11章(3) 宗教的抑圧への芸術的抵抗(Artistic resistances to religious suppressions

  1. (II)一神教的価値観への挑戦  (Challenges to the monotheistic values)

─ダ・ヴィンチコードの真実─ (-Da Vinci Code in reality-)


(ix)《最後の晩餐》に込められた思想(Thoughts inscribed in Da Vinci’s depiction for the ‘the Last Supper’


(3) 比較美術史-3(Comparative studies-3

─ペテロとヨハネの図法─(─Pictorial methods for Peter and John─)


マタイ伝によれば、ユダは祭司長たちに裏切りをもちかけ、報酬として銀貨30枚を受けとる。イエスは晩餐の席でユダの裏切りを予告し、彼を激しく非難した。しかし、ヨハネ伝が伝える話はかなり異なる。ユダは重要な弟子の一人であり、教団の会計を預かっていた。イエスによる裏切りの予告はユダにとっても初耳であり、驚きだったはずだ。なぜなら、サタンが彼に入ったのは予告の後であり、イエスがユダを非難する言葉もない。ヨハネ伝は、ユダが裏切りを持ちかけたとも、報酬を受け取ったとも伝えていない。イエスの思いを成就するために(ヨハネ伝19:30)、彼がユダに裏切りの役を託したようにも読める。先に述べたように、ダ・ヴィンチもユダに裏切りの図法を使わず、彼をイエスの言葉に驚く会計係として描いた。

現存する最古の「最後の晩餐」は、5世紀末にアリウス派が創建した教会の壁に遺されたモザイク画である(Fig. 24 B)。弟子たちが横に並び、イエスは左端に座る。この構図ではイエスの隣に一人しか座れない。そこに座るのがペテロであり、ユダは右端の末席に孤立する。これがマタイ伝の序列に従っているならヨハネはイエスから4番目ということになるが、実際には匿名化されている。アリウス派がヨハネを重視していなかったことは明らかである。ヨハネが特定できる最初の「最後の晩餐」は中世盛期まで待たねばならない(Fig. 25 A)。以後、ユダ、ペテロ、ヨハネのそれぞれが裏切りの罪、教会の権威、イエスの神性を象徴する図法が定着した。ダ・ヴィンチ前には、ユダを非難する裏切り図法と、ペテロとヨハネをイエスの左右に分離する異書同図法を組み合わせるのが一般的になった(Tables 14 & 15)。

ダ・ヴィンチも三人を明示的に描いたが(注1)、彼は裏切りの図法を使わなかった。以下で明らかにするように、ペテロとヨハネを分離する異書同図法も使わず、ペテロに応じるヨハネの姿を描いた(ヨハネ伝13:24)。もっと正確に言えば、三人が有機的につながる統合図法を生み出した。ダ・ヴィンチがそこに異端の思想を込めていたことは明らかである。


注1 ラドワインは小ヤコブ(通説では画面左から二人目、Fig. 30 C)も特定できるとする。理由を述べていないが、小ヤコブはイエスの従弟で、顔がイエスに似ていたとされるので、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》で、その可能性があるのはこの人物だけと解釈しているらしい。しかし、その結論はやや強引である。すでに述べたように、ユダ、ペテロ、ヨハネ以外の弟子たちが特定できるとする説の根拠は薄弱である。何よりも、通説が「タダイ」の名を上げているのは不自然である。ヨハネ伝にその名はなく、「イスカリオテではないほうのユダ」となっている。タダイとそのユダが同一人物であるという証拠もない。


ユダ、ペテロ、ヨハネの統合図法(A unified pictorial method for Judas, Peter and John

かつてのキリスト教会が反ユダヤであったことは間違いない。しかし、中世でも、世俗の反ユダヤ主義からユダヤ人たちを守ろうとしたマインツ大司教やクレルヴォー修道院の聖ベルナルドの例があった(VI)。ドイツに反ユダヤ主義を広めたルターでさえ、当初は「イエス・キリストはユダヤ人であった」とユダヤへの親近感を隠そうとはしなかった。ナチスドイツの時代でも、ユダヤ人を庇って強制収容所で処刑され、のちに聖人に列せられたマキシミリアノ・コルベ神父の例がある(V-2注4)。その意味では、キリスト教にとって「ユダやユダヤ人を非難しないことが、すなわち異端である」とは限らない。反ユダ、反ユダヤの思想は神学的に確立した思想ではなく、ユダを表現する図法には画家に独創の余地があったとも言える。裏切りの図法が聖と俗の間で揺れたことも、その反映であろう(Fig. 33)。

一方、すくなくとも中世後期以後の描写では、ペテロとヨハネの図法に裁量の余地は少なかった。二人の位置づけは明確である。ペテロはイエスの後継者として教会の権威(マタイ伝16:17-18)を象徴し、ヨハネはイエスに愛された使徒としてイエスの神性(ヨハネ伝1:18;13:23;21:20-24)を象徴した(後述)。しかし、この二つは矛盾をはらんでいる。「最後の晩餐」でペテロとヨハネを同一画面に描くには、マタイ伝とヨハネ伝が両立しないのである。マタイ伝のペテロは筆頭弟子としてイエスの隣に描かれねばならない。しかし、ヨハネ伝のペテロはヨハネよりもイエスから遠く(下座)に座っていた。今日の無教会派であれば後者で構わないだろうが、教会の壁画としては都合が悪い。これを解決するために、ペテロとヨハネを分離し、マタイ伝とヨハネ伝を折衷する異書同図法が生まれた。 しかし、ダ・ヴィンチは異書同図法を使わず、ペテロもヨハネ伝に基づいて描いた。ユダ、ペテロ、ヨハネの三人をまとめて、ヨハネ伝に統一する統合図法を生み出した。 この図法が伝統を逸脱していたことは明らかである。そこには、ダ・ヴィンチの何らかの意図、あるいは確信があったはずだ。


ペテロとヨハネの象徴的意味(Symbolic significance of St Peter and St John

繰り返しになるが、「最後の晩餐」でペテロとヨハネが象徴する意味を概略する。キリスト教の歴史で、最初で最大の異端論争は、 アリウス派とアタナシウス派の間に起った。彼らは「イエスは人か神か」を巡って争い、互いを悪魔とののしった。それは、イエスがペテロのために「この岩の上に建てる」と約束した教会(マタイ伝16:18)の権威をどちらが継承するかの争いでもあった。

イエスを直接に知る人たちがまだ多く生存していた原始キリスト教時代に、イエスが人か神かを巡る論争はなかった。神とは旧約聖書に書かれた唯一神のことであり、イエスが「父」と呼んだ神だった。しかし、イエスの死後、70〜80年が経ったころにイエスの生前を知る人はほとんどいなくなった。そのころに成立したのが、イエスを神格化した第4の福音書=ヨハネ伝である(II-3 注1)。 しかし、一神教であるユダヤ教の一派だった「ナザレ(のイエス)派」が、旧約聖書の神とは別に、新たな神をたてることは不可能だった。選択肢は二つしかない。「旧約の神を唯一神とし、イエスをその被造物(人)」とするか(アリウス派)、あるいは「旧約の神=イエス」とするかである(アタナシウス派)。

イエスを神とするアタナシウス派はヨハネ伝を重視した。そこでは、イエスは「父のふところにいるひとり子なる神(ヨハネ伝1:18)」とされ、さらに「わたし(イエス)が父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをする(ヨハネ伝15:26)」と書かれていた。これらを根拠に、「父と子と聖霊」が同質(三位一体説)とされ、それこそが真理とされた。ニケア公会議(325)での多数派工作が功を奏し、アタナシウス派はアリウス派に勝利する。その後の消長はあったが、中世盛期までには決着がついた。アリウス派は滅ぼされるか、7世紀に成立したイスラーム教に吸収されて消滅した(注1)。

アタナシウス派は、のちにサン・ピエトロ(聖ペテロ)大聖堂を総本山とするローマカトリック(バチカン法王庁)へと発展する。彼らは、ペテロを初代ローマ司教(ローマ法王)に擬し、歴代の法王が神の代理人として教会の権威を継承するとした。アリウス派の「最後の晩餐」(Fig. 24 B)ではペテロだけがイエスの隣に座るが、ローマカトリックが成立したのちに、その席はヨハネに譲られる(Fig. 25 A & B)。その場合でも、ペテロはヨハネの次席に座り、他の弟子たちよりも上位である。 その後の「最後の晩餐」では構図が変わり、イエスの両隣に二人の弟子を描くことが可能になった(Table 15)。その結果、 ペテロもイエスの隣に座る図法が確立した。これを拒否することは、ペテロの優位性を否定することになり、教会の権威に挑戦する意味をもつことになった。それは教会への不服従にも通じた(IV-3, IX-4-18)。

他方、イエスに愛された少年使徒ヨハネは、イエスを神格化したヨハネ伝の著者である福音史家ヨハネと同一人物とされた(注2)。そのことから、「最後の晩餐」でイエスとヨハネの親密な関係を表わすことが、イエスの神性(三位一体説)を象徴する意味を持った。中世盛期のモザイク画では、ヨハネがイエスの隣に座り、イエスの顔を見つめるというやや控えめな表現が使われた(Fig. 25 A)。中世後期以後の描写では、ヨハネがイエスの胸に密着するか、前に伏す表現が一般的になる。イエスに顔を向ける、わずかに身を寄せるなどの控えめな描写(Fig. 28 B, E, J)もあったが、ヨハネがイエスに背を向ける、イエスから離反するなどの図法はない。そのような図法はイエスの神性(三位一体説)を否定する意味を持つことになりえた。 それは、一神教的価値観の拒否にも通じた。


注1 現在でも、「エホバの証人」など、イエスを人と考える教派はあるが、アリウス派からの直接的な継承関係はない。彼らがカトリックやプロテスタントなど多くのキリスト教諸派から異端とされるのは今も同様である。

注2 イエスの胸の近くに座っていた「イエスが愛した弟子」がヨハネ伝の著者であるとされる根拠はヨハネ伝21章20-24節にある。そのため、イエスが愛した弟子=使徒ヨハネ=福音史家ヨハネと長く信じられていた(洗礼者ヨハネとは別)。ただし、最近の研究では、ヨハネ伝21章の文体は、それまでの文章と比べて急に変わるので、この部分はヨハネ伝の補遺として後に書き加えられたと理解されており、現在の聖書学は「使徒ヨハネ=福音史家ヨハネ」説を支持していない。


「ペテロの図法」(Pictorial method for Peter

伝統的「ペテロの図法」には二つの条件がある。第1は、ペテロが筆頭弟子として長老然と描かれること(多くは白髪・白髭姿)、第2は彼がイエスの隣(少なくともヨハネの次席)に座ることである。これらが「最後の晩餐」でペテロを表現する必要条件だった。それらは必ずしもヨハネ伝と整合しないが、「教会の権威をペテロから正統に引き継いだ」とするローマカトリック(アタナシウス派)にとっては必須だった。

一般にあまり強調されてはいないが、マタイ伝とヨハネ伝のペテロ像にはかなりの開きがある。ヨハネ伝に記されたペテロは、いささか滑稽な役回りである。ペテロは、晩餐の席でヨハネよりもイエスから離れて座り(ヨハネ伝13:23-24)、捕縛の場面で蛮勇を咎められ(同18:10-11)、ヨハネにねたみさえ覚える(同21:20-21)。軽く扱われ、空回りし、嫉妬するペテロ像が浮かびあがる。教会にとって、ペテロがヨハネ伝に忠実に描かれるのは好ましくなかったはずだ。そのために、ペテロをマタイ伝で、ヨハネをヨハネ伝で描き分ける異書同図法(通常、ペテロはイエスの右手側、ヨハネは左手側に座る。ただし、Fig. 28 Kは逆)が生まれた。ペテロをヨハネ伝とマタイ伝にしたがって、同一画面に二度(ヨハネの下座とイエスの隣)描き込む異書同図法-2もあったが、ダ・ヴィンチ前には、ペテロをマタイ伝に、ヨハネをヨハネ伝に基づいて分離する異書同図法-1が定着した(Fig. 28 E–M;描写番号: 20–28 in Table 15)。


Table 15.  Pictorial methods for Peter and John before Da Vinci

Depiction number and Seat arrangement are as in Table 14. ‘Jesus position’ shows where Jesus is painted in respective depictions, either on the left (L) or in the centre (C). ‘Peter’s Seat’ indicates which Gospel Peter’s seat position is based on, John’s (J), Matthew’s (M) or both (JM). Similarly, ‘John’s seat’ indicates which Gospel John’s seat position is based on. In all the depictions excepting two (Depiction Nos. 2 and 3) in the early Medieval, John’s seat positions are clearly based on John’s Gospel (J). In the case of Nos. 2 and 3, John is depicted anonymously (An), and after the high medieval period, John is always based on John’s Gospel (J) in Nos. 4 to 28. Compositional Method-1  (Composit. Method-1) is a pictorial method, which uses two different Gospels in the very same depiction, namely Matthew’s (M) for Peter and John’s (J) for John. In the case of Composit. Method-2, Peter is depicted twice according to John’s and Matthew’s Gospels (JM), one next to John and the other at Jesus’ side.



表15 ダ・ヴィンチ前に使われたペテロの図法とヨハネの図法


描写番号と座席配置は表14と同様である。「イエスの位置」はそれぞれの描写の中でイエスが描かれた位置を示す。イエスは画面の左(左)または中央(中)に座る。「ペテロの席」はペテロの位置がヨハネ伝(ヨ)、マタイ伝(マ)、又は両方(ヨマ)のいずれに基づいているかを示す。「ヨハネの席」は、同様にヨハネの位置を示す。ヨハネについては、中世初期の二つの例外(描写番号2, 3)を除いて常にヨハネ伝(ヨ)に基づいている(描写番号4〜28)。描写番号2と3では、ヨハネは匿名化されている。異書同図法-1、-2(第一、または第二異書同図法)については、本文参照(XI-3-(II)LdV(vi-vii))。


しかし、ダ・ヴィンチはこの伝統に従わなかった。異書同図法を使わず、ユダ、ヨハネだけでなく、ペテロまでもヨハネ伝に基づいて描いたのである(Fig. 29;描写番号29 in Table 15)。《最後の晩餐》には、左右を問わずイエスの隣に白髪・白髭姿の弟子は描かれていない。ヨハネ伝によれば、イエスから見てペテロはヨハネと同じ側に席があり、ヨハネよりもイエスから離れて座っていた。その意味で、画面左から4番目に座る弟子がペテロであるという通説は間違っていない(Fig. 30 C)。白髪・白髭姿だけがその根拠ではない。そう考えて良い理由が他にも二つある。

第一は、この人物がイエスの隣に座るヨハネ(後述)の耳に口元を寄せて何かを言っている姿である。これは、ヨハネ伝(13:24)の「シモン・ペテロは彼(ヨハネ)に合図をして言った(〔希〕νεύει οὖν τούτῳ Σίμων Πέτρος καὶ λέγει αὐτῷ 〔羅〕innuit ergo huic Simon Petrus et dicit ei;〔英〕so Simon Peter beckoned to him and said)」に基づくと考えられる。口語訳聖書で「合図をする」と訳された言葉は、ギリシャ語で〔希〕νεύω、ラテン語で〔羅〕innuo、英語で〔英〕 beckonとある。それぞれの辞書によれば、「〔希〕うなずいて合図をする、〔羅〕目配せする、〔英〕手振りや身振りで招く、近くに寄らせる」とある。日本語の「合図をする」では必ずしも明確ではないが、合図が視覚的であったことがわかる。言い換えると、ペテロとヨハネは接しておらず、彼らの間に一定の距離があったことを意味する。このことは、二人の間には他の弟子の席があったことを示唆する。ダ・ヴィンチは、その弟子こそユダであると解釈した。つまり、ペテロの席はイエスの隣でも、ヨハネの次席でもなく、ユダよりもさらに下座にあったと彼は考えた。ユダがテーブルの反対に孤立せず他の弟子たちと同列に座ることには、裏切り図法の拒否という他にもう一つの理由があったことになる。ダ・ヴィンチはユダをペテロよりも上位とし、ペテロの優位性を否定した。

ユダがペテロの上座に座ることがヨハネ伝と矛盾するわけではない。しかし、ヨハネ伝に序列が書かれているわけでもない。その点ではマタイ伝などと異なる。これはダ・ヴィンチのアイデアである。そこに彼の意図、あるいは思想が反映していると考えても良いだろう。この人物がペテロであることを、彼が不必要なまでに強調していることはこの解釈を支持する。

「ヨハネへの耳打ち」だけでもペテロの図法として十分に成立するが、ダ・ヴィンチは屋上屋を架す。彼は、絵画的にやや不自然で、蛇足とさえ思える証拠を加えた。それはこの人物が逆手に持つ短剣である。形状から、これが食事用のナイフでないことは明らかである。

ヨハネ伝には、最後の晩餐が終わったあと、イエスたちがケデロンの谷に向かったとある。途中の公園まで来たときにユダを先頭に、イエスを捕縛に来た一団が現われた(ヨハネ伝18:1-3)。その時、「ペテロは剣を抜いて、その中の一人に切りかかり、その右耳を切り落した(ヨハネ伝18:10)」。これと同様の逸話はマタイ伝(26:51-52)などにも書かれているが、その人物をペテロと特定しているのはヨハネ伝だけである。「ペテロがヨハネに言った」も「ペテロが剣を抜いた」もヨハネ伝だけにある。ダ・ヴィンチは、ペテロがヨハネ伝に基づいて描かれたことを重ねて強調しているのである。それには、理由があるはずだ。細かく見れば、白髪・白髭姿のこの人物が長老然と描かれていないことにも気づく。筆者には、長老というより壮年に見える。ダ・ヴィンチはヨハネ伝のペテロを強調することで、逆に言えばマタイ伝のペテロを否定しているのである。そこに描かれているのは、軽く扱われ、空回りし、嫉妬するペテロ像である。ペテロの優位性を否定するダ・ヴィンチの意図が見えてくる。ダ・ヴィンチの異端性は、ヨハネに関する図法でさらに顕著になる。


「ヨハネの図法」(Pictorial method for John

中世初期、盛期の壁画では、イエスは画面の左端に座り、弟子たちはイエスの左手側に線状(半円形)に並ぶ(表15)。この構図では、イエスの隣に一人の弟子しか描けない。中世初期ではそれがペテロだったが、中世盛期ではヨハネに替わる。その後、座席配置が円(方)形になるか、線状の場合はイエスが中央に座ることで、イエスの両隣に二人の弟子を描くことが可能になった(ジョットの一例〔Fig. 27 E;描写番号11〕を除く)。《最後の晩餐》(Fig. 29;描写番号29)もその点で例外ではない。イエスの右手側に座る弟子がヨハネであることは間違いない(Fig. 34)。ヨハネを美少年、または女性的に描くという伝統にも従っている。ペテロの口元に耳を寄せていることからも、ヨハネ伝に基づくことは明確である。しかし、その姿勢には伝統からの重要な逸脱がある。

たとえ聖書の知識がなくても、《最後の晩餐》にはヨハネとイエスの間に不自然な空隙があることに気づく(Fig. 34)。二人の間には逆三角形が浮かび上がる。 このような空隙はそれまでの描写に例がない。イエスとヨハネの距離が強調され、ヨハネ伝に基づく図法としては異様である。



Fig. 34. A bizarre up-side-down triangle appearing between John and Jesus.

ヨハネとイエスの間に現れる異様な逆三角形


イエスとヨハネの間を裂くように浮かび上がる逆三角形には、キリスト教徒でなくとも戸惑いを覚えるだろう(Fig. 34)。中世盛期以来、ヨハネはイエスに密着して描かれていた。イエスの胸に身を寄せるか、イエスの前に伏す姿で描かれ親密さが強調された。それは、ヨハネ伝(13:23)「弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席につい(伏せ)ていた(〔羅〕Erat ergo recumbens unus ex discipulis eius in sinu Iesu quem diligebat Iesus、〔英〕One of his disciples, whom Jesus loved, was lying close to the breast of Jesus)」に基づく表現である。イエスとヨハネの親密さを描くことは、イエスの神性を伝えるヨハネ伝(1:1-18;15:26)を強調することである。それは三位一体説のローマカトリックにとって重要な図法だった。しかし、ダ・ヴィンチはヨハネ伝13章23節を使わず、次の節(13:24)「シモン・ペテロは彼に合図をして言った」を使った。これもヨハネ伝に基づく図法ではあるが、ヨハネの上体をイエスから反らせることで、逆三角形を浮かび上がらせる。この逆三角形は、背景の窓枠上辺を底辺とすることで強調される(Fig. 34)。三位一体説を象徴する当初のシンボルが頂点を上に、底辺を下とする正三角形であったことはよく知られている。のちに逆三角形で象徴することもあったが、今も一般的には頂点を上にした正三角形で表わされることが多い。ダ・ヴィンチの描写に表れる逆三角形は、イエスとヨハネの間に楔を打ったかのように見える。 何れにしても、伝統からの逸脱であり、絵画的に不自然な空隙であることは間違いない。一般に、この空隙は窓外の風景に青を使って空気遠近法で立体感を出すためと解釈される。しかし、その効果を狙ったのであれば窓をこの位置で分割する必要はない。 ここに表れる窓枠が下向きの矢印に見えることには、逆三角形が楔であることを更に印象づける効果がある。そこに、ヨハネとイエスの親密さが象徴する三位一体説を否定するダ・ヴィンチの意図を読み取っても不自然ではないだろう(Fig. 35)。



Fig. 35. A downward arrow placed between Peter and Jesus.

ヨハネとイエスの間に挿入された下向きの矢印。


先にも触れたように、ダ・ヴィンチは遺稿(「絵画論」)でしばしば「神々」という複数形を使っている。彼が、ギリシャ神話の世界に傾倒していたことも知られている。イエスとヨハネの間に逆三角形を入れて、それが楔のように見える図法は、ダ・ヴィンチの後にも先にもない。彼の影響を強く受けたアンドレア・デル・サルトもルーベンスもイエスと密着したヨハネの図法を使っていないが、彼らでさえイエスとヨハネの間に楔を打つことはしない。それが異端とのそしりを受けかねないことを懸念したとしてもおかしくない。しかし、彼らの「最後の晩餐」にも、ダ・ヴィンチの思想的影響が見られることは確かである(後述)。

ダ・ヴィンチと教会との関係が良くなかったことも知られている。彼は同性愛の疑いで二度も逮捕され、ギリシャ神話に基づく「レダと白鳥」は猥褻とされて破却された(ただし、これについてはミケランジェロも同様だが)。彼の哲学が新プラトン主義に近いこともよく知られている。《最後の晩餐》の「ユダ、ペテロ、ヨハネの統合図法」が、ユダの裏切りを断罪せず、教会の権威を否定し、三位一体説を拒否しているという解釈はこれらの史実と矛盾しない。《最後の晩餐》は、まさに異端の壁画だったことになる。 人類が遺した最も偉大な壁画の一つとされる《最後の晩餐》が、キリスト教会から粗略な扱いを受けたことも説明できる。

バッハ論の延長で、ここまで読んでいただいた読者には、バッハとダ・ヴィンチの思想が酷似していることは明らかである。彼らの思想を対比すると次のようになる(Table 16)。

(1)ユダの裏切りを人の原罪とし、救済の対象としたバッハと、裏切り図法を使わずユダをイエス教団の会計係として描いたダ・ヴィンチ、

(2)ペテロの名を削除し、彼の慟哭を簡略化した(対《ヨハネ受難曲》比)バッハと。ペテロの席をユダの下位に置いたダ・ヴィンチ、

(3)イエスの人間性を強調し、神性を否定したバッハと、ヨハネとイエスの間に楔を打ち込み三位一体説を否定したダ・ヴィンチ。



Table 16. Comparison between L. da Vinci and J. S. Bach in their works, the depiction for the Last Supper and the oratorio for the Matthew Passion, respectively.


表16 《最後の晩餐》と《マタイ受難曲》に込められたダ・ヴィンチとバッハの思想比較表


二人とも教会から迫害を受けたことも共通している。200年の年代差はあるが、多神教のギリシャ神話に対する親和性という意味では、西洋美術史におけるルネサンスは西洋音楽史におけるバロックに相当するといわれる。その意味では、彼らの思想が酷似していても不思議ではない。バッハにもギリシャ神話を題材にした曲は多い(ちなみに、同年生まれのヘンデルは旧約聖書を題材にした曲が多い)。西洋音楽史におけるもっとも偉大な音楽の一つがバッハの《マタイ受難曲》であり、西洋美術史における同様の作品がダ・ヴィンチの《最後の晩餐》であることにも異論はないだろう。そして、両作品とも作者の死後、教会から冷遇された事も共通している。それぞれの作品が再発見され、公に認められるまで100年を待たねばならなかった。

それらは、キリスト教社会で、長きにわたって異端の芸術とみなされていた可能性が高い。次の比較美術史-3で、ダ・ヴィンチ後の「最後の晩餐」についても、各時代の代表的な描写について簡単に触れておきたい。




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