弾圧した(自作自演説もある)。ペテロを含む多くの殉教者を出したとはいえ、これはまだ例外的な迫害に過ぎなかった。しかし、結果として、この迫害と殉教はローマ帝国全土でキリスト教徒の結束を以前にも増して強くすることになった。この事件を別の視点から見れば、イエスの死後30年そこそこでキリスト教は中近東から、バルカン半島を経てローマにまで広がり、帝国の首都を脅かす存在になっていたことを物語っている。その後、キリスト教組織がより強固になったことで、支配者たちの不安は恐怖へと発展した。もはや、一都市の治安問題だけではすまなかった。キリスト教信仰それ自体を帝国の全体で弾圧する皇帝が次々と現れたのである。最初の大弾圧はデキウス(同249-251)に始まり、ウァレリアヌス(同253-260)、ディオクレティアヌス(同284-305)と続いた。しかし、これらの弾圧もキリスト教を壊滅させることはできなかった。彼らの組織力はさらに強くなったのである。それを目の当たりにしたコンスタンチヌス1世(同306-337)は、逆にキリスト教を帝国の制覇と支配の道具にすることを思いついた。キリスト教徒を味方にすることで、彼は実際に戦いを有利に進め、帝国の再統一に成功したのである(注1)。それに先立ち、彼は東の皇帝で義兄弟(妹の夫)のリキニウス(同308-324)と連名でミラノ勅令(313)を発布し、キリスト教を公認する。文面上は一般的な信教の自由を認めたものだが、実質的にキリスト教が対象だった。しかし、迫害が無くなったキリスト教にとって、この合法化はある意味では不幸の始まりだった。それは、愛の宗教であったはずのキリスト教が、その後1000年以上も続く憎悪と殺戮の宗教になる幕開けであった。


注1 312年のミルウィウス橋の戦いに向けて行軍するコンスタンチヌス1世の眼前に「キリスト」のギリシャ語表記(Χριστος)の最初の二文字(ΧΡ)が現れたという伝説が生まれた。以後、ローマ軍兵士の盾には、下のような紋章が見られるようになった。

  



アリウス派とアタナシウス派の対立(Confrontations between Arian and Trinitarian beliefs


東西ローマ帝国を再統一する過程で、キリスト教の守り手となったコンスタンチヌス1世は、多くのライバルを処刑しただけでなく、降伏したリキニウスとその息子(325)、リキニウス軍を破る功をたて、兵士たちに人気のあった自分の長男クリスプス(326)と続けて処刑し、さらに妻をも蒸し殺す。呪われたかのように近親者の殺戮を繰り返した皇帝に、キリスト教は大帝、聖人、亜使徒などの称号を与えた。しかし、彼によって信教の自由を保証されたキリスト教はその内部に深刻な対立を抱えることになった。「絶対的唯一神を信奉し、イエスは神の被造物(神の子)=人」とするアリウス(c.250-336)派と、「『父と子と聖霊』は同質であり、イエス=神」とする三位一体説を主張するアタナシウス(298-373)派の対立である。それぞれの教会は、お互いを悪魔と罵り、激しい異端論争を始めた。ネロの弾圧でペテロが殉教して以来、キリスト教の中にこのような内部対立を裁き、解決できるものはいなくなっていた。どちらの教会も、自分たちこそが使徒ペテロの正当な後継者と主張し、相手を悪魔と罵ることで沈黙させようとした。コンスタンチヌス1世にとって、この事態は好ましくなかった。このような対立を生んだ責任は自分にあると思ったのかもしれない。彼にとって、状況は深刻になりかねなかった。ペテロに代わって、キリスト教の正統性を決めるという役割を、皇帝ではあるが未だ洗礼も受けていないコンスタンチヌス1世がかって出ることになった。自分たちで解決できず、近親憎悪をつのらせた両派はこの不条理を受け入れるしかなかった。

ニケア(現トルコ領イズニク)で開かれた第1回二ケア公会議(325)の中で、両派と中間派が入り乱れて多数派工作が始まった。そして、皇帝は多数派となった「三位一体説」に軍配をあげたのである。会議は中間派の取り込みに成功したアタナシウス派の勝利に終わった。彼はそれぞれの教義を理解した上で裁定したのではない。たんに、多数派となったアタナシウス派に、より利用価値があると判断したにすぎない。その証拠に、12年後に彼がニコメディア(現トルコ領イズミット)で死の直前に洗礼を受けたのは、アタナシウス派が悪魔と呼んだアリウス派の司教からだった。当時、死期を間近にして洗礼を受けるというのは珍しくなかったとはいえ、自分が異端と決めた教派に属する司祭から洗礼を受けるというのは常識的には理解しがたい。理由はともかく、この経緯は、公会議が異端と決定したアリウス派がすぐには消滅しなかったことを示している。

コンスタンチヌス1世の死後もすぐには両派の勢力地図に大きな変化はなかった。その後、コンスタンチウス2世(在位337-361)がアリウス派を支持したこともあり両勢力の消長が続いた。ローマ帝国は395年に再び東西に分裂し、これを最後に、東西ローマ帝国が再び統一されることはなかった。西ローマ帝国は480年ころにゲルマン民族の大移動によって滅亡する。西洋史では、この年に中世が始まったとするのが一般的である。イタリア半島を含む旧西ローマ帝国領を占領したゲルマン系(東、西)ゴート王国ではアリウス派が勢力を伸ばした。西ローマ帝国の庇護を得ることができなくなったアタナシウス派も自立する方向へと進む。遅くとも5世紀半ばまでには、ローマカトリックとしての基礎を築いていたアタナシウス派は、ローマ司教(Episcopus Romanus)がペテロの正統な後継者であるとして、初代司教をペテロとする系統譜を作った。のちに初代司教のペテロにさかのぼり「ローマ司教」をイエスの代理人=教皇(Pāpa)と呼ぶようになる。

アリウス派はユスティニアヌス1世(在位527- 565)の時代に東ローマ軍が東ゴート王国の首都であるラヴェンナを陥落させるまでは、ゲルマン系諸族に勢力を拡大していた。後にサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂となるラヴェンナの教会堂も、アリウス派の教会堂としてそのころに創建された。東ローマ帝国が東ゴート王国を滅ぼし、ラヴェンナを併合した結果、アリウス派の教会はローマカトリックとなったアタナシウス派に改宗させられた。一方、中近東に逃れたアリウス派は、教義の似たイスラム教の下地となり、次第にとって代わられる(注1)。アリウス派がヨーロッパから完全に消えたのは、イスラム教がイベリア半島からヨーロッパに侵入し、西ゴート王国(現スペイン、フランスの地中海沿岸地方)を滅ぼした711年頃と思われる。お互いを悪魔と罵った憎悪の対立はアタナシウス派の完全な勝利に終わり、アリウス派は歴史から消えた。三位一体説をとらない今日のキリスト教系諸派もアリウス派との継承関係はない。


注1イスラム教とアリウス派は絶対的唯一神を信仰し、イエスを人と考えるという共通点があったので、中近東のアリウス派はイスラム教が広がる下地を作ったと言われる。


マタイ伝からヨハネ伝へ(From Matthew’s to John’s Gospels

以上のようなキリスト教の歴史は「最後の晩餐」の描写にどのような影響を与えたのか? 自分たちこそがペテロから教会を引き継いだ正統であると主張する中世初期までの教会は、どの派であれ「最後の晩餐」がマタイ伝に基づいて描かれることに異論はなかったはずだ。ペテロはイエスに出会った最初の弟子であり(マタイ伝4:18)、12使徒の筆頭であり(同10:2-4)、「岩(ギリシャ語でペテロ)のうえに、あなたのための教会を建てる」とイエスに約束された側近だった(同16:17-19)。「最後の晩餐」でペテロが側近として、イエスのすぐ隣に座るのは当然だった(Fig. 24 B)。その意味ではアリウス派のモザイク画を、アタナシウス派が受け入れたのも不思議ではない。しかし、アリウス派との異端論争の過程で、アタナシウス派は、次第にマタイ伝からヨハネ伝に重心を移して行く。マタイ伝に記述されたイエスは人間的弱さや死への苦悶を吐露し、三位一体説にとってはやや不利である。それに対して、ヨハネ伝のイエスは超然として死に臨み、悩み、苦しむ言葉を発することはない。しかし、アリウス派が完全に消滅した中世初期も半ばを過ぎると、ローマカトリックとなったアタナシウス派の教会は、自分たちこそがペテロの正統な後継であると競う必要はなくなった。ローマ教皇は(ペテロを介することなく)イエス・キリストの直接の代理人と名乗り始めた。イエスの人間性よりも神性を前面に出す方が利益に適うことになる。そのような背景で、マタイ伝が重視するペテロよりも、ヨハネ伝がイエスに愛されたと伝え、ペテロが嫉妬さえ覚えた(当時、17〜18歳の美少年だったとされる)使徒ヨハネ(ヨハネ伝13:23、21:20-22)を重視する「最後の晩餐」が必要となった。「父と子と聖霊」が同質であるとする三位一体説を信者に浸透させるには、イエスの言葉をロゴスとし、それが神と一体であるとしたうえで(ヨハネ伝1:1-10)、イエスが十字架上で「すべてが終わった(同19:30)」と悟りきったように息を引き取ったとするヨハネ伝は、イエスが死に怯えて苦悶し(マタイ伝26:39)、十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(同27:46)」と弱さを露呈するマタイ伝よりも都合がよかった。

その結果、中世盛期(1000年頃〜1300年頃)の「最後の晩餐」は初期のマタイ伝(M)型構図を一変させた。ヨハネ伝(13:23-24、21:20-22)によれば、物理的にも心理的にもペテロはヨハネよりもイエスから遠いはずの存在であった。



(vii)中世盛期、後期の「最後の晩餐」図(Depictions for ‘the Last Supper’ in the high and late Medieval ages


イエスの隣に座る使徒ヨハネ(St John sitting beside Jesus

中世盛期に入った「最後の晩餐」図はヨハネ伝重視を鮮明にする。アリウス派が消滅し、中世初期も半ばを過ぎた896年に聖ペテロ大聖堂(注1)を総本山としたローマカトリック(アタナシウス派)にとって、ペテロの後継としてどちらの教会が正統かを争う相手はすでに存在しない。むしろ、イエスと神を同質とする「三位一体説」を信者に浸透させることが神学的優先課題となった。そうした中で、イエスの横に使徒ヨハネを座らせるフォルミスのサンタンジェロ修道院のフレスコ画(1080)が現われる(Fig. 25 A)。そこでは、ペテロはヨハネの次席に座る。ただし、この構図には、イエスに愛されたヨハネを別格とすれば、ペテロが他の弟子たちのなかでは筆頭であるというニュアンスがまだ残っている。ユダの裏切りはロッサーノ写本と同じく、マタイ伝にしたがって、鉢に手を入れるものとして表現された。ロッサーノ写本では、ユダはイエスから画面右へ6人目に座るが、このフレスコ画では8人目である。全体の構図は中世初期と大差なく、半円のテーブルでイエスは画面左端に座り、全ての弟子がその右に並ぶ。ユダについては、マタイ伝など共観福音書の序列(ユダは最後)にはしたがっていないが、この構図ではユダを末席(画面右端)に描くのは難しい。イエスとユダを左端と右端に描いたのでは「私といっしょに同じ鉢に手を入れたもの(マタイ伝26:23)」を表現するには、イエスかユダ(あるいは両方)の手首を「ろくろ首」のように伸ばさねばならない。このフレスコ画で重要な点は、イエスの隣に美少年、または女性的に描かれた使徒ヨハネが座るというヨハネ伝(J)型構図の原型が現われたことである(注2)。


Fig. 25. Depictions for ‘the Last Supper’ in the high Medieval.

       中世盛期の「最後の晩餐」図

       Years, authors, techniques and current locations.

       制作年、作者、技法、所在地


(A) 1080, Italo-Byzantinischer Meister, fresco, Sant'Angelo, Formis, Italy.

1080年、イタリア-ビザンチン系職人、フレスコ、サンタンジェロ修道院(イタリア、フォルミス)








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(B) c. 1182, anonymous, mosaic, Duomo di Monreale, Medieval, Sicily, Italy.

1182年頃、作者不詳、モザイク、モンレアーレ大聖堂(イタリア、シシリー)








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(C) c. 1184, Anselmo da Campione, painted marble, Duomo di Modena, Medieval, Modena, Italy.

1185年頃、 アンセルモ・ダ・カンピオーネ、 大理石彫彩色画、モデナ大聖堂(イタリア、モデナ)







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An open triangle and those in green, blue and red indicate Peter, Judas, John and Jesus, respectively. Original images were obtained from ‘the Web Gallery of Art(A), ‘Art and Faith (B) and ‘Christ Church

(Anglican) Windsor, Nova Scotia’ (C).


白、緑、青、赤の三角印はそれぞれペテロ、ユダ、ヨハネ、イエスを示す。



同じく中世盛期だが、一世紀後のモザイク画も、ヨハネとペテロをヨハネ伝に基づいて描いている(Fig. 25 B)。ユダは画面手前でイエスから食べ物を受ける姿で描かれて(ヨハネ伝13:26)いるので、ヨハネ、ペテロ、ユダの三人ともがヨハネ伝に基づいていることになる。この直後に、ユダにサタンが入った(ヨハネ伝13:27)。ヨハネがイエスの胸近くに身を寄せるか、あるいはイエスの前に伏す姿(ヨハネ伝13:23-25)が現われたのは、壁画ではこのモザイク画が最古の例である(注4)。以後、ほとんどの描写でヨハネはどちらかの姿で描かれる。このモザイク画の数年後には、後のダ・ヴィンチの描写に近い構図が現われる。そこでは横長矩形のテーブルにユダを含む全ての弟子たちがイエスの左右に並ぶ(Fig. 25 C)。しかし、ダ・ヴィンチの作品とは重要な違いが三点ある。1) ペテロがヨハネの反対側でイエスの隣に席をとる(マタイ伝型)こと、2) イエスが右手に食べ物を持ちヨハネの頭越しにユダの口の中に入れようとしていること、3) イエスと弟子たちの頭上に光輪が描かれていることである。やや奇妙に見えるのは、ここでユダを含む12使徒の全員に、イエスと同じ黄金色の光輪が描かれていることである。実物を見ていないので断定はできないが、ありうる解釈の一つは、ユダの裏切りはユダ自身の意思ではなかったことが表現されているというものである。ユダの裏切りは最後の晩餐前にすでに始まっていたとするマタイ伝ではこの解釈は成り立たないが、ヨハネ伝はその可能性を残している。なぜなら、ヨハネ伝はユダがイエスから「食物を受けるやいなや、サタンが入った(13:27)」と伝えており、それまでのユダに裏切りの意図はなかったことが暗示されているからである。実際に、ヨハネ伝は「イエスは自分の身に起ころうとすることをことごとく承知して」(18:4)、十字架上で「すべてが終わった」(ヨハネ伝19:30)と言い残したと伝えている。神学的には、受難は旧約による予定の成就である。ヨハネ伝が伝えるユダの裏切りは、イエスの予定を成就させる役回りに過ぎなかったことになる。その場合は、ユダの裏切りはイエスが彼に与えた役割=仕事であると解釈できる。

ヨハネはイエスの隣で前に伏す、ペテロ(白髪の使徒)は筆頭弟子としてイエスの反対隣に座る。イエスが信頼して後継に指名したペテロ(マタイ伝)と、イエスが愛したヨハネ(ヨハネ伝)のどちらをイエスの隣に座らせるかは、イエスが画面左端に座る「中世初期、盛期の壁画(Fig. 24 B, C; Fig. 25 A, B)」では二者択一とならざるを得ない。両福音書の矛盾を両立させる構図として現われたのが、中央にイエスを配し、弟子たちを左右に配するという図法である(Fig. 25 C)。イエスの両隣に、一人ずつ二人分の側近席を設けることで、一つの図の中に、矛盾する二つの福音書を両立させたのである。いわば、異時同図法ならぬ異書同図法である。以下では、イエスの左右にヨハネとペテロが座る図法を第一異書同図法と名付ける(Fig. 25 C)。しかし、この図法は、「ペテロがヨハネに合図を送って」イエスへの質問を依頼したとするヨハネ伝(13:24)とは矛盾する。ペテロはヨハネよりもイエスから離れていなければならないからである。

ペテロを重視するマタイ伝とヨハネを重視するヨハネ伝の矛盾は、中世後期の画家たちに戸惑いを与えたらしい。あるいは教会から干渉や要請があったのかもしれない。マタイ伝のみに従ってペテロの重要性を強調した中世初期の構図(Fig. 24 B, C)では、三位一体説に不利である。マタイ伝に書かれたイエスはあまりにも人間性にあふれ、死を前に弱さやためらい、ユダへの罵りや神への恨み言さえ残す。その点では、ヨハネ伝は冒頭からロゴス(=イエスの言葉)と神を同一とするので、三位一体説に有利だった。しかし、ヨハネを重視するあまり、相対的にペテロを軽視した中世盛期の構図(Fig. 25 A, B)では、教会の権威に傷がつきかねない。ペテロはイエスから直接に「天国の鍵」を受け取り、後継者として指名された筆頭弟子である(マタイ伝16:17-19)(Fig. 26)。そして、ローマカトリックではペテロは初代ローマ教皇に擬されていた。


Fig. 26. St Peter receiving the Keys of the kingdom of heaven from Jesus

       イエスから天国の鍵を受ける聖ペテロ










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1481-82, ‘Christ Handing the Keys to St Peter’, fresco painting on wall, early renaissance, Cappella Sistina, Vatican.


1481-82年、「聖ペテロに天国の鍵を手渡すキリスト」、フレスコ壁画、初期ルネサンス、システィナ礼拝堂(ヴァチカン)



神学的には、教会の正統性はペテロに発している。アリウス派消滅のあとで、ヨハネ伝のみに固執することにリスクもあった。中世盛期に長く続いた十字軍の運動も惨憺たる結果に終わり、教会の権威が傷つきはじめたころでもある。なんとしてもペテロをイエスの側近として描くことで、教会の権威を強調、復興する必要性が出て来た。

そのために生まれた異書同図法ではあるが、第一の図法では、ペテロがヨハネよりもイエスから離れていなければならないというヨハネ伝と矛盾することは先に述べた。その矛盾を回避するために、中世後期に入って最初の「最後の晩餐」を描いたジョット・ディ・ボンドーネ(1267-1337)は第二の異書同図法を採用した。


注1 日本語では、イタリア語の発音に従い「サン・ピエトロ大聖堂」と表記することが多い。建物はコンスタンチヌス1世の指示で4世紀初頭に創建された。当初は、聖ペテロの巡礼地礼拝堂だった。ペテロが殉教した場所にあった墓所に建てられたことになっているが、そこが殉教の地であることも、実際にそこに埋葬されたということも確証はない。総本山は、長くヴァチカン市外の聖ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂にあったが、896年に聖ペテロ大聖堂が首席大聖堂となった。

注2 小説の「ダ・ヴィンチコード(ダン・ブラウン著)」は、ダ・ヴィンチが《最後の晩餐》でイエスの画面左に描いているのは女性であり、マリア・マグダレーナであると主張する。ブラウンは、彼女がイエスと結婚して子をなし、その血統は現在に続くとする一大フィクションをミステリー小説にしあげた。かなりの読者がそれを真実と思うようになったことで、カトリック教会も無視できなくなり、否定する声明を出したことは周知の通りである。しかし、イエスの隣に、美少年の(あるいは女性的)使徒を描くというのは、本論で述べたように、少なくともダ・ヴィンチの400年以上前から始まったことであり、ダ・ヴィンチのオリジナルではない。ヨハネ伝(13:23)に「弟子たちの一人で、イエスが愛していたものが、イエスの胸近く、席についていた(ウルガータ本:Erat ergo recumbens unus ex discipulis eius in sinu Iesu quem diligebat Isus. ルター訳:Es war aber einer unter seinen Jüngern der zu tische sass an der brust Jhesu welchen Jhesus lieb hatte. RSV: One of his disciples, whom Jesus loved, was lying close to the breast of Jesus;)」とあり、その愛された弟子が、ヨハネ伝の著者であったことが最後に(21:20)記されている(ただし、現在ではヨハネ伝の著者は使徒ヨハネではないと考えられている)。使徒ヨハネ(洗礼者ヨハネとは別)は使徒の中で最若年であり、「イエスが愛していた」、「胸近くに伏せていた」という記述から美少年のイメージがつくられた。したがって、この人物が女性的に描かれていることが、(秘密結社のメンバーであるという)ダ・ヴィンチの暗号(コード)ではありえない。それを根拠に、ダ・ヴィンチが、「イエスはマリア・マグダレーナと結婚し、子を残した」と主張するのは荒唐無稽としか言いようがない。百歩譲ってそれを認めれば、「最後の晩餐」を描いた中世盛期後のすべての画家が同じ暗号(コード)を使ったことになり、それでは暗号の意味はない。

注3 M. Ladweinによれば、ヨハネがイエスに寄りかかる最古の例は、ヴェローナのサンツェーノ聖堂のドアに取り付けられたブロンズのレリーフ(11世紀末)である。そこでは、弟子たちはユダを含めて8人しか登場しない。ユダは初期ルネサンスで主流となった横長矩形のテーブル手前に孤立する姿で登場するが、彩色されていないので、ペテロ、ユダの相貌や髪の色などは判定できず、本稿では解析対象としない。


ヨハネ伝とマタイ伝の間で(Between John’s and Matthew’s Gospels


中世後期、最初の「最後の晩餐」はジョットが1304-06年に描いたフレスコ画である(Fig. 27 A)。その後、中世後期の作品がFig. 27 B(1308-11), 同C(c.1315), 同D(c.1320), 同E(1320-25), 同F(1360s), 同G(c.1395), 同H(c. 1395), 同I(1370-1400)と続く(注1)。

ジョットはヨハネ伝とマタイ伝を両立させるために、いわば禁じ手を使った。イエスを左端に描くという意味では、中世初期、盛期の伝統を踏襲したが、テーブルを半円形から円形に変えることで、イエスの隣に二人の使徒を座らせることを可能とした。しかし、これだけではFig. 25 Cと同様にペテロはヨハネよりもイエスから離れて座らねばならないというヨハネ伝と矛盾する。そこで、ジョットは、イエスの右側とヨハネの左側にペテロを二度描く事で解決した(Fig. 27 A)。つまり、マタイ伝によるペテロと、ヨハネ伝によるペテロを同時に描いたのである。



Fig. 27. Depictions for ‘the Last Supper’ in the late Medieval.

       中世後期の「最後の晩餐」図

      Years, authors, techniques and current locations.

      制作年、作者、技法、所在地


(A) 1304-06, Giotto di Bondone, fresco, Gothic, Cappella Scrovegni (Arena Chapel), Padua, Italy.

1304-06年、ジョット・ディ・ボンドーネ、フレスコ、 アリーナ教会スクロヴェーニ礼拝堂(イタリア、パドゥア)




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(B) 1308-11, Duccio di Buoninsegna, tempera on wood, Museo dell'Opera del Duomo, Siena, Italy.

1308-11, ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ、テンペラ(板絵)、ドゥオーモオペラ座美術館(イタリア、シエナ)




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(C) c. 1315, Vitale da Bologna, Fresco, Abbazia di Pomposa, Codigoro  in provincia di Ferrara, Italy,

1315年頃, ヴィターレ・ダ・ボローニャ、フレスコ、ポンポーザ大修道院(イタリア、フェラーラ州、コディゴーロ)




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(D) c. 1320, Pietro Lorenzetti, Fresco, Lower Church, San Francesco, Assisi, Italy,

1320年頃, ピエトロ・ロレンツェッティ、フレスコ、聖フランシスコ下部教会(イタリア、アッシジ)





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(E) 1320-1325, Giotto di Bondone, Engraving, Metropolitan Museum of Art, New York, USA.

1320-25, ジョット・ディ・ボンドーネ、エングレービング、メトロポリタン美術館(アメリカ、ニューヨーク)





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(F) 1360s, Taddeo Gaddi (father of Agnolo Gaddi), fresco, Santa Croce, Florence, Italy.

1360年代、タッデオ・ガッディ(ガッドの息子、アニョロの父)、フレスコ、サンタ・クローチェ教会(イタリア、フローレンス)





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(G) c. 1395, Agnolo Gaddi, tempera on wood, late Medieval, Lindenau- Museum, Altenburg, Germany.

1395年頃、アニョロ・ガッディ、テンペラ板絵、リンデナウ美術館(ドイツ、アルテンブルグ)




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(H) c.1395, Don Silvestro dei Gherarducci, tempera and gold on parchment Gradual 2 for San Michele a Murano (Folio 78) , The Morgan Library and Museum, New York, USA

1395年頃、ドン・シルヴェストロ・デイ・ゲラルドゥッチ、テンペラと金による羊皮紙絵、モーガン図書美術館(アメリカ、ニューヨーク)



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(I) 1370-1400, Jaume Serra (Catalan painter), tempera on wood, late Medieval, Museo Nazionale, Palermo, Spain.

1370-1400, ジョオウメ・セッラ、テンペラ板絵、スペイン国立美術館(パレルモ)





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Open triangles and those in green, blue and red are as in Fig. 25. Open triangles with ‘?’ indicate possible two Peters, one next to Jesus and the other next to John according to Matthew’s and John’s Gospels, respectively. All images obtained from the Web Gallery of Art’ excepting (C) from ‘Pomposa e il Delta del Po’.


白、緑、青、赤の▽はFig. 25と同じ。 ‘?’のついた▽は、第二異書同図法で描かれた二人のペテロ(本文参照)。


Fig. 27 Aをよく見ると、二人のペテロは、単に白髪の使徒というだけで共通しているのではないことが分かる。まったく同じ相貌に描かれているのである。ジョットが意識してペテロを二度描き込んでいることは明らかである。同一人物を同一画面に二度描くという図法が西洋絵画にないわけではない。一般には異なる時間を同一の図に描き込む「異時同図法」である。日本では物語絵巻で普通に見られるが、西洋絵画でもジョットを含む何人もの画家が聖書の物語を描くときに使っている(注2)。しかし、ジョットの「最後の晩餐」は異なる時間を表わすために同一人物を二度描いたのではない。マタイによる福音書とヨハネによる福音書の間にある矛盾を解決するために使った図法である。ペテロが一度しか描かれない第一異書同図法に対して、これを第二異書同図法と呼ぶことにする。

ジョット後の画家たちも、同じような問題意識を持っていたと思える。ヴィターレ・ダ・ボローニャ(Fig. 27 C)、タッデオ・ガッディ(Fig. 27 F)やジョオウメ・セッラ(Fig. 27 I)も、ヨハネの次席とイエスの反対隣に白髪の使徒を二人描き込む。ただし、彼らは、解釈の多義性を許すためか、ジョットのように同一の相貌では描かない。あからさまに同一人物を一つの場面に二度描きこむことは、理論的には12使徒の誰かを削除したことになる。このような混乱を避けるためか、彼らは二人のペテロを異なる相貌で描いた。中世初期以来、ほとんどの「最後の晩餐」で白髪の使徒は2〜3人描かれているので、異なる容貌で複数の白髪の使徒がいること自体に問題はない。これも第二異書同図法の一種といえるだろう。ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Fig. 27 B)やピエトロ・ロレンツェッティ(Fig. 27 D)になると、第一異書同図法を使いつつ、さらに離れた席にも複数の白髪の使徒を描いている。それらの一人がペテロであるという解釈も可能ではあるが、イエスの隣がペテロというマタイ伝の図法を使っていると考えるのが順当であろう。この図法では、人数の問題はないが、ペテロがヨハネよりもイエスから離れて座るというヨハネ伝(13:24)と合わないのは、中世盛期のアンセルモ・ダ・カンピオーネ(Fig. 25 C)と同様である。本来、異書同図法自体が不自然であることを考えれば、この程度の不自然さは許容されたのであろう。むしろ教会から求められた可能性もある。

アリーナ教会礼拝堂のフレスコ壁画では第二異書同図法を使ったジョットにしても、後年の版刻画(Fig. 27 E)では異書同図法を使わず、テーブルは方形にしているが、ヨハネとペテロの関係はヨハネ伝に基づく中世盛期の図法(Fig. 25 A, B)を踏襲している。これらのことは、壁画ではアリーナ教会から要求されて、ジョットは不本意な図法に妥協した可能性があることを示唆している。ドン・シルヴェストロ・デイ・ゲラルドゥッチ(Fig. 27 H)もヨハネ伝だけにしたがっている。アニョロ・ガッディに至っては、このような混乱に嫌気がさしたのか、ペテロ(白髪の使徒)をまったく登場させない(Fig. 27 G)。これらの作品は、いずれもユダのみに光輪(光背)を付けないことで共通している。ただし、ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(Fig. 27 B)だけは、背面を見せる弟子たちに光背は不自然と思ったのかユダだけではなく、背を向ける4人の使徒全員に光輪がない。



注1「最後の晩餐」の画像は原則としてthe Web Gallery of Art から得られた。これら以外の作品もあると思われるが、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を論じるには、これらの作品を中心に議論を進めても問題ないと仮定した。

注2 マザッチォ(本名Tommaso di ser Giovanni di Mone Cassai, 1401-1428)の「貢銭(Tribute Money)」(サンタ・マリア・デル・カルミーネ聖堂ブランカッチ礼拝堂壁画、イタリア、フィレンツェ)には同一人物(ペテロと取税人)が二度描き込まれている。画面左と中央にペテロが、中央と右に取税人が二度現われる。こうした異時同図法はダ・ヴィンチ前にすでに珍しくなかった。



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