11章(3) 宗教的抑圧への芸術的抵抗( Artistic resistances to religious suppressions

  1. (II)一神教的価値観への挑戦  (Challenges to the monotheistic values)


─J. S. バッハの場合─

(─In case of J. S. Bach─)


すべての福音書(マタイ伝、ルカ伝、マルコ伝、ヨハネ伝)にもとづく4つの受難曲が続けて上演されたのは、バッハの生涯でもライプチッヒ時代の1729年から1732年までの4年だけである。《ルカ受難曲》についてはF. メンデルスゾーン(1809-1847)、J. ブラームス(1833-1897)の時代から稚拙、偽作と議論され、《マルコ受難曲》については手抜き作品と言われて、演奏目録に取り上げられることもほとんどない。しかし、これらがなぜこの時期に演奏されたかについて誰も説明しない。おそらく研究さえされていないのであろう。バッハの研究者や音楽家は、なぜかこの問題には口を閉ざしている。


バッハがトーマス・カントルとして最初に取り組んだ受難曲はヨハネ伝をもとに書かれた(1724)。それがバッハの意思か教会の決定かは不明だが、キリスト教会には聖金曜日にヨハネ伝の受難物語を朗唱するという習慣が12〜13世紀ころからあった。どちらが決めたにせよそれは常識的な選択だったのだろう。バッハ自身がライプチヒ赴任前から準備していた可能性もある。聖金曜日の「最後の晩餐(L’Ultima cena)」の場面はすべての福音書(マタイ伝26:20-29、マルコ伝:14:18-25、ルカ伝22:14-23、ヨハネ伝13:21-30)に出て来るが、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)など多くの画家がこの場面をヨハネ伝から独自に解釈し、瞬間を切り取り、油彩画や壁画として描いた(次の「ダ・ヴィンチの場合」参照)。翌1725年の《ヨハネ受難曲(第2稿)》再演もその習いに従ったものだろう。初演が好評だったとすればなおさらである。とはいっても、バッハもダ・ヴィンチも、ヨハネ伝にまったく忠実だったというわけではない(後述)。《ヨハネ受難曲》はユダの裏切り(JP2a:5-13)についてはヨハネ伝(18:2-3)に忠実だが、ペテロの慟哭(JP12c:31-38)についてはマタイ伝(26:75)から引用して、イエスを否定した弱さへの悔恨を強調し、美化している。「最後の晩餐」はその対極にある。ユダを裏切り者として強調せず他の弟子たちと同列に描く一方で、ペテロにはナイフを持たせて強さと憎悪の眼を強調している。


1726年にはR.カイザー(1674-1739)のマルコ受難曲が演奏された。バッハはヴァイマル時代の1713年と晩年の1747/48年にも上演しており、この曲を好んで選択したと思われる。ところが、1727年、1728年に演奏された受難曲については記録がない。リフキン説では《マタイ受難曲》の初演は1727年とされ、バッハ学者もそれを支持している。しかし、すでに述べたようにこの説には疑問が多い(VII-1注1)。《ヨハネ受難曲》とは違って、《マタイ受難曲》は簡単に解釈できる音楽ではない。多くの伏線、音型によるしかけ、コラール歌詞の推敲と変更、些細な綴り分けや臨時記号による暗号の挿入、ロ短調の使い分けなどから判断すれば、その構想、準備にかなりの時間を要したと思われる。注目すべきは、1727年から教会カンタータの新作が激減していることである(Table 12)。1729年の上演に向けて、二年間は《マタイ受難曲》の準備に集中していたと考えても荒唐無稽とはいえないだろう。そうであれば、弟子たちの何人かがその構想を知らされ、楽譜に接する機会があったとしても不思議ではない。


E.L.ゲルバー(1746-1819)が父親(H.N.Gerber、バッハの弟子)から聞いた話しでは、《マタイ受難曲》初演は教会会衆から拒絶された(III)。彼らは最初のコラールこそ厳かに唱和したが、物語の進行とともに異様な雰囲気を感じ、やがて(おそらく次のコラールMP10で)憤慨して、貴婦人の一人が「神よ、お許し下さい。これはきっと喜劇オペラなのです」と叫んだという。今日、《マタイ受難曲》を聴いて「喜劇オペラ」と感じる人はいないだろう。この叫びが、音楽様式や旋律、和声の進行など、音響的問題に発していないことは明らかである。「喜劇オペラ」という言葉は、何らかの文脈、あるいは思想を問題にしているとしか考えられない。会衆が嫌悪する具体的な何かがあったはずである。バッハは、1930年10月28日付けの旧友エルトマンあての書簡で「(自分は)絶え間ない嫌悪、嫉妬、迫害の中で生きてゆかねばならない」と書いた(XI-2)。これは、被害妄想でも、言葉の綾でもない。実際に、バッハの周囲で彼に対する「嫌悪、嫉妬、迫害」に相当する事件は起こっていた。

① 嫌悪:教会会衆が《マタイ受難曲》初演で憤慨し、拒絶する(1727 or 1729?)

② 嫉妬:牧師がバッハの讃美歌を宗教的民謡と非難し、賛美歌選定権を奪う(1728)

③ 迫害:大学教会の日曜礼拝(新礼拝)に対する報酬を拒否(1723/25)、職務怠慢を理由に減棒処分(1730)

このような背景で、1727年に初演した《マタイ受難曲》を二年後にそのまま再演することができたとは想像できない。1729年にはMP10を削除した修正稿が使われたという話しもない。むしろ、1729年が初演であり、会衆が憤慨したコラール(MP10)は、その前年に通告されたコラール選定権の剥奪に関係しているというほうが考えやすい。「ユダの裏切りの罪は私たち(=教会会衆)が持つ原罪と等しい」というバッハからのメッセージは(VII-1)、教会会衆に正しく理解され、その上で拒絶されたということである。当時の会衆にとって、ユダと自分たちの罪に違いはないとされたことは衝撃であり、心外だったはずだ。ユダの裏切りは、サタンが彼の中に入ったゆえに起こったはずである(ルカ伝22:3、ヨハ伝13:2)。ユダと自分を一緒にされることは、自分の中にサタンが入っていることを認めることになる。個人的には、それでもキリスト教は十分に成立すると思うが、当時のドイツでそれはありえなかった(VI)。バッハや聖トーマス教会が属していた当時のルター主義正統派にとって、ユダの罪と人々の原罪を同一とするのは異端だったはずだ。逆説的に言えば、当時の教会会衆が持つ聖書と音楽に関する素養はかなり高かったことがわかる。彼らは、《マタイ受難曲》でバッハが伝えようとした思想を正しく理解出来たのである。今日の聴衆には、たとえドイツ語を理解し、聖書を知る人でもこれは容易なことではない。


以上の流れで、翌年の《ルカ受難曲》、翌々年の《マルコ受難曲》について考察すれば、これらの受難曲がバッハらしからぬ作品になったことが理解できる。これらが必ずしも駄作だとは思わないが、《ヨハネ受難曲》、《マタイ受難曲》に比べると落差が大きいことは確かである(CDs from Brilliant Classics, UK)。1725年のマッテゾンの批判(IIIXI-2)をバッハが受け入れたと言えなくもないが、仮にそうだとしても、マッテゾンに屈したというより、「あなた方が望むのはこういう曲なのか?」という逆説的反論というほうが近い。かつて、「演奏が長過ぎると批判され極端に短い演奏をし、遠隔の転調をすると非難されて極端に単調な曲を演奏した」若きバッハを彷彿とさせる(XI-3-(I))。その証拠に、最後の4年目にはマッテゾンが批判する「凝った書法」(《ヨハネ受難曲》第3稿)に戻っている。バッハの抵抗に業を煮やした教会から、好評だった《ヨハネ受難曲》の再演を強いられたのかもしれない。しかし、バッハは《ヨハネ受難曲》第3稿に、巧妙な不服従のしかけを施した。そこには、初演稿、第2稿からの決定的な違いがあった。これについて詳しくは次節で述べるが、その変更は4年後の《マタイ受難曲》浄書譜(1736)で駄目押しされた。すべての始まりは、1728年のコラール選定権剥奪にあった(X-4)。


《マタイ受難曲》で、バッハは「ユダの裏切りの罪と人の原罪は等しい」というメッセージを会衆に送った。比喩的に言えば「ユダと(ユダ以外の)人びとは同列に並ぶ」という思想である。しかし、中世に比べ衰えたとはいえ、今よりキリスト教の力がもっと強かったバッハの時代に、教会のために書かれた宗教作品のなかでこのような異端思想を書き込むことなどありえたのだろうか、過剰解釈ではないのか。しかし、バッハの230年前に修道院の壁画のなかで同様の思想を具体的、かつリアルに表現した画家がいた。彼はまさに視覚的にユダとユダ以外の人びとを同列に並べた。その画家とはダ・ヴィンチであり、その作品が彼の「最後の晩餐(The last supper)」である。



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