11章(3) 宗教的抑圧への芸術的抵抗(Artistic resistances to religious suppressions

  1. (II)一神教的価値観への挑戦  (Challenges to the monotheistic values)


─ダ・ヴィンチコードの真実─ (-Da Vinci Code in reality-)


(viii) 初期ルネサンスの「最後の晩餐」図(Depictions for ‘the Last supper’ in the early Renaissance


 ルネサンスはフランス語で再生を意味する。かつては文芸復興と訳されたこともある。中世の暗黒時代が終わり、キリスト教神学のくびきから解放された芸術、なかでも絵画芸術がギリシャ神話などの古代、古典文化に回帰し、とりわけ人体の美しさを表現して人間性を復興したというイメージがある。しかし、この先入観が「最後の晩餐」図の歴史にも当てはまるかどうかの判断は簡単ではない。

 西洋史では中世を西ローマ帝国の滅亡(476年)から東ローマ帝国の滅亡(1453年)までとするのが一般的である。中世は初期(500年頃〜1000年頃)→盛期(1000年頃〜1300年頃)→後期(1300年頃〜1500年頃)と3つに区分され、芸術史では中世後期をさらに14世紀のゴシックと15世紀の初期ルネサンスに分ける。すでに述べたように、「最後の晩餐」図は中世が進むと、依拠する福音書が「マタイ伝」→「ヨハネ伝」→「マタイ伝+ヨハネ伝(異書同図法)」へと変化する。「最後の晩餐」図にとって、マタイ伝とヨハネ伝の違いを一言で言えば、イエスの側近としてペテロを重視するか、ヨハネを重視するかの問題である。「教会の権威(ペテロ)」を重視するか、「三位一体説(イエス=神に愛されたヨハネ)」を重視するかと言い換えても良い。この変遷には、キリスト教における異端論争の歴史が関係していることはすでに述べた。しかし、ゴシックからルネサンスへ移行したときに、これに相当するような神学的問題はなかった。マタイ伝とヨハネ伝を両立させる異書同図法は、その後の殆どすべての作品でも使われ続けた。それは、ルネサンス後のマニエリスム、バロック、ロココに至っても同様である。ゴシック以降の「最後の晩餐」図で、技術上の様式や装飾を除けば神学的、思想的意味に重要な変化はなかったと言える。その意味では盛期ルネサンスのダ・ヴィンチと、彼の影響を強く受けた初期マニエリスムのアンドレア・デル・サルト、バロックのルーベンスの描写は例外的である(後述)。


上記とは別の問題だが、ゴシック時代半ばの「最後の晩餐」図で、聖書的根拠がない、新たな図法が出現した。それについて述べる前に、現代人とりわけアジア人には、西洋史の中で起きたある事件について知っておいていただきたい。6章でも述べた十字軍運動とともに始まったユダヤ人迫害である。十字軍の組織化は、1095年のクレルモン公会議で、東ローマ帝国の皇帝によって要請されたローマ教皇ウルバヌス二世が提唱した。当初は、イスラム教に占領されたエルサレムに向かう巡礼者保護や聖地の奪還を目的としていたが、教皇や司教の意図と離れて、中東に到達して対イスラム戦を始めるまえにヨーロッパ内の反異端闘争へと変質していった。最初に、血祭りに上げられたのは、北フランスからドイツに流れるライン川周辺に住むユダヤ人たちだった。教皇の声明もこの迫害を止めることはできなかった。庶民レベルの憎悪となった反ユダヤ感情は、やがて、イギリス、ドイツを含むヨーロッパ全土に広がって行く。その感情がヨーロッパに定着し250年を経た中世後期に入って大きな厄災がヨーロッパを襲う。ヨーロッパ人口の1/3以上が死亡したといわれる1347年のペスト(黒死病)の大流行である。このとき、ユダヤ人が井戸に毒物を投入したという流言が広がり、民衆の反ユダヤ感情が暴走し、ユダヤ人の虐殺が横行した。この迫害はマタイ伝(27:25)によって正当化された。そこでは、ユダヤ人達は、イエスへの殺神の罪によって当事者たちだけでなく、彼らの子々孫々までが呪われることを受け入れたとされていた。ユダヤ人への呪いが「最後の晩餐」図に影を落とすのは時間の問題だった。ユダヤ人の代表と見なされたユダの描写は、それまでのスコラ的な神学表現に留まらず、庶民の世俗的反ユダヤ感情を反映するようになったのである。その結果が「隔離と漆黒(しっこく)」の図法である。この図法の特徴は、ユダの髪、衣服などどこかの部位に漆黒を使うことである。この図法を最初に使ったのがタッデオ・ガッディのフレスコ画(Fig. 27 F)だったことは注目に値する。それは、ペスト大流行のわずか十数年後のことだった。ペスト患者は体表面が黒くなって死を迎えた(黒死病=the black plague)。その毒素はユダヤ人が井戸に投入したものであると信じた民衆の狂気は教皇、司教、諸侯らの保護政策によってもただされず、その流言が「最後の晩餐」の図法に影響を与えるのは自然の成り行きだった。ペスト大流行前に描かれた、彼の師であるジョットの「最後の晩餐」図(Fig. 27 A, E)に、この図法はまだ登場していない。

 中世後期に入っても当初は、ユダの裏切りを象徴的に表現するには神学的(光輪)、あるいは聖書的(イエスやユダの手で)図法が使われた(Fig. 27 A, B, C, D, E)。聖書に根拠がない「隔離と漆黒」という世俗的図法が初めて使われたのがタッデオ・ガッディの「最後の晩餐」図(Fig. 27 F)である。ある意味では、これを人間的図法と呼んでも良いのかもしれない。ジョットの版刻画(Fig. 27 E)は 1320-1325年の制作、ガッディのフレスコ画(Fig. 27 F)は1360年代の制作であり、ペストが大流行したのは1347年である。この年代に注目するなら「最後の晩餐」図に関する限り、ゴシックとルネサンスの境を14世紀半ばとしたほうが適切なのかもしれない(注1)。しかし、その後の「最後の晩餐」図が一斉にこの図法を使ったという訳でもない。


 初期ルネサンスで最初の「最後の晩餐」図は、1394-95年に描かれたロレンツォ・モナコ(1370頃–1425頃)のテンペラ画(Fig. 28 A)である。これは、タッデオ・ガッディのフレスコ画(Fig. 27 F)の構図をほぼ踏襲している。第二異書同図法でペテロ(白髪の使徒)を二度描き(モナコの描写には白髪の使徒はこの二人しか登場しない)、光輪の有無でユダを差別化する。横長矩形のテーブルを使って、ユダを画面手前に孤立させ、髪と上着を黒く描く。重要なことは、世俗的反ユダヤ感情を「最後の晩餐」図に描き込むというルネサンス後の流行にモナコが先鞭をつけたということである。

 「最後の晩餐」図で使われたテーブルは、時代とともに半円形→円形(方形を含む)→横長矩形へと変化した。第一異書同図法が現われたのは横長矩形のテーブルであり(Fig. 25 C)、第二異書同図法が最初に使われたのは円形だったが(Fig. 27 A)、テーブルの形と異書同図法の種類とは相関していない。


Fig. 28. Depictions for ‘the Last Supper’ in the early Renaissance

       初期ルネサンスの「最後の晩餐」図


       Years, authors, techniques and current locations.

       制作年、作者、技法、所在地


(A) 1394-95, Lorenzo Monaco (Piero di Giovanni), tempera on poplar, Staatliche Museen, Berlin, Germany..

1394-95年、ロレンツォ・モナコ(別名ピエロ・ディ・ジョヴァンニ)、テンペラ(ポプラ)、ドイツ国立美術館(ドイツ、ベルリン)

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(B) 1423, Sassetta (Stefano di Giovanni), panel, Pinacoteca Nazionale, Siena, Italy.

1423年、サセッタ(ステファーノ・ディ・ジォヴァンニ)、パネル画、ピナコテカ国立美術館(イタリア、シエナ)



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(C) 1447, Andrea del Castagno, fresco, Cenacolo di Sant'Apollonia, Florence, Italy.

1447年、アンドレア・デル・カスターニョ、フレスコ、聖アポロニア女子修道院(フローレンス、イタリア)



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(D) 1450s, Jaume Baço or Jacomart, panel, Cathedral Museum, Segorbe, Spain.

1450年代、ジェームス・バッカス、またはジャコマート、パネル画、大聖堂美術館(スペイン、セゴルベ)





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(E) 1464-67, Dieric Bouts the Elder (Northern Renaissance), Oil on panel, Sint-Pieterskerk, Leuven, Netherland.

1464-67年、ディリック・ボウツ兄(北方ルネサンス)、パネル油彩、聖ピテロ教会(オランダ、ルーベン)



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(F) 1470, Jaume Huguet (Catalan painter), wood, Museu Nacional d'Art de Catalunya, Barcelona, Spain.

1470年、ジョオウメ・フゲート(カタルニア)、木材パネル画、カタルニア州立美術館(スペイン、バルセロナ)



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(G) 1476, Domenico Ghirlandaio, fresco, Abbazia di San Michele Arcangelo a Passignano, Tavernelle Val di Pesa, Italy.

1476年、ドメニコ・ギルランダイオ、フレスコ、パシニャーノ大天使聖ミカエル修道院(イタリア、タヴェルネッレ・ヴァル・ディ・ペザ)


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(H) 1475-80, Master of the Housebook (known also as Master of the Amsterdam Cabinet, Erhard Reuwich?, Northern Renaissance), Oak panel, Staatliche Museen zu Berlin, Berlin, Germany.

1475-80年、マスター・オブ・ザ・ハウスブック(=マスター・オブ・アムステルダム・キャビネット、エルハルド・ロイヴィッチ?北方ルネサンス)、オーク材パネル、ドイツ国立美術館(ベルリン)

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(I) 1480, Domenico Ghirlandaio, fresco, Ognissanti, Florence, Italy.

1480年、ドメニコ・ギルランダイオ、フレスコ、オグニサンティ教会(イタリア、フローレンス)





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(J) 1481-82, Cosimo Rosselli, fresco, early Renaissance, Cappella Sistina, Vatican.

1481-82年, コジモ・ロッセリ、フレスコ、システィーナ礼拝堂(ヴァチカン市国)



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(K) 1485, H.Lutzelmann?, Tableaux "La Passion du Christ", Eglise Saint-Pierre-le-Vieux catholique, Choeur, Saint-Pierre-le-Vieux catholique, Strasbourg, France.

1485年、H. ルッツェルマン?、サン・ピエール・ル・ヴィゥカトリック教会 聖歌隊席「キリストの受難」図(フランス、ストラスブルグ)


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(L) c. 1486, Domenico Ghirlandaio, fresco, early Renaissance, San Marco, Florence, Italy.

1486年頃、ドメニコ・ギルランダイオ、フレスコ、聖マルコ教会(イタリア、フローレンス)




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(M) 1493-96, Pietro Perugino, fresco, early Renaissance, Convent of the Tertiary Franciscans, Foligno, Italy.

1493-96年、ピエトロ・ペルジーナ、フレスコ、第三会フランシスコ修道院(イタリア、フォリーニョ)




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An open triangle with or without ‘?’ and those in green, blue and red are as in Fig. 27 A. All, but Fig. 28 K, obtained from ‘The Web Gallery of Art’, and Fig. 28 K from ‘The Last Supper in Christian art’


白、緑、青、赤の▽、および ‘?’のついた▽はFig. 27 Aと同じ。


 14世紀初頭のジョット(Fig. 27 A)以来、ユダの裏切りを表現するもっとも一般的な図法は、ユダ以外に光輪(光背)を描く、あるいはユダだけに黒輪を描くというものだが、この図法は初期ルネサンスに入っても主流である(ゴシック→初期ルネサンスでそれぞれ89%→85%を占める、以下同様)。一方で、イエスやユダの手の方向で裏切りを示すという、福音書に起源がある図法の割合は激減する(61%→8%)。それに対して、聖書に起源がない「隔離と漆黒」図法の割合は倍増する(22%→54%)。一方、マタイ伝に起源がありヨハネ伝にはない、ある図法がルネサンスに入って加わる。ユダが金入れ袋を背面や腰の下に隠し持つという図法である(0%→31%)。この場合、前者では「漆黒」が使われブラウンやシャドーではない。後者では袋は人目につかないように隠し持つ。イエスの後継者=ペテロを重視するマタイ伝と、イエスに愛された弟子=ヨハネを重視するヨハネ伝を両立させるために、イエスを挟んでヨハネとペテロが両隣に座る第一異書同図法が初期ルネサンスでは主流(25%→77%)となり、ペテロを二度描く第二異書同図法は減少(44%→23%)する。個々の図法の使用頻度にこのような消長はあるが、ゴシックと初期ルネサンスを境にして、本質的な変化があったようには思えない。あえて言えば、イエスやユダの手の方向で裏切りを表現する図法が激減し、ユダが金入れ袋を隠し持つという図法がルネサンスに入って登場したことだが、後者も初期ルネサンスの3割程度で使われたに過ぎない。流れとしては、マタイ伝とヨハネ伝を両立させる異書同図法が定着し、弟子たちの配置が円形(方形)から横長矩形になるという変化はあったが転換年代は明確ではなく断続的、漸進的だった。


注1 中世後期(ゴシック)と初期ルネサンスの時代区分については諸説あるが、本論では原則として‘the Web Gallery of Art’に従う。ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》(1495-98)は盛期ルネサンスで最初の作品とした。



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