11章(3) 宗教的抑圧への芸術的抵抗(Artistic resistances to religious suppressions

  1. (II)一神教的価値観への挑戦  (Challenges to the monotheistic values)


─ダ・ヴィンチコードの真実─ (-Da Vinci Code in reality-)


(ix)《最後の晩餐》に込められた思想(Thoughts inscribed in Da Vinci’s depiction for the ‘the Last Supper’


(1) 序論(Introduction

奇跡の壁画(The mural picture surviving a miraculous life


ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァ(1452–1508)の依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチがサンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に《最後の晩餐》(Fig. 29)を描いたのは、コロンブスがアメリカ大陸に到着(1492年)して間もない15世紀も末のころである(注1)。


Fig. 29. The depiction for ‘the Last Supperby L. da Vinci

レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》


     Years, techniques and current locations.

      制作年、技法と所在地




(A) 1495-98, tempera (oil in part) on wall, Refectory in the Convent of Santa Maria delle Grazie, Milan, Italy

1495-98年、レオナルド・ダ・ヴィンチ、テンペラ壁画(一部油彩)、サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院食堂(イタリア、ミラノ)





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西欧で中世の終わりをどこにおくかには諸説あるが、東ローマ(ビザンツ)帝国がオスマントルコに滅ぼされた年とするのが定説である。首都コンスタンチノポリス(現イスタンブール)が陥落して(1453)、多くの知識人が西欧に亡命し、イタリアに古代ギリシャ文化やイスラム科学の文献、知識をもたらした。その影響を受けたルネサンス運動は、キリスト教の価値観、世界観に挑戦をはじめた。画家や彫刻家たちが、注文生産を請け負う単なる職人から、作品によって自らを表現する作家に変貌するころでもあった。ギリシャ神話の神々は、喜怒哀楽の感情だけでなく嫉妬や性的魅力さえ表わす。神々の名を借りれば人の内面を表現できることに作家たちが気づいたのかもしれない。彼らの興味の中心が、一神教の世界から多神教の世界に移っていくのは時間の問題だった。


キリスト教はユダヤ教の偶像崇拝禁止の戒律を緩め、イエスや使徒、聖人などを絵画や彫刻で表現することを許したが、そこには多くの神学的制約があった。笑みを湛える表情や性的魅惑にあふれた表現などはタブーだった。作家たちが、多神教の神々を人間的に描く事でこれらの制約から逃れることができると考えたとしても不思議ではない。しかし、彼らの最大のスポンサーが教会であることに変わりはなく、絵画や彫刻が干渉されなくなったわけではない。神話に基づく作品でも男性器(割礼)や裸婦像には事実上の検閲が残っていたし、異端性や猥褻性が問題とされれば強制的に修正、または破棄されることもあった。ギリシャ神話に基づいて描かれたダ・ヴィンチの《レダと白鳥》は、そのような理由で破棄されたと考えられている。《最後の晩餐》が描かれたのは、このような時代だった。


ルネサンスの定義にも諸説あるが、一般にダ・ヴィンチの《最後の晩餐》が盛期ルネサンスで最初の作品とされる。しかし、─教会が公に認めているわけではないが ─、そこには宗教画にはふさわしくない異端的図法が使われていた。ダ・ヴィンチの真意が奈辺にあったにせよ、この壁画は「最後の晩餐」の歴史でほぼルール化されていた伝統図法を使わず、潜在的な異端思想を孕んでいたのである。ダ・ヴィンチは、中世後期から初期ルネサンスの200年にかけて定着していた「三位一体説」と「教会の権威」(それぞれを「ヨハネ伝」と「マタイ伝」、あるいは「使徒ヨハネ」と「使徒ペテロ」と言い換えても良い)を両立させる図法(異書同図法)を使わなかった。聖職者や修道僧でなくとも、当時の敬虔なキリスト教徒が、そこに異端の匂いを感じとったとしてもおかしくない。


《最後の晩餐》は横9.1m、縦4.2mの巨大な壁画だが、ダ・ヴィンチとしては短期間(1495-98)に完成した。この壁画は通常のフレスコ画ではなく、レジンなどで地塗りされた上にテンペラ画として描かれた(一部油彩)。微妙な色彩を使った陰影やぼかしを好むダ・ヴィンチが、壁の漆喰が乾燥する前(通常約8時間以内)に仕上げねばならず、修正、後塗りが出来ないフレスコ画を避けた、あるいは冒険的な実験をしたとも考えられている(注2)。しかし、テンペラ画が食堂など湿度の高い環境に適さないことは当時も知られていた。顔料の乳化剤として使われる卵黄が腐食するからである。経験を重んじる科学者でもあったダ・ヴィンチがそれを知らなかったとは考えにくい。何らかの理由があってあえてそうしたか、少なくとも劣化するという予想、覚悟はあったはずだ。手記のなかで、ダ・ヴィンチは「絵画の作品は、その師である自然を『永遠化』するので、時間または死によって滅びゆく自然よりも価値がある(加藤朝鳥訳『絵画論』。現代文に改めて引用。『』は引用者。以下同様)」と述べている。前後の文脈からは、「自然」を「人体」と読み替えることもできる。当時のキリスト教徒が読めば、絵画を神の被造物に対置し、画家が創造主に優るかのように主張している、言い換えれば神を冒涜していると解釈できる言葉である。そのダ・ヴィンチがこのような失敗を「うかつにした」とは考えられないのである。ある種の「しかけ」だった可能性がある(後述)。


当時も、フレスコ画の一部をテンペラ画で補うことは珍しくなかった。しかし、巨大な壁全体をテンペラ画で描いたのはダ・ヴィンチのほかに例はない。実際に、《最後の晩餐》は完成の数年後には剥落が始まり、19年後のレオナルドの生存中に全体をカビが覆って暗い陰影と化したという記録が残っている。そして、完成の50年後にはただのシミのかたまりにすぎなくなっていた。彼自身がその修復に関わることは一度もなく、幾度か粗末な補修がされ、現在では、かなり修復されたものの細部において原型をとどめていない箇所が少なくない。それゆえに、美術史家が初期の複製画をもとに原画で確認できない部分を解釈するという変事も起っている。いうまでもなく複製画に基づいて細部を解釈することは危険である。そこに複製者の主観や個性が反映される可能性を否定できない。複数の複製画の間にさえ、窓外の風景、天井や壁の構造、光輪の有無、顔の陰影などに不一致が多く、それぞれに原画と異なる加筆、変更があったことは明らかである。共通点があったとしても、ある複製者が他の複製者を参考にした可能性もあり、原画で確認できない限りそれを過剰に解釈すべきではない。彼らが共通して「レオナルドの神学的誤り」を修正した可能性もある。


壁画の剥落、劣化をダ・ヴィンチだけの責任に帰することはできない。教会や修道院は、壁画を適切に保存しなかっただけでなく、積極的に破壊すらした。イエスの足もと部分は隣室へのドアを作るために壁ごと解体され、食堂は後に馬小屋となって壁画の環境はさらに悪化した。キリスト教にとって《最後の晩餐》とはその程度の作品だったのである。現在、教会と修道院はユネスコの世界文化遺産に登録されており、その中心にこの壁画がある。今では人類共通の財産とみなされている《最後の晩餐》は、なぜこのように惨い扱いをされねばならなかったのか。ダン・ブラウンではなくとも、「この壁画には、ローマカトリックにとって何か不都合な情報が秘められている」と考えるものがいても不思議ではない。


20世紀に入ると、さらに過酷な運命がこの壁画を待っていた。第二次世界大戦中の1943年8月16日に、米英連合軍は、ミラノ空襲の無差別爆撃で修道院の食堂をほぼ完全に破壊した。むき出しになった壁画は、その後の三年にわたって直射日光と、風雨や雪にさらされた。これらの経過を考えると、劣化したとはいえ《最後の晩餐》が今日のかたちで残ったことは奇跡と言える。


この経緯は《マタイ受難曲》と重なるところが多い。時代(ルネサンスとバロック)、宗派(カトリックとプロテスタント)、分野(絵画と音楽)の違いはあるが、今日では、西洋芸術史上で最高峰にあるとされる絵画と音楽が、かつてはキリスト教会から疎まれ、歴史から消えかけたのである。ダ・ヴィンチ(ルネサンス)はバッハ(バロック)を2世紀遡り、バッハがダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を知っていた確証もない。しかし、両作品に込められた思想とその表現法は、彼らが綿密に打ち合わせをしたのではないかと思わせるほどに酷似している。バッハが、教会の権威を否定し、ユダの救済をモチーフにした受難節オラトリオを完成する230年前に、ダ・ヴィンチは同様の思想を壁画に描いた。バッハが音楽で表現した思想を、ダ・ヴィンチはどのように絵画で表現したのか?それを検証する前に、巷間に伝わる《最後の晩餐》についての通説に触れておきたい。


注1 地球が球形であると信じて西に向かったコロンブスは、自分が到着したのはアジアであり、それが新大陸であるとは死ぬまで気づかなかった。以下の史実については、主に「Leonardo da Vinci The Last Supper(by M. Ladwein)」(Temple Lodge 2006)を参考にしている。ただし、ダ・ヴィンチの思想と《最後の晩餐》図の解釈については、筆者とラドワインの結論は異なる(本文参照)。

注2 フレスコ画は、油彩画や日本画のように油、にかわ、ノリなどを使わず、顔料を水に溶いて乾燥前の漆喰に直接描く。漆喰が乾く途中で石灰水と空気中の炭酸ガスが反応して出来る透明な炭酸カルシウムの結晶に顔料が閉じ込められ、色彩が半永久的に保存される。ポンペイ遺跡の壁画が今も鮮明に残っているように、その起源は古く少なくとも2千年以上前に遡る。一方、テンペラ画は、卵黄などの乳化剤を溶剤、固着剤として使う事で顔料を安定に保存する。卵黄を乳化剤に使ったテンペラ画は油彩のような黄変を生じず、一度、完全に乾燥すれば湿気にも耐性がある。しかし、壁画に使うと、壁から浮き出る水分のため完全に乾燥することはなく剥落が避けられない。古典的には乾燥した木材パネルに石膏で地塗りをして描き、さらに乾燥させる。フレスコ画は後塗り、描き直しができず、修正するには壁を崩して漆喰から塗り直すしかないので、微妙な色彩部分は部分的にテンペラ画で代用することも行われた。


使徒の同定(Identification of disciples according to the popular view


《最後の晩餐》図に描かれた使徒は全員の名が分かっている。あるいはわかったことになっていると言った方が正確かもしれない。イエス、ユダ、ヨハネ、ペテロについては、幾つかの図法から自明だが(後述)、他の使徒については、レオナルド自身による記録はない。ただし、1495年頃に描かれたとされるヴェニス・スケッチ(Venice drawing)とでも呼べるものがある(Fig. 30 A)。現在では、このスケッチはダ・ヴィンチの真筆ではなく、彼が描き、のちに失われた原図を誰かが模写したものと考えられている。これがダ・ヴィンチの初期の構想であったとする説もあるが、それが正しいなら、彼は当初、「三位一体説」と「教会の権威」を両立させる異書同図法を使うつもりだったことになる。しかし、その仮想の原図がいつ頃に描かれたのか、忠実に模写されているのかなど不明な点は多い。1495年はダ・ヴィンチが壁画にとりかかった年であり、ヴェニス・スケッチが原図の作成後間もなく模写されたとは考えにくい。現存する壁画との不一致が多すぎ、矛盾が大きすぎるからである。もしそうであれば、何らかの突発的事件が起こり壁画にとりかかる直前または直後に構想を劇的に変更したとしか考えられない。そうでなければ、現存する多くのスケッチ同様に、他者の「最後の晩餐」図を研究する途上で描かれた習作である可能性が高い。突然の構想変更もあり得なくはないが、それほどの緊急事があったのなら何らかの傍証、逸話が残っていそうだが、それを示唆する事件は知られていない。


ヴェニス・スケッチが、レオナルド自身の真筆でないと判定された理由は定かではないが、鏡像で書かれた彼の筆跡は残っているので、スケッチに記入された使徒名の筆跡(Fig. 30 B)が彼のものとは異なるのかもしれない。だとすれば、ダ・ヴィンチの指導があったかどうかはともかく、これは模写ではなく、弟子が作成したオリジナルであるという可能性もある。いずれにしても、重要なことはこのスケッチに記入された使徒名は、初期複製画の一つ(Fig. 30 C)に記された使徒名とほとんど一致しないことである。動作、姿勢と席順が一致する使徒は左端のバルトロマイだけである。これもヴェニス・スケッチが《最後の晩餐》の初期構想ではなく、習作であったという仮説を支持する。バルトロマイ以外の使徒名を総入れ替えする理由が想像できないのである。もちろん、複製画の装飾帯に記入された名前が間違っている可能性もあり、両方が間違っている可能性もある。


Fig. 30 Preparatory drawing said to be for the earlier idea for ‘The Last Supper’ (A), names of apostles hand-written in mirror image (B), and a probable early-copy ofThe Last Supper’ (C)


《最後の晩餐》の初期構想と言われているヴェニス・スケッチ (A)、鏡像で手書きされた使徒名 (B)、初期の模写とされる複製画 (C)


     Years, techniques and current locations.

      制作年、技法、所在地


A, c1495, drawing, Gallerie dell’ Accademia, Venice, Italy; obtained from

   <Bridgeman Art on Demand>






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The seat orders are rearranged as that two images corresponding to the seat numbers from 1 to 4 and those from 5 to 13 are combined into one.


 1495年頃、スケッチ、ヴェニス・アカデミア画廊、イタリア。席順を

         揃えるために分割されていた左右のイメージを組み直し(①〜④、⑤〜

         ⑬)を一列に配置している。


B, Names for respective figures speculated from hand-written letters in mirror image and from their sheet positions








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Bartholomew, Andrew, Thaddeus, Jacob the Less (no letters), Judas (no letters), Peter, Jesus (no letters), John (no letters), Jacob the Great, Thomas, Matthew, Simon, Philip. Although ‘Jacob the Less’ was supposedly a younger brother or cousin of ‘Jesus’ and thus should have looked similar to and younger than Jesus, it looks here different from and older than him.



手書き鏡像文字と席の場所や消去法で推察された使徒の名前。( )内は判読されたイタリア語表記の使徒名または推定されたカタカナ名。

①バルトロマイ(Bartlomeo)、アンデレ(Andrea)、タダイ(Tadeo)、無記(小ヤコブ?)、無記(ユダ)、ペテロ(Pietro無記(イエス)、無記(ヨハネ)、大ヤコブ(Iacobs Maggiore)、トマス(Tomaso)、マタイ(Matteo)、シモン(Simone)、ピリポ(Filippo)。


C, A probable early-copy of The Last Supper, Chiesa di Sant’ Ambrogio in the Village of Ponte Capriasca, Switzerland. The image was obtained from <flickr>





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 Thirteen names can be identified in the frieze below the respective figures from

  left to right as following. The numbers are clearly defined according to the seats but not heads.

 初期の模写とされる複製画。サンタンブロージョ教会、スイス ポンテ・カプリアスカ村。装飾帯に12使徒とイエスの名前が、以下の様にラテン語で記されている。番号は頭部ではなく、席の順に付けられていることは明らかである。


BARTHOLOMERS, IACOB MINORE, ANDREAS, PETRVS,

IVDAS, IOHANES, IESVS XTVS, IAKOBS MAGGIORE,

THOMAS, PHILIPVS, MATHEVS, THADEVSM, SIMON.


①バルトロマイ、②小ヤコブ、③アンドレ、④ペテロ、⑤ユダ、⑥ヨハネ、⑦イエス・キリスト、⑧大ヤコブ、⑨トマス、⑩ピリポ、⑪マタイ、⑫タダイ、⑬シモン。



興味深いのは、スケッチ(Fig. 30 A)で⑩に座る使徒は、複製画の⑪の席に座る使徒と同じく両手をイエスに向ける姿勢で描かれているが、名前はトマスではなくマタイになっていることである。その上で、スケッチの⑪の名を見ると、一度トマスと書かれてマタイと訂正された跡が見える(Fig. 30 B)。これは、どのように解釈できるのだろうか?いくつかの解釈は可能だが、単純に考えれば、この両手をイエスに向けた人物は、本来はトマスであり、複製画でマタイとされた⑪は間違って右から三番目の使徒として記入されたと言う可能性がある。いずれにしても、これらの名前には疑問が多い。どちらか、あるいは両方が間違っている可能性もある。同様の疑問は他にもある。スケッチの⑫、⑬にはシモン、ピリポが座るが、複製画(Fig. 30 C)の同じ席に、同じ姿勢で座るのはそれぞれタダイ、シモンである。スケッチの④、⑤、⑦、⑧に座る人物には名前が付されていないが、⑤、⑦、⑧がユダ、イエス、ヨハネであることは図法上から明らかなので、消去法でいくと④は小ヤコブになる。しかし、彼はイエスの弟または従弟とされ、イエスと容貌が似ていたとされるが、スケッチの④の使徒は、イエスよりも老いているように見え、容貌も似ていない。これらの違い、あるいは変更をどのように説明できるか、その意味もわからない。どちらにしても、これらの使徒名はレオナルドのオリジナルを写したものではないと推測できる理由がある。


《最後の晩餐》はヨハネ伝に基づいて描くように要請されたと伝わっている。実際に、ユダ、ペテロ、ヨハネを描くダ・ヴィンチの図法はヨハネ伝で説明可能であり、そこにこだわりがあるように思える(後述)。だとすれば、タダイという名が出てくるのは不自然である。タダイの名が登場するのはマタイ伝とマルコ伝だけであり、ヨハネ伝には出て来ない。したがって、ヴェニス・スケッチに記された使徒名に「タダイ」とダ・ヴィンチが記入したとは考えられない。その意味では、スケッチも複製画も同様であり、これらの記名は複製者の推察に基づく、あるいはすくなくとも部分的に推測が含まれている可能性が高い。ヨハネ伝で「タダイ」に相当するのは「イスカリオテでないユダ(14:22)」であり、ルカ伝では「ヤコブの子ユダ」(6:16)となっている。この3つが同一人物を指しているのかどうか、ここでは重要でない。問題は、ダ・ヴィンチが《最後の晩餐》をヨハネ伝に基づいて描いたのであれば「タダイ」の名は使わないだろうということである。したがって、複製画を根拠にダ・ヴィンチがヨハネ伝以外のエピソードを壁画に取り入れたとするのは疑問である。たとえば、複製画の使徒名を根拠に、「イエスの両隣に大ヤコブとヨハネの兄弟(ゼベダイの二人の息子)を配したのは、彼らの母親(マタイ伝20:20-21)、あるいは彼ら自身(マルコ伝10:35)が、天国でイエスの側に二人を座らせて欲しいと希望したことを、レオナルドが地上の晩餐に取り入れた(注1)」とする解釈である。この「皮肉な暗示(a hint of gentle irony)」にダ・ヴィンチが何らかの思いを込めたとも思えない。これは無害な過剰解釈の一つかもしれないが、芸術家の思想を理解するには無益である。作者を敬虔なキリスト教徒と思わせるために、作品と聖書の関連を強調する必要があるためかもしれない。


注1 The position of these two in the seating order is, by the way, a reference to the strange episode in Mark [10:35-45] in which these sons of Zebedee confront Christ with the request that in heaven they be seated one to his right and one to his left. [In Matthew, 20:20-28, it is the rather excessively ambitious mother of the two who puts this request to Christ.] Not without a hint of gentle irony Leonardo has seated them on either side of Christ while they are all still on the earth. (Lines 12-19, p43, ibid


過剰解釈と通説(Over-interpretations and popular views


《最後の晩餐》は遠近法で語られることが多い。油彩を使った空気遠近法(遠方の空気は青く見えるという光の屈折率の原理を応用した色彩的な奥行き表現法)や、イエスの顔に収斂する一点透視画法が有名である(Fig. 30 A)。それ自身は間違いではないが、「最後の晩餐」図に遠近法を応用することは、半世紀前のジャコマート(Fig. 28 D)や、その後のボウツ兄(Fig. 28 E)に例があり、レオナルドが初めてではない。ダ・ヴィンチの独創性はまったく別のところにある。


《最後の晩餐》はヨハネ伝に基づいて描くように要請されたと伝わっている。しかし、共観福音書(特にマタイ伝)に基づいて解釈されることも少なくない(注1)。ほかにも、仏教やヒンズー教、占星術、合気道など、およそダ・ヴィンチとは無縁な宗教、占い、東洋武術のたぐいと関連づける議論や、占星術とフロイト、ユングの精神分析学を結びつけ、幼少におけるレオナルドの母親喪失体験や彼の性的倒錯、同性愛を論じる俗説まである。それらの中にも、根拠が乏しいにもかかわらず支持者が多いものがある。


その中で、おそらくもっとも有名なものが「ユダが右手に持つ袋には裏切りの報酬=銀貨30枚が入っている」というマタイ伝(26:15)に基づく解釈だろう。画家や美術史家の間にも支持が多い。しかし、根拠は乏しく、これも過剰解釈の一つである。この通説が広く信じられている理由は定かではないが、キリスト教会に都合よい解釈であることには違いない。ダ・ヴィンチを異端とせず、彼を聖書(この場合はマタイ伝)に基づいてユダの裏切りを非難したと言えるからである。すでに述べたように、同じような例がバッハにもある。例えば、《マタイ受難曲》がイエスの復活を否定していると非難する神学者のカール・バルトに対して「MP66bの上向音階はイエスの復活を表現している」とする、鈴木雅明などの解釈である。バッハの異端性を排除するために必要な解釈なのだろうが、これは恣意的であり、客観性がない事はすでに述べたとおりである(IX-11-61)。


ゲーテ(Johann Wolfgang von Göthe, 1749-1832)やシュタイナー(Rudolf Steiner, 1861-1925)が、《最後の晩餐》の偉大さについて語り始めたこともあり、19世紀になるとキリスト教はこの壁画の再評価を迫られた。しかし、その偉大さを公に認めるには難問が残っていた。どのように解釈すればこの壁画の異端性を排除できるかという内部の問題である。当時のキリスト教徒であれば、この壁画の異端性に気づくのは難しくない。横長のテーブルの同じ側にユダがイエスや他の弟子たちと同列に描かれ、教会の権威を象徴するペテロにはユダの次席が与えられている。このような図法は、ダ・ヴィンチ前の「最後の晩餐」図に例がない。教会の権威を否定するだけではなく、不服従の意図さえ見え隠れする異端的な図法である。それを否定するには、なんらかの別解釈が必要だった。そのために多くの俗説が現われた。たとえば、「シャドーによる裏切りの非難」という解釈である。

「ダ・ヴィンチはユダの顔にシャドーをかけて彼の裏切りを非難した」

「イエスの顔の明るさとユダの顔の暗さは対となって善と悪を象徴する」

しかし、これらの解釈は想像の域を出ていない。先に述べたように陰影の差は微妙であり、そこにダ・ヴィンチの思想的な意図が反映しているとする根拠はない。それは中世後期から初期ルネサンスにかけてユダの裏切りを非難するために使われた「漆黒の図法」とは明らかに異なる。イエスとユダに陰影の差があるとしても、それが「ユダの裏切りを非難する」図法とは即断できない。同様の陰影の差は他の弟子の間にもあるからである。ジョット(Fig. 27 A)以来、初期ルネサンスにかけての200年間で、ユダの裏切りを表すもっとも一般的な図法は、12使徒でユダだけに光輪を描かないという単純、明快なものだった。しかし、ダ・ヴィンチはこの図法を使っておらず、ユダだけではなく、イエスを含むすべての人物に光輪を付けていない(Fig. 30)。


Fig. 31. Details of the depiction for ‘the Last Supper’ by L. da Vinci.

《最後の晩餐》のいくつかの細部


    Names of the apostles follow the popular view in this figure for the sake of convenience (see text). The pictures are taken from ‘Leonardo da Vinci The last Supper’ by M. Ladwein

   便宜上、本図での使徒名は通説に従う(本文参照)。図はラドワイン著の「Leonardo da Vinci The last Supper」より。



  (A) A detail for Judas, Peter and John.

  部分(ユダ、ペテロ、ヨハネ).

  拡大図のは金入れ袋、はユダが倒したとされる塩壷

  (次節参照)。







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(B) A detail for Thomas, James/Great and Philip..

  部分(トマス、大ヤコブ、ピリポ)







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 (C) A detail for Jesus.

   部分(イエス)








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(D) A detail for Matthew, Thaddeus and Simon..

  部分(マタイ、タダイ、シモン)








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陰影の差について、さらに検証する。ヨハネ、ペテロ、ユダの順に、明から暗への陰影差があることはラドワイン著「Leonardo da Vinci」に収載された写真でもわかる(Fig. 31 A)。しかし、同様の差はイエスの画面右に座る三人(通説では頭部の位置で画面左からトマス、大ヤコブ、ピリポ)の間にもみられる(Fig. 31 B)。それらを比較すれば、イエスの顔の陰影は中間的であり、暗に対する明とは言いがたい(Fig. 31 C)。明暗の差で善悪を表現したというなら、イエスとユダではなく、ヨハネとユダと言うべきだろう。陰影の差は画面右端の三人(同様に、マタイ、タダイ、シモン)についても言える(Fig. 29 D)。ここでは紹介しないが、同様の差は、左端のグループ(バルトロマイ、小ヤコブ、アンドレ)についても言える。陰影差を神学的に解釈するなら、3人ずつ4つのグループのすべてに同様の解釈をすべきということになる。この陰影差は、複製画によっても異なり、シモンの顔をもっとも明るく描いた複製画もある(data not shown)。ユダの陰影を強調するために、あるいは「ダ・ヴィンチの間違い」を修正するために、シモンのシャドーを消したのかもしれない。いずれにしても、これらの陰影差に神学的な意味を持たせて「裏切りの図法」とするには無理がある。


ラドワインによれば次ぎのような解釈もある。

「ユダの頭部が最も低い位置に描かれているのは彼の精神性の低さ、あるいは彼が地獄に近いことを示す」

「ペテロのイエスへの近さは席順ではなく、頭部の位置で示されている」

これらの俗説を改めて論じる価値は無い。芸術的価値をキリスト教神学と両立させるための過剰解釈であり、無理筋を通しているだけである。

最後に残るのがユダの持つ袋である。この通説は、その袋に裏切りの報酬=銀貨30枚(マタイ伝26:15)が入っていると解釈する。それが正しければ、これは明らかに「裏切りの図法」と呼ぶに価し、ダ・ヴィンチの異端性を否定することも可能である。この解釈が俗耳に入りやすいのは事実である。ダ・ヴィンチ前の初期ルネサンスに似た図法があるし(Figs. 28 D, H, K, M)、ユダヤ人は吝嗇で、金に汚いという当時の偏見とも一致する。「ユダとユダヤ」の発音が似ているのは偶然ではあるが、古来、ユダはユダヤ人の悪を代表するとされた。しかし、この解釈は成立しない。ダ・ヴィンチの図法と、彼以前の図法とには決定的な違いがある。金入れ袋を隠し持つか、公然と持つかの違いである。これについては次節の本論で詳しく述べる。


そのほかにも、占星術的宇宙論でユダの同列化を解釈する通説がある。12使徒を十二宮の星座に結びつけるのは初期キリスト教の時代にさかのぼり、占星術は中世には確立していた。ルネサンス時代には広く流布していたと言われる。したがって、ダ・ヴィンチ以前の描写に適用されてもおかしくはない。占星術は宗教でも、科学でもない。西欧版の血液型占いのようなもので、真面目に信じるのでなければ害の無い単なる遊びであり、迷信である。しかし、《最後の晩餐》を占星術的に解釈すればダ・ヴィンチの思想が見えてくると言うとき、「害のない迷信」ではすまなくなる。ダ・ヴィンチの思想が曲解される。宗教画に詳しい美術史家でもあるラドワインは、「ユダを含む12使徒の全員が同列に描かれたのは、十二宮の星座を象徴するためであり、それによってダ・ヴィンチは宇宙と全人類を描いた」と主張する。この解釈が、星を見て移動する遊牧民族の文化を源流とする西欧でそれなりの共観を呼ぶことは理解できる。定住した農耕民族の文化を源流とする日本人が家元(名家)思想を好み、遺伝子絡みの血液型占いに熱中するようなものだ。しかし、ダ・ヴィンチが実際に12使徒で十二宮を象徴したと解釈するには、何らかの根拠が必要である。


「12使徒が十二宮の星座として13番目の太陽、すなわちキリストと結びついて構成する人類共同体は、典型的な宇宙のイメージに重なる」というR. Steinerの言葉を借りて、ラドワインは「(ダ・ヴィンチが描く)12使徒が十二宮の星座と関連するのは明らかである」、「12使徒が星座の十二宮に対応し、宇宙を表現するためには、ユダを他の弟子たちと同列に描かれねばならなかった。」と述べる。12使徒が『11+1=12』ではなく『3x4=12』として描かれたことが宇宙を表現している証拠だというのである(注2)。しかし、『3x4=12』が、「宇宙との明らかな関連(obvious cosmic associations)を示す」という解釈は理解しがたい。少なくとも、ダ・ヴィンチが占星術に凝っていた、あるいは興味を持っていたこと示す、何らかの証拠が別に必要ではないか。ラドワインも認めているように、彼が天文学に興味を持っていたことは知られていても、残された手稿やスケッチに占星術や十二宮の星座について何かしらの示唆を与えた痕跡はいっさいみつかっていないのである。しかも、ダ・ヴィンチは、「科学」について次の様に述べている。「いかなる『探究』も、もしそれが数学的証明を経ていなければ『科学』の名に価いしない(絵画論)。」今日でも通用する、正当な言葉である。ダ・ヴィンチが星占いなどの迷信に凝っていたとは思えない。彼の「絵画論」では、「絵画」を「科学」という語に置き換えて議論しているところも多い。植物の葉脈を動物の血管に見立てたスケッチも残っている。彼にとって、絵画とは自然を写し取る科学に他ならなかった。そのためには、人体解剖も厭わなかったし、ミケランジェロが描く非現実的な筋肉描写には批判的だった。


《最後の晩餐》の占星術的解釈を最初に思いついたのは、人智学者(anthologist)のE. Uehli (1875-1959)だと言われる。しかし、彼自身は後にこの解釈から距離を置いたらしい。だが、この解釈は一人歩きを始めた。現在では、《最後の晩餐》の占星術的解釈は一種の流行になっている。占星術によれば、十二宮の星座は全体として宇宙を表現し、個別には人間の体部と感情を象徴するという(注3)。ダ・ヴィンチが《最後の晩餐》で何を表現したかを巡って百花繚乱のごとく諸説が入り乱れている。イエスに向けられたユダの左手は、サソリ座の「はさみ」を象徴し、ユダからイエスへの性的好奇心を表現するという荒唐無稽な解釈もある。占星術に基づいて《最後の晩餐》を解釈する研究者たちは、それぞれが先入観の奴隷となり、自分がもっとも確かであると信じる解釈を提案し、ルールのない「なんでもあり」ゲーム(an untenable game of ‘ anything goes’) に興じている。


これらの説を信じる人たちには共通する盲点がある。「最後の晩餐」は、ダ・ヴィンチの時代にはすでに千年の歴史を持つ宗教画の題材だった。レオナルドがそれまでに描かれた作品に事前に接していたことは間違いない(注4)。過去の描写を研究し、伝統図法を知ったうえで、ダ・ヴィンチが《最後の晩餐》に取り組んだのであれば、研究者がすべきことは星占いや精神分析のたぐいではなく、ダ・ヴィンチ前の描写と彼の作品の比較美術史ではないだろうか。彼が何を描いたかを議論する前に、彼が伝統図法の何を否定し、何を描かなかったかを最初に検証すべきである。


注1 マタイ伝など共観福音書に起源を持つ解釈に次ぎのようなものがある。

1.ユダの右手が持つ袋に裏切りの報酬(銀貨30枚)が入っている(マタイ伝26:15)。

日本語の「最後の晩餐(レオナルド)」Wikipediaに、次の様な記述があるが、下線部は明らかに間違っている(2012年10月19日現在)。

「イスカリオテのユダ - イエスを裏切った代償としての銀貨30枚が入った金入れの袋を握るとされる。ただし、マタイによる福音書では、イエスを引き渡した後で銀貨を受け取ることになっていたが、ダヴィンチは、聖書にある『手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る』の表現が難しかったためではないかと言われている。

マタイ伝(26:15)によれば、ユダは裏切りの報酬を事前に受け取っており、事後の支払いが約束されたのはマルコ伝(14:10-11)とルカ伝(22:3-6)である(Table 13)。ヨハネ伝は裏切りの報酬についてまったく触れていない。

2.ユダが上体を後ろに傾け、右手が塩壷を『倒して』いるのは、イエスが弟子たちを塩に例えて、「塩の効き目が無くなれば、塩味が失われる」と言ったことを受けて、ユダが使徒から脱落したことを意味する(マタイ伝5:13、マルコ伝9:50、ルカ伝14:34)。

ラドワインは、『倒れた塩入れ』は、現在の壁画では確認出来ないが、完成の約20年後に模写された複製画に描かれているので、原画にもあったはずと主張する。レオナルドの手記では、当初、グラスを倒す描写が予定されていたが、ワインをテーブルの上にこぼす描写は、絵画的に露骨すぎるので塩入れに変更したのではないかと彼は推測している(Appendix, p126, No.10, ibid.)。それは「倒れた塩入れ」がユダの驚きを動きとして表現したとは言えても、ダ・ヴィンチがユダを非難した根拠とするには無理がある

3.イエスの左右に座る大ヤコブとヨハネ(ゼベダイの二人の息子)は、彼らの母親(マタイ伝20:20-21)、あるいは彼ら自身(マルコ伝10:35)が、天国でイエスの側に二人を座らせて欲しいと希望したことを引用した。

しかし、本文でも述べたが、この解釈には12使徒全員の名が特定できるという前提がある。その根拠は複製画にあり、ダ・ヴィンチの手記やスケッチで確認されたえいるわけではない。いずれにしても、ダ・ヴィンチがヨハネ伝以外を引用したと積極的に解釈するのは無理である。

注2 This division of twelve into four times three awakens obvious cosmic associations and is only possible because Judas has been reintegrated with the other disciples. [Lines 3-5, p37 in M. Ladwein, ‘Leonardo da Vinci, The Last Supper’.]

注3 占星術で十二宮の星座は12の体部と心理を象徴するとされた。12の星座が象徴する人の体部、感情は以下のとおりである。

 おひつじ座 (頭、粗野)

 おうし座  (首・顔、保守)

 ふたご座  (手・腕・肩、鋭敏)

 かに座   (胸、感得)

 しし座   (背、自信)

 おとめ座  (腹、分析)

 てんびん座 (尻、機転)

 さそり座  (性器、情熱)

 いて座   (腿、冒険)

 やぎ座   (膝、自我)

 みずがめ座 (脚部、独創)

 うお座   (足、交感)

  この場合、どの星座がどの使徒に対応するかは、使徒の並びを左右のどちらから読むか、頭の位置か、席順かで様々な解釈が行われている。その中に、ユダを左から5番目と解釈し、「さそり座を象徴するユダは左手をイエスに向けて伸ばし、イエスへの性的衝動を表す(His left hand is snatching greedily in the direction of Christ; Judas represents the sexual impulses of Scorpio. lines 10-12, 2nd paragraph, p129, ibid.)」というものまである。

注4 ダ・ヴィンチはタッデオ・ガッディ(Fig. 27 F)、アンドレア・デル・カスターニョ(Fig. 28 C)、ドメニコ・ギルランダイオ(Fig. 28 G, I, L)らの作品に精通していたと言われる(Leonardo was undoubtedly familiar with the treatments of the Last Supper by Castagno and Ghirlandaio and also with that of Taddeo Gaddi, Giotto’s pupil, painted in the middle of the fourteenth century. p27, ibid.)。また、近年の修復で、卓上の皿に盛られた料理はユダヤ教の「過越祭」で使われる子羊ではなく、魚であることが明らかになった。初期ルネサンスに例はなく、初期キリスト教でイエスを表わす符号が魚であったことを彼が知っていたことを強く示唆している。




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