6. 傾向分析 (Tendency studies in LdV’s sacred works


仮説 (Hypotheses

1) ダ・ヴィンチは手稿(「絵画論」)の中で次のように書いた。

「絵画は自然が滅したのちも残る。ゆえに絵画の美はその師である自然の美に優る」

「音楽は絵画と同様に感動を与えるが、音は消え、絵画は残る。ゆえに絵画は音楽に優る」。

  これらの信念は、《最後の晩餐》がテンペラ画で描かれたことと矛盾する。 テンペラ画は湿気に弱く、壁画では腐敗、劣化することは当時も知られていた。しかも、場所は湿気のこもる食堂である。彼が《最後の晩餐》に取りかかった時、向かいの壁には、「十字架磔刑図(注1)」のフレスコ画が完成したばかりだった。ダ・ヴィンチは、それを背に《最後の晩餐》に取り組んでいたはずだ。そのフレスコ画は、今日でも鮮明な姿を残している。一方、《最後の晩餐》は、完成後、ほどなくカビが生え始め、ダ・ヴィンチ生存中に、全面が黒いかたまりになっていた。彼はそれを予期できたはずだが、適切な保存や修復を希望した形跡すらない。いわば、描きっぱなしで終わりだった。ダ・ヴィンチには、《最後の晩餐》が後世の記憶に残らなくてもよいという何らかの理由があったとしか思えない。

2) ダ・ヴィンチは、中世盛期以来使われていた「最後の晩餐」の図法を理解していた。

その上で、伝統を無視し、異端的図法を採用した。それらが教会にとって好ましくないものであることも理解していた。

3) 教会は、この壁画に敬意を払っていなかった。

熱した鉄のローラーで樹脂を塗り込むなど、むしろ劣化を促進する修復が行われ、イエスの足元は壁ごと撤去された。教会が壁画の価値に気づくには、19世紀までの歳月が必要だった(注2)。

4) レオナルデスキの一人であるB. ルイーニは、不可解な「最後の晩餐(Fig. 36 A)」をのこした。

それは、師へのパロディともオマージュともつかない不思議な「模写」である。 その絵には、教会と師の板挟みになった苦衷のあとが見られる。ペテロに異書同図法を用いず、ユダの裏切り図法を微妙に避けているという意味では、師への配慮が伺える。しかし、三位一体説の証言者とされる使徒ヨハネについては師の図法を否定していた。


  これらの結論から得られる仮説は明白である。

 

  「ダ・ヴィンチの思想は異端であり、《最後の晩餐》は異端の壁画である。」 


  しかし、この仮設には次のような反論がありうる。


  「ルネサンス時代は、カトリック教会の力がいまだに強かった。『一介の画家』にすぎない

   ダ・ヴィンチが異端の思想を持ち、それを教会内の壁画として描けるはずがない。」


   次に、この批判について検討する( 注3)。


注1 同じ食堂の向かいの壁にはジョヴァンニ・ドナート・ダ・モントルファ−ノ(Giovanni Donato da Montorfano, 1460-1502/03: According to Wikipedia)が「十字架磔刑図」(フレスコ画)を完成していた。1495年付けの署名が入っている。《最後の晩餐》は、そのあとに描かれたことになる。ダ・ヴィンチとは違い、モントルファ−ノはジョヴァンニの祖父の代から教会に雇用された教会画家だった。レオナルドはその壁画を背に、《最後の晩餐》をテンペラ画で描いたことになる。何らかの対抗意識があったかもしれない。少なくとも、フレスコ画とテンペラ画の違いを意識していたとは思われるが、影響の有無は不明である。ただし、この「十字架磔刑図」が教会の伝統に従い、聖人に光輪が描かれていることは確認できる。イエスの頭上にも輪があるが、いばらの冠か光輪かは定かではない。問い合わせると、10月中には収録予定とのことだった(私信:Dr. Emil Krén, editor, Web Gallery of Art, Aug. 28, 2013)。 2013年10月6日現在、<The Web Gallery of Arts> には未収載である。

注2 ジュゼッペ・ボッシ(Giuseppe Bossi, 1777-1815)や J. W. フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749-1832)による「ダ・ヴィンチ再発見」が果たした役割が大きい。いわば、メンデルスゾーンの「バッハ再発見」に相当する。ゲーテはイタリア旅行の帰途、1788523日にミラノに寄り、《最後の晩餐》を見た。その日のうちに、ワイマール公カール・アウグスト(Karl August von Sachsen-Weimar-Eisenach, 1757- 1828)に、次のような手紙を書いた。「《最後の晩餐》は、芸術概念のアーチに嵌められたまさに要石です。それはこの様式において比類ない絵であり、何ものとも比較できません」(高木昌史訳)。ボッシは「レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》、四つ折り版(Del Cenacolo di Leonardo Da Vinci libri quattro, 1810)」で、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を絶賛した。アウグストは1817年に、ミラノでボッシの模写と透写を入手し、ワイマールに帰国後、展覧会を催す。それを、同年1116日に見たゲーテは本格的なダ・ヴィンチ論の執筆を決意し、30年かけて完成させた(「ゲーテ作品」集第49巻に収載。全11章、約50頁 )。

注3 以下の参考文献は次の通りである。「Leonardo Da Vinci The Last Supper, Cosmic Drama and an Act of Redemptionby Michael Ladwein)」、「レオナルド・ダ・ヴィンチ復活『最後の晩餐』(片桐頼継著)」、「ダ・ヴィンチの遺言(池上英洋著)」、「もっと知りたい レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と作品(裾分一弘監修)」、「絵画で綴る哲学と倫理学(門屋秀一著)」、「ゲーテと歩くイタリア美術紀行 (J.W.フォン ゲーテ著、 高木昌史編訳)」、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 心理の扉を開く(アレッサンドロ・ヴェッツォシ著、高階秀爾監修)」、「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」(監訳:大野陽子、翻訳:西村明子、南田菜穂)。ただし、解釈と結論については、筆者に責任がある。


ありうる疑問 (Possible questions

 たしかに、ルネサンス時代に入ってもキリスト教会の力は強かった。数百年にわたる異端審問も続いていた。ダ・ヴィンチが生まれた15世紀にはヤン・フスJan Hus, 1369-1415が、彼が没した16世紀にはジョルダーノ・ブルーノGiordano Bruno, 15481600が異端として焚刑に処されている。17世紀に地動説を撤回したガリレオ・ガリレイGalileo Galilei, 1564-1642でさえ、終身刑を宣告されている(後に減刑)。「そのような時代に、画家が教会(修道院)に異端の壁画を描けるはずはない」という、今日的先入観があっても不自然ではない。


しかし、ヴェロネーゼの例で述べたように、教会と争う画家がいなかったわけではない。しかも、ダ・ヴィンチに、この壁画を注文したのは教会ではない。その時、彼はミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza,1452–1508)に雇用されており、彼が依頼したのである。スフォルツァは別名、イル・モーロとも呼ばれたミラノの支配者だった。


ドメニコ会系だった修道院は、1492年にルドヴィーコの命令で改築された。《最後の晩餐》は、いわば最後の仕上げだった。ルドヴィーコは亡き妻のベアトリチェ・デステをサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に埋葬し、スフォルツァ家の菩提寺にするつもりだった。スフォルツァ家は最大のスポンサーであり、ミラノ公が依頼した壁画を教会が拒否することはありえなかった。論文や説教などの文章表現に比べれば、絵画に関する異端性はやや分かりにくい。「ヨハネ伝に基づく」という条件はあったが、逆に言えば、「それさえ守れば図法には自由度がある」とレオナルドが考えたとしてもおかしくはない。この推察には根拠がある。


ミラノに移って間もないころ、レオナルドはある信徒会から教会の祭壇画を依頼されている。教会側は図法上のこまごまとした条件を出したが、彼はそれを無視して自由に描いた。完成間近の祭壇画を見た教会側は怒ったようだ。その受け取りと報酬の支払いを拒否した。レオナルドがとった行動は、今日的先入観からは予想外である。彼は訴訟を起こし、報酬の支払いの履行を求めて教会側と争ったのである(後述)。彼が、教会の意向を無視し、伝統に反する宗教画を描いたのは、《最後の晩餐》が初めてではなかった。


1500年前後のミラノ情勢(Political situation over Milan around 1500

当時のイタリア北部の情勢は不安定だった。ルドヴィーコ自身も、本来はミラノの正統な支配者だったわけではない。彼は自分が摂政を務めていた甥の一族を追放して、ミラノを乗っ取った。後に、彼自身も裏切りにあってフランス軍に捕えられ、獄死している。当時はヴァロワ朝フランス王国と神聖ローマ帝国(ヒトラーの言う「ドイツ第一帝国」)がミラノを含む北部イタリアの支配を巡って争っていた。神聖ローマ帝国側についたルドヴィーコが支配者であり続ける保証はなかった。これも、レオナルドが壁画をテンペラ画で描いた理由の一つかもしれない。


ルドヴィーコが権力を失えば、レオナルド自身や壁画の運命がどうなるかもわからなかった。レオナルドはミラノ公に自分を売り込むとき、画家としてよりも、むしろ築城や武器、兵器の開発など、軍事専門家として自薦していた。自薦状自身は残されていないが、その草稿が手稿のなかに含まれていると言う。スフォルツァ家が滅びれば、彼も一蓮托生となる可能性は十分にあった。ルドヴィーコに雇用されていたレオナルドには、利点もあったがリスクもあったのである。教会画家に比べれば、相対的に図法の自由度はあったが、政治情勢次第では身に危険が迫ることもありえた。ダ・ヴィンチにとって宗教的束縛から自由であることが、どの程度に重要だったのかは研究の余地がある。それは生涯をとおして不変だったのか、あるいは特定の時期に転換したのか?それを推定するには、ダ・ヴィンチの宗教画を、彼の年代史と対照して傾向分析する必要がある。


宗教画の傾向分析−1:《キリストの洗礼》から《ブノワの聖母》まで (Tendency studies on sacred works-1: From “Baptism of Christ” to “Madonna with a Flower”

  現在までのところ、ダ・ヴィンチが最初に描いた宗教画は《キリストの洗礼》(Fig. 37)である。これは、ダ・ヴィンチとヴェロッキオの共同制作なので、次作の《受胎告知》(Fig. 38 A)を真のデビュー作とする美術史家もいる。どちらもダ・ヴィンチが独立する前のヴェロキオ工房時代に描かれた作品である。












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Fig. 37. “The baptism of Christ” by Andrea del Verrocchio and L. Da Vinci.
   1472-75, oil, panel, 177 × 151 cm, Galleria degli Uffizi, Florence, Italy.


37. ヴェロッキオとの共同制作による《キリストの洗礼》

1472-75, 油彩、パネル画、177×151 cm, イタリア、フィレンツェ、ウフィツィ美術館蔵。











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Fig. 38. Uffizi and Louvre versions for theAnnunciation by L. da Vinci.

(A) 1472-75, Tempera on wood, 98 × 217 cm, Galleria degli Uffizi, Florence, Italy. Originally produced for Convento di San Bartolomeo in Monte Oliveto, Florence, Italy.

(B) 1478-82, Oil on panel, 16 × 60 cm, Musée du Louvre, Paris, France. Originally painted as a part of the altarpiece for the Pistoia Cathedral, Tuscany, Italy. It was speculated previously as by Lorenzo Di Credi (1459-1537).



38. ダ・ヴィンチによる《受胎告知》のウフィツィ版(A)とルーブル版(B).

(A) 1472-75, テンペラ画、98 × 217 cm, イタリア、フィレンツェ、ウフィツィ美術館蔵。フィレンツェ近くのモンテ・オリヴェートにあるサン・バルトロメオ修道院の為に描かれた。

(B) 1475-78, 油彩画、16 × 60 cm, フランス、パリ、ルーブル美術館蔵。イタリア、トスカーナのピストリア大聖堂の祭壇画の裾絵(そでえ)として描かれた。その前は、ロレンツォ・ディ・クレディ(1459-1537)作とされていた。



ここで、どちらが真のデビュー作かを論じるつもりはない。工房作品であれば、複数の筆が入っていてもおかしくない。《キリストの洗礼》では、ダ・ヴィンチは少なくとも「二人の天使」を担当したと言われる。「キリスト」も彼の筆によるという説もある。いずれにしても、この作品は教会図法の伝統を守って描かれている。天使、イエス、洗礼者ヨハネの頭上に描かれている光輪がそれを象徴する。光輪は人物の聖性を表象し、逆に言えば俗性(人間性)を否定する。


《受胎告知》には、同じ構図で描かれた二点が残されている(Fig. 38 A & B)。どちらも、天使ガブリエルがマリヤに、「聖霊により身籠った」と告げたルカ伝1:26-28の場面を描いている(注1)。ここでも、マリヤに光輪がある。ただし、裾絵(Fig. 38 B)では、天使からは光輪が消えているように見えるが、ここでは断定は避ける。

次は《花を持つ聖母》である(Fig. 39)。一時期の所有者の名から《ブノワの聖母》とも呼ばれる。












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Fig. 39. Madonna with a Flower (Madonna Benois)
c. 1478, oil on canvas transferred from wood, 50 × 32 cm, The Hermitage, St. Petersburg, Russia.


39. 《花を持つ聖母(ブノワの聖母)》

   1478年頃、油彩、キャンバス(パネルから転写)、50 × 32 cm、ロシア、サンクトペテルブルグ、ヘルミタージュ美術館蔵。


幼子イエスを抱くマリヤを描いた絵は多い。ダ・ヴィンチ自身も、ほとんど同時期に《カーネーションの聖母》と呼ばれる類似の絵を描いている(後述)。しかし、《花を持つ聖母》と《カーネーションの聖母》との間には、決定的な違いがある。前者に光輪は描あるが、後者にはない。定説では、両者の完成年代にはずれがある。


傾向分析−2:《カーネーションの聖母》から《洗礼者聖ヨハネ》まで (Tendency studies on sacred works-2: From The Madonna of the Carnation toSt John the Baptist


《カーネーションの聖母》(Fig. 40 A)に光輪はない。














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Fig. 40. The Madonna of the Carnation by L. Da Vinci (A) and that (flip 

      horizontal) by Raffaello Santi (B).

      (A) 1478-80, Oil on panel, 62 × 47.5 cm, Alte Pinakothek, Munich, Germany.

      (B) 1506-07, Oil on panel, 27.9 × 22.4 cm, National Gallery, London, UK.   

         Known also as ‘Madonna of the Pinks’. Note that this is a flip horizontal

         image to emphasize the compositional similarity between (A) and (B).

         There are some arguments about the authenticity of author’s name. This

         Known also by the title ofMadonna of the Pinksin English.

40. ダ・ヴィンチの《カーネーションの聖母》(A)とラファエロ・サンティ作とされる同名作品

      (左右反転)(B)。

       (A) 1478-80、油彩、パネル画、62 × 47.5 cm、ドイツ、ミュンヘン・アルテピナコテー ク

          絵画館所蔵。

      (B) 1506-1507年頃、イチイ板に油彩、27.9 x 22.4 cm、英国、ロンドン、ナショナルギャ

       ラリー所蔵。構図が酷似していることを示すために、(B)は左右を反転させている。

        英語で「ピンクの聖母(Madonna in Pinks)」とも呼ばれる。作者について異説あり。


  定説では、《カーネーションの聖母》は《花を持つ聖母(ブノワの聖母)》とほぼ同時期に着手されたが、完成したのは二年後とされる。現在までのところでは、《花を持つ聖母(ブノワの聖母)》は、ダ・ヴィンチが光輪を描いた最後の宗教画である。これを説明するのに、ルネサンス時代は聖人に光輪を描くことが少なくなり、ダ・ヴィンチもその流行に従ったにすぎないという解釈がある。しかし、厳密に考えると、その可能性は低いと思われる。なぜなら、7〜8年後にほぼ同じ構図で描かれた、ラファエロの「カーネーションの聖母」(Fig. 40 B)には光輪が描かれているからである(注2)。ラファエロがダ・ヴィンチを修正したかたちになっている。言い換えると、レオナルドが《カーネーションの聖母》で光輪を描かなかったのは、「当時の流行に沿っただけ」という説に根拠は乏しいのである。


注1 キリスト教信者ではないものにとって、「父と子と聖霊」というときの「聖霊」が何を意味するかは分かりにくい。処女マリヤは聖霊によって身籠ったとされているので(マタイ伝1:20; ルカ伝1:35)、聖霊とは父なる神の精液のようなものと考えるなら、三位一体とは「父とその精子、生まれた子」の遺伝情報が同質であるという意味になる。マタイ伝(1:20)にも、マリヤが聖霊によって身籠ったという話はある。ただし、「主の使いがヨゼフの夢に現れて告げた」とある。マルコ伝、ヨハネ伝は、マリヤが処女であったことさえ触れていない。最初に書かれ、史実にもっとも近いとされるマルコ伝に処女懐胎の記事が無いのは、その話が後世の創作であったことを示唆している。処女懐胎が事実なら、同じマルコ伝をベースに書かれたマタイ伝とルカ伝の記述が違うのもおかしい。両福音書が参考にしたといわれ、今は失われたとされるQ資料(イエス言行録)が原因で起った違いとも考えにくい。民間伝承にあるように婚外交渉でマリヤが妊娠したと考える方がまだ自然である。

注2 これはラファエロ作とされているが、異説もある。しかし、ここではそれが問題ではない。ダ・ヴィンチ作品と構図的に酷似し、その後に描かれて、光輪があるという事実が重要である。それはダ・ヴィンチが修正されたことを意味する。


《三博士礼拝》 (Adoration of the Magi

  《三博士礼拝》は、レオナルドがヴェロッキオの工房から独立して、最初に注文を受けた大作である。これは、フィレンツェ郊外のサン・ドナート・ア・スコペート修道院の祭壇画になるはずだった。聖母マリヤと幼子イエスを三博士がひれ伏し、拝む図である(マタイ伝2:11)。マリヤを中心に多くの人物が同心円状に配されている(Fig. 41 A)。しかし、この祭壇画が完成することはなかった。ダ・ヴィンチがミラノ公スフォルツァに雇用されミラノに移ったからと言われている。しかし、修道院は2〜3年以内に完成すれば良いとしていたし、実際には10年も待った。ダ・ヴィンチに完成させる気があれば出来なくはない期間である。どのような理由があったのか真相はわからない。 結局、修道院はフィリッピーノ・リッピ(1457-1504)に依頼し直し、祭壇画は完成した(Fig. 41 B)。



 











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Fig. 41. Two depictions for Adoration of the Magi by L. Da Vinci (A) and Fillipino Lippi (B).

      (A) 1481-82, Oil on panel, 246 × 243 cm, Galleria degli Uffizi, Florence, Italy.

      (B) 1496, Oil on wood, 258 × 243 cm, Galleria degli Uffizi, Florence, Italy.


41. ダ・ヴィンチによる《三博士礼拝》の下絵(A)と、フィリッピーノ・リッピ作の

    代替画(B)。

(A) 1481-82、油彩、パネル、246×243 cm、イタリア、フィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵。

(B) 1496、パネル、258×243 cm、イタリア、フィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵。


一方は下絵、他方は完成画なので同一の俎上では論じられないところもあるが、光輪の有無については明白である。少なくとも下絵の段階ではダ・ヴィンチに光輪を使う予定はなかった。また、完成後に光輪を入れるつもりだったとも考えにくい(後述)。ここでも、《カーネーションの聖母》と同様に、リッピがダ・ヴィンチを修正した形になっている。リッピの完成画は教会の意を汲んで描かれたことは間違いない。《花を持つ聖母》から《カーネーションの聖母》への転換が偶然ではなくダ・ヴィンチの意志とすれば、《三博士礼拝》で光輪を描くことを要請されたダ・ヴィンチがそれを嫌って、完成を放棄した可能性はある。完成したあとで教会が勝手に光輪を加えることもあり得たし、それを恐れたのかもしれない。



《岩窟の聖母》 ─光輪の有無─(Virgin of the Rockswith or without nimbus─)

  訴訟事件に発展したのは、《岩窟の聖母》(Fig. 42 A)である。衆知のように、二点の同名作品がある。パリ・ルーブル美術館所蔵(Fig. 42 A)と、ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵(Fig. 42 B)のものである。そのほかに、ダ・ヴィンチ作と主張されている個人所蔵のものもあるが、以下ではパリ版とロンドン版について考察する。


現在の定説では、パリ版が真のダ・ヴィンチ作であり、ロンドン版は弟子たちによる工房作品と考えられている(ルイーニも関与したとされる)。ロンドン版はパリ版の約20年後に描かれた。両者の構図はほぼ同じだが、顕著な違いがいくつかある。まず、光輪の有無である。パリ版に光輪はなく、ロンドン版には加えられた。ロンドン版が描かれたいきさつを考えると、これは教会がダ・ヴィンチ作の元絵を修正させたことを意味する。言い換えると、人物の聖性が強調され、俗性(人間性)が否定されたのである。そのほかにも大きな違いがあるが、その解釈には諸説あって、確定的なことを言うのは難しい。





           








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Fig. 42. Virgin of the Rocks (A) mainly by L. Da Vinci, and its substitute (B)

       probably by his workshop co-workers or Leodardeschis.

(A) 1483-1486, Louvre Museum in Paris, oil on canvas (originally on panel),

198×123 cm

     (B) 1495-1506, National Gallery in London, oil on panel, 189.5×120 cm.


図 42. 《岩窟の聖母》の二つの版、主にダ・ヴィンチの筆によるもの(A)と工房作品(B

(A)1483-1486、パリ・ルーブル美術館蔵、油彩、カンバス(板からの転写)、198×123 cm.

(B) 1495-1508、ロンドン・国立美術館蔵、油彩、板、189×120 cm.


《岩窟の聖母》の注文主は、フランチェスコ会系のインマコラータ(聖母無原罪懐胎)信徒会である。レオナルドがミラノで最初に注文を受けた大作である。ミラノのサンフランチェスコ・グランデ聖堂の祭壇画として、信徒会とダ・ヴィンチとの間に1483425日付で交わされた契約書が残っている。


教会側は、登場人物(聖母マリヤ、イエス、二人の予言者─おそらくダヴィデとイザヤ─と天使たち)を指定し、配置、背景、色彩までの細かな条件を出し、着手金を支払った。祭壇画は11月ころにはほぼ完成した。それを見た教会側は、提示した条件が無視されたことに気づき、残金の支払いを拒否した。ダ・ヴィンチは不服を申し立て、支払いの履行を求める訴訟を起こした(118日付)。彼は、ミラノ公スフォルツァに自分たち(共同制作者は弟子のデ・プレディス兄弟)の味方となってくれるように要請した。「一介の画家」が教会の指示に従わず、作品の修正にも応ぜず、報酬の支払いを求めて争ったのである。


この訴訟は、最終的な決着までに25年(148311月〜15088月)を要する泥沼の係争となった。ダ・ヴィンチが《最後の晩餐》(1495-98)を描いたのは、そのまっただ中だったことになる。しかし、《最後の晩餐》の完成後まもなく、ミラノ情勢は急変した。1499年にフランス軍がミラノを包囲し、スフォルツァは失脚した。ダ・ヴィンチはヴェネツィアを経てフィレンツェに逃れた。


ミラノに残っていたデ・プレディス兄弟の兄アンブロギオが1503年に動いた。レオナルドに代わり、新しい支配者となったフランス王ルイ12世に介入を要請したのである。これはスフォルツァへの裏切りに等しかった。ルイ12世は要請を受け入れて、新しく任命したミラノ総督に介入を指示した。その効果もあって、訴訟は画家たちに有利な条件で決着した(1506)。しかし、元絵はすでに彼らの手を離れており、教会側の要求を入れた工房作品が新たに描きなおされた。二年後に完成したロンドン版は8月になって聖堂に搬入された。フランス軍に捕らえられたスフォルツァが獄死した3ヶ月後のことである。


レオナルドは1506年に一時的にミラノに帰ったが、滞在は短期間で終わり、翌年にはフィレンツェに戻っている。ロンドン版の制作に、積極的に関わる事はなかったと推定されている。この滞在時にB. ルイーニとの接触があったらしい。彼がロンドン版の制作に加わったのはこのときであろう。ルイ12世はダ・ヴィンチの才能を惜しみ、再三、ミラノに戻るように促した。これが、のちにルイ12世の後継者(フランソワ1世)を頼って、ダ・ヴィンチがフランスに事実上の亡命をするきっかけとなった(Table 17)。



Table 17. Chronograph and tendency studies of L. Da Vinci’s sacred works and key secular work such as ‘Mona Lisa’ in comparison with their copies or succeeding works.

Symbols, and ×, indicate respectively presence and absence of nimbus. Blue and yellow boxes represent sacred and secular works, respectively. Two secular works such as ‘Mona Lisa’ and ‘Nude Mona Lisa’, are listed here in comparison with the tendency of the sacred works. The latter did not appear for nearly 80 years in public due to a fear of destruction by Catholic churches because of ‘obscenity’.



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17. ダ・ヴィンチの宗教絵画における光輪の使用と、それらの模写または後継

    作品との比較


×は光輪の有無を表わす。宗教画は青、世俗画は黄で示した。後者については《モナリザ》と「裸のモナリザ」を挙げた。《モナリザ》と「裸のモナリザ」については宗教画の傾向と比較するためにリストにあげた。「裸のモナリザ」は、教会から猥褻と見なされて破却される恐れがあったため80年近く公開されなかった。いくつもの模写絵があるので、筆者はダ・ヴィンチの元絵があったと推察する。現存する「裸のモナリザ」は弟子のサライが描いたものが二点残っており、それらも模写である可能性を否定できない。いずれも猥褻として破棄されるのを恐れて、70年以上秘匿されていた。


ロンドン版で光輪が追加されたのは画家自身の手によってではなく、教会側がのちに行ったという説もある。しかし、ここでそれは重要でない。問題は、パリ版には光輪は描かれていないという事実である。《三博士礼拝》と同様に、後継作品が元絵を修正するかたちになっている。


一般に、ルネサンス時代には聖人の光輪や聖書に基づくアトリビュート(洗礼者ヨハネの革の腰巻きなど宗教的約束事)は守られなくなったと言われる。しかし、それはかならずしも正しくない。「最後の晩餐」でユダ以外の使徒とイエスに光輪を描く図法は中世後期のジョット(Fig. 27 A)以来、初期ルネサンスでもルール化していた。北方ルネサンス(Fig. 28 E)を除けば、光輪は必ず描かれていたのである(Table 14;ただしFig. 28 Iはイエスのみ)。盛期ルネサンスの「最後の晩餐」でも、マニエリズム(後期ルネサンスとも呼ばれる)までその傾向は続く(後述)。むしろ、ダ・ヴィンチが例外的なのである。次に、《岩窟の聖母》を巡って、光輪の有無以外にダ・ヴィンチと教会側が対立した可能性を検討する。


《岩窟の聖母》で対立した他の可能性(Other possible conflicts in “Virgin of the Rocks”

パリ版で、どちらの幼児がイエスで、洗礼者ヨハネかは必ずしも明確でない。そのために、ロンドン版で画面左がヨハネであると明示したという説がある。池上は、バリ版とロンドン版は同じで、画面左がヨハネ、右がイエスとする(「ダ・ヴィンチの遺言」)。逆にパリ版では左がイエスで、右がヨハネとする説もあるという。イエスがヨルダン川にいた洗礼者ヨハネから洗礼を受けたという福音書(マタイ伝3:13-15; マルコ伝1:9)の記事に従って、ヨハネが水辺に描かれたという解釈だ。いずれにしても、ロンドン版では洗礼者ヨハネであることを示す十字架の杖と革の腰巻が描かれているので(マタイ伝3:4)、画面の左がヨハネ、右がイエスであることは間違いない。それを強調するように右の幼児の手前にあった水辺もなくなっている。ただし、この解釈では聖母マリヤがイエスではなくヨハネを抱くという不自然さは残る。


洗礼者ヨハネのアトリビュートが争点だった可能性はあるのか?結論的に言うなら、その可能性はない。なぜなら、それを拒否する理由がダ・ヴィンチにはないからである。《キリストの洗礼》(1472-75)で洗礼者ヨハネのアトリビュートは使われているが、それだけが理由ではない。晩年も近くなって描いた《洗礼者聖ヨハネ》(1513-16)でもこの約束事は守られているからである(後述)。これらを考えれば、洗礼者ヨハネのアトリビュートをダ・ヴィンチが拒否したとは考えられない。


もう一つの顕著な違いは、パリ版で画面右の天使が左の幼児を指差す図法の有無である。この天使は、洗礼者ヨハネの守護天使ウリエルとも、《受胎告知》にも登場した大天使ガブリエルとも言われる。その天使が指差す手がロンドン版では消されている。その理由にも諸説ある。一つの解釈は、ヨハネの守護天使であるウリエルが右手で示すのは洗礼者ヨハネであり、それが教会の怒りをかったのは、マリヤ(の左手)とイエス(頭部)の関係を遮断しているからとも、イエスの首をはねているように見えたかとも言われる。しかし、これらの解釈には無理がある。むしろ、パリ版の水辺近くに座る右の幼児がヨハネであるという解釈のほうがもっともらしい(マタイ伝3:6、マルコ伝1:9)。その場合は、天使が指差して、この人がイエスであると、ヨハネに教えた図と解釈できる。それが、ロンドン版では逆になったので、指差しが必要なくなったと考えるのは自然である。これらの議論は、どちらの幼児がイエスか、ヨハネかによっても、また天使がウリエルかガブリエルかによっても違ってくる。ウリエルの名は聖書には出てこないので、ガリブリエル説も無視できない。ただ、この種の議論をいくら繰り返しても、光輪以外にパリ版を教会が拒否した理由について確証的なことは言えそうにない。いずれにしても、ダ・ヴィンチがこだわらなければ、これらの変更は部分修正で済んだはずである。


光輪の有無が意味する違いは明らかである。光輪はその人物の聖性を表象し、俗性(人間性)を否定する。すでに見たように、ダ・ヴィンチの宗教画には、光輪が描かれたものと描かれていないものがある。問題はそれらが、生涯で分散しているのか、あるいは特定の時期に転換点があったのかである。結果は一目瞭然である(Table 17)。ダ・ヴィンチは27歳のころを境に光輪を、使わなくなったのである。その後に描かれた宗教画で、最初の三点(《カーネーションの聖母》、《三博士礼拝》、《岩窟の聖母》で)は、その模写または後継作品が残っており、それらには光輪が描かれている。言い換えると、ダ・ヴィンチが修正されているのである。


その次に描かれたのが《最後の晩餐》である。ルイーニが描いた模写とも呼べない「模写」は光輪を描いていない。その代わりにユダ、ペテロ、ヨハネの図法が大胆に修正されている(Figs. 36 A vs. B)。《最後の晩餐》後の宗教画には《聖母子と聖アンナ》(Fig.43 A)があるが、その約5年後にレオナルド派のチェザーレ・ダ・セストがほぼ同じ構図で描いた「模写」(「神の子羊を連れた聖母子」)(Fig. 43 B)でも光輪はない(注1)。そこでは聖アンナが削除されている。聖アンナは聖母マリヤの母親とされるが福音書には登場しない。ローマカトリックでも、聖アンナについては長く議論があり、13世紀ころまでは公認されていなかった。いずれにしても、《聖アンナと聖母子》(Fig. 43 A)では、イエスの母と祖母がほぼ同年齢に描かれているのは、不自然である。その意味ではダ・セストが聖アンナを削除したことは、ルイーニと同様に、ダ・ヴィンチを修正したと思われる。しかし、聖アンナを老婆として描くという修正ではなく削除したということに意味がある(後述)。


背景に立ち上がる雲を聖書的に解釈する向きもあるが断定的なことは言えない(マタイ伝26:64)。何れにしても、セストの「模写」に光輪がないことは確かであり、このころであれば、光輪を描かない事がルネサンスの流行になっていた可能性はある。逆算すれば、ダ・ヴィンチが光輪を描かなくなってからの30年間(1476-1506)に、光輪を描かないことが流行していたとは考えられないのである。ただ、ダ・ヴィンチが嚆矢であったとは言えるかもしれない。これについては、ダ・ヴィンチ後の「最後の晩餐」も検証しなければならない(後述)。



          










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Fig. 43. The Virgin and Child with St Anne” (A) by Da Vinci and Madonna and Child with the Lamb of God’ (B) by Cesare da Sesto.
(A) c. 1510, oil on canvas (originally on wood), 168 × 130 cm in Louvre

      Museum, Paris.

(B) 1515-20, oil on panel, 37 × 30 cm in Poldi Pezzoli Museum, Milan.


図 43. ダ・ヴィンチによる《聖アンナと聖母子》(A)とチェザーレ・ダ・セストによる

     「神の子羊を連れた聖母子」(B.

A)1510年頃、168 × 130 cm、油彩、板、ルーブル美術館(パリ).

B)1515-20年、37 × 30 cm、油彩、パネル、ポルディ・ペッツォーリ美術館(ミラノ).


ダ・ヴィンチにとって人間とは、表情(感情)を含む身体的存在であり、その美しさは現実の肉体に備わっていた。ギリシャ美術で、究極の美は裸体で表現されたことに影響されたのであろう。そのために、レオナルドは人体解剖も厭わなかったし、ミケランジェロの非現実的な筋肉描写にも批判的だった。


先述したように、ダ・ヴィンチは手稿の中で、絵画に描かれた女性に恋をする男について述べている。音楽や、詩、彫刻に比べて絵画の芸術的優越性はそこにあると彼は論じた。手稿によれば、作品に表現された女性に恋し、接吻出来るのは絵画だけであるという。その議論が正しいかどうかは問題でない。彼がそう考えていたという事実が重要なのである。


本論の目的はキリスト教神学の研究でも、芸術分野の優劣を決める芸術論でもない。それぞれの作品に込められたバッハやダ・ヴィンチの思想を理解することである。彼らにとっては、聖性を強調し、俗性を否定することは、人体の美を否定し、愛を禁じるに等しかったのである。


注1 Cesare da Sesto or Sesto Calende14771523)レオナルド派の一人、現存しないダ・ヴィンチの《レダと白鳥》の模写を残したことで知られている。


宗教画におけるダ・ヴィンチの絵画思想的転換(Transition of Da Vinci’s pictorial idea in the sacred works

バッハの音楽思想的転換が、《ヨハネ受難曲(初演稿)》(1724)と《マタイ受難曲(初演稿)》(1729)の間にあったことは、すでに述べた通りである。その年代推定は、両者に挟まれた期間にバッハと教会の間に軋轢があったこととも整合する(Table 11 in II-2)。《マタイ受難曲》初演のあとで、バッハは職務怠慢による減俸処分(173082日付)を受け、旧友のエルトマンに宛てた手紙(同年1028日付)で、自分はライプチヒで迫害されていると書いた(X-2注3)。ダ・ヴィンチの場合にも、この時期に教会との間で似たような軋轢があったのだろうか?


ダ・ヴィンチの転換は 27歳のころに起こった。その前にダ・ヴィンチと教会の間に何が起こったのか? 彼は、24歳のときに同性愛の疑いでニ度逮捕された。いわゆる、サルタレッリ事件である(Table 17)。これは密告によるもので、最終的には証拠不十分で釈放されている。これが、若きダ・ヴィンチに教会への反発心を植え付けた可能性はある。しかし、そうであれば、転換までに3間のラグがあるのはなぜだろうか?


147812月に、二点の聖母に着手していたという記録が残っているので、裾分はそれらが《ブノワの聖母(1478)》と《カーネーションの聖母(1478-80)》ではないかと推察している。同氏によれば、ダ・ヴィンチがヴェロッキオの工房から独立したのは1479年とされており、前者はその前に完成し、後者はその後に完成したことになる(Table 17)。これらの制作年代の推定が正しいとすれば、次のような推測が成り立つ。


ダ・ヴィンチは24歳のときに同性愛の嫌疑で逮捕され、それが教会、あるいはキリスト教神学への反発を顕在化させた。しかし、ヴェロッキオの工房時代にそれを絵画表現として取り入れる事はなかった。師のヴェロッキォも同容疑でニ度の逮捕歴があるが、彼の図法に反教会的な要素はない。この時代は、妬みからこの種の密告がされることは珍しくはなかったので、その経験が思想的な反発に直結することがなくても不思議ではない。言い換えると、ダ・ヴィンチの反教会的思想の原因は逮捕にあるのではなく、生来のものであった可能性がある。事件は、単にそれを意識させるきっかけだったのだろう。工房時代には、師の方針に従わざるを得なかった。しかし、独立したあとは図法上の自由を得た。その結果が、光輪の否定、言い換えれば人間性の肯定であった。事件はあくまでもきっかけであり、本質ではないだろう。しかし、彼を教会に対してかたくなにさせる理由にはなり得る。


この推測が正しければ、光輪の有無に関するレオナルド27歳の転換は、西洋美術史上の事件と呼ぶに価する。それは、初期ルネサンスから盛期ルネサンスへの転換点だった。通説では《最後の晩餐》が盛期ルネサンスで最初の作品とされているが、《カーネーションの聖母》にまでさかのぼることになる。しかし、ダ・ヴィンチはそれをテンペラ壁画として描いた。あたかも、後世の記憶に残らないことを望んだかのように…。その意味では、《最後の晩餐》はバッハの《マタイ受難曲》であると同時に、《ルカ受難曲》、《マルコ受難曲》でもあった(XI-3-(I))。さらに想像を逞しくすれば、未完で残った《三博士礼拝》は未完の《ヨハネ受難曲》に相当することになる。では、ダ・ヴィンチにもバッハの《ロ短調ミサ曲》に匹敵する遺言の作品があるのだろうか?《ロ短調ミサ曲》については、後に独立した章で述べるが、それはカトリックとプロテスタントに分裂して闘うキリスト教に対して、平和と平穏を求めた後世への遺書だった。ダ・ヴィンチの場合は、時代はまだプロテスタント成立の前夜であり、反教会思想はカトリック教会からの「芸術への干渉と抑圧」へと向けられたはずだ。


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